2006年12月24日

そういえば天皇誕生日に皇居か

ようやく近代美術館の「揺らぐ近代」に行ってきた。

明治期の日本画と西洋画を併置して鑑賞させるのは確かにおもしろい試みだったと思う。実際おもしろかった。明治と大正時代というのは「揺らぐ」のが許されるのが時代であって、そういえば今までそういう試みが無かったのが不思議なくらいだ。洋画とか日本画というよりも「明治画」とか分類すればいいんじゃなかろうか。

で、実際の展示を見てみると確かに西洋画と区分すべきか日本画と区分すべきかわからない絵が多かった。油絵で描かれてはいるものの明らかに日本画の筆遣いだったり材が日本風だったり、膠顔料だけど技法は洋画だったりした。木下先生が「もっといい作品が集まったんじゃないか」とか批判していたが、とりあえず十分だったんじゃないだろうか。


具体的に述べてみると川上冬崖は個人的に好きだが超レアでよくあったなと思う。高橋由一と狩野芳崖は当然充実していた。やはりこの三人は外せない。原田直次郎の《騎龍観音》は見れてよかったと思う。原田直次郎がこんな大作を描いていたなんて驚きだ。

チラシにも使われていたが、小林永濯の《道真天拝山祈祷の図》が確かにこの展覧会の目玉かな、と思う。あれが日本画とはなかなか思えない。かといって荒々しい筆遣いといい色使いといい、洋画の影響は大だ。


残りは萬鉄五郎とか藤田嗣治とかいたがそこら辺まで行くと何か違うと思う。エコール・ド・パリとかキュビスムまで行くと、○○派というより個人主義なのであって、それを西洋画とか日本画とか言うのは無理やりかなと。この企画展示のテーマだったら明治・大正で展示をやめておくべきだったと思う。

あと、入れ替え品が多くて残念だった。それならそれでそう宣伝してほしかったな、と思う。まあそれで二回行くかどうかは微妙なところだけど。  

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2006年12月18日

隠者の庵、という意味らしい

flamengいろいろあってこんなにブログを放置したのは久しぶりだが、まあ適当に振り返ってみる。まず、日曜日はDiLと都美のエルミタージュ美術館展に行ってきた。案の定すごく混んでたが、ちょうど入場規制する直前に入場したらしく、自分たちの後ろからどんどん空き出すという幸運に恵まれた。

最初は知らん画家ばっかりでやや不安になったが、後ろに進むにつれ大物が出てきて安心した。別に知名度にこだわるわけではないが、やはり大物のほうがうまいと思えるものが多いのは確かだ。というか自分がわからなかったのは、単に今回の展示がジャンル別で分けられていて、1部が「家庭の情景」、2部が「人と自然の共生」、3部が「都市の肖像」だったので、単に自分が風俗画に詳しくないだけなのかもしれない。風景画と静物画なら自信があるのだが。

知らない画家でももちろんすごいと思った作品は多い。まだまだ勉強が足りない。せめて専門に近い範囲や好みの画風の画家の名前は覚えてしまいたいものだ。というより、そうやって覚えていくのが一番の近道なのではないか。たとえば↑の絵はフラマンというアカデミーの画家の非常にすばらしい絵だが、全く知らなかった。

もちろん今回の展示で自分が一番注目したのは第2部の風景画なわけで、ライスダールもロランも大作が来ていて、それだけでも来たかいがあったと思える。もっとも、彼らの作品は大作志向なうえにそもそも数が多いので実はしょっちゅう見ており、大してありがたみはなかったりする。


ちょっと専門的な話をすると、一応美術史上ではライスダールが写実的な風景画で、ロランが理想的風景画と区別されるが、極端に反対なものはどこかで一致してしまうという一般的な法則の通り、彼らの作風はどこか似ていると思う。もっと正確に言うと、ライスダールの作品も十分理想的風景というか、確かに題材となっている風景はありふれた光景なんだけど、うますぎて現実には見えない。ロランは最初からそこをあきらめているというべきか、見た瞬間「こんな風景無い」と思える。

もっともライスダールの作品は確かに荒々しく、ロランの作品は優しげで、その意味では確かにライスダールが現実主義でロランが理想主義なのかもしれない。そうすると、自分の好きなロマン派の風景画はどこに置くべきだろうか。絶対に現実にはないような理想主義的な風景ながら、荒々しい。非常に興味がある。似たような理由で、廃墟画も好きだ。今回の展示にも複数の作品が来ていた。


