2006年11月29日

フロイト的に言うと中二病患者

上野の森美術館のダリ展に言ってきた。シュールレアリズムの溶けた時計で有名な彼だ。

自分がこの画家について好きかどうかを聞かれると、大変答えるのは難しい。現代アート自体が嫌いなので基本的に嫌いなのだが、それでも現代アートの存在価値はわかりにくさにあると思う。しかしダリの作品は溶けた時計然り、わかりやすいものが多く、現代アートとしての位置付けが微妙である。それでもわかりやすいもの自体は嫌いではないので、やはりなんともいいようがたい。

ではなぜダリの作品がわかりやすいか。それは上記のタイトルが全てである。フロイト的に見てとがってるものは男性器でくぼんでるものは女性器だと思えば、おおよそ絵の全体像が見えてきてしまうものが多い。今日一緒に来た友人に「これフロイト的に言うと○○だよね」と、何度言ったかわからない。

そして激しい中二病患者なので、なんとなくかっこいいんだけど実はたいした意味が無いことも多い。Don't think!feel!で伝わってしまう。溶けた時計なんかいい例である。絵のタイトルもひどい発症具合で、長けりゃいいってもんじゃないと言いたい。同じ現代アーティストならデュシャンのような、センスのあるタイトルを期待したい。

ダリの奥さんはすごい浮気性で、ダリはMだったんじゃないかと思う。浮気されるたびに創作意欲がわいたんじゃなかろうか。フロイト的だったり中二病患者だったりするのもここら辺の情緒不安定さが影響を与えていると思う。

置いてある作品は聞いていたよりも大作が多くて安心した。そんなことよりも作品のキャプションの少なさを何とかしていただきたい。それとも作品の説明をしようとも「フロイト的に(ry」だと18禁になってしまうので、できないということか。あとひどい混み具合も何とかしてほしい。もっと入場制限を厳しくしたほうがいい。もっともそれはそれで、今度は採算に響くんだろうけど。


なお、最大の疑問点は今回「ダリ生誕100周年記念展」なのに、ダリの生誕が1904年である、ということだった。  

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2006年11月26日

19回目

朝青龍が優勝を決めてくれた。明日はテレビを見られないので、今日決定してくれてよかった。今場所の彼は本当に強かった。いつもなら場所前に稽古不足だの風邪ひいただの言い訳をつけてから初日を迎えるのだが、今場所は特に何も起こらなかったらしい。そりゃ強いはずだよ。

逆に大関陣は珍しく全員が全員調子良かったばっかりに、つぶしあってしまって非常にもったいない。やはり場所が盛り上がるには、5人中2、3人程度が調子いいのが良いのかもしれない。

そして今場所文句をつけるべきは九州の観客だろう。まず大きすぎる魁皇への声援が見苦しい。地元の人気力士なのはわかるが、あの盛り上がり方は阪神ファンのことを笑えない。魁皇が勝とうものなら、福岡に川があるのかは知らないが、川に飛び込みそうな勢いだった。あの1割でもいいから、栃東か琴欧洲あたりの応援に向ければいいものを。朝青龍は応援されないと燃える人だから、どっちでもいいが。

朝青龍の取組後毎回座布団を投げるのは見苦しいから止めてほしかった。それも毎回投げていて、投げるために投げていて完全に本来の意味を見失っている。相撲を見に来たのか座布団を投げに来たのか、どっちかにしてほしい。

もっとも、今場所はそのおかげでおもしろいものが見れた。13日目、朝青龍が勝った直後に間近の観客が後ろを向いた朝青龍に当てるつもりで全力で座布団を投げ、朝青龍が後ろからの気配に気づいて瞬間避け。お前はマトリックスか。サイコクラッシャーも打てるし、いよいよ相撲から引退しても職はありそうだ。


サイコクラッシャー。もっとも、打った朝青龍が負けてるんだが。
http://youtube.com/watch?v=oH7SETSC85k&mode=related&search=

  
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2006年11月24日

第86回「判断力批判」カント著 岩波文庫

読むのに一ヶ月かかったのは『エロティシズム』以来だ。やはり哲学書の大著というものはそれくらいかかるらしい。

カント三部作である『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のラストを飾る本。しかし面倒でそれなりの予備知識があれば大丈夫だろうと勇み足で当面の課題であるこの本をいきなり読んだら、厳しかった。やはり余裕があるなら『純粋理性批判』から手をつけていくべきだろう。

