2024年10月31日
2024年09月17日
ニコ動・YouTubeの動画紹介 2023.8月上旬〜2024.8月下旬
ニコニコ動画復活。
8番出口の続編。やはり本家はホラーのテイストが絶妙で面白い。
全六空シリーズ。道頓堀回はコメントで「こち亀っぽい」と何度か言われていて,確かに。コンコルド回,トーイングカーをバグらせていてめちゃくちゃ笑った。MSFSでもこういうバグあるんだなぁ。パールハーバー見学は,投稿日的に終戦記念日に合わせたか。台風回は,台風に他のプレイヤーの飛行機もわらわらと集まっていて,まあ皆そうするよなぁとw
一見すると今まで見つかってなかったのが不思議なバグだが,よく考えてみるとこういう状況になるのは少ないか。
おやつ氏。前はサブフレームリセットでやっていたバグを,リマスター版特有のタップバグで起こすRTA。不思議な爽快感がある。
大体予想通りだったけど,金4枚VS銀4枚が思っていたよりも大差で驚いた。可動域が1マス違うと違う結果になるもんだなぁ。
8番出口の続編。やはり本家はホラーのテイストが絶妙で面白い。
全六空シリーズ。道頓堀回はコメントで「こち亀っぽい」と何度か言われていて,確かに。コンコルド回,トーイングカーをバグらせていてめちゃくちゃ笑った。MSFSでもこういうバグあるんだなぁ。パールハーバー見学は,投稿日的に終戦記念日に合わせたか。台風回は,台風に他のプレイヤーの飛行機もわらわらと集まっていて,まあ皆そうするよなぁとw
一見すると今まで見つかってなかったのが不思議なバグだが,よく考えてみるとこういう状況になるのは少ないか。
おやつ氏。前はサブフレームリセットでやっていたバグを,リマスター版特有のタップバグで起こすRTA。不思議な爽快感がある。
大体予想通りだったけど,金4枚VS銀4枚が思っていたよりも大差で驚いた。可動域が1マス違うと違う結果になるもんだなぁ。
2024年09月15日
書評:『唐』(森部豊著,中公新書)
・『唐』(森部豊著,中公新書,2023年)
中公新書の拓跋国家シリーズの最後。2010年以降の中公新書にはその他に『殷』『周』『漢帝国』『三国志』もあるから,春秋戦国時代・秦が出てくれれば唐宋変革前は概ねコンプリートになる。ぜひとも企画してほしい。
閑話休題。唐は南北朝時代の諸王朝や隋に比べると300年近く続いた長い王朝であり,その中で様々な変化が起きている。王朝交代による変化ではなく,王朝の中での変化を描いた点で,本書は前二書と大きく様相が異なっている。とりわけ拓跋国家としてスタートした唐が次第に漢民族の国家に変容していく様子は唐代の醍醐味であろう。本書はまえがきで「それを「漢化」という,中国人中心主義のような,ありきたりな言葉でくくるのはどうかと思う」と牽制しつつも,拓跋国家の経験を踏まえた漢民族が,古代の漢とは異なる漢民族王朝をつくっていった様子が丹念に描かれている。
初唐の拓跋国家性については,李淵や初期の首脳陣が鮮卑語に堪能だったという点からも明白である。李淵が生まれたのが566年頃,西魏の滅亡が556年であるから,李淵の誕生時すでに拓跋氏の国家は存在していない。どころか李淵の妻は匈奴に連なる人物だったようで,遊牧国家が滅んだからといってそれを構成していた部族の血が絶えたとは限らないのは当然なのであるが,それにしても命脈の保ち方がしぶとい。さらに東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建てたのは『隋』の書評で書いた通りで,遊牧民とのつながりが非常に強い。しかし,ここで本書が特徴的なのは,唐が建国当初からソグド人と強い提携関係にあったことを指摘している点だ。李淵の本拠地の太原には大きなソグド人のコロニーがあり,商業上の都合から強い統一王朝を求めていた彼らは,李淵に兵士を供出したのみならず,商業ネットワークを用いて李淵を強く支援した。また東突厥との和議の突厥側の使者を務めたのもソグド人なら,なんと玄武門の変の際の李世民の直臣にもソグド人がいる。こうした指摘は新しい。唐代のソグド人を専門とする著者らしい指摘といえる。
李世民から高宗に続く最盛期の後,東突厥が復活して唐はその対処に苦慮することになる。この頃,オルドス地方にいたソグド人が騎馬遊牧民化しており,歴史家は彼らを「ソグド系突厥」と呼ぶ。このソグド系突厥から登場したのが,かの安禄山である。本書はここで安史の乱に言及する前に,玄宗代に生じた諸制度の変化に言及していて,そのため『隋』と同様に均田制・租調庸(租調役)制・府兵制に関する世間の誤解について丁寧に説明しているから,興味がある人はぜひ読んでほしい。玄宗代の制度変化,特に府兵制から募兵制へ,「役」から「庸」への変化についても,本書は律令国家から「財政国家」への転換とまとめており,面白い。中世後半の西欧の荘園でも賦役が貢納に変えられていったように,タダ働きは非効率的なのである。「役」から「庸」への変化は,逃戸が多すぎて大運河の漕運に支障をきたしたのが直接的な原因であるから,長い目で見れば隋代からの負債をここで解消したとも言えそうである。財政国家化は安史の乱後,塩の専売と両税法によって完成する。
玄宗代の後期の744年,東突厥がウイグルに敗れて崩壊すると,その遺民が大量に河北に流入し,ソグド系突厥に合流した。彼らを糾合したのが節度使の安禄山その人である(安禄山の母は突厥の名家出身であった)。ここに安史の乱の下地が完成する。ウイグル帝国の成立と安史の乱は直結した現象だったのだ。本書は,安史の乱は「乱」というよりも突厥帝国の復興・独立運動だったのではないかと指摘しており,これも説得力がある。この観点に立つなら,安史の乱後に自立した藩鎮の河朔三鎮は安史の乱の残党であり,目的は半ば達成されている。
安史の乱の後の唐は宦官の跋扈,藩鎮の乱立,吐蕃の侵攻に苦しめられる。8世紀末,唐が強大化する吐蕃対策として,アッバース朝との同盟を構想していたのは知らなかったので驚いた(使者が派遣されたのは確かだが交渉が実行されたかは明らかではないそうだ)。安史の乱後も唐は意外と長く生き延びるが,唐の政府が藩鎮をある程度コントロールできていたためである。これが完全に崩壊して藩鎮の独立を止められなくなったのが黄巣の乱であるが,その黄巣の乱の鎮圧で台頭したのが突厥沙陀の李克用であった。突厥沙陀は西突厥にいた部族で,西突厥の滅亡後は唐と吐蕃の間を渡り歩き,唐の支配下でオルドスに移住した。李克用は黄巣の乱に乗じて突厥沙陀に加え,ソグド系突厥も糾合し,根拠地を太原に置いた。そう,唐の創業の地である。李克用自身は王朝を建てられなかったが,跡を継いだ突厥沙陀の人々が河朔三鎮の勢力も吸収し,五代十国の時代の主役になっていく。唐もまた隋と同様に,始まりから終わりまで突厥が並走し続けた。あえて付け加えるなら,そこにソグド人も加わっていたことが隋との違いなのだろう。本書はここで終わっているが,河北や山西が漢民族と遊牧民が入り混じる重要な農牧接壌地帯であったのは明代永楽帝の頃まで続く。
なお,唐を滅ぼした直接の張本人,朱全忠は汴州(開封)を押さえて大運河の利益により勢力を築いたと説明されるが,本書によると,唐末の大運河は浚渫が滞っていて機能不全だったらしい。別のいくつかの理由により河南を押さえた利益が大きかったようであるが,本書の記述もあまりしっくり来ない。
中公新書の拓跋国家シリーズの最後。2010年以降の中公新書にはその他に『殷』『周』『漢帝国』『三国志』もあるから,春秋戦国時代・秦が出てくれれば唐宋変革前は概ねコンプリートになる。ぜひとも企画してほしい。
閑話休題。唐は南北朝時代の諸王朝や隋に比べると300年近く続いた長い王朝であり,その中で様々な変化が起きている。王朝交代による変化ではなく,王朝の中での変化を描いた点で,本書は前二書と大きく様相が異なっている。とりわけ拓跋国家としてスタートした唐が次第に漢民族の国家に変容していく様子は唐代の醍醐味であろう。本書はまえがきで「それを「漢化」という,中国人中心主義のような,ありきたりな言葉でくくるのはどうかと思う」と牽制しつつも,拓跋国家の経験を踏まえた漢民族が,古代の漢とは異なる漢民族王朝をつくっていった様子が丹念に描かれている。
初唐の拓跋国家性については,李淵や初期の首脳陣が鮮卑語に堪能だったという点からも明白である。李淵が生まれたのが566年頃,西魏の滅亡が556年であるから,李淵の誕生時すでに拓跋氏の国家は存在していない。どころか李淵の妻は匈奴に連なる人物だったようで,遊牧国家が滅んだからといってそれを構成していた部族の血が絶えたとは限らないのは当然なのであるが,それにしても命脈の保ち方がしぶとい。さらに東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建てたのは『隋』の書評で書いた通りで,遊牧民とのつながりが非常に強い。しかし,ここで本書が特徴的なのは,唐が建国当初からソグド人と強い提携関係にあったことを指摘している点だ。李淵の本拠地の太原には大きなソグド人のコロニーがあり,商業上の都合から強い統一王朝を求めていた彼らは,李淵に兵士を供出したのみならず,商業ネットワークを用いて李淵を強く支援した。また東突厥との和議の突厥側の使者を務めたのもソグド人なら,なんと玄武門の変の際の李世民の直臣にもソグド人がいる。こうした指摘は新しい。唐代のソグド人を専門とする著者らしい指摘といえる。
