2006年09月30日

K-1GP2006 開幕戦

今日はなかなかおもしろい試合そろいでよかった。試合の組み合わせも良かったと思うし、バンナやレミーが本調子だと盛り上がる。やっぱビックマウスが少数いたほうがおもしろいしねw

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2006年09月29日

新学期恒例行事

何か時期が時期らしいので、自分も冬学期の履修でも調整してみんとす。

通年が多いのと、学芸員資格関係の授業を入れるとほとんど埋まる罠。そしてこの夏休みのレポートが物理的限界だったことを踏まえコマ数を減らすと、ほぼこれで決定しかないと思われる。

そういうわけで、あまり周囲とかぶらんかもしれない。先学期はけっこう重なるものが多かっただけに、ちょっと寂しいかも。  続きを読む
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第77回「ロードス島攻防記」塩野七生著 新潮社

塩野七生の初期短編小説。短編と言っても200Pを超えているが。ロードス島とは小アジア(現在のトルコ)の南岸にある小さな島で、現在ではギリシア領である。1522年、当時ロードス島を支配していた聖ヨハネ騎士団だったが、コンスタンティノープルを落として勢いに乗るオスマントルコがこの「喉もとのトゲ」を放っておくはずがなかった。この小説はロードス島が陥落するまでの戦記である。

この小説の見所は、旧世代と新世代の戦争であったという点だ。そして現代とは逆に、トルコが新世代で、騎士団が旧世代ではあるが、騎士団はヨーロッパの中でもすでに旧世代となっていた。聖ヨハネ騎士団という名前からなんとなく想像はつくと思うが、その組織形態は中世の騎士そのものであり、戦争は少数精鋭、武器は近接武器が主流であった。対するトルコは騎士団の10倍近い大軍を率い、大砲を主力としていたから、戦略面では何から何まで正反対であったのである。

そして騎士団がヨーロッパでも孤立する旧世代であったことを実感させるのは、騎士団にほとんど援軍が来ないということだ。これが中世なら、対イスラーム戦争を呼びかければヨーロッパ全土から人が集まったであろうに、援軍要請に対する返答の使者すら来ない。イスラーム世界はトルコ帝国を中心にまとまっていたのに対し、ヨーロッパは主権国家体制が芽生え始めていた。宗教よりは利害が国家を動かす原動力となり、トルコと戦う余裕があるなら隣国と戦う……まさにそんな時代の始まりであった。

このようにあらゆる意味で滅び行く運命と、それを知りつつ交戦する騎士団の姿を、様々な面から描いている。歴史小説として、まさしく傑作である。

なお、作中にその後の聖ヨハネ騎士団の様子は描かれている。ちなみに現在はマルタ騎士団と名前を変えローマに本拠地を持つ「領土無き国家」であり、ある意味バチカン市国より小さい国家だ。しかし一方でその後のロードス島の経緯は描かれていない。ではロードス島はどうなったかというと、しばらくはオスマントルコ領に落ち着く。1912年、一度イタリア・トルコ戦争の結果イタリアに編入されるが戦間期はイタリア・ギリシア・トルコ間でころころと支配者が変わり、1947年ギリシア領となり現在に至る。世界遺産であり観光の名所でもある。


ロードス島攻防記
  
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2006年09月27日

第76回「西東詩集」ゲーテ著 小牧健夫訳 岩波文庫

(旧題 初アマゾン購入品)

ゲーテの『西東詩集』を読み終えた。ちなみに岩波文庫である。某授業の第1回で感想を述べなければならないらしいのでhenri的にネタばれだろうけど気にしない。むしろ何を言ってるのか、henriくらいしかわからんかも。(あと萌王か。)

まず突っ込みたいのは、日本人の感覚からすると『銀杏の葉』の詩句は明らかに浮いている。西「東」詩集といっても他の詩は完全にイスラム世界、特にイラン地方について語っているのに、銀杏は原産が中国で、イメージとしてはやはり日本か中国か、である。まあこの時代のオリエンタリズムに「せめてイスラムとそれ以外のアジアくらいは区別をしよう」と主張しても、「何のことだかさっぱり」と答えられるのがオチだろう。