カタログを買って帰った。見てみるとかなり気合が入ってるのか、キャプションがめちゃくちゃ詳しい。これは金欠ながら、いい買い物をしたと思う。  
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2006年12月14日

第88回「中国の美術」古田真一・山名伸生・木島史雄編 昭和堂

3年の前期に中国水墨画の授業をとるもさっぱりわからず、てこ入れのために買った本。装丁がいかにも「興味はあるけど前提知識のあまり無い人」向けであることを示していたので、著者は知らない人ばかりだが信頼して購入した。

内容は多岐に渡り、水墨画や墨蹟だけでなく陶磁器など幅広く扱っており、広範な入門書といえる。著者が複数の本にありがちな特徴の難易度にかなりのばらつきがあるというのが最大の難点。形式などもばらばらでなんらかの統一をとってほしかった。まあ自分にとっては、一番知りたかった水墨画関連がちょうど良い難易度だったのでたいして困ることはなかった。

逆に最大の美点はどこかというと、きちんと中国美術の見方の基礎を書いているところであり、単なる作品紹介、美術史のおさらいで終わらなかったところだ。こういう部分が、さっぱりわからないけど興味はあるという人にはありがたい。特に墨蹟の見方について具体的に書かれていたところがすばらしい。おそらく著者自身が、この分野のとっつきにくさを自覚しているから、書けたのだろう。

ページ数は230程度で字も大きいが、本自体も大きいうえに情報量としてはぎゅうぎゅうにつまっているので、一周読んだだけでは覚え切れなかった。何周か読むのが、この本の正しい読み方だろう。索引や参考資料が詳しいのもありがたい。また、それなりに美術史的な読み方や中国史の知識は必要なので、まったくまっさらな人はもっと簡単な本をお勧めする。


中国の美術―見かた・考えかた
  
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2006年12月10日

へうげものの気分が味わえた

今日は地下鉄に乗って目黒まで行った。初めは庭園美術館のアールデコジュエリーを見に行くつもりだったが、庭園美術館に着いたところで人の多さに萎えて止めた。まあ庭園美術館の景色が美しかったので許してやろう。そういえば、去年もこの時期に庭園美術館に行ったような。ブログの記録に残ってないから、一昨年か。どうもこの辺の記憶がすでにして曖昧だ。

そうして庭園美術館を通り過ぎ、非常に複雑な港区の街路を通って畠山記念館へ。珍しく迷わなかった。今日は勘が異常に冴えていた。加えて、港区の街路が美しかったのもある。趣味のいい豪邸が立ち並ぶ中、心地よい程度の寒風と足元で音を鳴らす落ち葉。まどうことなき小説の一場面である。

途中で外国人の夫と日本人の妻、4、5歳の娘二人という家族が家の前で落ちてくる落ち葉を空中でキャッチする遊びに興じていた。それはもうほほえましい光景だった。娘が"Oh, your way!"と父親に落ち葉がそっちに行ったことを伝え、父が必死に追いかけるが落ち葉は風に翻弄され取れないような方向へ……そこで父が一言"Oh......ああ、無理。" おいおい………傍観している自分が言うのもなんだが、雰囲気ぶち壊し。外国人パパよ、英語で言ってくれ。my godでいいから。

そうこうして畠山記念館に着く。こちらも西洋風・明治的な庭園美術館とは対照的に、中国風の庭としては大変美しいものだった………遠景に見える高層ビルさえなければ。ああもう、景観破壊しすぎ。日本人は景観にもっと気を使って欲しい。

畠山記念館では今中国画展をやっているという触れ込みだったが、なんてことはない、茶碗ばっかり展示してあった。まあその茶碗がいいものばかりだったので文句は無い。350円と安かったし、庭だけで350円分の価値があった気がするから。

茶碗は青磁から赤絵染付まで、中国産から日本のものまで、茶器から壺までなんでもあった。おおよそその価値はわかるつもりだが、どうにも茶杓だけは価値がわからない。安っぽい耳掻きにしか見えない。少数飾ってあった中国画は、牧ケイ(漢字出ず)が多かったが、自分牧ケイ嫌いなんだよね……夏珪のほうが好きだが、これは一点しかなかった。