それでもがんばれたのは、やはり著者がカントだったからだろう。哲学者は大きく分けて、何とかと何とかの紙一重にいる人たちと、正統的に頭がいい人たちの二種類に分かれると思う。カントは間違いなく後者の代表格である。なお、前者にあたるのはニーチェとかデカルトとかウィトゲンシュタインだが、その話はまた後日にしたい。そんなカントの文章だからこそ、わかりにくさの中にも理路整然としたものがあって、通して読んでみるとなんとなく理解できてしまう、そんな恐ろしさがこの本にはあった。とにかく、説明が丁寧なのだ。

なぜこの本を読む必要があったかというと、判断力とは美学的な判断力のことを含んでいるから、というよりも美学的な判断力そのものと言ってしまってもいいと思う面があるから。詳しくは本書を読んでいただきたい。特に「崇高」という概念については詳細に論じており、自分の非常に興味のある概念なだけあって、ここら辺は特に楽しく読めた。

それでも違和感の残った部分はある。それは時代の違いから生じるもの。フーコー的に言うならば、パラダイムがあまりにも違いすぎるということだ。まず、哲学用語が仰々しすぎる。「世界概念」とか「最高理性」とか、現代のライトノベルに登場してもあまり違和感の無いような造語の数々。思わず苦笑してしまった。また、科学や科学哲学の進歩のギャップも非常に激しい。前生説と後生説が大真面目に議論されていたり(後に後生説が正しいことが判明、高校生物では履修しているはず)、自然と人工物の違いについて、ずいぶん回り道な議論をしていたり。ここら辺にも、時代を感じた。

意外と普通におもしろい本であったので、課題にかこつけて読んでみてはいかが。ただし、岩波のは誤訳だらけのひどい訳文なのでお勧めできない。


判断力批判 上 新装版
  
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2006年11月21日

Alexander

アレクサンダー大王をホモとして描いて、ギリシア政府の不評を買った作品。実際あの時代だとホモは普通なので、むしろギリシア政府の底が知れる話である。もっとも、そういった前提知識のある人が視聴者にどの程度いるのかということや、現代的なホモへの視線を考えるにギリシア政府の心配はわからなくてもないが。

そのほかの点でも、まとまりが無いだとかテーマ性が薄いだとか、なんか散々な評価を受けているこの作品ではあるが、自分は基本的に好きである。まとまりが無いのは3時間でアレクサンダーの人生を全部詰め込んだこと自体に無理があるのであって、それでも主要な登場人物のギリシア語のあの長ったらしい名前を覚える前に終わってしまったのだから、あれ以上簡潔にしろというのは無理がある。

それにテーマ性が薄いということはそれだけ歴史的には忠実ということであって、テーマ的な伝えたいものはなくとも迫真性やアレクサンダーの軍事的才能のすごさは十分伝わってきたのでいいのではないかと。つまり、アメリカンな見方をしてはダメということ。むしろアレクサンダーを狂人として描いたことのほうが、個人的には賞賛すべきことだと思うのだが。  
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2006年11月18日

Invisible

とある科学研究所で透明人間になる研究をしていて、とうとうそれを発明する。しかし主人公のマッドサイエンティストはそれを悪用するようになってしまい、以下略。よくある禁断の科学ネタだ。

ごく普通の映画ながら、一箇所だけ見所がある。それは主人公が同僚の女性研究員をレイプするシーン。まず、動機が嫉妬という時点でこいつダメすぎる。そして透明人間がレイプするということは男のほうの姿は見えないわけで、女が一人であえいでいるようにしかみえない。ここがこの作品最大の傑作だと思う。いろんな意味で。無論、俺は笑い転げた。

爆発オチはあるし、人は脈絡無く死ぬし、テーマは何を伝えたかったのかさっぱりわからない。レビューの文章のも、そりゃしかたがないってもの。

正しいB級映画の姿がここにある。

  
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2006年11月17日

これは大名物  荒 木 高 麗  ! !