李世民から高宗に続く最盛期の後,東突厥が復活して唐はその対処に苦慮することになる。この頃,オルドス地方にいたソグド人が騎馬遊牧民化しており,歴史家は彼らを「ソグド系突厥」と呼ぶ。このソグド系突厥から登場したのが,かの安禄山である。本書はここで安史の乱に言及する前に,玄宗代に生じた諸制度の変化に言及していて,そのため『隋』と同様に均田制・租調庸(租調役)制・府兵制に関する世間の誤解について丁寧に説明しているから,興味がある人はぜひ読んでほしい。玄宗代の制度変化,特に府兵制から募兵制へ,「役」から「庸」への変化についても,本書は律令国家から「財政国家」への転換とまとめており,面白い。中世後半の西欧の荘園でも賦役が貢納に変えられていったように,タダ働きは非効率的なのである。「役」から「庸」への変化は,逃戸が多すぎて大運河の漕運に支障をきたしたのが直接的な原因であるから,長い目で見れば隋代からの負債をここで解消したとも言えそうである。財政国家化は安史の乱後,塩の専売と両税法によって完成する。
玄宗代の後期の744年,東突厥がウイグルに敗れて崩壊すると,その遺民が大量に河北に流入し,ソグド系突厥に合流した。彼らを糾合したのが節度使の安禄山その人である(安禄山の母は突厥の名家出身であった)。ここに安史の乱の下地が完成する。ウイグル帝国の成立と安史の乱は直結した現象だったのだ。本書は,安史の乱は「乱」というよりも突厥帝国の復興・独立運動だったのではないかと指摘しており,これも説得力がある。この観点に立つなら,安史の乱後に自立した藩鎮の河朔三鎮は安史の乱の残党であり,目的は半ば達成されている。
安史の乱の後の唐は宦官の跋扈,藩鎮の乱立,吐蕃の侵攻に苦しめられる。8世紀末,唐が強大化する吐蕃対策として,アッバース朝との同盟を構想していたのは知らなかったので驚いた(使者が派遣されたのは確かだが交渉が実行されたかは明らかではないそうだ)。安史の乱後も唐は意外と長く生き延びるが,唐の政府が藩鎮をある程度コントロールできていたためである。これが完全に崩壊して藩鎮の独立を止められなくなったのが黄巣の乱であるが,その黄巣の乱の鎮圧で台頭したのが突厥沙陀の李克用であった。突厥沙陀は西突厥にいた部族で,西突厥の滅亡後は唐と吐蕃の間を渡り歩き,唐の支配下でオルドスに移住した。李克用は黄巣の乱に乗じて突厥沙陀に加え,ソグド系突厥も糾合し,根拠地を太原に置いた。そう,唐の創業の地である。李克用自身は王朝を建てられなかったが,跡を継いだ突厥沙陀の人々が河朔三鎮の勢力も吸収し,五代十国の時代の主役になっていく。唐もまた隋と同様に,始まりから終わりまで突厥が並走し続けた。あえて付け加えるなら,そこにソグド人も加わっていたことが隋との違いなのだろう。本書はここで終わっているが,河北や山西が漢民族と遊牧民が入り混じる重要な農牧接壌地帯であったのは明代永楽帝の頃まで続く。
なお,唐を滅ぼした直接の張本人,朱全忠は汴州(開封)を押さえて大運河の利益により勢力を築いたと説明されるが,本書によると,唐末の大運河は浚渫が滞っていて機能不全だったらしい。別のいくつかの理由により河南を押さえた利益が大きかったようであるが,本書の記述もあまりしっくり来ない。
2024年09月14日
書評:『南北朝時代』『隋』(中公新書)
・『南北朝時代』(会田大輔,中公新書,2021年)
中国の南北朝時代の概説書。講談社選書メチエの『中華を生んだ遊牧民』との違いは,あちらは鮮卑に焦点を当てつつ後漢代から北魏までの華北を扱っているのに対し,こちらは時代が南北朝時代のみで短い代わりに南朝も扱っている。北魏についての話題は似通っているが,当然あちらの方が濃い。両方読むのを勧める。北魏については主張が違うところもある。あちらの本では,魏の国号を採用し土徳をを採用したことについて,北魏が三国魏を継承する形をとったためと説明していたが,こちらは鮮卑は三国魏をも否定していて,火徳の後漢の後継王朝であることを示すため土徳の魏としたという説を採っている。
かたや南朝宋は東晋の時代にあった再統一への野望が薄れ,江南を本拠地とする諦めに沿った改革が進んでいく様子が描写される。西晋の滅亡によって伝統が失われたため,宮中祭祀等で”それっぽい新たな伝統”の創出が必要とされた。そう聞くと近代に各地でナショナリズムのために新たな伝統が創出されたことに重なるようだが,そうでもしないと漢民族王朝としてのアイデンティティが保てなかったのだから,話としては近いのかもしれない。この南朝宋で生まれた”それっぽい新たな伝統”が隋唐に継承され,新たな中華王朝のスタンダードになっていく。また,北朝の悩みが遊牧民と漢民族の統合であったのに対し(六鎮の乱により頓挫した),南朝の悩みは門閥貴族層の存在であった。寒門出身者を積極的に登用することで中央集権化を図ることはできたものの,最終的に強固な身分制度を打破することがかなわないまま南朝自体が滅亡してしまった。北朝にも門閥貴族は存在し,この問題の解決は隋唐に委ねられることになる。
ちょっと面白かったのは,南北朝ともに自国が正統な王朝と主張すべく文化に力を入れており,外交使節を通じて互いの水準を測っていた。筆者によると南北朝の使節たちによる討論では,儒学は北朝が優れ,仏教は互角,玄学・文学は南朝が優位であったとのこと。必ずしも全て南朝が優位だったわけではない。特に儒学が北朝優位であったのは驚きである。
・『隋』(平田陽一郎著,中公新書,2023年)
副題「『流星王朝』の光芒」。40年足らずで滅亡したにしては中国史へのインパクトが大きいから,流星の名はふさわしい。本書はその40年足らずに加えて西魏・北周も扱っているからもう少し長いが,『南北朝時代』や『唐』に比べれると短いことには違いない。その分,記述は濃密であった。
華北を二分していた北斉と北周は,互いに北方で大勢力を築いていた突厥との連携を試みる。突厥としては北斉と北周が半永久的に争っていてくれれば懐柔のため貢物が山程届くため,両者のパワーバランスを見ながら介入すればよかったのである。しかし,北斉は暗君と権臣により国勢が傾く一方,北周は名君武帝を輩出し,突厥が介入する隙を与えず一気に北斉を滅ぼしてしまった。ところが武帝が夭折し,後継者も夭折して北周に幼君が立つ。そこで乾坤一擲の賭けを打ち,簒奪を成功させたのが外戚の楊堅であった。もちろん楊堅自身に野望があったことが前提であるが,このまま北周宮廷の混乱を放置すれば突厥の侵略を受けて華北が五胡の時代まで逆戻りしてしまう。本書では簒奪劇自体に公主降嫁を伴う対突厥外交が深くかかわっていることが詳述されており,北周宮廷の激しい権力争いもあいまって,楊堅の賭けがいかに危険な綱渡りだったかがわかる。周隋交代は単なる宮廷クーデタでは無かった。
このため即位した楊堅が注力したのも突厥対策である。楊堅が簒奪劇で突厥の可汗から恨みを買っていたことに加え,突厥の可汗も北斉・北周からの貢物を威信財として諸部族に分配していたのに隋がこれを停止したため,両国ともに開戦の気運が高まっていた。隋は建国早々に全面戦争を余儀なくされたが,これをモンゴル高原での自然災害による突厥の自滅という幸運で乗り切ったのだから,楊堅という人物の豪運は続く。さらに楊堅は離間策を用いて突厥を東西に分裂させ,東突厥を服属させた。北方の憂いを除いた楊堅は南朝陳を滅ぼし,とうとう中国統一を達成した。
楊堅は隋の国制を次第に整えていくが,本書では近年よく話題になる「租調庸制」改め「租調役制」についても唐代後半に至るまでの説明がある。なお,隋代では「役」を「庸」に代えられたのは50歳以上に限定されたとされており,唐代よりも厳しい。「府兵制」についても,従来の全国的に徴兵された兵農一致の政策という説明が誤っていることがちゃんと説明されている。統一戦争や対突厥戦争により職業軍人化した者が多かったこと,北周の出身者が多かったため帰農させると関中がパンクしてしまうこと等から,結局は地方の軍府を解散して関中出身者を実質的な常備軍として残さざるを得なかった。つまり全国的な徴兵ではないし,兵農一致どころか分離的な制度である。その他,科挙や律令も整備したけれど,現実とのギャップは大きかった。ただし,本書の「現実との乖離は楊堅自身も織り込み済で,平和な統一王朝が成立したことの天下と後世へのアピールとしての諸制度の整備だったのではないか」という指摘は面白い。実際にそのアピールに乗せられて,長らく諸制度は名目通り実施されていたと勘違いされ,こうして21世紀の日本の高校世界史にまで影響を及ぼしていたのだから。
