2024年10月31日
2024年10月08日
歴史的に古い基準を現代に当てはめる遊びは面白い
・遙嶽図(Togetter)
→ 全体的に面白かった。個人的には石高で見る衆院選・参院選が良い。現代の百万石大名は東北地方の大名だ。日本の石高の中心,やはり20世紀後半のうちにかなり北に引っ張られているのだな。幕末の表高と実高の差を見ても東北地方は激しいし,日本の東北地方の開拓は19-20世紀になって進み,何なら開拓し終わらないうちに減反が始まったと言えそう。
・東京で育った子供はドラクエみたいな「町という点が道で繋がっている図」が理解できないことがある→関東平野はかなり異常(Togetter)
→ 私は全く東京育ちではないが,割りとわかる。東京でなくとも東海道新幹線沿いは割りとずっとコナーベーションが起きている自治体が多いように思われ(熱海・三島間のような山脈が挟まっているものを除くと),京阪神も当然そう。山梨県のような盆地も都市間に切れ目が無いし,富山県のような散居村のパターンもあるから,人口密度が低い県でも「町が点」ということにならない場所もある。いろいろ含めて大雑把に言えば,現代の日本人の半数くらいは「都市が点」という感覚が無いのではないか。
→ ヨーロッパの方がよくわかるのはその通りで,フランスやドイツで高速鉄道に乗っている時,車窓からの風景で,田園地帯と都市があまりにも綺麗に分かれていて,これがJRPGの風景かとけっこう感動した。日本でももちろん都市間に平原が広がっている場所もあるが,それ以上に山脈が挟まっていて,それなら当然都市間に切れ目があるなと思ってしまうパターンが多い気がする。
・ネット広告は「みんなに見てもらう」から「見たくないなら金払え」になってしまってなんだかなってなる話…『にぎやかな未来』の世界に来てしまった(Togetter)
→ 本当に。「Webページの維持費は広告により支えられているから広告が貼ってある,見たくないなら会員になって金払え」までは理解できるし,仕方がないと思う。しかし,広告の内容が不快で絶対買わないものや詐欺ばかりになり,「消すために金払え」とプラットフォームが要求してくるのは話が違う。最近はもうターゲット広告も機能しているとは思えず,全く興味もないものばかりが表示される。質の低い広告が氾濫することで,より課金圧が強まるから,プラットフォーム側がそれらを取り締まるモチベーションは低く,取り締まられる気配はない。新聞社のホームページですら詐欺広告が出る始末であるが,大体のサイトには通報先がないというのもふざけている。この点では通報できるGoogleの広告はまだマシかもしれない。「見たくないなら金払え」がここまで急進化するとは予想してなくて,プラットフォーム側の邪悪さを見誤っていたところは自分自身あるし,皆そうなのではないか。どうしてこんなインターネットになってしまったのか。
・「パンドラの箱」を開けてしまった「囲碁将棋チャンネル」判決(Yahoo)
→ 最近はちょっと観る将をしているので,気になっていた話題。『エセ著作権事件簿』でも取り上げられていた通り,棋譜自体に著作権は存在しないので囲碁・将棋チャンネル側の敗訴は大方の予想通り。で,今後はどうなるかという話がこのYahoo記事と,リンク先の動画である。たややん氏の解説動画は非常にわかりやすいの必聴。利用規約で縛る方向になっていく(著作権ではなく民法上の不法行為として争うようにできるようにする)のではないかという予測が立てられている。
→ さて,この判決が出てから9ヶ月ほど経った現在であるが,YouTube上で堂々と盤面を表示するようになったチャンネルが多少目立つようになっただけで,思われていたよりも変化が無い印象。主催者が利用規約を変えたという話も聞かないし,案外このままなあなあになっていくのかもしれない。この裁判が控訴されたという話も聞かないが,どうなったのか。知っている方がおられたら教えてください。
→ 全体的に面白かった。個人的には石高で見る衆院選・参院選が良い。現代の百万石大名は東北地方の大名だ。日本の石高の中心,やはり20世紀後半のうちにかなり北に引っ張られているのだな。幕末の表高と実高の差を見ても東北地方は激しいし,日本の東北地方の開拓は19-20世紀になって進み,何なら開拓し終わらないうちに減反が始まったと言えそう。
・東京で育った子供はドラクエみたいな「町という点が道で繋がっている図」が理解できないことがある→関東平野はかなり異常(Togetter)
→ 私は全く東京育ちではないが,割りとわかる。東京でなくとも東海道新幹線沿いは割りとずっとコナーベーションが起きている自治体が多いように思われ(熱海・三島間のような山脈が挟まっているものを除くと),京阪神も当然そう。山梨県のような盆地も都市間に切れ目が無いし,富山県のような散居村のパターンもあるから,人口密度が低い県でも「町が点」ということにならない場所もある。いろいろ含めて大雑把に言えば,現代の日本人の半数くらいは「都市が点」という感覚が無いのではないか。
→ ヨーロッパの方がよくわかるのはその通りで,フランスやドイツで高速鉄道に乗っている時,車窓からの風景で,田園地帯と都市があまりにも綺麗に分かれていて,これがJRPGの風景かとけっこう感動した。日本でももちろん都市間に平原が広がっている場所もあるが,それ以上に山脈が挟まっていて,それなら当然都市間に切れ目があるなと思ってしまうパターンが多い気がする。
・ネット広告は「みんなに見てもらう」から「見たくないなら金払え」になってしまってなんだかなってなる話…『にぎやかな未来』の世界に来てしまった(Togetter)
→ 本当に。「Webページの維持費は広告により支えられているから広告が貼ってある,見たくないなら会員になって金払え」までは理解できるし,仕方がないと思う。しかし,広告の内容が不快で絶対買わないものや詐欺ばかりになり,「消すために金払え」とプラットフォームが要求してくるのは話が違う。最近はもうターゲット広告も機能しているとは思えず,全く興味もないものばかりが表示される。質の低い広告が氾濫することで,より課金圧が強まるから,プラットフォーム側がそれらを取り締まるモチベーションは低く,取り締まられる気配はない。新聞社のホームページですら詐欺広告が出る始末であるが,大体のサイトには通報先がないというのもふざけている。この点では通報できるGoogleの広告はまだマシかもしれない。「見たくないなら金払え」がここまで急進化するとは予想してなくて,プラットフォーム側の邪悪さを見誤っていたところは自分自身あるし,皆そうなのではないか。どうしてこんなインターネットになってしまったのか。
・「パンドラの箱」を開けてしまった「囲碁将棋チャンネル」判決(Yahoo)
→ 最近はちょっと観る将をしているので,気になっていた話題。『エセ著作権事件簿』でも取り上げられていた通り,棋譜自体に著作権は存在しないので囲碁・将棋チャンネル側の敗訴は大方の予想通り。で,今後はどうなるかという話がこのYahoo記事と,リンク先の動画である。たややん氏の解説動画は非常にわかりやすいの必聴。利用規約で縛る方向になっていく(著作権ではなく民法上の不法行為として争うようにできるようにする)のではないかという予測が立てられている。
→ さて,この判決が出てから9ヶ月ほど経った現在であるが,YouTube上で堂々と盤面を表示するようになったチャンネルが多少目立つようになっただけで,思われていたよりも変化が無い印象。主催者が利用規約を変えたという話も聞かないし,案外このままなあなあになっていくのかもしれない。この裁判が控訴されたという話も聞かないが,どうなったのか。知っている方がおられたら教えてください。
2024年10月06日
ニコ動・YouTubeの動画紹介 2024.8月下旬〜2024.9月下旬
投稿するタイミングを見失って18年ほどが経過してしまい,ニコニコ動画の停止からの復活に契機を見出したのだろう……というマジレスを横においておくと本当になんで今更。アリマリというカップリング自体に懐かしさを感じてしまう。
名曲2つ。結局「風あざみ」が何なのかは井上陽水すらわからない。
たいたぬさん。政治的には過去一危ない……ような気がしたが,よく考えたらハワイで米海軍すれすれに飛んでいた方が危ないかもしれない。
始まってしまったSeason3。part2からいきなり講義。視聴者から「講義だこれ」と言われ続けた結果,本当に講義形式になってしまった。まだ講義が終わっていないが,カメラバグは確かに革命的にとんでもないものが見つかってしまったのは伝わる。
あまりにマニアックな藤子・F・不二雄作品が出てくることで話題になった,ドラえもんとカイロソフトのコラボ作品の実況。かく言う私も常識的なレベルまでしか藤子・F・不二雄作品を知らないわけだが,マジで見たことがない作品がぽんぽん出てきて笑ってしまった。圧倒的な物量の時点でもう面白い。
豊橋駅内のストリートピアノが過去一有効活用されたシーン。なお,実は通りがかると誰かしら弾いていて,あのピアノ自体はかなり人気だったりする。
YAMAPユーザーだけど,このヤマレコ社長の解説シリーズはめちゃくちゃ面白くて勉強になった。実際,登山届は別のところで全く同じ話を聞いてから出さないようになった。
本当にセットがかなりSASUKEに似ている。ただ,タイムアタックの要素が強いために動きが全然SASUKEと違うのが非常に面白い。これが五輪の種目なのは良い。
2024年10月04日
ウクライナ戦争の先行きは本当に不安である
・クリーム・スキミング(Wikipedia)
→ 一年くらい前に知った言葉。確かに交通インフラや中等教育で起きがちな現象で,必要な概念だけど,あまり定着しなさそうである。「高収益事業で公共性の高い赤字事業を支える」のを過度に許容すると今度は独占市場が成立する問題も副次的にはありそう。