この詩集は複数の巻から成り立っているが、やはり一番輝いているのは『ズライカの巻』だと思った。よくもまあこれだけ、愛について語れるもので、それも還暦を越えた人が。本人曰く「恋は私を青春時代に連れ戻す」みたいなことを言っていた。それとは別に「酒は人を若くする」なんて書いてあったから、要はほろ酔い気分が青春ってことなんだろう、きっと。そしてその意見にはなんとなく納得できる自分がいる。

いきなり『逃走』というタイトルの詩から入るこの詩集だが、『ズライカの巻』も含めて全体的にふわふわと浮いた印象を受ける。「ロマンチックが止まらない」って奴だ(古!)。まあ授業でやったとおり、当時のゲーテの精神状態を慮るにそりゃ夢の世界、つまりヨーロッパではないどこか遠いところに『逃走』もしたくなるというもので、非常に納得のいった詩集であった。


西東詩集


以下、戯言。  続きを読む
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2006年09月21日

第75回「また・荒巻の世界史見取り図」荒巻豊志著 東進ブックス・株式会社ナガセ

年甲斐も無くおもしろそうだから買ってしまった参考書。5巻構成らしいので、これが4冊目ということはあと1冊出ることになる。このシリーズの特徴はまず、ウォーラースティンの「近代世界システム論」に基づいた世界史解釈をし、それを高校生レベルに下げて解説していること。故に切り口が鋭くそれでいてわかりやすい。そして地図を大事にする。地理感覚なくして世界史は語れない。

1巻は前近代ヨーロッパ史、2巻は近代ヨーロッパ史。3巻はなぜか近現代アジア史ときて、この4巻は前近代アジア史である。なぜ3巻と4巻が入れ替わってしまったのか?それは著者自身「今までそれほど難しいと思ってなかった分野だったけど、参考書を書いてみて覚える単語量の多さに驚いた」と後書きで述べているように、前近代アジア史とはやたら覚える単語だけが多くて世界史概観的には大して重要ではない。ゆえに受験生には嫌われ、加えて論述にはめったに出ないというジレンマがある。

そんな中で、この本はがんばったほうだと思う。洪水のような、単答にしか出ないような単語群の中、なるべく世界システム論に関連付けて語り、世界史をおもしろく演出しようとしている努力が随所に見られる。しかしすでに受験が終わった自分が読む分にはこういった気楽な感想でいいが、受験生としてはやや読みづらい本に仕上がっているかもしれない。がんばって5巻も早く出して、完結させてほしい。


荒巻のまた世界史の見取り図―大学受験世界史 (前近代アジア編)
  
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2006年09月16日

シャア三倍ルール

なんだかんだでネタは尽きなかったが、宣言したものをやらないのも変な話なので超ローカルルール「赤い彗星」がなぜ今まで一度も出ないかについて、考察してみたい。

まず「赤い彗星」について。条件は

1、卓の4人が全員ファーストガンダムを知っており
2、西を1枚以上手の中に持った状態で
3、かつ、赤牌を持った状態で(正確には赤五筒、赤五萬、赤五ソウ。ルールによっては赤五筒のみ)
4、あがる

であり、その効能は「役数3倍」である。理由は、言わずもがなだろう。赤牌のドラが1つついているのは確実であるため、かなり役数が跳ね上がる。特に本来5役で8000点の手が32000点になるのだから恐ろしい。

一見出そうなルールだが、4年ほど前に考案されてすでに100局ほど打っているはずだが、一度しか出たことが無い。それも二人麻雀時。あまりの出なさっぷりに、この間効能を「点数3倍」から「役数3倍」に切り替えたほどだ。なぜこれほどまでに出ないのか?