続く煬帝はよく知られるように膨大な資材を用いて大運河を建設し,高句麗への遠征でも国力を費やして,国勢を傾けていった。大運河の開削は関中への食料供給と発展する海上交易の利便性のためであるから目的が明白であるとして,高句麗遠征はどうだったか。西晋以前に中国の領土であった遼東半島等の奪還のため……というのは名目にすぎず,高句麗が東突厥と隋に楔を打つような位置であったという地政学的な事情,統一戦争の終結と突厥の臣従で軍隊が手持ち無沙汰になったため(前近代の暇な常備軍ほど治安に悪影響を及ぼすものはない),「武帝」の諱を手に入れたいという煬帝の野望等があったようだ。この高句麗が異常なまでにしぶとかったのは,楊堅の豪運の反動か。高句麗遠征の惨敗を見て東突厥が反旗を翻す。これを契機に反乱が続発し,東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建国,再統一をなした。突厥によって生まれた王朝は,突厥によって滅んだのである。このような綺麗なオチがつく隋の興亡であるが,にもかかわらず今まではあまり突厥視点で語られてこなかったように思われ,目新しい。
中国の南北朝時代の概説書。講談社選書メチエの『中華を生んだ遊牧民』との違いは,あちらは鮮卑に焦点を当てつつ後漢代から北魏までの華北を扱っているのに対し,こちらは時代が南北朝時代のみで短い代わりに南朝も扱っている。北魏についての話題は似通っているが,当然あちらの方が濃い。両方読むのを勧める。北魏については主張が違うところもある。あちらの本では,魏の国号を採用し土徳をを採用したことについて,北魏が三国魏を継承する形をとったためと説明していたが,こちらは鮮卑は三国魏をも否定していて,火徳の後漢の後継王朝であることを示すため土徳の魏としたという説を採っている。
かたや南朝宋は東晋の時代にあった再統一への野望が薄れ,江南を本拠地とする諦めに沿った改革が進んでいく様子が描写される。西晋の滅亡によって伝統が失われたため,宮中祭祀等で”それっぽい新たな伝統”の創出が必要とされた。そう聞くと近代に各地でナショナリズムのために新たな伝統が創出されたことに重なるようだが,そうでもしないと漢民族王朝としてのアイデンティティが保てなかったのだから,話としては近いのかもしれない。この南朝宋で生まれた”それっぽい新たな伝統”が隋唐に継承され,新たな中華王朝のスタンダードになっていく。また,北朝の悩みが遊牧民と漢民族の統合であったのに対し(六鎮の乱により頓挫した),南朝の悩みは門閥貴族層の存在であった。寒門出身者を積極的に登用することで中央集権化を図ることはできたものの,最終的に強固な身分制度を打破することがかなわないまま南朝自体が滅亡してしまった。北朝にも門閥貴族は存在し,この問題の解決は隋唐に委ねられることになる。
ちょっと面白かったのは,南北朝ともに自国が正統な王朝と主張すべく文化に力を入れており,外交使節を通じて互いの水準を測っていた。筆者によると南北朝の使節たちによる討論では,儒学は北朝が優れ,仏教は互角,玄学・文学は南朝が優位であったとのこと。必ずしも全て南朝が優位だったわけではない。特に儒学が北朝優位であったのは驚きである。
・『隋』(平田陽一郎著,中公新書,2023年)
副題「『流星王朝』の光芒」。40年足らずで滅亡したにしては中国史へのインパクトが大きいから,流星の名はふさわしい。本書はその40年足らずに加えて西魏・北周も扱っているからもう少し長いが,『南北朝時代』や『唐』に比べれると短いことには違いない。その分,記述は濃密であった。
華北を二分していた北斉と北周は,互いに北方で大勢力を築いていた突厥との連携を試みる。突厥としては北斉と北周が半永久的に争っていてくれれば懐柔のため貢物が山程届くため,両者のパワーバランスを見ながら介入すればよかったのである。しかし,北斉は暗君と権臣により国勢が傾く一方,北周は名君武帝を輩出し,突厥が介入する隙を与えず一気に北斉を滅ぼしてしまった。ところが武帝が夭折し,後継者も夭折して北周に幼君が立つ。そこで乾坤一擲の賭けを打ち,簒奪を成功させたのが外戚の楊堅であった。もちろん楊堅自身に野望があったことが前提であるが,このまま北周宮廷の混乱を放置すれば突厥の侵略を受けて華北が五胡の時代まで逆戻りしてしまう。本書では簒奪劇自体に公主降嫁を伴う対突厥外交が深くかかわっていることが詳述されており,北周宮廷の激しい権力争いもあいまって,楊堅の賭けがいかに危険な綱渡りだったかがわかる。周隋交代は単なる宮廷クーデタでは無かった。
このため即位した楊堅が注力したのも突厥対策である。楊堅が簒奪劇で突厥の可汗から恨みを買っていたことに加え,突厥の可汗も北斉・北周からの貢物を威信財として諸部族に分配していたのに隋がこれを停止したため,両国ともに開戦の気運が高まっていた。隋は建国早々に全面戦争を余儀なくされたが,これをモンゴル高原での自然災害による突厥の自滅という幸運で乗り切ったのだから,楊堅という人物の豪運は続く。さらに楊堅は離間策を用いて突厥を東西に分裂させ,東突厥を服属させた。北方の憂いを除いた楊堅は南朝陳を滅ぼし,とうとう中国統一を達成した。
楊堅は隋の国制を次第に整えていくが,本書では近年よく話題になる「租調庸制」改め「租調役制」についても唐代後半に至るまでの説明がある。なお,隋代では「役」を「庸」に代えられたのは50歳以上に限定されたとされており,唐代よりも厳しい。「府兵制」についても,従来の全国的に徴兵された兵農一致の政策という説明が誤っていることがちゃんと説明されている。統一戦争や対突厥戦争により職業軍人化した者が多かったこと,北周の出身者が多かったため帰農させると関中がパンクしてしまうこと等から,結局は地方の軍府を解散して関中出身者を実質的な常備軍として残さざるを得なかった。つまり全国的な徴兵ではないし,兵農一致どころか分離的な制度である。その他,科挙や律令も整備したけれど,現実とのギャップは大きかった。ただし,本書の「現実との乖離は楊堅自身も織り込み済で,平和な統一王朝が成立したことの天下と後世へのアピールとしての諸制度の整備だったのではないか」という指摘は面白い。実際にそのアピールに乗せられて,長らく諸制度は名目通り実施されていたと勘違いされ,こうして21世紀の日本の高校世界史にまで影響を及ぼしていたのだから。
続く煬帝はよく知られるように膨大な資材を用いて大運河を建設し,高句麗への遠征でも国力を費やして,国勢を傾けていった。大運河の開削は関中への食料供給と発展する海上交易の利便性のためであるから目的が明白であるとして,高句麗遠征はどうだったか。西晋以前に中国の領土であった遼東半島等の奪還のため……というのは名目にすぎず,高句麗が東突厥と隋に楔を打つような位置であったという地政学的な事情,統一戦争の終結と突厥の臣従で軍隊が手持ち無沙汰になったため(前近代の暇な常備軍ほど治安に悪影響を及ぼすものはない),「武帝」の諱を手に入れたいという煬帝の野望等があったようだ。この高句麗が異常なまでにしぶとかったのは,楊堅の豪運の反動か。高句麗遠征の惨敗を見て東突厥が反旗を翻す。これを契機に反乱が続発し,東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建国,再統一をなした。突厥によって生まれた王朝は,突厥によって滅んだのである。このような綺麗なオチがつく隋の興亡であるが,にもかかわらず今まではあまり突厥視点で語られてこなかったように思われ,目新しい。
2024年09月09日
書評:『中華を生んだ遊牧民』(松下憲一,講談社選書メチエ)
『中華を生んだ遊牧民』(松下憲一,講談社選書メチエ,2023年)
鮮卑と彼らが建てた北魏の歴史を追った本。同時期に発売された中公新書の『南北朝』とは北魏の部分は重なっているが,こちらは南朝の記述がほとんど無い代わりに,前史にあたる鮮卑の歴史が入っている。なお,著者は鮮卑についてモンゴル系かトルコ系かという質問に対して,厳密には解答できないとしている。遊牧国家は複数の部族の連合体であり,その各部族の言語や風習は多様であるというのがその理由であるが,これは質問と解答がずれている。著者自身「鮮卑のもととなった遊牧民はどのような人々ですかという質問であれば成立する」としているが,まさに読者の知りたかったのはここなのであり,国家としての鮮卑と諸部族名の鮮卑が別物であることだとか,民族という概念は近代的なものなのでここには容易に当てはまらないだとか,鮮卑がモンゴル高原を政治的に統合したとしても鮮卑語が公用語になるわけでもないとかいうことは,説明されるまでもなくわかっているのだから。結局,鮮卑(もっというと拓跋部)の言語は直接明言されることなく本書が終わってしまうのはやや残念であるが,随所随所の記述を読むに,著者はおそらく拓跋部をテュルク系と考えているようだ。