・ウクライナの反攻作戦はどうして失敗したのか、計画に生じた誤算と対立(航空万能論)
→ 攻勢ラインを3つに分けたことによる戦力分散,1年目で大量の死傷者を出したことによるベテラン兵の不足,反攻開始が4月から6月に遅れてロシア側に長い準備期間を与えたこと,西側による訓練がドローンの出現に追いついていなかったこと……とウクライナの失敗要因が多数並べられている。どれか一つでも違っていれば結果も違ったのだろうか。この反攻作戦の失敗から現在で約1年だが,ウクライナはこの失敗の痛手からまだ回復していない。
・ウクライナ「継戦も地獄、停戦も地獄」 小泉悠氏が読む戦況(日経ビジネス)
→ これも昨年末頃の記事だが,残念ながら状況はここからさして変わっていない(前線は悪化している)。前にも書いた気がするが,ウクライナが実質的な現在の国際秩序の最終防衛線になっている中で,西側諸国の他人事感が強すぎる。記事中にある通り,支援が小出しなので結果的に長期戦になり,支援額が膨大に積み上がっていくという間抜けな事態になっている。どこかで本腰を入れて一度の本格的な支援を出すべきであったが,2024年10月現在,すでにそれも手遅れになりつつあるかもしれない。一度に大きな支援を出すことを許さなかった欧米各国の世論を踏まえるに,後世にこれがロシアという独裁国家に対する民主主義の敗北という歴史的意義を与えられる可能性はある(ウクライナ自身は民主主義国として未成熟であるにせよ)。
・専門知と民主主義を考える――行き過ぎた相対主義の中でーー『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波書店)刊行記念イベントから
>歴史総合と言って、生徒一人一人に資料を見せて、自分の考えを言わせることが重視されるようになっているんです。そのことをちょっと危惧している面もあって。
→ あたりは大変に同意できる話で,専門家不在の高校の歴史の授業で生徒に一次史料(ないし準ずるもの)に触れさせるのは,あまりにも無邪気に行われているが,やはりかなり怖いと思う。史料は無邪気に読めるものではないからこそ歴史家が世の中には必要であるわけで,一般市民にも歴史学の方法論を学ばせるべきというのは,高校の現場にはそぐわず別の場でやってほしい。また,元記事で田野先生が生徒に史料を読ませるのを危惧しているように,高校生に史料を読ませるのは歴史家の間でも必ずしもコンセンサスがとれているわけではないことであるにもかかわらず,推進する側があたかも歴史家なら誰でもそれをやってほしいと思っているかのように考えて押し売りしてきた感が正直あるのも問題だと思う。少なくとも私はそういう風潮を感じていた。
>我々が「研究者はすごい」と言ったら、もうただの自画自賛で権威主義の権化みたいになるから、それを誰が言うかが、すごく難しい問題ではある。
→ と小野寺先生が述べているのはごもっともであるので,専門知の重要性を知っている我々市井の好事家・歴史好きが補助していってあげるべきなのだろうなとも最近は思う。だからこそ逆に専門家にはなるべく軽薄なミスはしないでほしいと言いますか,私怨で言うと大学入試問題をとちらずに作ってほしい……大げさでもなんでもなく,専門知の権威はそういうところから綻びが出ると思うので。実際に私はあの企画を十何年と続ける中で作問者の知性を疑わざるを得ない場面が幾度となくあって幻滅している面も無くはない。あと高校世界史の教科書の古くて現在の定説から離れてしまっている記述,サボらずに直してください。
→ 一年くらい前に知った言葉。確かに交通インフラや中等教育で起きがちな現象で,必要な概念だけど,あまり定着しなさそうである。「高収益事業で公共性の高い赤字事業を支える」のを過度に許容すると今度は独占市場が成立する問題も副次的にはありそう。
・ウクライナの反攻作戦はどうして失敗したのか、計画に生じた誤算と対立(航空万能論)
→ 攻勢ラインを3つに分けたことによる戦力分散,1年目で大量の死傷者を出したことによるベテラン兵の不足,反攻開始が4月から6月に遅れてロシア側に長い準備期間を与えたこと,西側による訓練がドローンの出現に追いついていなかったこと……とウクライナの失敗要因が多数並べられている。どれか一つでも違っていれば結果も違ったのだろうか。この反攻作戦の失敗から現在で約1年だが,ウクライナはこの失敗の痛手からまだ回復していない。
・ウクライナ「継戦も地獄、停戦も地獄」 小泉悠氏が読む戦況(日経ビジネス)
→ これも昨年末頃の記事だが,残念ながら状況はここからさして変わっていない(前線は悪化している)。前にも書いた気がするが,ウクライナが実質的な現在の国際秩序の最終防衛線になっている中で,西側諸国の他人事感が強すぎる。記事中にある通り,支援が小出しなので結果的に長期戦になり,支援額が膨大に積み上がっていくという間抜けな事態になっている。どこかで本腰を入れて一度の本格的な支援を出すべきであったが,2024年10月現在,すでにそれも手遅れになりつつあるかもしれない。一度に大きな支援を出すことを許さなかった欧米各国の世論を踏まえるに,後世にこれがロシアという独裁国家に対する民主主義の敗北という歴史的意義を与えられる可能性はある(ウクライナ自身は民主主義国として未成熟であるにせよ)。
・専門知と民主主義を考える――行き過ぎた相対主義の中でーー『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波書店)刊行記念イベントから
>歴史総合と言って、生徒一人一人に資料を見せて、自分の考えを言わせることが重視されるようになっているんです。そのことをちょっと危惧している面もあって。
→ あたりは大変に同意できる話で,専門家不在の高校の歴史の授業で生徒に一次史料(ないし準ずるもの)に触れさせるのは,あまりにも無邪気に行われているが,やはりかなり怖いと思う。史料は無邪気に読めるものではないからこそ歴史家が世の中には必要であるわけで,一般市民にも歴史学の方法論を学ばせるべきというのは,高校の現場にはそぐわず別の場でやってほしい。また,元記事で田野先生が生徒に史料を読ませるのを危惧しているように,高校生に史料を読ませるのは歴史家の間でも必ずしもコンセンサスがとれているわけではないことであるにもかかわらず,推進する側があたかも歴史家なら誰でもそれをやってほしいと思っているかのように考えて押し売りしてきた感が正直あるのも問題だと思う。少なくとも私はそういう風潮を感じていた。
>我々が「研究者はすごい」と言ったら、もうただの自画自賛で権威主義の権化みたいになるから、それを誰が言うかが、すごく難しい問題ではある。
→ と小野寺先生が述べているのはごもっともであるので,専門知の重要性を知っている我々市井の好事家・歴史好きが補助していってあげるべきなのだろうなとも最近は思う。だからこそ逆に専門家にはなるべく軽薄なミスはしないでほしいと言いますか,私怨で言うと大学入試問題をとちらずに作ってほしい……大げさでもなんでもなく,専門知の権威はそういうところから綻びが出ると思うので。実際に私はあの企画を十何年と続ける中で作問者の知性を疑わざるを得ない場面が幾度となくあって幻滅している面も無くはない。あと高校世界史の教科書の古くて現在の定説から離れてしまっている記述,サボらずに直してください。
2024年09月28日
貴景勝引退に寄せて
貴景勝は兵庫県芦屋市出身,芦屋ではトレーニングで坂道を後ろ向きで走っていたという奇行で目立っていたという。小学生時代はK-1のファンで,極真空手を習っていたが,判定で決着するのを嫌って相撲に転向した。突き押し相撲に徹したのは幼少期の経験ゆえだろうか。2014年に貴乃花部屋に入門,高校時代から活躍していたため,好角家の前評判は高く,その通りに出世していった。2016年五月場所に十両昇進,2017年初場所に新入幕と番付を駆け上がり,新入幕を契機に四股名を本名の佐藤から貴景勝に改名した。改名について,当時の私は「その四股名縁起が悪すぎないかという心配を勝手にしていた」と書き残している。正直に言えば今でも縁起が悪いなと思っている。どうせなら景虎で良かったような。
それから2018年頃まではエレベーター状態であったが,後述するように九月場所で独特の取り口に開眼して覚醒し,九州場所で小結で初優勝を飾った。22歳3ヶ月での優勝は年6場所制以降で史上8位(上は貴花田・大鵬・北の湖・白鵬・柏戸・朝青龍・若花田という錚々たる面々),初土俵から所要26場所は4位タイ(上に貴花田・朝青龍・照ノ富士,曙が同じ26場所)というスピード記録であった。この間に貴乃花が日本相撲協会を退職して貴乃花部屋が消滅し,千賀ノ浦部屋(現常盤山部屋)に移った。2019年初場所は大関取りがかかり,11勝しての計33勝と基準を満たしたものの,なんやかんや理由をつけられて見送られた。今考えてもこの2019年初場所の大関昇進見送りは不当で,まだ貴乃花騒動の残り火が燻っていたのではないかと邪推してしまう。とはいえ偉かったのは腐らなかった貴景勝で,次の2019年大阪場所で10勝し,計34勝で大関昇進を決めた。協会側にも不当に見送ってしまったという後悔があったのではないか。なお,この大阪場所の千秋楽の一番がカド番・7−7で来ていた栃ノ心との実質的な入れ替わり戦で,負けた栃ノ心は大関を陥落した。このような入れ替え戦は大相撲史上でこの一番が唯一である。大関昇進22歳7ヶ月は史上9位の年少記録,所要28場所も史上6位と非常に早い。