帰り道、行きと同じ道で帰ると、今度は散歩中の、行きに落ち葉拾いをやっていた外国人家族と遭遇。奇遇すぎる。まあ、なんか不審な目で見られた気がするけど気にしない。気にしたら負けだ。


下宿に帰ってきて、今日見たものを頭の中で整理したが、やっぱり茶杓って耳掻きだよね。今日の結論は、残念ながらそれのようだ。  
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2006年12月06日

Ecole (Innocence)

エコールという映画を見に行ってきた。まあレビューは自分が書くよりもここの人のものを読んだほうが参考になるだろう(12/2の日記)。というか、自分がこれを読んで見に行った。噂に違わぬ映画だった。

なので、ここではちょっと違うことでも語ってみる。それはロリコンに対する日本と欧米の考え方の違いをこの映画で如実に感じたからだ。根本的に違う。まず、日本人が少女というと割と肉感のある、丸みを帯びたものだが、向こうではやせ体型が少女となる。エコールの少女たちも皆ガリガリである。あ、一部違ったけれども。あれは見なかったことにする。どう見ても悪役だし。

それに日本の少女というと無垢さだけにスポットが当てられ、天真爛漫に描かれがちだが、欧米の少女とはまんま原作「ロリータ」であって、つまり小悪魔である。無垢だからこそ恐ろしく、躊躇が無いのだ。エコールでも、少女のダークな面がおおっぴらに描かれている。

そんなわけで、これなんてエロゲ?を期待していくとまったく違うものが待っている。いや、そうでなくても普通に興味深い映画であって、むしろそういう目で見てはいけない映画だと思う。上述のレビューにもそう書いてあって、非常に同感であった。

ところでこの映画、実は非常に難解なんじゃないかと思う。非常に示唆的で、例えば冒頭、水流が映され水中からカメラが浮き上がるシーンであるが、これはフロイト的に考えなくとも女性(子宮)の象徴だろうし、新たに入学する少女が棺おけから運ばれてくるのも、第二次性徴が「(女性にとって)第二の生である」(byボーヴォワール)の象徴だろう。覚えてないだけで、終始示唆的なものが目に入っていて、頭を悩ませながら見ていた。

物語も見終わった今非常に謎だらけで、結局卒業した少女がどこに運ばれていったのかもわからないし、入学する少女はどんな事情であそこに運ばれてくるのかも明らかになっていない。まあなんとなく想像はつくのだが……もし想像通りならば、本当にダークな映画である。  
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2006年12月05日

第87回「美術という見世物」木下直之著 ちくま学芸文庫

美術という単語が日本に入ってきたのは明治であり、Fine Artをがんばって訳したものである、なんていう話はよく聞く話だ。新しい概念が入ればその業界に革新と混乱が起こるというのは当然の話で、そんなことが日常茶飯事だったのが明治時代である。むろん、「美術」だってそうだ。

もう一つ前提となる話をしたい。大衆文化と高尚な文化に「分化」するということは、その文化が成熟したことを示す。すなわち、逆に言えば未成熟な時代にはそれらにたいした区別が見られず、雑多な存在だったということだ。

これらを当てはめて明治期の文化を照らし、「見世物」がどんな様子だったのか概観しているのがこの本である。構成は前書きと後書きに自らの体験に基づくエッセーとそこから導かれる上記のような概念を提示し、残りの大半のページを使って当時の見世物の様子を叙述する、という形をとっている。

上記のような概念に関してかなり共感を抱き、かつその「雑多なもの」がかなり好きな自分としては、なかなか興味深い内容であった。ただし文句を一つつけるならば、見世物の叙述が単調すぎて、「また同じパターンか」と思うことがしばしば。まあ新たな文化が流入する様子なんて、どの分野でも似たような現象が起きるものかもしれないが。しかしそれならそれで文章や構成のほうの工夫がとれればよかったと思う。本自体もかなり厚いのだから。著者自身も後書きで書いている通り、註が非常に多いのも、この本の特徴かもしれない。内容から言って、あまり興味のある人はいないだろうと思われ、お勧め度は低い。


美術という見世物―油絵茶屋の時代
  
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