鮮卑系部族の中でも勢力を伸ばして北魏を建てることになるのが拓跋部である。元はテュルク系の語彙のトゥグ(土地)ベグ(君主)を意味していたが,「拓」は同音の「托」から転じていて,托は「土」に通じ,黄帝の子孫を称するためにこの漢字が当てられたようだ。これは知らなかったので面白かった。鮮卑・北魏を追っていくと,こうした遊牧民のルールと中華のルールの帳尻を合わせるための工夫が多数見られる。
拓跋部は鮮卑系の部族とまとめあげて「代」を建国する。代国は五胡十六国に含まれていない。五胡十六国は華北を破壊したというのが後世の歴史認識であり,最終的に華北した北魏の前身にあたる代を含めるわけにはいかなかったということらしい。また,386年に道武帝が北「魏」を国号に変えたのも,春秋戦国時代の国に存在していない「代」では国号として格が落ちることと,代は西晋から封建された名前であること,拓跋部が歴史上初めて朝貢したのが三国魏であったから魏を継承するという意図があり,さらに魏は土徳であるから拓跋部として都合が良かったようだ。このあたりのことは前から不思議に思っていたところで,疑問が解消されて面白かった。ところが鮮卑人はこの「代」という国号に愛着があったようで,北魏成立後も拓跋部や諸部族の部族長クラスが構成した支配者集団は「代人」を自称し続け,この時代の重要な一次史料にあたる墓誌でも「代人」という記述が多数見つかっている。この代人のアイデンティティは洛陽遷都後はもちろん,なんと西魏まで続いたようだ。
北魏は北方から遊牧民の風習を持ち込むと同時に漢民族の風習も受け入れ,結果として北魏独自の風習も生まれていたりする。この第三の風習の成立が北魏の面白いところで,とりわけ特徴的だったのが皇太子が確定した時点でその生母を殺害する「子貴母死」である。部族制からの中央集権化を図る過程で,母親の出身部族が中国王朝の外戚と化すのを避けるため,また部族制における部族長の合議で皇帝を選出するのを止めて父子相続を固定化させるために生まれた制度であるとのことだが,こういうものがあるから過渡期は面白い。中世と近代に挟まれた近世にはどちらにもない近世独自の制度があるのと同じかもしれない。
北魏は暫くの間,胡漢二重統治体制を敷いていて,後世の征服王朝風であった。しかし,孝文帝が漢化政策を実施し,鮮卑に対して胡語・胡服の使用を禁止した。このため鮮卑は次第に漢民族に同化していった……と高校世界史では習う。しかし,実際には「宮廷内で」胡語・胡服の使用を禁止した命令だったというのが正しく,民族としての鮮卑が消滅したわけではない。この際に官制にも手を入れていて,祭祀も漢民族のものを残して廃止された。政府内に限れば漢化政策は実施されているし,それは中央集権化とニアリーイコールであった。目的が中央集権化であったから,始皇帝以来の中央集権体制がすでに馴染んでいる漢民族側の制度の方が寄せやすかったので,「漢化」が選ばれた似すぎない。また宮廷の外を漢化する必要は無かったし,事実として実施されなかったのも理屈が通っている。であるならば,高校世界史の教科書記述も変更を余儀なくされる。実はすでに記述の変更が始まっているのだが,より抜本的な変更を今後に期待したい。閑話休題,後世に元や清が二重統治体制で成功しているのを知っているので,現代人の目線からすると漢化政策は失敗だったように思えてしまうが,北魏は二重統治体制の限界を感じて漢化政策をとるに至ったというのは面白い。後世の征服王朝との違いはどこにあったのだろうか。
孝文帝の改革の失敗は,中央集権化の結果,漢化政策に上手く適応できた拓跋部と,疎外された他の部族の鮮卑や遊牧民の間に亀裂を生んだことである。洛陽に遷都したことで,この違いがそのまま皇帝に付き従って南下した者たちと,平城に残った者たちという地理的な違いとなって表面化してしまった。出世コースだった柔然との前線,六鎮の将軍は閑職となり,北魏宮廷はあからさまに南朝との前線を重視した。六鎮の乱は漢化政策に反発した遊牧民による反乱と説明され,それは正しいが,より正確には中央集権化への反発,宮廷から疎外されたことへの反感と言った方が正しいようである。六鎮の乱を契機に北魏は西魏と東魏に分裂し,あっという間に北周・北斉に変わって拓跋氏の王朝は終わる。しかし書名の通り,鮮卑が北方から持ち込んだ新たな制度・文化は隋唐に継承され,新たな「中華」として定着していくのである。
鮮卑と彼らが建てた北魏の歴史を追った本。同時期に発売された中公新書の『南北朝』とは北魏の部分は重なっているが,こちらは南朝の記述がほとんど無い代わりに,前史にあたる鮮卑の歴史が入っている。なお,著者は鮮卑についてモンゴル系かトルコ系かという質問に対して,厳密には解答できないとしている。遊牧国家は複数の部族の連合体であり,その各部族の言語や風習は多様であるというのがその理由であるが,これは質問と解答がずれている。著者自身「鮮卑のもととなった遊牧民はどのような人々ですかという質問であれば成立する」としているが,まさに読者の知りたかったのはここなのであり,国家としての鮮卑と諸部族名の鮮卑が別物であることだとか,民族という概念は近代的なものなのでここには容易に当てはまらないだとか,鮮卑がモンゴル高原を政治的に統合したとしても鮮卑語が公用語になるわけでもないとかいうことは,説明されるまでもなくわかっているのだから。結局,鮮卑(もっというと拓跋部)の言語は直接明言されることなく本書が終わってしまうのはやや残念であるが,随所随所の記述を読むに,著者はおそらく拓跋部をテュルク系と考えているようだ。
鮮卑系部族の中でも勢力を伸ばして北魏を建てることになるのが拓跋部である。元はテュルク系の語彙のトゥグ(土地)ベグ(君主)を意味していたが,「拓」は同音の「托」から転じていて,托は「土」に通じ,黄帝の子孫を称するためにこの漢字が当てられたようだ。これは知らなかったので面白かった。鮮卑・北魏を追っていくと,こうした遊牧民のルールと中華のルールの帳尻を合わせるための工夫が多数見られる。
拓跋部は鮮卑系の部族とまとめあげて「代」を建国する。代国は五胡十六国に含まれていない。五胡十六国は華北を破壊したというのが後世の歴史認識であり,最終的に華北した北魏の前身にあたる代を含めるわけにはいかなかったということらしい。また,386年に道武帝が北「魏」を国号に変えたのも,春秋戦国時代の国に存在していない「代」では国号として格が落ちることと,代は西晋から封建された名前であること,拓跋部が歴史上初めて朝貢したのが三国魏であったから魏を継承するという意図があり,さらに魏は土徳であるから拓跋部として都合が良かったようだ。このあたりのことは前から不思議に思っていたところで,疑問が解消されて面白かった。ところが鮮卑人はこの「代」という国号に愛着があったようで,北魏成立後も拓跋部や諸部族の部族長クラスが構成した支配者集団は「代人」を自称し続け,この時代の重要な一次史料にあたる墓誌でも「代人」という記述が多数見つかっている。この代人のアイデンティティは洛陽遷都後はもちろん,なんと西魏まで続いたようだ。
北魏は北方から遊牧民の風習を持ち込むと同時に漢民族の風習も受け入れ,結果として北魏独自の風習も生まれていたりする。この第三の風習の成立が北魏の面白いところで,とりわけ特徴的だったのが皇太子が確定した時点でその生母を殺害する「子貴母死」である。部族制からの中央集権化を図る過程で,母親の出身部族が中国王朝の外戚と化すのを避けるため,また部族制における部族長の合議で皇帝を選出するのを止めて父子相続を固定化させるために生まれた制度であるとのことだが,こういうものがあるから過渡期は面白い。中世と近代に挟まれた近世にはどちらにもない近世独自の制度があるのと同じかもしれない。
北魏は暫くの間,胡漢二重統治体制を敷いていて,後世の征服王朝風であった。しかし,孝文帝が漢化政策を実施し,鮮卑に対して胡語・胡服の使用を禁止した。このため鮮卑は次第に漢民族に同化していった……と高校世界史では習う。しかし,実際には「宮廷内で」胡語・胡服の使用を禁止した命令だったというのが正しく,民族としての鮮卑が消滅したわけではない。この際に官制にも手を入れていて,祭祀も漢民族のものを残して廃止された。政府内に限れば漢化政策は実施されているし,それは中央集権化とニアリーイコールであった。目的が中央集権化であったから,始皇帝以来の中央集権体制がすでに馴染んでいる漢民族側の制度の方が寄せやすかったので,「漢化」が選ばれた似すぎない。また宮廷の外を漢化する必要は無かったし,事実として実施されなかったのも理屈が通っている。であるならば,高校世界史の教科書記述も変更を余儀なくされる。実はすでに記述の変更が始まっているのだが,より抜本的な変更を今後に期待したい。閑話休題,後世に元や清が二重統治体制で成功しているのを知っているので,現代人の目線からすると漢化政策は失敗だったように思えてしまうが,北魏は二重統治体制の限界を感じて漢化政策をとるに至ったというのは面白い。後世の征服王朝との違いはどこにあったのだろうか。