しかし,体格がそれほど大きいわけではなく,他の横綱・大関・三役常連の力士が四つ相撲ながら当たりも強いという中で,突き押し一辺倒でやっていくには身体に無理が生じた。大関に昇進した頃から大ケガが多発し,何度も力士生命が危ぶまれた。とりわけ2021年名古屋場所での首のケガが重く,この首のケガが3年後の引退の直接的な原因となった。なぜか綱取りのような場面で大ケガをすることが多く,貴景勝には不運と不屈のイメージがつきまとう。その中で在位30場所,小結時代のものを含めて優勝4度,年間最多勝1回(2020年)と,名大関として歴史に名を残す立派な成績を残した。28歳,まだまだ若く首のケガがなければ後5年はとれたと思われるし,綱取りの可能性も十分にあっただけに惜しまれる。
取り口は突き押し一辺倒であるが,回転よく突き続けるのでも,密着を気にせず押し込むでもなく,千代大海や千代大龍のようなぶちかまし&引き落としスタイルでもなく,低く突き起こしてから,いなして横を向かせ,これを何度も繰り返すことで相手を崩しきってから倒すという唯一無二の取り口であった。突きの威力はもちろんのことながら,いなしの威力が非常に強く,まともに食らうと横を向かないのは難しい。突きといなしが交互に飛んでくるので対応が難しく,独特の呼吸とリズムであるため相手はこれに付き合わざるを得ず,貴景勝のペースに飲まれて一方的に負けることになる。特に組むために密着しに来た相手に対するいなしが絶品で,組ませないための技術が高く,あれほど上手い左からのいなしは直近20年で見たことがない。幕内に入ってしばらくまでは突き続けて押し出す(突き出す)相撲であったが,2018年に徐々にこの取り口を身に着け,九月場所にて覚醒,九州場所の優勝につながった。以降は引退までこの取り口を磨き続けることになる。
突き押しの力士は成績が安定しない傾向があるが,大関時代の貴景勝はこの独特のスタイルゆえに例外的に安定した成績を残し,この点でも稀有な力士であった。動きが直線的でなく横の動きに強く,引き技を食うことが少なかったのも強みであろう。組んだら相撲にならないとは言われていて,実際に本人も大関に昇進した頃は四つ相撲も覚えないと綱取りは難しいのではという世間の声に対して「突き押し一本で横綱になりたい」と述べていた。しかし,大関に長く在位するうちに四つ相撲も磨かれていって,小手投げやすくい投げは意外と上手く,2023-24年はそれで拾った白星も多い。
とはいえ,立ち合いや突き押しの威力は横綱・大関として見るなら相対的に高かったとは言い難く,貴景勝の突き押しの威力はあくまでいなしが挟まることを前提とした強さであった。立ち合いや突きの強烈な一撃で崩すタイプにはなりたくてもなれなかったのだろう。逆に言えば,得意のいなしはある程度の突き押しの威力があってこそで,さりながら体調が悪かったりケガがあったりすると途端に突き押しの威力が落ちてしまうところがあって,全く突けずに相撲にならない負け方が目立った。特に引退直前の時期は組まれて負けるというより,四つ相撲の力士相手に離れたまま取って負ける場面が目立った。
これからの幕内で,あの独特のリズムから繰り出される突きといなしが見られないかと思うと寂しい。突き押しの名手と呼ばれるような後継者を育ててほしい。お疲れ様でした。
それから2018年頃まではエレベーター状態であったが,後述するように九月場所で独特の取り口に開眼して覚醒し,九州場所で小結で初優勝を飾った。22歳3ヶ月での優勝は年6場所制以降で史上8位(上は貴花田・大鵬・北の湖・白鵬・柏戸・朝青龍・若花田という錚々たる面々),初土俵から所要26場所は4位タイ(上に貴花田・朝青龍・照ノ富士,曙が同じ26場所)というスピード記録であった。この間に貴乃花が日本相撲協会を退職して貴乃花部屋が消滅し,千賀ノ浦部屋(現常盤山部屋)に移った。2019年初場所は大関取りがかかり,11勝しての計33勝と基準を満たしたものの,なんやかんや理由をつけられて見送られた。今考えてもこの2019年初場所の大関昇進見送りは不当で,まだ貴乃花騒動の残り火が燻っていたのではないかと邪推してしまう。とはいえ偉かったのは腐らなかった貴景勝で,次の2019年大阪場所で10勝し,計34勝で大関昇進を決めた。協会側にも不当に見送ってしまったという後悔があったのではないか。なお,この大阪場所の千秋楽の一番がカド番・7−7で来ていた栃ノ心との実質的な入れ替わり戦で,負けた栃ノ心は大関を陥落した。このような入れ替え戦は大相撲史上でこの一番が唯一である。大関昇進22歳7ヶ月は史上9位の年少記録,所要28場所も史上6位と非常に早い。
しかし,体格がそれほど大きいわけではなく,他の横綱・大関・三役常連の力士が四つ相撲ながら当たりも強いという中で,突き押し一辺倒でやっていくには身体に無理が生じた。大関に昇進した頃から大ケガが多発し,何度も力士生命が危ぶまれた。とりわけ2021年名古屋場所での首のケガが重く,この首のケガが3年後の引退の直接的な原因となった。なぜか綱取りのような場面で大ケガをすることが多く,貴景勝には不運と不屈のイメージがつきまとう。その中で在位30場所,小結時代のものを含めて優勝4度,年間最多勝1回(2020年)と,名大関として歴史に名を残す立派な成績を残した。28歳,まだまだ若く首のケガがなければ後5年はとれたと思われるし,綱取りの可能性も十分にあっただけに惜しまれる。
取り口は突き押し一辺倒であるが,回転よく突き続けるのでも,密着を気にせず押し込むでもなく,千代大海や千代大龍のようなぶちかまし&引き落としスタイルでもなく,低く突き起こしてから,いなして横を向かせ,これを何度も繰り返すことで相手を崩しきってから倒すという唯一無二の取り口であった。突きの威力はもちろんのことながら,いなしの威力が非常に強く,まともに食らうと横を向かないのは難しい。突きといなしが交互に飛んでくるので対応が難しく,独特の呼吸とリズムであるため相手はこれに付き合わざるを得ず,貴景勝のペースに飲まれて一方的に負けることになる。特に組むために密着しに来た相手に対するいなしが絶品で,組ませないための技術が高く,あれほど上手い左からのいなしは直近20年で見たことがない。幕内に入ってしばらくまでは突き続けて押し出す(突き出す)相撲であったが,2018年に徐々にこの取り口を身に着け,九月場所にて覚醒,九州場所の優勝につながった。以降は引退までこの取り口を磨き続けることになる。
突き押しの力士は成績が安定しない傾向があるが,大関時代の貴景勝はこの独特のスタイルゆえに例外的に安定した成績を残し,この点でも稀有な力士であった。動きが直線的でなく横の動きに強く,引き技を食うことが少なかったのも強みであろう。組んだら相撲にならないとは言われていて,実際に本人も大関に昇進した頃は四つ相撲も覚えないと綱取りは難しいのではという世間の声に対して「突き押し一本で横綱になりたい」と述べていた。しかし,大関に長く在位するうちに四つ相撲も磨かれていって,小手投げやすくい投げは意外と上手く,2023-24年はそれで拾った白星も多い。
とはいえ,立ち合いや突き押しの威力は横綱・大関として見るなら相対的に高かったとは言い難く,貴景勝の突き押しの威力はあくまでいなしが挟まることを前提とした強さであった。立ち合いや突きの強烈な一撃で崩すタイプにはなりたくてもなれなかったのだろう。逆に言えば,得意のいなしはある程度の突き押しの威力があってこそで,さりながら体調が悪かったりケガがあったりすると途端に突き押しの威力が落ちてしまうところがあって,全く突けずに相撲にならない負け方が目立った。特に引退直前の時期は組まれて負けるというより,四つ相撲の力士相手に離れたまま取って負ける場面が目立った。
これからの幕内で,あの独特のリズムから繰り出される突きといなしが見られないかと思うと寂しい。突き押しの名手と呼ばれるような後継者を育ててほしい。お疲れ様でした。
2024年09月24日
大銀杏を結えない大関の誕生劇
とある方がTwitterで書いていたが,稀勢の里の引退の翌場所に貴景勝が大関昇進を決め,貴景勝が引退した場所に大の里が優勝して大関昇進を決めた。運命的である。貴景勝が引退した件は明らかに長くなるので別記事に書く。大の里の昇進と優勝は記録ラッシュで,初土俵から所要9場所で大関昇進となり,もちろん史上最速。幕下十五枚目付出格が廃止されたので,現行制度が続くようなら更新が極めて難しい記録になる。負け越し無しでの大関昇進は6場所制以降で史上初。意外なところでは小結・関脇で各1回の優勝が史上初のようだ。
大の里は12勝・9勝の計21勝であったから12勝必要とされ,先場所が9勝であったからある程度は不安視されていたが,それを覆す13勝である。先々場所までは立ち合いで強く当たって押すか右四つで攻め込む相撲で白星を量産していたところ,左腕の使い方に問題があるために,立ち合いの威力をなんとか削いだ後は右から攻めれば上位陣には攻略できてしまうという弱点を突かれ,場所のうちにそれなりに修正したものの,9勝にとどまった。今場所は見事にその弱点を修正し,立ち合いで当たれなかったら左からおっつけるという工夫が見られ,割りとなすすべが無くなった。優勝インタビューで師匠の胸を借りたと言っていたが,とすると相撲界ではけっこう珍しい直接的な技能の伝授かもしれない。その優勝インタビューは2回目にして落ち着いていて,相撲ぶりを見ていてもメンタルも強い。稀勢の里の弟子とは思えない。
大の里が今場所負けた2つは,おっつけの威力で上回った若隆景と,往年の千代大海スペシャルを見せた阿炎だけである。千代大海スペシャル,いわゆる立ち合いからうわづっぱりで突き込んで,突き倒さずに相手の足だけ止め,十分に間合いをとったら機敏に引き落とす(突き落とす)技は,意外と今後の大の里攻略の鍵になるかもしれない。大の里は押し相撲には強いが,突きが得意というわけではないし,相撲勘は良いが隙が無いわけではない。とはいえ,照ノ富士が戻ってこないならば来場所も優勝争いの中心は大の里になるはずで,これに先輩大関二人と霧島がついていく形になるか。大の里がすぐに綱取りになる可能性は高いものの,そろそろ琴櫻の優勝を見たい。