「へうげもの」がおもしろい。主人公は古田織部守左介である。美濃織部焼の開祖である。

この古田織部が非常に楽しい。超物欲の塊でそれでいて侘び寂びのわかる武士、すなわち大変な「好き者(数寄者)」つまりへうげものなのである。一応信長の古い家臣なのだが、昔から勤務態度は悪く、物がかかったときだけ必死になる。一応出世欲はあるが、理由はもちろん出世して給料(石高)を上げ、新たな茶器を買うため。

この漫画の見せ所はいろいろあるが、やはり古田織部が物欲にかられてとてつもない行動をするところだろう。個人的に一番好きなのは松永久秀が大量の爆薬を入れた平蜘蛛を抱いて自爆するシーン。このとき古田織部は同じ好き者として交渉役に派遣されていたのだが、「この平蜘蛛、信長ごときに渡してなるものか!!」と目の前で久秀が自爆。彼は爆風をもろともせず、「せめて綴じ蓋だけでも!」とばらばらになった破片を拾い集めていた。ポイントは爆発した瞬間のシーンの古田織部の顔。目の飛び出方が人間の顔じゃないというか、歴史漫画の顔じゃないというか、ギャグ漫画の顔である。もちろん見開き。

ちなみに、回収した綴じ蓋は糊でくっつけて、普通の茶碗の上に乗せて「このアンバランスさがいい」と感激していた。やばい男である。この芸術に対する変態っぷりが、他人とは思えない。最新のモーニングではとうとう秀吉の下で13万石の大名に列せられ、美濃の窯に融資を始めた。完結が楽しみだ。  
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2006年11月16日

頭が痛くなってくる

Esher文化村のスーパーエッシャーを見に行った。エッシャーの名前は知らずとも、←の版画は誰もが知っているだろう。この版画彫った変な親父、それがエッシャーである。ちなみにオランダ人だ。ドイツ人だと思ってた俺がいる。

ピカソにしろマティスにしろキチガイのような絵を描く連中皆そうだが、若い頃はまともな版画を彫っている。しかも粗彫りから芸の細かい仕事まで。が、やはり時代を経るたびに変態になっていく。30代後半には寓意画とか言い出して、変な絵になってきた。

驚いたのは、エッシャーがイタリア滞在を行っていたことだ。なんでこう、ドイツ人やらオランダ人ってイタリアに行きたがるんだろう。そんで風景画描いて帰るんだろう。デューラーもしかりホルバインもしかり、フリードリヒしかり。馬鹿の一つ覚えすぎる。きっとフランスに行くのはプライドが許さないんだろう。ベルギー人はよくパリやらスペインやらに行くが、ここが文化の境界線ってことか。愛知県みたいに。

エッシャーの家族の写真があった。全員で同じ顔してて吹いた。いかにもユーモアに富んでる一家の姿がここにあった。いい家庭環境だったんだろうなあ。

そして、エッシャーは非常に多くのノートを書き残しているが、これがカオス。読めば書いてあることはわかるが、これを思いつくのは天才と何かは紙一重の数学者だけだろう。ビューティフルマインド観た直後だったから、すごく既視感があった。ジグソーパズルとかタイル詰とか、どこの高校の組み合わせの難問だよ。Gestalt心理学もかなり入ってる気がする。

ここから先はだまし絵のオンパレード。↑の絵もあれば、階段がぐるぐるしてる絵とか、構造上どうにも不可能な柱の建物とか。美術が全くわからなくても、十分楽しめる内容だと、自信を持って言える。ぜひ、行ってみてほしい。

  
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2006年11月15日

第85回「自画像の美術史」三浦篤著 東京大学出版会

アイデンティティに対する関心が強まった近代以降、自画像の特殊性についての言説は尽きることが無い。それを一冊に凝縮したのが、この本といえるから、このブックレビューで長々と解説するのはよくないだろうから、この本に任せることにしたい。ともかく、かなり美術史の生徒向けに描いたといえる本なので一般的とは言いがたいものの、自画像についての基本書として的確な本である。