孝文帝の改革の失敗は,中央集権化の結果,漢化政策に上手く適応できた拓跋部と,疎外された他の部族の鮮卑や遊牧民の間に亀裂を生んだことである。洛陽に遷都したことで,この違いがそのまま皇帝に付き従って南下した者たちと,平城に残った者たちという地理的な違いとなって表面化してしまった。出世コースだった柔然との前線,六鎮の将軍は閑職となり,北魏宮廷はあからさまに南朝との前線を重視した。六鎮の乱は漢化政策に反発した遊牧民による反乱と説明され,それは正しいが,より正確には中央集権化への反発,宮廷から疎外されたことへの反感と言った方が正しいようである。六鎮の乱を契機に北魏は西魏と東魏に分裂し,あっという間に北周・北斉に変わって拓跋氏の王朝は終わる。しかし書名の通り,鮮卑が北方から持ち込んだ新たな制度・文化は隋唐に継承され,新たな「中華」として定着していくのである。
2024年08月31日
書評『西洋美術史』(美術出版),『バロック美術』(中公新書),『メンツェル』(三元社)
書評を2・3年さぼっていたら,積読ならぬ書評待ちの書籍の山が数十冊単位になってきて部屋を完全に圧迫しているので,いい加減手を付けることにした。書評待ちの山は乱雑に積み上げていっている(しかも度々崩落して順番が入れ替わっている)ため,書評順は読んだ順とは無関係である。
『西洋美術史』(秋山聰・田中正之監修,美術出版,2021年)
大部の西洋美術史の通史。当代一流の学者を集めて書かれた概説書であり,サイズが大きいので掲載されている図版も大きい。これで3,800円はお値段もがんばっている。一般人が西洋美術史の議論をする際には,とりあえず典拠はこれと言えるという意味で,持っていて損はない一冊。欲を言えば,あとがきで秋山聰先生本人が「デューラーも《1500年の自画像》等において未完了過去形で署名しているように,本書は現時点での研究成果の最新版でしかなく,決定版ではない」と書いているように,10年に一度くらいはこういう大部の通史概説書が出版されてほしい。
『メンツェル【サンスーシのフルート・コンサート】』(作品とコンテクストシリーズ,三元社,2014年)
アドルフ・フォン・メンツェルはドイツの19世紀半ばに活躍したアカデミー系の画家で,《サンスーシのフルート・コンサート》に代表される歴史画,とりわけフリードリヒ2世を描いたもので名高い。ただし,メンツェル自身は啓蒙専制君主たるフリードリヒ2世の下で,芸術が称揚され,身分の高低を問わず周囲の人々がフルートの音色に聞き入っている理想的な空間を描いたのであって,フリードリヒ2世を称賛する意図はあってもプロイセン国家を称賛する意図はなかったことが論証されている。本作品が描かれたのは1852年のことで,1848-49年の挫折に対する諦念が込められている。
また,アカデミー系の画家を等閑視してきたのが20世紀後半の西洋美術史学で,21世紀になってやっとフラットな目線で語られるようになってきた。本書はその20世紀後半,1985年に西ドイツの美術史家が書いた文章の翻訳であり,西洋美術史がまだ冷静でなかったどころか,冷戦がやっと終わろうかという時期で,本文はなかなか時代を反映する記述になっていて,その点でも面白かった。曰く,メンツェルの評価史としては,20世紀初頭にかっちりとした歴史画の中に自然主義・印象派を先取りするような描き方が採用されているという評価が生じ,これが愛国的な歴史画であるという評価と並立していた。戦後は東西ドイツ,それぞれの事情でメンツェルは忘れ去られ,やっと研究が進んできたのが,まさに原著が書かれた1985年頃だったというわけだ。翻訳である本書の発行は2014年であるが,翻訳まで30年空いたことで,原著の雰囲気が良い味を生んでいる。
『バロック美術』(宮下規久朗著,中公新書,2023年)
中公新書にしてはやけに分厚いが,それもそのはず,新書サイズでバロック美術を解説しつくそうとする書籍である。驚きのフルカラー。こうした断代史の解説では,時系列を追うか,画家別に説明するか,テーマ別に説明するかの選択が難しいが,本書はテーマ別を基盤としつつ,なんとなく時系列も終えるような順にテーマを配列するという両取りを図っている。その分,画家の解説は細切れになっていて,そこは追いにくい。すなわち第1章・第2章でカトリック改革(対抗宗教改革)とカラヴァッジョによる明暗の革新を扱い,第3章は殉教と疫病,第4章は幻視と法悦,第5章は教皇と絶対王政,第6章は古典主義とのかかわりや風俗画について,第7章は辺境のバロックと流れていく。山程バロック美術の画家・彫刻家・建築家が登場する上に人物説明は少ない。またフルカラーで作品は多めに掲載されているものの,それでも載せきれておらず本文に作品名だけ出てくることも多いので,都度ググりながら読むスタイルが推奨されているように感じた。
かなり無理気味に詰め込んだだけあって仰々しい天井画の歴史,日本の二十六聖人の殉教画や中南米のウルトラバロック,ロシアのバロック建築まで押さえた,まさにバロック美術の全てに言及した本になっている(ただし著者はあとがきでポーランド,ポルトガル,インド,フィリピンなどの地域は手薄になってしまったと悔いている)。対抗宗教改革による宗教的情熱,絶対王政による豪壮な芸術への需要,疫病・殉教・戦争によるメメントモリといった要素が絡みつき生まれたバロック美術は,人々が熱に浮かされていたにしては恐ろしい長く,100年以上も持続したことで表現面でも地域的にも多様に波及した。あとがきの著者による「バロック美術は内実よりも見せかけが大事」(なので定価を上げてまでフルカラーにした)という言葉が,まさに幻惑を最大の特徴とするバロック美術をよく示しているように思われる。
『西洋美術史』(秋山聰・田中正之監修,美術出版,2021年)
大部の西洋美術史の通史。当代一流の学者を集めて書かれた概説書であり,サイズが大きいので掲載されている図版も大きい。これで3,800円はお値段もがんばっている。一般人が西洋美術史の議論をする際には,とりあえず典拠はこれと言えるという意味で,持っていて損はない一冊。欲を言えば,あとがきで秋山聰先生本人が「デューラーも《1500年の自画像》等において未完了過去形で署名しているように,本書は現時点での研究成果の最新版でしかなく,決定版ではない」と書いているように,10年に一度くらいはこういう大部の通史概説書が出版されてほしい。
『メンツェル【サンスーシのフルート・コンサート】』(作品とコンテクストシリーズ,三元社,2014年)
アドルフ・フォン・メンツェルはドイツの19世紀半ばに活躍したアカデミー系の画家で,《サンスーシのフルート・コンサート》に代表される歴史画,とりわけフリードリヒ2世を描いたもので名高い。ただし,メンツェル自身は啓蒙専制君主たるフリードリヒ2世の下で,芸術が称揚され,身分の高低を問わず周囲の人々がフルートの音色に聞き入っている理想的な空間を描いたのであって,フリードリヒ2世を称賛する意図はあってもプロイセン国家を称賛する意図はなかったことが論証されている。本作品が描かれたのは1852年のことで,1848-49年の挫折に対する諦念が込められている。
また,アカデミー系の画家を等閑視してきたのが20世紀後半の西洋美術史学で,21世紀になってやっとフラットな目線で語られるようになってきた。本書はその20世紀後半,1985年に西ドイツの美術史家が書いた文章の翻訳であり,西洋美術史がまだ冷静でなかったどころか,冷戦がやっと終わろうかという時期で,本文はなかなか時代を反映する記述になっていて,その点でも面白かった。曰く,メンツェルの評価史としては,20世紀初頭にかっちりとした歴史画の中に自然主義・印象派を先取りするような描き方が採用されているという評価が生じ,これが愛国的な歴史画であるという評価と並立していた。戦後は東西ドイツ,それぞれの事情でメンツェルは忘れ去られ,やっと研究が進んできたのが,まさに原著が書かれた1985年頃だったというわけだ。翻訳である本書の発行は2014年であるが,翻訳まで30年空いたことで,原著の雰囲気が良い味を生んでいる。
『バロック美術』(宮下規久朗著,中公新書,2023年)