個別評。大関陣。豊昇龍はたまにこういうボタンの掛け違いのような相撲勘の狂いが生じて勝てなくなる場所がある。後半戦は根性の投げ技で勝ち越しをもぎ取ったが,ケガを誘発しかねないので見ていて怖い。大関昇進前からそうだが,突然調子を落とす頻度が少し多いように思われ,相撲ぶりが意外と繊細なのかもしれない。琴櫻は調子の割りに8勝終戦で,攻めに転じると脆い。五月場所の評にも書いたが,やはり周囲になんと言われようとも受け相撲でよいのでは。
関脇・小結。優勝した大の里は上述の通り。阿炎は周りの好調に押しつぶされた感じだが,豊昇龍と大の里に勝って目立ってはいた。霧島は完全復調の12勝で,根拠はないが来場所も調子が持続しそう。再大関は近いのではないか。大栄翔は可も不可もなく。平戸海は残念ながら7勝で負け越しだが,阿炎同様に持ち前の技能は見せて存在感はあった。あまり番付も下がらないだろうから,来場所も調子良く前まわしをねらってがんばってほしい。
前頭上位陣。隆の勝はなぜか連日激しい相撲が多く,見ている方は楽しかったが,当人は疲弊していったに違いない。4勝に終わったのは少しかわいそうである。翔猿も変わらぬ曲芸相撲で面白い取組が多かったものの,上位陣にはやや慣れられてきている感じはした。それでもまだまだ上位で見たい力士だ。熱海富士は3場所連続で7勝の負け越しとのことであるから,安定はしている。今場所もやや鈍重で横に動かれると弱いところが突かれていた。王鵬はしれっと9勝していた。少し前までは上位では家賃が重い様子であったが,押し相撲だけでなく四つ相撲もとれるようになっていて,四つに組んでも右四つならすぐには負けなくなったのが大きい。御嶽海は久々の上位挑戦となったが返り討ちとなった。大関在位時や優勝時の馬力が無い。逆に調子が良かったのが正代と若元春で,正代は「のけぞって耐える」独特の相撲が戻ってきた。若元春も足腰の強さ,左四つで寄る力が戻ってきており,来場所も期待できる。若隆景とともに活躍してほしい。
前頭中盤。何と言っても若隆景の12勝である。大関取りをうかがっていた頃に完全に戻っていて,とにかく両側からのおっつけが強く,大の里にも通用していた。霧島の次はやはりこの人かもしれない。10勝した美ノ海も良かった。二場所連続で10勝をあげ,四つでも離れても上手く相撲をとっているのに技能賞にならないのはなぜなのか,理解に苦しむ。来場所は上位挑戦となるが,平戸海との前まわし取り対決が気になる。欧勝馬も10勝しているが,あまり記憶がない。玉鷲は連続出場記録がとうとう史上1位となった。相撲ぶりを見るとさすがに衰えてきているが,衰えがあまりにも緩やかなので,まだまだ前頭中盤では取れそうである。2026年の九月場所で幕内で相撲をとっていても驚かない。幕内連続出場回数や単純な出場回数の記録更新もねらってほしい。
前頭下位。錦木・高安・宝富士が大勝しているが上りエレベーターだろう。高安は終盤3連敗していて,優勝争いで体が固くなったかと思われたが,どうも膝か腰かを故障したようだった。まずは治療ということになると,来場所は苦しいかもしれない。新入幕は二人とも負け越しとなった。阿武剋は4−8で負け越して全然ダメかと思われたが,最後3日間に3連勝して7−8まで戻し,どうやら十両への陥落は避けられそうである。勝ち越しへのプレッシャーで弱かったのかもしれない。右四つになれば十分相撲になり,幕内下位ではとれそうであった。白熊の方はまだ家賃が高そうであった。
妙義龍が引退した。前傾姿勢のまま当たってすっと右四つかもろ差しとなり形をつくる動きが素早くかつ美しく,体格の割りには右四つの本格派という呼び声が高かった。前傾姿勢で当たると当たりが強かったので,そのまま押して勝負を決めてしまうことも多かった。三賞は技能賞6度と際立っている。2012年からケガによる休場での十両陥落を挟みつつ2023年まで11年間にわたり幕内に在位し,長く活躍した。本格派の四つ相撲であることに加えて大卒であったため,当初からベテランの風格が漂っていたが,実際にベテランと呼ばれる年齢まで円熟味を増しながら幕内に残り続けたのは,容姿に実態が追いついたという感があった。一方で腰が軽いところがあり,上位では途端に脆くなって守勢に回ると弱かった。また寄り一辺倒で投げ技を打たない単調さもあり,幕内上位に定着というわけにはいかず,大関候補まであと一歩という辺りでとどまった。体脂肪率が22%と関取としては低く,小兵というわけではないから筋肉質だったのだろう。その縁でサントリーのCMに出たことでも有名である。
碧山が引退した。ブルガリア出身で,巨漢らしい巨漢である。「丸太のように太い腕」としばしば賞賛され,実際に突き押しが強く,回転は遅いが一発が重かった。こちらも押し相撲の力士にしては(エレベーターながら)成績が安定しており,上位挑戦しては跳ね返され,下位では大勝しを繰り返して,2012年から幕内に定着し,十両に落ちたのは1回だけで,2023年九月場所まで幕内に在位し続けた。太い腕から繰り出されるはたきもまた強力であったが,不用意に引く悪癖があり,その割りにケガが少なかったのは身体の頑強さ故か。また巨漢であるが故に鈍重で四つになると相撲にならなかった。これだけ欠点があって10年以上も幕内に在位した辺り,やはり突きの威力がそれだけ強かった証であろう。ご両名とも,お疲れ様でした。
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大の里は12勝・9勝の計21勝であったから12勝必要とされ,先場所が9勝であったからある程度は不安視されていたが,それを覆す13勝である。先々場所までは立ち合いで強く当たって押すか右四つで攻め込む相撲で白星を量産していたところ,左腕の使い方に問題があるために,立ち合いの威力をなんとか削いだ後は右から攻めれば上位陣には攻略できてしまうという弱点を突かれ,場所のうちにそれなりに修正したものの,9勝にとどまった。今場所は見事にその弱点を修正し,立ち合いで当たれなかったら左からおっつけるという工夫が見られ,割りとなすすべが無くなった。優勝インタビューで師匠の胸を借りたと言っていたが,とすると相撲界ではけっこう珍しい直接的な技能の伝授かもしれない。その優勝インタビューは2回目にして落ち着いていて,相撲ぶりを見ていてもメンタルも強い。
大の里が今場所負けた2つは,おっつけの威力で上回った若隆景と,往年の千代大海スペシャルを見せた阿炎だけである。千代大海スペシャル,いわゆる立ち合いからうわづっぱりで突き込んで,突き倒さずに相手の足だけ止め,十分に間合いをとったら機敏に引き落とす(突き落とす)技は,意外と今後の大の里攻略の鍵になるかもしれない。大の里は押し相撲には強いが,突きが得意というわけではないし,相撲勘は良いが隙が無いわけではない。とはいえ,照ノ富士が戻ってこないならば来場所も優勝争いの中心は大の里になるはずで,これに先輩大関二人と霧島がついていく形になるか。大の里がすぐに綱取りになる可能性は高いものの,そろそろ琴櫻の優勝を見たい。
個別評。大関陣。豊昇龍はたまにこういうボタンの掛け違いのような相撲勘の狂いが生じて勝てなくなる場所がある。後半戦は根性の投げ技で勝ち越しをもぎ取ったが,ケガを誘発しかねないので見ていて怖い。大関昇進前からそうだが,突然調子を落とす頻度が少し多いように思われ,相撲ぶりが意外と繊細なのかもしれない。琴櫻は調子の割りに8勝終戦で,攻めに転じると脆い。五月場所の評にも書いたが,やはり周囲になんと言われようとも受け相撲でよいのでは。
関脇・小結。優勝した大の里は上述の通り。阿炎は周りの好調に押しつぶされた感じだが,豊昇龍と大の里に勝って目立ってはいた。霧島は完全復調の12勝で,根拠はないが来場所も調子が持続しそう。再大関は近いのではないか。大栄翔は可も不可もなく。平戸海は残念ながら7勝で負け越しだが,阿炎同様に持ち前の技能は見せて存在感はあった。あまり番付も下がらないだろうから,来場所も調子良く前まわしをねらってがんばってほしい。
前頭上位陣。隆の勝はなぜか連日激しい相撲が多く,見ている方は楽しかったが,当人は疲弊していったに違いない。4勝に終わったのは少しかわいそうである。翔猿も変わらぬ曲芸相撲で面白い取組が多かったものの,上位陣にはやや慣れられてきている感じはした。それでもまだまだ上位で見たい力士だ。熱海富士は3場所連続で7勝の負け越しとのことであるから,安定はしている。今場所もやや鈍重で横に動かれると弱いところが突かれていた。王鵬はしれっと9勝していた。少し前までは上位では家賃が重い様子であったが,押し相撲だけでなく四つ相撲もとれるようになっていて,四つに組んでも右四つならすぐには負けなくなったのが大きい。御嶽海は久々の上位挑戦となったが返り討ちとなった。大関在位時や優勝時の馬力が無い。逆に調子が良かったのが正代と若元春で,正代は「のけぞって耐える」独特の相撲が戻ってきた。若元春も足腰の強さ,左四つで寄る力が戻ってきており,来場所も期待できる。若隆景とともに活躍してほしい。
前頭中盤。何と言っても若隆景の12勝である。大関取りをうかがっていた頃に完全に戻っていて,とにかく両側からのおっつけが強く,大の里にも通用していた。霧島の次はやはりこの人かもしれない。10勝した美ノ海も良かった。二場所連続で10勝をあげ,四つでも離れても上手く相撲をとっているのに技能賞にならないのはなぜなのか,理解に苦しむ。来場所は上位挑戦となるが,平戸海との前まわし取り対決が気になる。欧勝馬も10勝しているが,あまり記憶がない。玉鷲は連続出場記録がとうとう史上1位となった。相撲ぶりを見るとさすがに衰えてきているが,衰えがあまりにも緩やかなので,まだまだ前頭中盤では取れそうである。2026年の九月場所で幕内で相撲をとっていても驚かない。幕内連続出場回数や単純な出場回数の記録更新もねらってほしい。