東大出版会の本に言えることだが、絵に白黒が多いのが非常に惜しい。値段の兼ね合いもあるのだろうから、仕方ないが、見づらい部分は多々あった。あとの心残りは、佐藤先生の書いた日本美術における自画像の部分が短く、あまりにも概説すぎて逆にわかりにくい。佐藤先生が長く書くにしろ二人に分けるにしろ、もう少し長い文章が必要だろう。

そういう細かい欠点を抜きにすれば非常に優良な本ではある。最大の問題は、意外と需要か。「今までこういった概説書が無かったから作ってみた」といった要旨のことが前書きに書いてあって最初は意外に思ったが、確かに無ければ無いでも世の中はあまり困らない本かもしれない。


自画像の美術史
  
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2006年11月14日

笑の大学

開始と同時に竹久夢二の絵が飾ってある壁が映される、その後10分間延々とまともなセリフが無いまま物語が進行するなど、のっけからこの作品はただものじゃないと思わされた。説明が不要なほど有名な、三谷幸喜脚本の映画である。借りてから気づいたが、舞台が浅草六区なので、自分がこれを借りたツタヤ浅草店はまさにその場所、ということになる。ちょっと驚きだ。

ストーリーはちょっとでも話すと笑い所のネタばれになるので伏せるが、爆笑はした。構成そのものは単純な、いかにも三谷幸喜な作りで、最後の最後だけ意外な事実でシリアスになり、全部は明らかにせずちょっと余韻を残す。名作『王様のレストラン』が、「それはまた、別のお話」で閉めたように。

音楽がいい味を出している。けして表に出てこないが、トランペット調のいかにも戦前な、「モダン」な雰囲気をかもし出す。実際矛盾した時代ではないか、鬼畜米英なんて言ってたのに、文化は半分洋風から抜けて出せず、そのままになっているなんて。

あと、どうでもいいことにつっこむと、さすが戦前だと思ったのは劇場の建物の内装。すごい狭い通路にすごい狭い客席。現代だったら、確実に消防法に引っかかって営業停止だ。きっとこういうところにも再現に凝ってるんだろうな、とも思ったが、ひょっとしたら場末の劇場なんて今でもこんなもんかもしれない。この映画自体のテーマが「大衆芸術とは何か」をひどく「小」上段に振りかぶって考えてるものだから、このどうでもいいつっこみそのものが、この映画を見た感想としては正しいものなのかもしれない。  
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2006年11月12日

trueman show

マスメディア時代を象徴したような、大変奇妙な映画。ある男「トゥルーマン」が生まれたときから、24時間365日彼を撮影し放映し続けるという番組「トゥルーマンショー」。それだけならまだ誰もが思いつきそうなシナリオだが、この映画のすごいところはこの番組トゥルーマンショーは、「やらせ有」なのだ。

なんとこの番組、彼の今日中する町がまるごとセットである。天候もセットで、ときどき人工的な雨が降る。住人も全員役者で、彼の勤める会社もセット。もちろん、彼の妻も役者である。現実的に考えたら人権侵害とか言う前にとても採算が取れない番組なのだが(CM流している暇が無いしね)、そこら辺は「映画というフィクション」なので勘弁して欲しい、というのは虫が良すぎるだろうか。

最も衝撃的なシーンは、彼が生き別れた彼の父親と再会するシーンだろう。彼の父親はドラマのためにセットから連れ出されていたが、隙を見つけて戻ってきてしまった番組にとってイレギュラーな存在である。しかしそれさえもドラマ性を上げるためにでっち上げた「やらせ」にしてしまう。この一見すれば感動的な光景を、何台ものカメラが彼に見えないように隠れて放映しているシーンは、非常にシュールだ。

しかし、これだけ無理な番組はいつか崩壊する。この父親との再会を機にトゥルーマンに番組の事情がばれてしまい、彼は逃亡を図る。果たしてその結末は?ここでそれを書いてしまうのは野暮というものだろう。

この映画は少々古いものであるが、最大のポイントは昨年、同じく24時間放映し続けるサスペンスのテレビ番組「24」が始まり、そして大ヒットを飛ばしていることだろう。もっともこちらはあくまでテレビ番組であり、リアルタイムなサスペンスとしておもしろいのであって、トゥルーマンショーのようにテレビ番組をメタ的に取り扱っているわけではない。しかし、トゥルーマンショーが映画館で放映されていた10年前に、「24」のようなテレビ番組が放映されるなどということを、誰が想像できただろうか。そこを意識してみるのが、21世紀人の楽しみ方ではないだろうか。  
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2006年11月11日