中公新書にしてはやけに分厚いが,それもそのはず,新書サイズでバロック美術を解説しつくそうとする書籍である。驚きのフルカラー。こうした断代史の解説では,時系列を追うか,画家別に説明するか,テーマ別に説明するかの選択が難しいが,本書はテーマ別を基盤としつつ,なんとなく時系列も終えるような順にテーマを配列するという両取りを図っている。その分,画家の解説は細切れになっていて,そこは追いにくい。すなわち第1章・第2章でカトリック改革(対抗宗教改革)とカラヴァッジョによる明暗の革新を扱い,第3章は殉教と疫病,第4章は幻視と法悦,第5章は教皇と絶対王政,第6章は古典主義とのかかわりや風俗画について,第7章は辺境のバロックと流れていく。山程バロック美術の画家・彫刻家・建築家が登場する上に人物説明は少ない。またフルカラーで作品は多めに掲載されているものの,それでも載せきれておらず本文に作品名だけ出てくることも多いので,都度ググりながら読むスタイルが推奨されているように感じた。
かなり無理気味に詰め込んだだけあって仰々しい天井画の歴史,日本の二十六聖人の殉教画や中南米のウルトラバロック,ロシアのバロック建築まで押さえた,まさにバロック美術の全てに言及した本になっている(ただし著者はあとがきでポーランド,ポルトガル,インド,フィリピンなどの地域は手薄になってしまったと悔いている)。対抗宗教改革による宗教的情熱,絶対王政による豪壮な芸術への需要,疫病・殉教・戦争によるメメントモリといった要素が絡みつき生まれたバロック美術は,人々が熱に浮かされていたにしては恐ろしい長く,100年以上も持続したことで表現面でも地域的にも多様に波及した。あとがきの著者による「バロック美術は内実よりも見せかけが大事」(なので定価を上げてまでフルカラーにした)という言葉が,まさに幻惑を最大の特徴とするバロック美術をよく示しているように思われる。
2024年08月26日
アップルパイを食べるためだけに弘前を再訪したい
・りんごの街のアップルパイ(弘前観光コンベンション協会)
→ 岩木山に登った時に知ったのだが,弘前市は街をあげてアップルパイを押しており,市中のアップルパイをリストアップしたガイドマップを配布している(2024年版では40店舗)。数もすごいがバリエーションの豊富さもすごい。これは洋菓子屋のみならず,和菓子屋やフランス料理店も参加しているためで,りんごが入っていてパイ生地の上に乗っていれば他のレギュレーションは無いという自由度がそれを許容している。2023年に弘前に行った際にはこのガイドマップを見ながら5・6個食べてみたが,実際にそれぞれ味が違って面白かった。弘前を訪れた際はぜひとも,岩木山を遠目で眺めながら可能な限りのアップルパイを食していってほしい。
→ これを完全制覇するきらら漫画を作ろう(提案)
・『葬送のフリーレン』のドイツ語
→ ドイツ語が堪能な誰かがやるべき仕事で,これほど完成度が高いものを作ってくれたことに感謝したい。私がやるにはドイツ語の力が全く足りていない。京産大・外国語学部の良い宣伝にもなっていると思う。
→ 冒頭の文章でちょっと笑ってしまった。ということは「キュアフェルン」はありうる……? というボケは置いといて,「この二人の名前は可愛らしさや透明感が感じられる音になっていると考えることができる。」という指摘は面白い。加えてフランメ・フリーレンの「フリーレンと語頭の《フ+ラ行音》」というのは自力で気付けなかったところで,これも面白かった。フェルンもその系譜だろう。《フ+ラ行音》かつ可愛い音をドイツ語かつストーリーに違和感のない単語をドイツ語から探してくる手間に感動する。
→ 筆者が専門家であるがゆえにかえって基本的なことすぎて書いていないものと思われるが,「ラオフェン」のつづりがlaufenなのに「ラウフェン」ではないのは,実際のドイツ語ではauがアオに聞こえるという事情による。地名などの固有名詞ではAugsburgを「アウクスブルク」としてアオクスブルクとはしないように,つづり通り書くことの方が多い。『葬送のフリーレン』がラウフェンとしなかった理由はわからないが,そのままだとつまらないくらいの理由のような気はする。
・Tierって何?いつ出てきたの?(増田)
・便乗するが、バフ・デバフもいつ出来たの?(増田)
→ 両方とも同意できる感覚。本当にいつの間にか広まっていて定着していた。バフ・デバフは,それにあたる明確な用語が存在していなかったから,使いやすい用語として急速に広まった印象で,Tierよりは先に定着したように思われる。はてブでも指摘されているが,MMOから入ってきたのではないか。そういえばナーフもここ20年くらいで定着した語ではないか。
→ Tierはグレード等,類義語があるのに定着したので不思議に思っている。ラグビーワールドカップの影響はありそう。
→ 岩木山に登った時に知ったのだが,弘前市は街をあげてアップルパイを押しており,市中のアップルパイをリストアップしたガイドマップを配布している(2024年版では40店舗)。数もすごいがバリエーションの豊富さもすごい。これは洋菓子屋のみならず,和菓子屋やフランス料理店も参加しているためで,りんごが入っていてパイ生地の上に乗っていれば他のレギュレーションは無いという自由度がそれを許容している。2023年に弘前に行った際にはこのガイドマップを見ながら5・6個食べてみたが,実際にそれぞれ味が違って面白かった。弘前を訪れた際はぜひとも,岩木山を遠目で眺めながら可能な限りのアップルパイを食していってほしい。
→ これを完全制覇するきらら漫画を作ろう(提案)
・『葬送のフリーレン』のドイツ語
→ ドイツ語が堪能な誰かがやるべき仕事で,これほど完成度が高いものを作ってくれたことに感謝したい。私がやるにはドイツ語の力が全く足りていない。京産大・外国語学部の良い宣伝にもなっていると思う。
→ 冒頭の文章でちょっと笑ってしまった。ということは「キュアフェルン」はありうる……? というボケは置いといて,「この二人の名前は可愛らしさや透明感が感じられる音になっていると考えることができる。」という指摘は面白い。加えてフランメ・フリーレンの「フリーレンと語頭の《フ+ラ行音》」というのは自力で気付けなかったところで,これも面白かった。フェルンもその系譜だろう。《フ+ラ行音》かつ可愛い音をドイツ語かつストーリーに違和感のない単語をドイツ語から探してくる手間に感動する。
→ 筆者が専門家であるがゆえにかえって基本的なことすぎて書いていないものと思われるが,「ラオフェン」のつづりがlaufenなのに「ラウフェン」ではないのは,実際のドイツ語ではauがアオに聞こえるという事情による。地名などの固有名詞ではAugsburgを「アウクスブルク」としてアオクスブルクとはしないように,つづり通り書くことの方が多い。『葬送のフリーレン』がラウフェンとしなかった理由はわからないが,そのままだとつまらないくらいの理由のような気はする。
・Tierって何?いつ出てきたの?(増田)
・便乗するが、バフ・デバフもいつ出来たの?(増田)
→ 両方とも同意できる感覚。本当にいつの間にか広まっていて定着していた。バフ・デバフは,それにあたる明確な用語が存在していなかったから,使いやすい用語として急速に広まった印象で,Tierよりは先に定着したように思われる。はてブでも指摘されているが,MMOから入ってきたのではないか。そういえばナーフもここ20年くらいで定着した語ではないか。
→ Tierはグレード等,類義語があるのに定着したので不思議に思っている。ラグビーワールドカップの影響はありそう。
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2024年08月25日
「ありがたみ」の美学とでも言うべきか
・美的なものと芸術的なもの(obakeweb)
→ 定義の良い整理で,自分の知らない美学史の潮流もあって勉強になった。西洋美術史の流れから言えば美学と芸術学は分離せざるを得なかったのだろう。
→ 脚注3について,確かに美学美術史になっている研究室は多い印象。現在の東大は「美術史」と「美学芸術学」という研究室の分け方だが,昔はやはり美学美術史だったらしい。美術史学と美学を分けた時に,後者を美学芸術学と名付けたのは良い判断だったのかもしれない。
・仏像の研究者が講座でコンクリート製の仏像の話をしたところ「国立博物館で本物を見て学んだほうが良い」と言われる→「本物の仏像とは何か?」という問い(Togetter)
→ これも美学の話題だが,あまりそう指摘している人はないようであった。青銅製や木製でなければ仏像としてのありがたみが薄いと考える人が出てくるのは,言われてみると想像の範囲内である。しかし,このなんとなくわかるところを言語化するのは意外と難しい。芸術家や職人の手作りでなければ魂が入っていないということだろうか。画竜点睛の類義語として仏造って魂入れずと言うではないか。おそらくこれが最も正解に近いと思われるが,となるとこれは素材の問題ではなく,実は労力の問題ということになる。それを言うならコンクリート製の大仏はどうか。多額の資金と労働者の汗で建てられているものになるが,魂が入っていないと見なされるか。逆に20世紀末に建てられた青銅製の大仏はどう判断されるか。たとえば牛久大仏は青銅製である。近代技術を用いて建てたという展ではコンクリート製の大仏と同じであるが,素材は古代と同じである。これは魂が入っていないということになるか。さらに言えば青銅製の小像を機械に鋳造させ,古代の模造を作ったならどうか。全く人間の手を経ていないが,人間が作ったものと見分けはつかないはずである。