前頭下位。錦木・高安・宝富士が大勝しているが上りエレベーターだろう。高安は終盤3連敗していて,優勝争いで体が固くなったかと思われたが,どうも膝か腰かを故障したようだった。まずは治療ということになると,来場所は苦しいかもしれない。新入幕は二人とも負け越しとなった。阿武剋は4−8で負け越して全然ダメかと思われたが,最後3日間に3連勝して7−8まで戻し,どうやら十両への陥落は避けられそうである。勝ち越しへのプレッシャーで弱かったのかもしれない。右四つになれば十分相撲になり,幕内下位ではとれそうであった。白熊の方はまだ家賃が高そうであった。
妙義龍が引退した。前傾姿勢のまま当たってすっと右四つかもろ差しとなり形をつくる動きが素早くかつ美しく,体格の割りには右四つの本格派という呼び声が高かった。前傾姿勢で当たると当たりが強かったので,そのまま押して勝負を決めてしまうことも多かった。三賞は技能賞6度と際立っている。2012年からケガによる休場での十両陥落を挟みつつ2023年まで11年間にわたり幕内に在位し,長く活躍した。本格派の四つ相撲であることに加えて大卒であったため,当初からベテランの風格が漂っていたが,実際にベテランと呼ばれる年齢まで円熟味を増しながら幕内に残り続けたのは,容姿に実態が追いついたという感があった。一方で腰が軽いところがあり,上位では途端に脆くなって守勢に回ると弱かった。また寄り一辺倒で投げ技を打たない単調さもあり,幕内上位に定着というわけにはいかず,大関候補まであと一歩という辺りでとどまった。体脂肪率が22%と関取としては低く,小兵というわけではないから筋肉質だったのだろう。その縁でサントリーのCMに出たことでも有名である。
碧山が引退した。ブルガリア出身で,巨漢らしい巨漢である。「丸太のように太い腕」としばしば賞賛され,実際に突き押しが強く,回転は遅いが一発が重かった。こちらも押し相撲の力士にしては(エレベーターながら)成績が安定しており,上位挑戦しては跳ね返され,下位では大勝しを繰り返して,2012年から幕内に定着し,十両に落ちたのは1回だけで,2023年九月場所まで幕内に在位し続けた。太い腕から繰り出されるはたきもまた強力であったが,不用意に引く悪癖があり,その割りにケガが少なかったのは身体の頑強さ故か。また巨漢であるが故に鈍重で四つになると相撲にならなかった。これだけ欠点があって10年以上も幕内に在位した辺り,やはり突きの威力がそれだけ強かった証であろう。ご両名とも,お疲れ様でした。
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2024年09月17日
ニコ動・YouTubeの動画紹介 2024.8月上旬〜2024.8月下旬
ニコニコ動画復活。
8番出口の続編。やはり本家はホラーのテイストが絶妙で面白い。
全六空シリーズ。道頓堀回はコメントで「こち亀っぽい」と何度か言われていて,確かに。コンコルド回,トーイングカーをバグらせていてめちゃくちゃ笑った。MSFSでもこういうバグあるんだなぁ。パールハーバー見学は,投稿日的に終戦記念日に合わせたか。台風回は,台風に他のプレイヤーの飛行機もわらわらと集まっていて,まあ皆そうするよなぁとw
一見すると今まで見つかってなかったのが不思議なバグだが,よく考えてみるとこういう状況になるのは少ないか。
おやつ氏。前はサブフレームリセットでやっていたバグを,リマスター版特有のタップバグで起こすRTA。不思議な爽快感がある。
大体予想通りだったけど,金4枚VS銀4枚が思っていたよりも大差で驚いた。可動域が1マス違うと違う結果になるもんだなぁ。
8番出口の続編。やはり本家はホラーのテイストが絶妙で面白い。
全六空シリーズ。道頓堀回はコメントで「こち亀っぽい」と何度か言われていて,確かに。コンコルド回,トーイングカーをバグらせていてめちゃくちゃ笑った。MSFSでもこういうバグあるんだなぁ。パールハーバー見学は,投稿日的に終戦記念日に合わせたか。台風回は,台風に他のプレイヤーの飛行機もわらわらと集まっていて,まあ皆そうするよなぁとw
一見すると今まで見つかってなかったのが不思議なバグだが,よく考えてみるとこういう状況になるのは少ないか。
おやつ氏。前はサブフレームリセットでやっていたバグを,リマスター版特有のタップバグで起こすRTA。不思議な爽快感がある。
大体予想通りだったけど,金4枚VS銀4枚が思っていたよりも大差で驚いた。可動域が1マス違うと違う結果になるもんだなぁ。
2024年09月15日
書評:『唐』(森部豊著,中公新書)
・『唐』(森部豊著,中公新書,2023年)
中公新書の拓跋国家シリーズの最後。2010年以降の中公新書にはその他に『殷』『周』『漢帝国』『三国志』もあるから,春秋戦国時代・秦が出てくれれば唐宋変革前は概ねコンプリートになる。ぜひとも企画してほしい。
閑話休題。唐は南北朝時代の諸王朝や隋に比べると300年近く続いた長い王朝であり,その中で様々な変化が起きている。王朝交代による変化ではなく,王朝の中での変化を描いた点で,本書は前二書と大きく様相が異なっている。とりわけ拓跋国家としてスタートした唐が次第に漢民族の国家に変容していく様子は唐代の醍醐味であろう。本書はまえがきで「それを「漢化」という,中国人中心主義のような,ありきたりな言葉でくくるのはどうかと思う」と牽制しつつも,拓跋国家の経験を踏まえた漢民族が,古代の漢とは異なる漢民族王朝をつくっていった様子が丹念に描かれている。
初唐の拓跋国家性については,李淵や初期の首脳陣が鮮卑語に堪能だったという点からも明白である。李淵が生まれたのが566年頃,西魏の滅亡が556年であるから,李淵の誕生時すでに拓跋氏の国家は存在していない。どころか李淵の妻は匈奴に連なる人物だったようで,遊牧国家が滅んだからといってそれを構成していた部族の血が絶えたとは限らないのは当然なのであるが,それにしても命脈の保ち方がしぶとい。さらに東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建てたのは『隋』の書評で書いた通りで,遊牧民とのつながりが非常に強い。しかし,ここで本書が特徴的なのは,唐が建国当初からソグド人と強い提携関係にあったことを指摘している点だ。李淵の本拠地の太原には大きなソグド人のコロニーがあり,商業上の都合から強い統一王朝を求めていた彼らは,李淵に兵士を供出したのみならず,商業ネットワークを用いて李淵を強く支援した。また東突厥との和議の突厥側の使者を務めたのもソグド人なら,なんと玄武門の変の際の李世民の直臣にもソグド人がいる。こうした指摘は新しい。唐代のソグド人を専門とする著者らしい指摘といえる。
李世民から高宗に続く最盛期の後,東突厥が復活して唐はその対処に苦慮することになる。この頃,オルドス地方にいたソグド人が騎馬遊牧民化しており,歴史家は彼らを「ソグド系突厥」と呼ぶ。このソグド系突厥から登場したのが,かの安禄山である。本書はここで安史の乱に言及する前に,玄宗代に生じた諸制度の変化に言及していて,そのため『隋』と同様に均田制・租調庸(租調役)制・府兵制に関する世間の誤解について丁寧に説明しているから,興味がある人はぜひ読んでほしい。玄宗代の制度変化,特に府兵制から募兵制へ,「役」から「庸」への変化についても,本書は律令国家から「財政国家」への転換とまとめており,面白い。中世後半の西欧の荘園でも賦役が貢納に変えられていったように,タダ働きは非効率的なのである。「役」から「庸」への変化は,逃戸が多すぎて大運河の漕運に支障をきたしたのが直接的な原因であるから,長い目で見れば隋代からの負債をここで解消したとも言えそうである。財政国家化は安史の乱後,塩の専売と両税法によって完成する。
玄宗代の後期の744年,東突厥がウイグルに敗れて崩壊すると,その遺民が大量に河北に流入し,ソグド系突厥に合流した。彼らを糾合したのが節度使の安禄山その人である(安禄山の母は突厥の名家出身であった)。ここに安史の乱の下地が完成する。ウイグル帝国の成立と安史の乱は直結した現象だったのだ。本書は,安史の乱は「乱」というよりも突厥帝国の復興・独立運動だったのではないかと指摘しており,これも説得力がある。この観点に立つなら,安史の乱後に自立した藩鎮の河朔三鎮は安史の乱の残党であり,目的は半ば達成されている。
安史の乱の後の唐は宦官の跋扈,藩鎮の乱立,吐蕃の侵攻に苦しめられる。8世紀末,唐が強大化する吐蕃対策として,アッバース朝との同盟を構想していたのは知らなかったので驚いた(使者が派遣されたのは確かだが交渉が実行されたかは明らかではないそうだ)。安史の乱後も唐は意外と長く生き延びるが,唐の政府が藩鎮をある程度コントロールできていたためである。これが完全に崩壊して藩鎮の独立を止められなくなったのが黄巣の乱であるが,その黄巣の乱の鎮圧で台頭したのが突厥沙陀の李克用であった。突厥沙陀は西突厥にいた部族で,西突厥の滅亡後は唐と吐蕃の間を渡り歩き,唐の支配下でオルドスに移住した。李克用は黄巣の乱に乗じて突厥沙陀に加え,ソグド系突厥も糾合し,根拠地を太原に置いた。そう,唐の創業の地である。李克用自身は王朝を建てられなかったが,跡を継いだ突厥沙陀の人々が河朔三鎮の勢力も吸収し,五代十国の時代の主役になっていく。唐もまた隋と同様に,始まりから終わりまで突厥が並走し続けた。あえて付け加えるなら,そこにソグド人も加わっていたことが隋との違いなのだろう。本書はここで終わっているが,河北や山西が漢民族と遊牧民が入り混じる重要な農牧接壌地帯であったのは明代永楽帝の頃まで続く。
なお,唐を滅ぼした直接の張本人,朱全忠は汴州(開封)を押さえて大運河の利益により勢力を築いたと説明されるが,本書によると,唐末の大運河は浚渫が滞っていて機能不全だったらしい。別のいくつかの理由により河南を押さえた利益が大きかったようであるが,本書の記述もあまりしっくり来ない。
