2005年09月25日

書評『ローマ人の物語6 〜パクス・ロマーナ〜』塩野七生著 新潮社

著者自身が「アウグストゥスはカエサルに負け劣らずの英雄だが、躍動感がなくおもしろみがない」と認めている通り、この巻は躍動感に欠ける。今までは戦争史だったのが、急に政治史になったような感覚を受けるからである。それをおもしろいと感じるかどうかが、この巻の評価をわけるだろう。

先人の意志を受け継ぎそれを発展させるのは、実は並大抵の才能と努力ではできない。そもそも託す相手を間違えては実現しない。そういった意味でカエサルはさすがだったと思う。一番の適任、アウグストゥスとアグリッパを見つけ出したのだから。この二人によって大胆かつ慎重に、ローマが帝政へと移っていく。前述の通り人は選ぶものの、個人的には戦争史に負けないおもしろさがここにあると思う。

余談だが、尊敬するかどうかを別とすれば、個人的にはカエサルよりもアウグストゥスよりもアグリッパのほうが好感が持てる。頭もよく体も強く戦争がうまい。そしてアウグストゥスの意図、ひいてはカエサルの意図を汲んで政治をしつつ、自分はけして表に出ない。黒幕に徹する。全ては育て親に対する感謝の念と、親友を助けたいという気持ちである。こんなに気持ちのいい人間は、世界史広しといえども、なかなかいないのではないだろうか。惜しむらくは、若くして死んだことか。


ローマ人の物語〈6〉― パクス・ロマーナ

  

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2005年09月24日

K-1GP 2005開幕戦

というわけで今日のブログは予想してた人は予想してたであろう、K-1開幕戦の感想。興味無い人はごめん。

レミーVSイグナチョフ
レミーは動きが固かったね。いかにも苦手そうな感じだった。判定勝ちだったけど、正直イグナチョフのほうが優勢だった気が。微妙。しかしイグナチョフが決勝トーナメントに上がってきても結局微妙なので、これで良しとするべきか。

バンナVSゲーリー
とうとうバンナは「無冠の帝王」か(笑)よく名づけたもんだ。両方ただ打ち合うだけのバカではなく、ベテランらしい巧者だから長引くかな、と思っていたら一瞬で方がついてしまった。バンナは完全復活やね。ファンとしては嬉しいもんだ。

武蔵VSボタ
ボタもかなりの強者だが、どうも彼は対戦相手に恵まれていない気がする。格闘選手には珍しい、気のいい親父なんだけどなあ(笑)相変わらず武蔵はガードが堅い。ボタにはかわいそうだったけど、順当な結果か。

グラウベVSシュルト
シュルトは初めて見たけど、でけぇ。チェ・ホンマンと戦うのはサップじゃなくてこっちで良かったのではないかと思った。グラウベの師匠として、久々にフィリオを見た。彼の強かった時代からK-1見てるけど、彼には悪いが、バンナに1RKOされたときの姿が一番印象深い。しかも自分だけじゃなくて大抵のK-1ファンがそんな気がする。
結果は正直予想外。グラウベはいつかフィリオと同じ悲劇をたどりそうな気がするな……しかし、シュルトは強いかもしれないが、戦い方が見ていてつまらない。もっと連続攻撃を仕掛けるべし。

モーVSアーツ
02年あたりで引退するかと思ってたら、アーツが最近復活してきた。ひょっとしたら、とは思っていたけど、本当にモーに勝ってしまったのには驚いた。しかもまだけっこう余裕ありげだし。まあ彼に関しては出場することに意義があるというような感じがするので、まだまだがんばってもらいたい。

ガオグライVSセフォー
どっちの選手もファンなので、個人的には今日一番期待してた試合……なのだが、なんで編集カットなのさ。
結果そのものは予想通り。ガオグライはミドルでやったほうがいいんじゃないか?KID相手なら楽勝な気がするんだが。

ノードストランドVSカラエフ
カラエフのとにかく早いこと。ノードストランドもけして弱いわけじゃないんだが、一流というわけでもないから、踏み台にはちょうど良かったのかもしれない。

サップVSチェ・ホンマン
どっちが勝つにしろ1RKOだと思っていたのに、意外と長かった(笑)しかししょっぱい試合だったなあ。解説が苦しい。「想像を絶する試合ですね」って、確かに想像は絶してたよ。2R以降二人ともスタミナが切れて両者動かずにらみ合ったまま時間だけが過ぎていく試合なんて、予想はしてたけど想像は絶してたね。チェ・ホンマンは確かに強いが、スタミナがなさ過ぎる。サップと張るスタミナしかない状態で決勝トーナメントに進むとどうなるかは、容易に想像がつくはずだ。今年は無理。スタミナを鍛えれば、来年以降の台風の目にはなる可能性はある。


ということは決勝トーナメントはレミー、バンナ、武蔵、シュルト、アーツ、セフォー、カラエフ、ホンマンか。バンナとセフォーを応援したいところ。少なくとも、三年連続同じ決勝というのは勘弁してもらいたい。  
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2005年09月23日

こう書いて見るとルールややこしいな

今日も今日とて怠惰な生活を送ってしまったためネタが無いので(カシンの人もそうなんだろうが新学期が待ち遠しい)、いつも通りゲームのレビューでやり過ごしてみんとす。

セブンブリッジのルールを知っている人は案外と少ない。断じてライアーの某ゲームではない。基本的に麻雀とばば抜きの合いの子のようなルールなのだが、そういってもさっぱりちんぷんかんぷんだろう。軽くルールを説明すると、手札を7枚ずつ配って残りを山札にしてスタート。最終的に手札が無くなれば勝ちである。とにかく手札を減らすゲームだ。