第84回「雪国」川端康成著 新潮文庫

(旧題 それでいて直接的描写は無いという)

そういえば、川端の『雪国』を5年ぶりくらいに読んだのだが、昔と随分自分の印象が違っているのに驚いた。小説の印象は年齢を重ねると違ってくる、なんてことはよく聞く話だが、実感したのは自分にとってこの作品が初めてのことである。

高校生の頃はただただ、美しい言葉に圧倒され、その雰囲気に魅了されただけだった。そしてそこで止まった。内容なんて大して考えてなかった、というか考えるだけの国語能力的余裕が無かったんじゃないかと思う。

それが今はどうだ。川端の言葉は美しいのだが、それ以上に官能的だった。奥ゆかしいという言葉とは対極にある。なんとなくエロいんじゃなくて、もろにエロい。指を口で湿らせて掲げ、「この指を君は覚えているかい?」なんて表現はざらだ。なんのことだかさっぱりわからなかった、高校生の自分のうぶさに乾杯、もとい完敗。

ついでに時代の流れも感じた。主人公の職業は「無為徒食」で、自分が高校生当時の語彙としてはまあ単に「無職」か、「旅人」くらいしか当てはまる言葉がなかった。しかし、現代にはもっと便利な言葉がある。NEET、と。まったく就職する気力の見られず、それでいてちょっと反社会的なこの主人公には、ぴったりの言葉だ。


この感覚はなかなかに新鮮だった。高校のときに読んで感動した小説というと、後は『こころ』と『沈黙』くらいだが、次は『こころ』でも試してみようか。ちょうどよく、『こころ』の舞台の近辺に居住しているわけだし。


雪国
  
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2006年11月10日

beautiful mind

統合失調症にかかった数学者がノーベル賞を受賞するまでの、ノンフィクションストーリー。とは言っても,割りとフィクションの部分も多いらしい。

最初からそのことを知ってても、初めて見た人は主人公と一緒にだまされることだろう。実は映画の前半がある一定の割合で主人公の幻覚なのだが、どこまでが幻覚で、どこまでが現実なのか、真相が明かされるまでさっぱりわからなかった。彼の幻覚はそれくらい自然なのだ。

映画の後半は病状が明らかにされ、妻が献身的な介護を始める。まあぶっちゃけてありがちな「愛が全てを救う」話なわけだが、むしろ彼自身の懸命な努力が自分の心を打った。映画の結末のネタばれというか、ノンフィクションなわけだから、ノーベル賞受賞という事実がこの映画の結末を物語っていると言えるだろう。奇抜なテーマに平凡なストーリーではあるが、一定の感動は与えてくれると思う。

主演のラッセル・クロウといい、皆名演技だった。ラッセル・クロウはグラディエーターのイメージしかなかったので、いいイメージの刷新になった。他だと特に幻覚の役を与えられている人々の迫真的でかつ気づいてみるとどうみても怪しいという、微妙さを要求される演技はおもしろかった。

最後に。まあ自分が心配することではないがこの映画は、天才と何かは紙一重、という風説をより流布してしまうのではないか、と思わないでもない。まあ、理三とか見てると風説じゃないような気もするが。

  
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2006年11月07日

下ネタも多い

一月ほど前に、イグ・ノーベル賞が発表された。「笑えるとしか言いようがなく、しかも記憶に残り、人々を考えさせる業績」に対して与えられる賞だ。そのとき「ハエの羽音の研究」だかで物理学賞をもらった人がいる、とは聞いていて、そういえば今年はどんなのが受賞したのかな、と気になったので残りも調べて見ることにした。結果はご覧の通り。

今年の注目を挙げてみる。音響学賞の「黒板に爪を立てたときの音の不快さについて」は、今まで調べられてなかったことに逆に驚いたのだが、どうだろうか。文学賞の「なぜ大学生はレポートに難しい言葉を使いたがるのか」は皮肉が利いてて、いかにも文学者のやりそうな感じがしていい。