→ ここで「全部本物の仏像ってことでいいのでは」と思える人は別にそれでよく,私もどちらかと言えばそちら側の意見の人間である。しかし,「理屈じゃないが,どこかで線引が必要ではないかという感覚がある」と思う人がいて,その感覚の淵源を探っていく,言語化していく上で,本件は格好の題材であると思う。
・工場建設きっかけ、地中から埋蔵銭10万枚超 戦乱で急きょ埋めたか(朝日新聞)
→ このニュースのポイントは「紀元前の中国初の統一通貨「半両銭」や、7世紀から13世紀にかけて造られた渡来銭など10万枚を超す大量の埋蔵銭」というところで,鎌倉時代の遺構だから宋銭がほとんどを占めるのはわかるが,開元通宝や半両銭が混ざっているのは珍しい。半両銭については他の遺跡での事例がほぼ無いのではないか。発掘された約10万枚のうち調査して文字が判読できたもの334枚のうちの1枚が半両銭であったそうなので,10万枚の中にはまだ他の貨幣もありそうだ。読めない状態なのが悔やまれる。
→ 半両銭が鎌倉時代の遺跡から出土した理由が気になる。一番しっくり来るのは,半両銭や開元通宝も宋銭と同様の普通の貨幣として流通していたということ。銅銭はほぼ銅地金のような扱いであったから,貯蓄していた当人からするとその銅銭が半両銭であるか宋銭であるかは特にこだわりがなかった。また,それに近い推測として,どうせ鋳潰すつもりだったのかもしれない。宋銭と一緒に雑多に発掘されたことから言って貨幣コレクションだったとは思われない。
→ なお,新聞記事にある通り,同遺跡からは古墳時代のものも発掘されており,長く使われていた土地だったようだ。発掘調査報告書も公開されているので,ご興味があればこちらも参照してほしい。読んでみると,古墳時代どころか縄文時代のものも見つかっている。
・総社村東03遺跡(全国遺跡報告総覧ー奈良文化財研究所)
→ 定義の良い整理で,自分の知らない美学史の潮流もあって勉強になった。西洋美術史の流れから言えば美学と芸術学は分離せざるを得なかったのだろう。
→ 脚注3について,確かに美学美術史になっている研究室は多い印象。現在の東大は「美術史」と「美学芸術学」という研究室の分け方だが,昔はやはり美学美術史だったらしい。美術史学と美学を分けた時に,後者を美学芸術学と名付けたのは良い判断だったのかもしれない。
・仏像の研究者が講座でコンクリート製の仏像の話をしたところ「国立博物館で本物を見て学んだほうが良い」と言われる→「本物の仏像とは何か?」という問い(Togetter)
→ これも美学の話題だが,あまりそう指摘している人はないようであった。青銅製や木製でなければ仏像としてのありがたみが薄いと考える人が出てくるのは,言われてみると想像の範囲内である。しかし,このなんとなくわかるところを言語化するのは意外と難しい。芸術家や職人の手作りでなければ魂が入っていないということだろうか。画竜点睛の類義語として仏造って魂入れずと言うではないか。おそらくこれが最も正解に近いと思われるが,となるとこれは素材の問題ではなく,実は労力の問題ということになる。それを言うならコンクリート製の大仏はどうか。多額の資金と労働者の汗で建てられているものになるが,魂が入っていないと見なされるか。逆に20世紀末に建てられた青銅製の大仏はどう判断されるか。たとえば牛久大仏は青銅製である。近代技術を用いて建てたという展ではコンクリート製の大仏と同じであるが,素材は古代と同じである。これは魂が入っていないということになるか。さらに言えば青銅製の小像を機械に鋳造させ,古代の模造を作ったならどうか。全く人間の手を経ていないが,人間が作ったものと見分けはつかないはずである。
→ ここで「全部本物の仏像ってことでいいのでは」と思える人は別にそれでよく,私もどちらかと言えばそちら側の意見の人間である。しかし,「理屈じゃないが,どこかで線引が必要ではないかという感覚がある」と思う人がいて,その感覚の淵源を探っていく,言語化していく上で,本件は格好の題材であると思う。
・工場建設きっかけ、地中から埋蔵銭10万枚超 戦乱で急きょ埋めたか(朝日新聞)
→ このニュースのポイントは「紀元前の中国初の統一通貨「半両銭」や、7世紀から13世紀にかけて造られた渡来銭など10万枚を超す大量の埋蔵銭」というところで,鎌倉時代の遺構だから宋銭がほとんどを占めるのはわかるが,開元通宝や半両銭が混ざっているのは珍しい。半両銭については他の遺跡での事例がほぼ無いのではないか。発掘された約10万枚のうち調査して文字が判読できたもの334枚のうちの1枚が半両銭であったそうなので,10万枚の中にはまだ他の貨幣もありそうだ。読めない状態なのが悔やまれる。
→ 半両銭が鎌倉時代の遺跡から出土した理由が気になる。一番しっくり来るのは,半両銭や開元通宝も宋銭と同様の普通の貨幣として流通していたということ。銅銭はほぼ銅地金のような扱いであったから,貯蓄していた当人からするとその銅銭が半両銭であるか宋銭であるかは特にこだわりがなかった。また,それに近い推測として,どうせ鋳潰すつもりだったのかもしれない。宋銭と一緒に雑多に発掘されたことから言って貨幣コレクションだったとは思われない。
→ なお,新聞記事にある通り,同遺跡からは古墳時代のものも発掘されており,長く使われていた土地だったようだ。発掘調査報告書も公開されているので,ご興味があればこちらも参照してほしい。読んでみると,古墳時代どころか縄文時代のものも見つかっている。
・総社村東03遺跡(全国遺跡報告総覧ー奈良文化財研究所)
2024年08月10日
ニコ動・YouTubeの動画紹介 2023.6月下旬〜2024.7月下旬
ニコニコ動画休止期間。
これは気になっていた。どの状況でも意外と大差がなく,皮膚の常在菌は気をつけていても一度拭いた布には大体繁殖している。
見た目,というより表面の色が悪すぎて笑う。喫煙者の肺っぽいというコメントがあったが,確かにそれ。切ればわからないし美味しいなら全く問題ないはずだが,それほどメジャーではないのは,やはり見た目の問題なのか,別に理由があるのか。
待望のシリーズ。永夜抄もとうとう次で5面か。
あれだけ攻略が難しそうだったバーティカルリミット.BURSTが早くも攻略のコツが見えてきており,次の大会も楽しみ。
VTuberのオリジナル曲でこれだけバチバチのクサメタルが来るのは珍しい気がする。この人にはあっている。
とうとうピアノの弾き語りならぬ,ヴァイオリンを弾く(そして歌う)VTuberが出てきたことに驚きを隠せない。
このギター弾き語りシリーズ好き。
こういうのを見ると,本当は地学をちゃんと勉強してから登山した方がより楽しめるのだろうと思う。ちょっと酔いやすい動画なので注意。
詰まってた水が流れるようになるのを見ると嬉しくなるのはなぜだろう。
これは気になっていた。どの状況でも意外と大差がなく,皮膚の常在菌は気をつけていても一度拭いた布には大体繁殖している。
見た目,というより表面の色が悪すぎて笑う。喫煙者の肺っぽいというコメントがあったが,確かにそれ。切ればわからないし美味しいなら全く問題ないはずだが,それほどメジャーではないのは,やはり見た目の問題なのか,別に理由があるのか。
待望のシリーズ。永夜抄もとうとう次で5面か。
あれだけ攻略が難しそうだったバーティカルリミット.BURSTが早くも攻略のコツが見えてきており,次の大会も楽しみ。
VTuberのオリジナル曲でこれだけバチバチのクサメタルが来るのは珍しい気がする。この人にはあっている。
とうとうピアノの弾き語りならぬ,ヴァイオリンを弾く(そして歌う)VTuberが出てきたことに驚きを隠せない。
このギター弾き語りシリーズ好き。
こういうのを見ると,本当は地学をちゃんと勉強してから登山した方がより楽しめるのだろうと思う。ちょっと酔いやすい動画なので注意。
詰まってた水が流れるようになるのを見ると嬉しくなるのはなぜだろう。
2024年07月28日
照ノ富士10回目の優勝
愛知県体育館で最後の名古屋場所にふさわしく,盛り上がった場所になった。誰しもが照ノ富士の独走で終わると思っていたところ,終盤で他の力士が意地を見せ,優勝決定戦までもつれたが,最後は照ノ富士が勝って横綱が締めるところを締めた。
照ノ富士は優勝後のインタビューで「自分の目指していた相撲がちょっとでも完成できた」と述べていた。腰を割って上体は前傾姿勢で押し込み,そのまま押し出してもいいし四つ相撲になってもいい。四つは右四つ・左四つ・もろ差し・外四つのいずれでも形になっていた。この攻める相撲が理想形なのだろう。一時期は受ける相撲も探究していた節があるが,やはり攻める相撲に完成形を求めるようである。優勝回数が5回を超えた頃からしきりに「二桁は優勝したい」と言っていたが,その目標を達成した。両膝の状態からいつ引退してもおかしくないと言われているものの,本人はまだまだやるつもりのようだ。