まず、西を絶望的なまでに使用しないことが理由の一つに挙げられる。西を使う状況というと、西が自風か、ホンイツ狙いの場合か、ピンフかトイトイかチートイツか、まずこのどれかである。単なるリーチで西が入ってるのは、めったに見ない。三巡目くらいには、北とともに3枚出て絶望という状況すら珍しい話ではない。つまり、初手で2枚持ってない限り捨てられる運命にある牌、それが西、ということだ。

ちなみに、この間初めてこのルールが適用されたときは二人麻雀、役満縛りで、小四喜+三四五筒だった(もちろん3倍役満)。四人麻雀ではまず小四喜自体がめったに出ない。

それに比べて赤五筒は使い勝手が良すぎる。五筒自体が使い勝手いいのに、加えてドラ+1というのはボーナスとして大きい。つまり、逆に何にでも使えるゆえに自分が入手できる確率も低い。西に比べて他人ががめている確率も格段に高い。そして1〜2枚しかない。いくら西を配牌時点で3枚持っていたところで、他人が赤五筒を捨てた瞬間夢は破れる。赤五萬や赤五ソウを増やしてもいい。確かに単純には確率が2倍になるが、結局他人ががめる可能性も高くなり、実はたいして変わらないと思う。

ちなみに「西を1枚以上」と書いたが、そんな状況は十三不塔以外ありえないので事実上2枚以上といえる。  
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2006年09月12日

だから世間は嫌いなんだ

豊橋在住のいとこ(と言っても年齢はダブルスコアに近いが)が、任天堂DSを買っていた。買っていたソフトはもちろん「脳トレ」。

自分としては、この「脳トレ」のブームに対して複雑な気持ちにならざるをえない理由が二つほどある。まずその一つが、「単純な行動を繰り返すことによって脳内がデフラグされ、脳の動きが活性化される」という、脳トレの効能。この効能は理論的に間違っていないと思うし、反論する気はまったくない。むしろゲームの正の部分に光を当ててくれたわけで、賞賛してもいいと思う。

が、一時代前に某トンデモ理論に乗せられて、その効能を害であるとして批判していたのは、今「脳トレ」を賛美しているマスコミや世間ではなかったか。おかしいことに、某トンデモ理論も「単純な行動を繰り返すことによって脳内がデフラグされ、」までは、脳トレの理論とまったく同じなのである。もっともその後に某理論のほうは「よって脳が単純な活動しかできなくなり、非活性化する」と続くのだが。ゲーム脳が一番時流に乗り、批判されていた時期にゲームをやりこんでいた時代の人間としては、この世間の手のひっくり返し方は納得のいかないものがある。

もう一つは、脳トレの脳年齢の測り方について。やったことある人はわかると思うが、あのゲームは脳の瞬発力しか計測していない。まず突っ込みたいのは、運動神経の悪さまで脳年齢にされてしまうということである。そりゃ俺がやったらひどい記録が出るに決まっている(ちなみに32歳だった)。わかってても手が動かない人がいることくらい、考えてほしい。

それに、脳年齢は瞬発力だけで測っていいものではないと思う。記憶の持続力や複雑な問題に対する論理的思考能力、雑学的知識の量も十分評価対象になるべきだ。が、まあこれに関しては脳トレに譲歩してもいいと思わないこともない。なぜならそういった能力は、ゲームで測るのは難しいし、実際そんなものをゲームにしても愉しくないからだ。せいぜい、クイズ大会になってしまう。

もうおわかりだと思うが、同じ理由でサルヂエだの脳内サプリだのがはやっている世間の風潮も嫌いである。まあ所詮ああいったのがはやる原因は学歴社会に対するルサンチマンなので、自分があまり気にしてもしょうがないのかもしれない。  
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2006年09月10日

第74回「有用性の限界/呪われた部分」ジョルジュ・バタイユ著 中山元訳 ちくま学芸文庫

バタイユの著書。題名が二つに分かれているのは、一分野につき一冊の本を書くバタイユには珍しく、二つのテーマを扱っているからである。前半はメキシコの原住民族に対する民俗学的研究成果であり、後半は資本主義をバタイユ的な視点から分析した経済学となっている。前半と後半で大きく雰囲気が違い、前半に関してはこれまたバタイユの本にしては珍しく、割と実証的な分析をしていて読みやすい。

ただし後半は断片的論文集であり、一つ一つの文章が全くつながっておらず、雑多に書かれているため非常に読みづらい。バタイユ自身15年かけて草稿を書き、結局未完成のまま出版は死後というだけあって『呪われた部分』は相当南山だったのだろう。文中に(抹消)とか(後で補足)とか書かれていて、いかにも未完成の原稿をそのまま載せたという雰囲気がする。むしろこの迷走っぷりを楽しむのが後半の楽しみかもしれない。なぜその部分が抹消されたのかということに至高をめぐらしながら読むのも一興である。