今年は残念ながら、日本からの受賞者はなかったようだ。去年はドクター中松が受賞していて、けっこう話題になっていた。意外と日本の受賞者が多い。やはりバウリンガルやたまごっちに対する受賞は、いかにも日本人がもらうべき賞をもらった、と思う。まだ東大教授の受賞者がいないのは、寂しいというべきなのか。

過去の受賞者を見ていくとほんとにくだらないのが多いが、けっこう無駄にがんばったで賞、というのが多い気がする。そんな中異彩を放ち、ほんとに皮肉100%で受賞させているのもあっておもしろい。特に98年の平和賞で当時のインド・パキスタン首相に対し「度を越して平和的な核実験を行ったため」は爆笑させてもらった覚えがある。ちなみにその前年の平和賞はシラク大統領で、やはり「広島50周年を記念し核実験をしたことに関して」だ。

ラズベリー賞といい、こういうことを考える奴のセンスはすばらしいと思う。それによく探してくるものだ。狙いで論文かいてる人も、近年なら出てきていてもおかしくない。  
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アドルフの画集

画家志望だったヒトラーが、ユダヤ人の画商にその才能を見出されて親交を結んでいたらどうなっていたか、というifの話。名作の匂いしかしなかったので、借りてきた。

ベジタリアンで酒もタバコもせず、個人に関してはショーペンハウアー信奉者で、とヒトラーの細部に関して描写してあるのが素敵。演じるノア・タイラーがはまりすぎてて怖かった。ユダヤ人が画商なだけだって、当時の美術状況を垣間見ることができたのもおもしろかった。「モネの『睡蓮』はださい」なんて今じゃ聞ける話ではない。

もちろん美術状況だけじゃなくて社会状況もよくわかって、特に「プロパガンダは新しい科学だ」と発言する軍人の姿はなんでも科学っぽく扱えば正当化できてしまう近代の病理をよく象徴しているんじゃなかろうか。それにしても当時のユダヤ人の描写が裕福すぎる。本当にあれだけの格差があったとしたらそりゃユダヤ人排斥運動も起こることだろうに。もっともあの画商はユダヤ人の中でも裕福な部類に入るのだろうが。

ヒトラーとユダヤ人画商の美術討論もおもしろい。ヒトラーは、進歩主義でかつ古典主義で、「芸術は完璧に向かって前進する」とか「調和こそが美だ」とか主張する。そしてヒトラーの美術理論は政治に適用するとそのままナチスの思想になるわけで、非常に納得がいく。

対してユダヤ人の画商は相対主義的で、当時のはやりだった抽象的なエルンストを画廊のメイン看板にすえている一方でヒトラーの写実的な絵画も許容している。最初ユダヤ人の画商はヒトラーの絵に関して「技術は高いが感じるものが無い」とけなしつつも、生活の面倒を見るようになる。一方ヒトラーはその恩義を感じつつも、自分の絵が画商になかなか認められないことに苦悩する。

やがてヒトラーは軍での上司に誘われ政治の世界へ傾いていくが、皮肉にもそのことが絵に活力を与え、ユダヤ人の画商にとうとう認められることになる。果たして政治家になるべきか、画家になるべきか悩むヒトラー。エンディング付近は特に凝った演出が多くて非常に感動した。こういう芸術性の高い映画は貴重だ。ぜひ自分の目で、結末を確かめてみてほしい。  
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2006年11月06日

第83回「すぐわかる宝飾芸術」山口遼著 東京美術

自分は割と宝飾類が好きである。あの自然から生まれた「光」と、人間のものとは思えない技術のコラボレーションが仰々しくも美しいからである。もっとも、それで自分を飾る気は微塵も起きない、というか地味目な自分には全く似合わない。興味と似合うかというのは別ということだ。服飾も自分の中では同じ扱いである。話を元に戻すと、興味はあると言いつつもさっぱり知らないので「よくわかる」シリーズに頼ってみることにした。

この本は様式別に非常に整理されていて読みやすかった。基本理念の変遷は他の芸術のようである(中世→ルネサンス→バロック→新古典→ロマン→モダニズム)。値段はやや高いがそれ相応のカラー写真の量で想像しやすいのもかなり好印象だ。宝飾芸術なのだから、やはり実物を見ることが一番大きいと思う。その意味で、この本があくまで入門編であることも含めて、自分はこの本で宝飾芸術を理解できるようになったとはとても言えないが、相当参考になったのは間違いない。