中公新書の拓跋国家シリーズの最後。2010年以降の中公新書にはその他に『殷』『周』『漢帝国』『三国志』もあるから,春秋戦国時代・秦が出てくれれば唐宋変革前は概ねコンプリートになる。ぜひとも企画してほしい。
閑話休題。唐は南北朝時代の諸王朝や隋に比べると300年近く続いた長い王朝であり,その中で様々な変化が起きている。王朝交代による変化ではなく,王朝の中での変化を描いた点で,本書は前二書と大きく様相が異なっている。とりわけ拓跋国家としてスタートした唐が次第に漢民族の国家に変容していく様子は唐代の醍醐味であろう。本書はまえがきで「それを「漢化」という,中国人中心主義のような,ありきたりな言葉でくくるのはどうかと思う」と牽制しつつも,拓跋国家の経験を踏まえた漢民族が,古代の漢とは異なる漢民族王朝をつくっていった様子が丹念に描かれている。
初唐の拓跋国家性については,李淵や初期の首脳陣が鮮卑語に堪能だったという点からも明白である。李淵が生まれたのが566年頃,西魏の滅亡が556年であるから,李淵の誕生時すでに拓跋氏の国家は存在していない。どころか李淵の妻は匈奴に連なる人物だったようで,遊牧国家が滅んだからといってそれを構成していた部族の血が絶えたとは限らないのは当然なのであるが,それにしても命脈の保ち方がしぶとい。さらに東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建てたのは『隋』の書評で書いた通りで,遊牧民とのつながりが非常に強い。しかし,ここで本書が特徴的なのは,唐が建国当初からソグド人と強い提携関係にあったことを指摘している点だ。李淵の本拠地の太原には大きなソグド人のコロニーがあり,商業上の都合から強い統一王朝を求めていた彼らは,李淵に兵士を供出したのみならず,商業ネットワークを用いて李淵を強く支援した。また東突厥との和議の突厥側の使者を務めたのもソグド人なら,なんと玄武門の変の際の李世民の直臣にもソグド人がいる。こうした指摘は新しい。唐代のソグド人を専門とする著者らしい指摘といえる。
李世民から高宗に続く最盛期の後,東突厥が復活して唐はその対処に苦慮することになる。この頃,オルドス地方にいたソグド人が騎馬遊牧民化しており,歴史家は彼らを「ソグド系突厥」と呼ぶ。このソグド系突厥から登場したのが,かの安禄山である。本書はここで安史の乱に言及する前に,玄宗代に生じた諸制度の変化に言及していて,そのため『隋』と同様に均田制・租調庸(租調役)制・府兵制に関する世間の誤解について丁寧に説明しているから,興味がある人はぜひ読んでほしい。玄宗代の制度変化,特に府兵制から募兵制へ,「役」から「庸」への変化についても,本書は律令国家から「財政国家」への転換とまとめており,面白い。中世後半の西欧の荘園でも賦役が貢納に変えられていったように,タダ働きは非効率的なのである。「役」から「庸」への変化は,逃戸が多すぎて大運河の漕運に支障をきたしたのが直接的な原因であるから,長い目で見れば隋代からの負債をここで解消したとも言えそうである。財政国家化は安史の乱後,塩の専売と両税法によって完成する。
玄宗代の後期の744年,東突厥がウイグルに敗れて崩壊すると,その遺民が大量に河北に流入し,ソグド系突厥に合流した。彼らを糾合したのが節度使の安禄山その人である(安禄山の母は突厥の名家出身であった)。ここに安史の乱の下地が完成する。ウイグル帝国の成立と安史の乱は直結した現象だったのだ。本書は,安史の乱は「乱」というよりも突厥帝国の復興・独立運動だったのではないかと指摘しており,これも説得力がある。この観点に立つなら,安史の乱後に自立した藩鎮の河朔三鎮は安史の乱の残党であり,目的は半ば達成されている。
安史の乱の後の唐は宦官の跋扈,藩鎮の乱立,吐蕃の侵攻に苦しめられる。8世紀末,唐が強大化する吐蕃対策として,アッバース朝との同盟を構想していたのは知らなかったので驚いた(使者が派遣されたのは確かだが交渉が実行されたかは明らかではないそうだ)。安史の乱後も唐は意外と長く生き延びるが,唐の政府が藩鎮をある程度コントロールできていたためである。これが完全に崩壊して藩鎮の独立を止められなくなったのが黄巣の乱であるが,その黄巣の乱の鎮圧で台頭したのが突厥沙陀の李克用であった。突厥沙陀は西突厥にいた部族で,西突厥の滅亡後は唐と吐蕃の間を渡り歩き,唐の支配下でオルドスに移住した。李克用は黄巣の乱に乗じて突厥沙陀に加え,ソグド系突厥も糾合し,根拠地を太原に置いた。そう,唐の創業の地である。李克用自身は王朝を建てられなかったが,跡を継いだ突厥沙陀の人々が河朔三鎮の勢力も吸収し,五代十国の時代の主役になっていく。唐もまた隋と同様に,始まりから終わりまで突厥が並走し続けた。あえて付け加えるなら,そこにソグド人も加わっていたことが隋との違いなのだろう。本書はここで終わっているが,河北や山西が漢民族と遊牧民が入り混じる重要な農牧接壌地帯であったのは明代永楽帝の頃まで続く。
なお,唐を滅ぼした直接の張本人,朱全忠は汴州(開封)を押さえて大運河の利益により勢力を築いたと説明されるが,本書によると,唐末の大運河は浚渫が滞っていて機能不全だったらしい。別のいくつかの理由により河南を押さえた利益が大きかったようであるが,本書の記述もあまりしっくり来ない。
2024年09月14日
書評:『南北朝時代』『隋』(中公新書)
・『南北朝時代』(会田大輔,中公新書,2021年)
中国の南北朝時代の概説書。講談社選書メチエの『中華を生んだ遊牧民』との違いは,あちらは鮮卑に焦点を当てつつ後漢代から北魏までの華北を扱っているのに対し,こちらは時代が南北朝時代のみで短い代わりに南朝も扱っている。北魏についての話題は似通っているが,当然あちらの方が濃い。両方読むのを勧める。北魏については主張が違うところもある。あちらの本では,魏の国号を採用し土徳をを採用したことについて,北魏が三国魏を継承する形をとったためと説明していたが,こちらは鮮卑は三国魏をも否定していて,火徳の後漢の後継王朝であることを示すため土徳の魏としたという説を採っている。
かたや南朝宋は東晋の時代にあった再統一への野望が薄れ,江南を本拠地とする諦めに沿った改革が進んでいく様子が描写される。西晋の滅亡によって伝統が失われたため,宮中祭祀等で”それっぽい新たな伝統”の創出が必要とされた。そう聞くと近代に各地でナショナリズムのために新たな伝統が創出されたことに重なるようだが,そうでもしないと漢民族王朝としてのアイデンティティが保てなかったのだから,話としては近いのかもしれない。この南朝宋で生まれた”それっぽい新たな伝統”が隋唐に継承され,新たな中華王朝のスタンダードになっていく。また,北朝の悩みが遊牧民と漢民族の統合であったのに対し(六鎮の乱により頓挫した),南朝の悩みは門閥貴族層の存在であった。寒門出身者を積極的に登用することで中央集権化を図ることはできたものの,最終的に強固な身分制度を打破することがかなわないまま南朝自体が滅亡してしまった。北朝にも門閥貴族は存在し,この問題の解決は隋唐に委ねられることになる。
ちょっと面白かったのは,南北朝ともに自国が正統な王朝と主張すべく文化に力を入れており,外交使節を通じて互いの水準を測っていた。筆者によると南北朝の使節たちによる討論では,儒学は北朝が優れ,仏教は互角,玄学・文学は南朝が優位であったとのこと。必ずしも全て南朝が優位だったわけではない。特に儒学が北朝優位であったのは驚きである。
・『隋』(平田陽一郎著,中公新書,2023年)
副題「『流星王朝』の光芒」。40年足らずで滅亡したにしては中国史へのインパクトが大きいから,流星の名はふさわしい。本書はその40年足らずに加えて西魏・北周も扱っているからもう少し長いが,『南北朝時代』や『唐』に比べれると短いことには違いない。その分,記述は濃密であった。
華北を二分していた北斉と北周は,互いに北方で大勢力を築いていた突厥との連携を試みる。突厥としては北斉と北周が半永久的に争っていてくれれば懐柔のため貢物が山程届くため,両者のパワーバランスを見ながら介入すればよかったのである。しかし,北斉は暗君と権臣により国勢が傾く一方,北周は名君武帝を輩出し,突厥が介入する隙を与えず一気に北斉を滅ぼしてしまった。ところが武帝が夭折し,後継者も夭折して北周に幼君が立つ。そこで乾坤一擲の賭けを打ち,簒奪を成功させたのが外戚の楊堅であった。もちろん楊堅自身に野望があったことが前提であるが,このまま北周宮廷の混乱を放置すれば突厥の侵略を受けて華北が五胡の時代まで逆戻りしてしまう。本書では簒奪劇自体に公主降嫁を伴う対突厥外交が深くかかわっていることが詳述されており,北周宮廷の激しい権力争いもあいまって,楊堅の賭けがいかに危険な綱渡りだったかがわかる。周隋交代は単なる宮廷クーデタでは無かった。
このため即位した楊堅が注力したのも突厥対策である。楊堅が簒奪劇で突厥の可汗から恨みを買っていたことに加え,突厥の可汗も北斉・北周からの貢物を威信財として諸部族に分配していたのに隋がこれを停止したため,両国ともに開戦の気運が高まっていた。隋は建国早々に全面戦争を余儀なくされたが,これをモンゴル高原での自然災害による突厥の自滅という幸運で乗り切ったのだから,楊堅という人物の豪運は続く。さらに楊堅は離間策を用いて突厥を東西に分裂させ,東突厥を服属させた。北方の憂いを除いた楊堅は南朝陳を滅ぼし,とうとう中国統一を達成した。