内容はけして悪くないのだが、やはり哲学の言葉で経済学をやろうというのは無謀だったか。いや、数式の出てこない本を経済学書と言われても困ると指摘されたらそこまでであって、本書はその意味では純粋な哲学書といえる。そこは誤解なきよう。バタイユも自覚しているようで、文章中にたくさん譲歩表現が出てくる。

本書の楽しみ方としてはやはりバタイユ入門書として、前半のまとまっている部分だけ読んで、後半は読まないのが賢明だと思われる。値段が高いのが致命的で、これは後半の断章を大量に入れた結果本が厚くなったからだと思うのだが、だったら前半だけにして、値段を半分の版を作って欲しいところだ。

なお、ちくま学芸文庫版のこの装丁はなかなか凝っていて、私的にはけっこう好きである。


呪われた部分 有用性の限界
  
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2006年09月02日

第73回「西美をうたう」佐藤直樹編 印象社

自分は国立西洋美術館の常設展示が好きである。モネの睡蓮くらいしか超大作と言われるような作品は無いが、国内で見れば最高水準のものがそろっており、何よりほぼ全歴史・地域を網羅しているのがすばらしい。ジャンルもばらばらで、飽きることがない。

その西洋美術館の常設展示の作品一枚一枚に対して短歌を詠もうという企画が行われ、そのときの優秀作を収録し常設展示のカタログとしたのがこの本である。序文には高階秀爾先生が詩と絵画の関連性について述べており、西洋文化の象徴的な言葉「絵画は詩のように、詩は絵画のように」という言葉を出して本書の意義としている。

短歌の出来は、全くの門外漢の自分が言うのもなんだが、字余りが非常に多くて短歌としてそれはありなのかと思うものが多かった。ただ31音で絵の内容をしっかり詠むのはプロでも難しいと思うし、内容だけでなく詠む人の感情まで伝わってきて、さすがにうまいなと思った。佐々木信綱といった超有名人がそろって詠んでおり、見る人が見ればとんでもない豪華メンバーなんだろうなと思う。

カタログとしてはやや画像が小さく見づらいが、読み物としては楽しい。西洋美術館に行ったことがあるなら、一度は手にとってほしいと思う。


西美をうたう―短歌と美術が出会うとき
  
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2006年09月01日

(悪)夢の島

すでにリンク先で書かれている話だが、2016年のオリンピック候補地日本代表が東京に決まった。自分としては、いろんな意味でかなりどうでもいい話だったりする。

まず、オリンピックそのものがかなりどうでもいい。ワールドカップのほうが自分の中ではよほど盛り上がる。種目が複数とういうのがめんどくさい。大した興味も無いのに選手の名前なんぞいちいち覚えてられない。オリンピック終わって一月もすれば誰も覚えてない名前を、何が悲しくて覚えないといけないのか。マスコミの無理な感動話作りにも飽きてるし。

よって、東京になるか福岡になるかもどうでもよかった。どうせ見に行かない。そういう意味では福岡にしておいてくれたほうが騒がしくなくてよかったかもしれない。まあ、10年後自分が東京にいるかも怪しい話だが。

そもそも、東京は日本代表の候補地になっただけで決まったわけじゃない。08年に北京でやる以上、8年後にまたアジアは無いだろう。アフリカは無理にしても、世界は4大陸あるわけで、ヨーロッパと北アメリカとオーストラリアか南米あたりをはさむだろうから、2020年か24年あたりにしておけば、ちょうど良かったように思う。

そういえば、大阪は北京に負けて08年開催を断念したんだったか。あそこは47都道府県の中でも酷い不健全財政だから、やってたら財政破綻してて、それはそれでおもしろかったかもしれない。

そうそう、某大いなる田舎はオリンピックに負けた腹いせで万博招致をしたんだった。東京も石原新太郎が3選で決まるところまでやるとか言ってるけど、負けた後にとんでもないものを招致しなければいいが。どうせそれも、次の知事あたりが中止にして、また東京湾に無駄な島が浮かぶことになるんだろうけど。  
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