本とは関係ないが、自分は半貴石のほうが普通の貴石より好きなようだ。貴石はやはり、仰々しすぎる。


すぐわかるヨーロッパの宝飾芸術
  
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2006年11月02日

こうなると辞書も虹色

何気ない話から、「虹」という言葉についての話題になった。元々は虹色の薔薇ができたとかで、虹色って英語で何だ?という話題だった気がする。ついでにその虹色の薔薇はオランダ原産らしい。日本語の虹は見ての通り、尺取虫が由来となっている。

どこの言語でも、ひとまずは形から入るのが筋らしい。英語は知っての通りRainbow、つまり「雨の弓」である。ドイツ語はまったく同じで、Regenbogen。Regenが雨でbogenが弓。話題の大元になったオランダ語もまったく同じでRegenboog。

ではラテン系はどうかというと、フランス語も有名だろう、L'arc en Cielで「空の弓」である。arcが弓でCielが空だ。ラテン語はarcus pluvius。pluviusが雨なので、なんとゲルマン語系統に近い。フランス語が特殊なのか。

なんかセンスのある言語は無いのか、と探してみるとイタリア語はかっこいい。arco balano。直訳するとなんと「輝く弓」。balanoは英語のlightningにあたる。スペイン語もかっこいい。arco iris。irisはアヤメの花のことだが、ギリシア神話では虹の女神の象徴でもある。ギリシア語ではIris一語で虹の意味とのこと。「アイリスの弓」とは、実に凝っている。ちなみに英語でも「虹色」で辞書を引くとiridescenceと出てくるはずで、これの語源はirisだ。(cenceの部分は形容詞化語尾、iridesはirisのラテン語所有格変化。)

やっぱスペイン語が優勝かな、と思って辞書を閉じようとして、最後にダークホースがあった。南独方言ではregenwurmで虹のことを差すらしい。wurmとはワーム、つまり東洋的な胴の長い竜のことを言うので、直訳すると「雨の竜」。個人的にはこの表現が一番おもしろい。  
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2006年11月01日

多段オチ

今日は突然3限が休講になった。これは伴大納言の導きだと思い、出光美術館の国宝『伴大納言絵巻』を見に行くことにした。みっちーの話では今週だけは全品本物らしい。これは見ておかねばなるまい。

家で準備して出発して、2時半やや前。本郷通りを一気に駆け下り、聖橋を越え、明らかに場違いな大手町を越えて皇居へ。ちょっと道を間違えて遠回りして皇居の中に入る。つい最近授業でやっただけにちょっと感動。これが二重橋か、これが楠木正成か、などと感心しながら出光美術館に着くと、超人だかり。何々、150分待ちとな?……現在、2時50分。閉館、5時、入場は4時半まで。OKOK、どう考えても入れない。これからは

サークル「伴善男」=シャッター前

と認識を改めよう。文化の日にリベンジしてやる。シャッター前なんだから、それなりの対策が必要だ。さて、伴大納言に招かれたわけではないとしたら何に招かれたんだろう?やっぱアキバの神様なのか?と北上していると、将門塚を発見。なるほど、こいつに招かれたのか。


将門塚1将門塚2












帰りは秋葉原を通り過ぎ、浅草でDVDを返却&借りて帰った。来週のブログの主戦力は映画のレビューになるかもしれない。ならないかもしれない。浅草で外国人に話しかけられる。すでに5時を回っていたので今更浅草寺か?などと思っていると"I lost the JR Asakusa station."ただ道に迷っただけだったらしい。説明がめんどかったので、結局浅草駅まで案内した。東京おもしろかった、とか言っていた。お世辞かもしれないが、嬉しいものだ。

さあこれで今日の行動もオチがついたな、と自転車をこいでいると、赤門の付近で向かいから歩いてくる男子学生二人が「○○○(J高校のこと)の人はやっぱり〜〜」と語り合っているのが聞こえた。文末が聞こえなかったのが残念でならない。やっぱあれか。「J高校の人って変人が多いよね」なのか。
  
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