優勝力士以外の個別評。大関陣。琴櫻は場所全体としては普通の出来だったが,千秋楽の本割で照ノ富士を破ったのは大きな経験になっただろうと思う。どうしても相撲の型が似ているので下位互換的になってしまうが,もろ差しなら勝機がありそうである。豊昇龍はやはりスロースターターで,気分が乗ってくるまでに黒星がかさんでいるのがもったいない。今場所に至っては投げのうちすぎで右股関節を痛めて休場となった。投げ技の多用にはケガがあるのが怖いが,豊昇龍も捕まってしまった。まずはちゃんと寄り切ってほしい。貴景勝はだましだまし相撲をとってきたが,とうとう大関から陥落することになった。突きの威力が弱いのでいなしも効かず,相手が崩れてくれない。逆にいなされると食ってしまう。また調子が良い時は四つになってもすぐには負けなかったが,今場所は四つになったら本人が諦めていた。まずは来場所10勝を目指すことになるが,今場所の出来では難しい。もちろんコンスタントに10勝していた時の調子が出ればよいので,ケガの状態によっては10勝する可能性もある。
関脇・小結は5人全員勝ち越しとなった。10勝で大関復帰を目指した霧島は,先場所に「ボタンの掛け違いとでも言うような相撲のリズムの狂いが悪化し,とうとう休場・陥落に至った」と書いたところからあまり改善がなく,白星が2つ足りなかった。豊昇龍と琴櫻に勝って貴景勝に負けていたから日毎の調子が違いすぎた。千秋楽にNHKの解説を務めていた鶴竜親方が精神的なものと指摘していたので,10勝必要な事自体がプレッシャーだったのかもしれない。とはいえ救済措置なしに3場所33勝は可能な実力者であるので,来場所以降の復調に期待したい。大の里は立ち合いの当たりを止めれば何とかなるという攻略法を見出されて苦戦したが,実際には大の里の当たりを止めるのは難しく,立て直して9勝で終戦した。相撲勘もよく,たまに切れ味のある動きを見せるので油断できない。このままなら来場所もかなり勝てそうで,大関は遠くなさそうに見えた。新小結だった平戸海は先場所同様に左前まわしを取る相撲が絶品で,技能賞は妥当だろう。そろそろ研究されるだろうから,真価は来場所になるか。阿炎と大栄翔は可も不可もなく。
前頭上位。関脇・小結の全員勝ち越しにやられて壊滅している。前頭5枚目以内の勝ち越しが翔猿だけである。その翔猿も先場所までと何かが違っていたということもなく,コメントすることがない。
前頭中盤。優勝同点の隆の勝は終盤まで完全にノーマークで,どちらかと言えば上位でとっていた力士であるから,エレベーターの上昇局面であって,11勝くらいまでは全然おかしくないくらいの感覚であった。しかし,優勝争いの展開がこじれて上位挑戦の道が開け,そこで霧島・照ノ富士・大の里と破ったのは「持っている」。そこで崩れないメンタルは日頃の鍛錬の成果か。ちょうど2年前の,2022年の名古屋場所で右肩を負傷してからピリッとしなかったが,これで復活して上位に再び定着するかもしれない。正代も10勝しているがこれも登りエレベーター。翠富士は8勝ながら,今場所も肩透かしに頼らない相撲が続いていて,違う工夫をしようという奮闘があり,その意味で見ていて面白かった。
前頭下位。美ノ海は10勝で技能を見せたのに,技能賞受賞なしで,Twitterではやや騒がれていた。私も技能賞で妥当だったと思う。四つでも離れてもよく動いて相撲をとっていた。若隆景は11勝,まずは元気に戻ってきてくれて嬉しい。ケガをする前の相撲ができているので,上位でも戦えるのではないだろうか。遠藤も久々に元気な様子だった。超絶技巧は健在である。今場所に幕内で初めて勝ち越した狼雅はブリヤート人の血を引くトゥヴァ出身(現在はモンゴル国籍)で,歴史好きとしては少しテンションが上がる出身地である。相撲はレスリング経験者らしい動きが目立ち,現在の幕内では少し珍しい。
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照ノ富士は優勝後のインタビューで「自分の目指していた相撲がちょっとでも完成できた」と述べていた。腰を割って上体は前傾姿勢で押し込み,そのまま押し出してもいいし四つ相撲になってもいい。四つは右四つ・左四つ・もろ差し・外四つのいずれでも形になっていた。この攻める相撲が理想形なのだろう。一時期は受ける相撲も探究していた節があるが,やはり攻める相撲に完成形を求めるようである。優勝回数が5回を超えた頃からしきりに「二桁は優勝したい」と言っていたが,その目標を達成した。両膝の状態からいつ引退してもおかしくないと言われているものの,本人はまだまだやるつもりのようだ。
優勝力士以外の個別評。大関陣。琴櫻は場所全体としては普通の出来だったが,千秋楽の本割で照ノ富士を破ったのは大きな経験になっただろうと思う。どうしても相撲の型が似ているので下位互換的になってしまうが,もろ差しなら勝機がありそうである。豊昇龍はやはりスロースターターで,気分が乗ってくるまでに黒星がかさんでいるのがもったいない。今場所に至っては投げのうちすぎで右股関節を痛めて休場となった。投げ技の多用にはケガがあるのが怖いが,豊昇龍も捕まってしまった。まずはちゃんと寄り切ってほしい。貴景勝はだましだまし相撲をとってきたが,とうとう大関から陥落することになった。突きの威力が弱いのでいなしも効かず,相手が崩れてくれない。逆にいなされると食ってしまう。また調子が良い時は四つになってもすぐには負けなかったが,今場所は四つになったら本人が諦めていた。まずは来場所10勝を目指すことになるが,今場所の出来では難しい。もちろんコンスタントに10勝していた時の調子が出ればよいので,ケガの状態によっては10勝する可能性もある。
関脇・小結は5人全員勝ち越しとなった。10勝で大関復帰を目指した霧島は,先場所に「ボタンの掛け違いとでも言うような相撲のリズムの狂いが悪化し,とうとう休場・陥落に至った」と書いたところからあまり改善がなく,白星が2つ足りなかった。豊昇龍と琴櫻に勝って貴景勝に負けていたから日毎の調子が違いすぎた。千秋楽にNHKの解説を務めていた鶴竜親方が精神的なものと指摘していたので,10勝必要な事自体がプレッシャーだったのかもしれない。とはいえ救済措置なしに3場所33勝は可能な実力者であるので,来場所以降の復調に期待したい。大の里は立ち合いの当たりを止めれば何とかなるという攻略法を見出されて苦戦したが,実際には大の里の当たりを止めるのは難しく,立て直して9勝で終戦した。相撲勘もよく,たまに切れ味のある動きを見せるので油断できない。このままなら来場所もかなり勝てそうで,大関は遠くなさそうに見えた。新小結だった平戸海は先場所同様に左前まわしを取る相撲が絶品で,技能賞は妥当だろう。そろそろ研究されるだろうから,真価は来場所になるか。阿炎と大栄翔は可も不可もなく。
前頭上位。関脇・小結の全員勝ち越しにやられて壊滅している。前頭5枚目以内の勝ち越しが翔猿だけである。その翔猿も先場所までと何かが違っていたということもなく,コメントすることがない。
前頭中盤。優勝同点の隆の勝は終盤まで完全にノーマークで,どちらかと言えば上位でとっていた力士であるから,エレベーターの上昇局面であって,11勝くらいまでは全然おかしくないくらいの感覚であった。しかし,優勝争いの展開がこじれて上位挑戦の道が開け,そこで霧島・照ノ富士・大の里と破ったのは「持っている」。そこで崩れないメンタルは日頃の鍛錬の成果か。ちょうど2年前の,2022年の名古屋場所で右肩を負傷してからピリッとしなかったが,これで復活して上位に再び定着するかもしれない。正代も10勝しているがこれも登りエレベーター。翠富士は8勝ながら,今場所も肩透かしに頼らない相撲が続いていて,違う工夫をしようという奮闘があり,その意味で見ていて面白かった。
前頭下位。美ノ海は10勝で技能を見せたのに,技能賞受賞なしで,Twitterではやや騒がれていた。私も技能賞で妥当だったと思う。四つでも離れてもよく動いて相撲をとっていた。若隆景は11勝,まずは元気に戻ってきてくれて嬉しい。ケガをする前の相撲ができているので,上位でも戦えるのではないだろうか。遠藤も久々に元気な様子だった。超絶技巧は健在である。今場所に幕内で初めて勝ち越した狼雅はブリヤート人の血を引くトゥヴァ出身(現在はモンゴル国籍)で,歴史好きとしては少しテンションが上がる出身地である。相撲はレスリング経験者らしい動きが目立ち,現在の幕内では少し珍しい。
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