楊堅は隋の国制を次第に整えていくが,本書では近年よく話題になる「租調庸制」改め「租調役制」についても唐代後半に至るまでの説明がある。なお,隋代では「役」を「庸」に代えられたのは50歳以上に限定されたとされており,唐代よりも厳しい。「府兵制」についても,従来の全国的に徴兵された兵農一致の政策という説明が誤っていることがちゃんと説明されている。統一戦争や対突厥戦争により職業軍人化した者が多かったこと,北周の出身者が多かったため帰農させると関中がパンクしてしまうこと等から,結局は地方の軍府を解散して関中出身者を実質的な常備軍として残さざるを得なかった。つまり全国的な徴兵ではないし,兵農一致どころか分離的な制度である。その他,科挙や律令も整備したけれど,現実とのギャップは大きかった。ただし,本書の「現実との乖離は楊堅自身も織り込み済で,平和な統一王朝が成立したことの天下と後世へのアピールとしての諸制度の整備だったのではないか」という指摘は面白い。実際にそのアピールに乗せられて,長らく諸制度は名目通り実施されていたと勘違いされ,こうして21世紀の日本の高校世界史にまで影響を及ぼしていたのだから。
続く煬帝はよく知られるように膨大な資材を用いて大運河を建設し,高句麗への遠征でも国力を費やして,国勢を傾けていった。大運河の開削は関中への食料供給と発展する海上交易の利便性のためであるから目的が明白であるとして,高句麗遠征はどうだったか。西晋以前に中国の領土であった遼東半島等の奪還のため……というのは名目にすぎず,高句麗が東突厥と隋に楔を打つような位置であったという地政学的な事情,統一戦争の終結と突厥の臣従で軍隊が手持ち無沙汰になったため(前近代の暇な常備軍ほど治安に悪影響を及ぼすものはない),「武帝」の諱を手に入れたいという煬帝の野望等があったようだ。この高句麗が異常なまでにしぶとかったのは,楊堅の豪運の反動か。高句麗遠征の惨敗を見て東突厥が反旗を翻す。これを契機に反乱が続発し,東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建国,再統一をなした。突厥によって生まれた王朝は,突厥によって滅んだのである。このような綺麗なオチがつく隋の興亡であるが,にもかかわらず今まではあまり突厥視点で語られてこなかったように思われ,目新しい。
中国の南北朝時代の概説書。講談社選書メチエの『中華を生んだ遊牧民』との違いは,あちらは鮮卑に焦点を当てつつ後漢代から北魏までの華北を扱っているのに対し,こちらは時代が南北朝時代のみで短い代わりに南朝も扱っている。北魏についての話題は似通っているが,当然あちらの方が濃い。両方読むのを勧める。北魏については主張が違うところもある。あちらの本では,魏の国号を採用し土徳をを採用したことについて,北魏が三国魏を継承する形をとったためと説明していたが,こちらは鮮卑は三国魏をも否定していて,火徳の後漢の後継王朝であることを示すため土徳の魏としたという説を採っている。
かたや南朝宋は東晋の時代にあった再統一への野望が薄れ,江南を本拠地とする諦めに沿った改革が進んでいく様子が描写される。西晋の滅亡によって伝統が失われたため,宮中祭祀等で”それっぽい新たな伝統”の創出が必要とされた。そう聞くと近代に各地でナショナリズムのために新たな伝統が創出されたことに重なるようだが,そうでもしないと漢民族王朝としてのアイデンティティが保てなかったのだから,話としては近いのかもしれない。この南朝宋で生まれた”それっぽい新たな伝統”が隋唐に継承され,新たな中華王朝のスタンダードになっていく。また,北朝の悩みが遊牧民と漢民族の統合であったのに対し(六鎮の乱により頓挫した),南朝の悩みは門閥貴族層の存在であった。寒門出身者を積極的に登用することで中央集権化を図ることはできたものの,最終的に強固な身分制度を打破することがかなわないまま南朝自体が滅亡してしまった。北朝にも門閥貴族は存在し,この問題の解決は隋唐に委ねられることになる。
ちょっと面白かったのは,南北朝ともに自国が正統な王朝と主張すべく文化に力を入れており,外交使節を通じて互いの水準を測っていた。筆者によると南北朝の使節たちによる討論では,儒学は北朝が優れ,仏教は互角,玄学・文学は南朝が優位であったとのこと。必ずしも全て南朝が優位だったわけではない。特に儒学が北朝優位であったのは驚きである。
・『隋』(平田陽一郎著,中公新書,2023年)
副題「『流星王朝』の光芒」。40年足らずで滅亡したにしては中国史へのインパクトが大きいから,流星の名はふさわしい。本書はその40年足らずに加えて西魏・北周も扱っているからもう少し長いが,『南北朝時代』や『唐』に比べれると短いことには違いない。その分,記述は濃密であった。
華北を二分していた北斉と北周は,互いに北方で大勢力を築いていた突厥との連携を試みる。突厥としては北斉と北周が半永久的に争っていてくれれば懐柔のため貢物が山程届くため,両者のパワーバランスを見ながら介入すればよかったのである。しかし,北斉は暗君と権臣により国勢が傾く一方,北周は名君武帝を輩出し,突厥が介入する隙を与えず一気に北斉を滅ぼしてしまった。ところが武帝が夭折し,後継者も夭折して北周に幼君が立つ。そこで乾坤一擲の賭けを打ち,簒奪を成功させたのが外戚の楊堅であった。もちろん楊堅自身に野望があったことが前提であるが,このまま北周宮廷の混乱を放置すれば突厥の侵略を受けて華北が五胡の時代まで逆戻りしてしまう。本書では簒奪劇自体に公主降嫁を伴う対突厥外交が深くかかわっていることが詳述されており,北周宮廷の激しい権力争いもあいまって,楊堅の賭けがいかに危険な綱渡りだったかがわかる。周隋交代は単なる宮廷クーデタでは無かった。
このため即位した楊堅が注力したのも突厥対策である。楊堅が簒奪劇で突厥の可汗から恨みを買っていたことに加え,突厥の可汗も北斉・北周からの貢物を威信財として諸部族に分配していたのに隋がこれを停止したため,両国ともに開戦の気運が高まっていた。隋は建国早々に全面戦争を余儀なくされたが,これをモンゴル高原での自然災害による突厥の自滅という幸運で乗り切ったのだから,楊堅という人物の豪運は続く。さらに楊堅は離間策を用いて突厥を東西に分裂させ,東突厥を服属させた。北方の憂いを除いた楊堅は南朝陳を滅ぼし,とうとう中国統一を達成した。
楊堅は隋の国制を次第に整えていくが,本書では近年よく話題になる「租調庸制」改め「租調役制」についても唐代後半に至るまでの説明がある。なお,隋代では「役」を「庸」に代えられたのは50歳以上に限定されたとされており,唐代よりも厳しい。「府兵制」についても,従来の全国的に徴兵された兵農一致の政策という説明が誤っていることがちゃんと説明されている。統一戦争や対突厥戦争により職業軍人化した者が多かったこと,北周の出身者が多かったため帰農させると関中がパンクしてしまうこと等から,結局は地方の軍府を解散して関中出身者を実質的な常備軍として残さざるを得なかった。つまり全国的な徴兵ではないし,兵農一致どころか分離的な制度である。その他,科挙や律令も整備したけれど,現実とのギャップは大きかった。ただし,本書の「現実との乖離は楊堅自身も織り込み済で,平和な統一王朝が成立したことの天下と後世へのアピールとしての諸制度の整備だったのではないか」という指摘は面白い。実際にそのアピールに乗せられて,長らく諸制度は名目通り実施されていたと勘違いされ,こうして21世紀の日本の高校世界史にまで影響を及ぼしていたのだから。
続く煬帝はよく知られるように膨大な資材を用いて大運河を建設し,高句麗への遠征でも国力を費やして,国勢を傾けていった。大運河の開削は関中への食料供給と発展する海上交易の利便性のためであるから目的が明白であるとして,高句麗遠征はどうだったか。西晋以前に中国の領土であった遼東半島等の奪還のため……というのは名目にすぎず,高句麗が東突厥と隋に楔を打つような位置であったという地政学的な事情,統一戦争の終結と突厥の臣従で軍隊が手持ち無沙汰になったため(前近代の暇な常備軍ほど治安に悪影響を及ぼすものはない),「武帝」の諱を手に入れたいという煬帝の野望等があったようだ。この高句麗が異常なまでにしぶとかったのは,楊堅の豪運の反動か。高句麗遠征の惨敗を見て東突厥が反旗を翻す。これを契機に反乱が続発し,東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建国,再統一をなした。突厥によって生まれた王朝は,突厥によって滅んだのである。このような綺麗なオチがつく隋の興亡であるが,にもかかわらず今まではあまり突厥視点で語られてこなかったように思われ,目新しい。
2024年09月09日
書評:『中華を生んだ遊牧民』(松下憲一,講談社選書メチエ)
『中華を生んだ遊牧民』(松下憲一,講談社選書メチエ,2023年)
鮮卑と彼らが建てた北魏の歴史を追った本。同時期に発売された中公新書の『南北朝』とは北魏の部分は重なっているが,こちらは南朝の記述がほとんど無い代わりに,前史にあたる鮮卑の歴史が入っている。なお,著者は鮮卑についてモンゴル系かトルコ系かという質問に対して,厳密には解答できないとしている。遊牧国家は複数の部族の連合体であり,その各部族の言語や風習は多様であるというのがその理由であるが,これは質問と解答がずれている。著者自身「鮮卑のもととなった遊牧民はどのような人々ですかという質問であれば成立する」としているが,まさに読者の知りたかったのはここなのであり,国家としての鮮卑と諸部族名の鮮卑が別物であることだとか,民族という概念は近代的なものなのでここには容易に当てはまらないだとか,鮮卑がモンゴル高原を政治的に統合したとしても鮮卑語が公用語になるわけでもないとかいうことは,説明されるまでもなくわかっているのだから。結局,鮮卑(もっというと拓跋部)の言語は直接明言されることなく本書が終わってしまうのはやや残念であるが,随所随所の記述を読むに,著者はおそらく拓跋部をテュルク系と考えているようだ。