親から半時計回りに山札から「ツモ」っていき、アンコもしくは順子になったら場に出す。場に出して全員に見せるあたりが麻雀とは違うが、ポンやチーに関するルールは同じである。ただし、ポンやチーをした後でもさらに手札を一枚捨てなくてはならない(あがりのときは別にいい)。もう一つ違うのは、場に出されたアンコや順子に対して、誰からでもカンや階段をさらに増やすことができる。よってアンコができても早々に場にさらしてしまうのは利敵行為にもなりえるため難しい。なお、7は一枚で場に出せるため重宝する。ただし7を単独で出すときは、既に場に自分の他のカードを出していないと、認められない。

最初に手札がなくなった人が勝ち。残りの人は残った手札の数字を全て足す。それが点数になる。7を持っていた場合、合計点数が倍になる。また、上がった人がいわゆる天和(地和か人和)だった場合、敗者全員の点数が3倍になる。何度かやって、最終的に一番点数の少なかった人の勝ち。なかなか戦略性の高いゲームであり、流れを読む能力が必要という意味では麻雀と何ら大差無い。ただし役という概念が全くないのと、手札がなくなると勝ち、という辺りはどちらかというと大貧民かばば抜きであり、麻雀しかやったことない人は戸惑うかもしれない。

最近はルールの中途半端さからか、大貧民と麻雀にお株をとられちっともメジャーじゃないようだ。麻雀に入る前、すなわち年齢が一桁の頃は狂ったようにやっていた自分としては少々悲しい現実である。誰かルールを覚える気力があるなら、やってくれるとすごく嬉しい。しかし、いかんせんタイトルの通りだよなあ…  
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2005年09月21日

懐かしき日の話(現代文編)

○進予備校の現代文の講師に出□(伏字)というカリスマがいる。彼の文言はこうだ。「現代文は全て論理で解けます。だから論理力を鍛えましょう。」この言葉に代表されるように、彼の基本戦略は二つ。
・現代論説文のテーマ考察
・論理による読解
前者は同意できる。現代文に限らず、というより受験に限らずなんでもそうだが、元ネタのわからないままよんでも理解できるはずがないのだから。

だが後者は同意できない。美術にしろ音楽にしろ、芸術作品は理性と感性の両方を用いなければ完璧に味わうことはできない。まれにそういったことを拒否する作品もあるが、そういった作品があること自体がこのことの証明だと思う。いや、わざわざ芸術作品と区切ることは無いだろう。いかなる絵にしろ音にしろ、理性と感性の共同作業であることには変わらないのだから。

これは、文章してもしかりだと思う。理性のはたらきだけで読めるものか。小説や文芸論は言うまでもなく、一般的な論説文でもそうだ。たとえば、傍線部分について説明せよ、という「元」東大受験生にとっては見慣れていた設問を解くとき。まずは傍線部周辺の論理関係の整合から始めるのが定石だろう。接続詞や代名詞をチェックし、わかりやすく言い換えている場所や、正反対のことを言っている部分に目をつける。ここまでは理性の仕事だろう。しかし、ここで文章をまとめあげ答案にするという作業は、論理で行うことはできない。適切な言葉を選び、簡潔かつ密度の濃い文章に仕立て上げる作業は、感性の仕事である。一度彼が「人間の感情だって論理なんだから」と言ったときは苦笑しかできなかった。

K森教官が、「センター試験の現代文は現代文じゃない。選択肢だけを見て解いても8割は確実にとれるようになっている。あれはパズルだ。」と言っていたが、マーク式の現代文は確かに論理だけで何とかなってしまう部分が多い。だから、出□講師の言っていることは完全否定はできない。だが、あなたの方法で記述式は解く気がしない。なお、上のK森教官の言葉はこう続く。「実は東大の現代文は私が作っているんですが、だから全部論述式なんですよ。現代文はパズルじゃないんだから。」  
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2005年09月10日

トンネルを抜けるとそこは

残念ながら白くはなかったが、雪国であることは間違いなかった。一泊二日で富山から帰ってきた。実に3年ぶりの富山だった。今回久々に北陸本線に乗って思ったのは、米原でずいぶんと風景が変わるということだ。北国はやはり、ものさびしい。例えて言うなら、東海が陽光降り注ぐ南仏なら、北陸はオランダかドイツ北部といったところだろう。とにかく、空が灰色でどんよりしている。

自分は実は転校するたびに南へ向かっているわけだが(東大へ行って初めて北に動いた)、だんだんと人々が陽気になっていったのがけっこうなカルチャーショックだった。そりゃあ、この空を見ながら育ったらおとなしく育つわな、と今更ながら実感した。携帯に写真がついていないことを、これほど悔やんだ日は無い。あの富山の、晴れているのか曇っているのかよくわからない、いかにも日本海的な空を見せてやりたかった。ともかく、境目は米原だった。考えてみると、米原から西は関西だ。いろんな意味でここは境目なのだろう。


今回の目的、一ヶ月遅れの盆ということで、金沢で墓参り。墓参りというか、金沢自体何年ぶりだろうか。先祖不幸でごめん。しかし、思ったより墓がきれいだった。親族は離散してしまっているが、けっこう皆来てるらしいことがわかり、なにやら嬉しかった。帰り、しらさぎ(富山→名古屋)を待っていると、昔飽きるほど乗ったサンダーバード(富山→大阪)がホームに走りこんできて、懐かしさのあまり乗ってしまいそうだった。乗ると明日、高校の文化祭に出れなくなるということが、自分を引き留めさせた。

北陸本線に新幹線が引かれるのは7年後くらいだそうな。なんか俺の住んでた10年前から似たようなことを言い続けてる気がするのは、気のせいだろうか。  
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