鮮卑系部族の中でも勢力を伸ばして北魏を建てることになるのが拓跋部である。元はテュルク系の語彙のトゥグ(土地)ベグ(君主)を意味していたが,「拓」は同音の「托」から転じていて,托は「土」に通じ,黄帝の子孫を称するためにこの漢字が当てられたようだ。これは知らなかったので面白かった。鮮卑・北魏を追っていくと,こうした遊牧民のルールと中華のルールの帳尻を合わせるための工夫が多数見られる。
拓跋部は鮮卑系の部族とまとめあげて「代」を建国する。代国は五胡十六国に含まれていない。五胡十六国は華北を破壊したというのが後世の歴史認識であり,最終的に華北を統一した北魏の前身にあたる代を含めるわけにはいかなかったということらしい。また,386年に道武帝が北「魏」を国号に変えたのも,春秋戦国時代の国に存在していない「代」では国号として格が落ちることと,代は西晋から封建された名前であること,拓跋部が歴史上初めて朝貢したのが三国魏であったから魏を継承するという意図があり,さらに魏は土徳であるから拓跋部として都合が良かったようだ。このあたりのことは前から不思議に思っていたところで,疑問が解消されて面白かった。ところが鮮卑人はこの「代」という国号に愛着があったようで,北魏成立後も拓跋部や諸部族の部族長クラスが構成した支配者集団は「代人」を自称し続け,この時代の重要な一次史料にあたる墓誌でも「代人」という記述が多数見つかっている。この代人のアイデンティティは洛陽遷都後はもちろん,なんと西魏まで続いたようだ。
北魏は北方から遊牧民の風習を持ち込むと同時に漢民族の風習も受け入れ,結果として北魏独自の風習も生まれていたりする。この第三の風習の成立が北魏の面白いところで,とりわけ特徴的だったのが皇太子が確定した時点でその生母を殺害する「子貴母死」である。部族制からの中央集権化を図る過程で,母親の出身部族が中国王朝の外戚と化すのを避けるため,また部族制における部族長の合議で皇帝を選出するのを止めて父子相続を固定化させるために生まれた制度であるとのことだが,こういうものがあるから過渡期は面白い。中世と近代に挟まれた近世にはどちらにもない近世独自の制度があるのと同じかもしれない。
北魏は暫くの間,胡漢二重統治体制を敷いていて,後世の征服王朝風であった。しかし,孝文帝が漢化政策を実施し,鮮卑に対して胡語・胡服の使用を禁止した。このため鮮卑は次第に漢民族に同化していった……と高校世界史では習う。しかし,実際には「宮廷内で」胡語・胡服の使用を禁止した命令だったというのが正しく,民族としての鮮卑が消滅したわけではない。この際に官制にも手を入れていて,祭祀も漢民族のものを残して廃止された。政府内に限れば漢化政策は実施されているし,それは中央集権化とニアリーイコールであった。目的が中央集権化であったから,始皇帝以来の中央集権体制がすでに馴染んでいる漢民族側の制度の方が寄せやすかったので,「漢化」が選ばれたにすぎない。また宮廷の外を漢化する必要は無かったし,事実として実施されなかったのも理屈が通っている。であるならば,高校世界史の教科書記述も変更を余儀なくされる。実はすでに記述の変更が始まっているのだが,より抜本的な変更を今後に期待したい。閑話休題,後世に元や清が二重統治体制で成功しているのを知っているので,現代人の目線からすると漢化政策は失敗だったように思えてしまうが,北魏は二重統治体制の限界を感じて漢化政策をとるに至ったというのは面白い。後世の征服王朝との違いはどこにあったのだろうか。
孝文帝の改革の失敗は,中央集権化の結果,漢化政策に上手く適応できた拓跋部と,疎外された他の部族の鮮卑や遊牧民の間に亀裂を生んだことである。洛陽に遷都したことで,この違いがそのまま皇帝に付き従って南下した者たちと,平城に残った者たちという地理的な違いとなって表面化してしまった。出世コースだった柔然との前線,六鎮の将軍は閑職となり,北魏宮廷はあからさまに南朝との前線を重視した。六鎮の乱は漢化政策に反発した遊牧民による反乱と説明され,それは正しいが,より正確には中央集権化への反発,宮廷から疎外されたことへの反感と言った方が正しいようである。六鎮の乱を契機に北魏は西魏と東魏に分裂し,あっという間に北周・北斉に変わって拓跋氏の王朝は終わる。しかし書名の通り,鮮卑が北方から持ち込んだ新たな制度・文化は隋唐に継承され,新たな「中華」として定着していくのである。
鮮卑と彼らが建てた北魏の歴史を追った本。同時期に発売された中公新書の『南北朝』とは北魏の部分は重なっているが,こちらは南朝の記述がほとんど無い代わりに,前史にあたる鮮卑の歴史が入っている。なお,著者は鮮卑についてモンゴル系かトルコ系かという質問に対して,厳密には解答できないとしている。遊牧国家は複数の部族の連合体であり,その各部族の言語や風習は多様であるというのがその理由であるが,これは質問と解答がずれている。著者自身「鮮卑のもととなった遊牧民はどのような人々ですかという質問であれば成立する」としているが,まさに読者の知りたかったのはここなのであり,国家としての鮮卑と諸部族名の鮮卑が別物であることだとか,民族という概念は近代的なものなのでここには容易に当てはまらないだとか,鮮卑がモンゴル高原を政治的に統合したとしても鮮卑語が公用語になるわけでもないとかいうことは,説明されるまでもなくわかっているのだから。結局,鮮卑(もっというと拓跋部)の言語は直接明言されることなく本書が終わってしまうのはやや残念であるが,随所随所の記述を読むに,著者はおそらく拓跋部をテュルク系と考えているようだ。
鮮卑系部族の中でも勢力を伸ばして北魏を建てることになるのが拓跋部である。元はテュルク系の語彙のトゥグ(土地)ベグ(君主)を意味していたが,「拓」は同音の「托」から転じていて,托は「土」に通じ,黄帝の子孫を称するためにこの漢字が当てられたようだ。これは知らなかったので面白かった。鮮卑・北魏を追っていくと,こうした遊牧民のルールと中華のルールの帳尻を合わせるための工夫が多数見られる。
拓跋部は鮮卑系の部族とまとめあげて「代」を建国する。代国は五胡十六国に含まれていない。五胡十六国は華北を破壊したというのが後世の歴史認識であり,最終的に華北を統一した北魏の前身にあたる代を含めるわけにはいかなかったということらしい。また,386年に道武帝が北「魏」を国号に変えたのも,春秋戦国時代の国に存在していない「代」では国号として格が落ちることと,代は西晋から封建された名前であること,拓跋部が歴史上初めて朝貢したのが三国魏であったから魏を継承するという意図があり,さらに魏は土徳であるから拓跋部として都合が良かったようだ。このあたりのことは前から不思議に思っていたところで,疑問が解消されて面白かった。ところが鮮卑人はこの「代」という国号に愛着があったようで,北魏成立後も拓跋部や諸部族の部族長クラスが構成した支配者集団は「代人」を自称し続け,この時代の重要な一次史料にあたる墓誌でも「代人」という記述が多数見つかっている。この代人のアイデンティティは洛陽遷都後はもちろん,なんと西魏まで続いたようだ。
北魏は北方から遊牧民の風習を持ち込むと同時に漢民族の風習も受け入れ,結果として北魏独自の風習も生まれていたりする。この第三の風習の成立が北魏の面白いところで,とりわけ特徴的だったのが皇太子が確定した時点でその生母を殺害する「子貴母死」である。部族制からの中央集権化を図る過程で,母親の出身部族が中国王朝の外戚と化すのを避けるため,また部族制における部族長の合議で皇帝を選出するのを止めて父子相続を固定化させるために生まれた制度であるとのことだが,こういうものがあるから過渡期は面白い。中世と近代に挟まれた近世にはどちらにもない近世独自の制度があるのと同じかもしれない。
北魏は暫くの間,胡漢二重統治体制を敷いていて,後世の征服王朝風であった。しかし,孝文帝が漢化政策を実施し,鮮卑に対して胡語・胡服の使用を禁止した。このため鮮卑は次第に漢民族に同化していった……と高校世界史では習う。しかし,実際には「宮廷内で」胡語・胡服の使用を禁止した命令だったというのが正しく,民族としての鮮卑が消滅したわけではない。この際に官制にも手を入れていて,祭祀も漢民族のものを残して廃止された。政府内に限れば漢化政策は実施されているし,それは中央集権化とニアリーイコールであった。目的が中央集権化であったから,始皇帝以来の中央集権体制がすでに馴染んでいる漢民族側の制度の方が寄せやすかったので,「漢化」が選ばれたにすぎない。また宮廷の外を漢化する必要は無かったし,事実として実施されなかったのも理屈が通っている。であるならば,高校世界史の教科書記述も変更を余儀なくされる。実はすでに記述の変更が始まっているのだが,より抜本的な変更を今後に期待したい。閑話休題,後世に元や清が二重統治体制で成功しているのを知っているので,現代人の目線からすると漢化政策は失敗だったように思えてしまうが,北魏は二重統治体制の限界を感じて漢化政策をとるに至ったというのは面白い。後世の征服王朝との違いはどこにあったのだろうか。
孝文帝の改革の失敗は,中央集権化の結果,漢化政策に上手く適応できた拓跋部と,疎外された他の部族の鮮卑や遊牧民の間に亀裂を生んだことである。洛陽に遷都したことで,この違いがそのまま皇帝に付き従って南下した者たちと,平城に残った者たちという地理的な違いとなって表面化してしまった。出世コースだった柔然との前線,六鎮の将軍は閑職となり,北魏宮廷はあからさまに南朝との前線を重視した。六鎮の乱は漢化政策に反発した遊牧民による反乱と説明され,それは正しいが,より正確には中央集権化への反発,宮廷から疎外されたことへの反感と言った方が正しいようである。六鎮の乱を契機に北魏は西魏と東魏に分裂し,あっという間に北周・北斉に変わって拓跋氏の王朝は終わる。しかし書名の通り,鮮卑が北方から持ち込んだ新たな制度・文化は隋唐に継承され,新たな「中華」として定着していくのである。