二周年記念があれだとあまりにもさびしいので何か書いておこう。私は以前「ヲタクとは究極的に少女になりたいのだ」と書いたことがある。そしてまた「自分が何か作品に触れるとき、それは第三者視点であることが多く観点も唯美主義的であることが多い」とも、何度かこのブログ上で書いている。
この二点こそが、私が百合好きであることの説明になっていると言えるだろう。目の前で美少女(無論二次元に限る)が複数人でいちゃいちゃしているのを見るだけで、すでに幸せになれる。それはあまりにも耽美な光景であり、男などという穢れた存在は必要の無い空間が構成されている。
やはり自分の百合の入りは『マリみて』だったのだろう。あの作品が多くの人にとって優れていた点は、紅なら裕巳、白なら乃梨子、黄なら由乃が割と男性視点に近い役割を与えられているということだ。裕巳ちゃんは庶民代表で、乃梨子は仏像ヲタだったりパソコン使ったりで一番我々に近い。よしのんは最もギャルゲにいそうな(元気系の)キャラという意味ではその通りだろう。そしてそんな中性的な彼女らだからこそ、逆説的に「究極的には少女になりたい」我々には、特に少女らしく見える。ちなみにその中でも自分が特に白薔薇さんちが一番好きなのは、まあ一番ガチガチな百合だからだろう。意外にも紅薔薇が一番ドライな関係な気はする。
東方シリーズのおもしろみは設定の緻密さ、すなわち弾幕の名称や形状と音楽の絡み合いにあるとは思うが、百合的カップリングが半無限的に製造可能な幻想郷という設定でなければこんなに深入りしなかっただろう。『アカイイト』もあれの真のおもしろみは叙述トリックを最大限生かしつつ、かつビジュアルノベルの大枠は破壊していないというメタ的なおもしろさだと思うが、それもやはり遠野を思わせるような(それこそ幻想郷のような)場所での百合という神秘性が無ければひきたつことは無かっただろう。
そう、結局のところ「越えがたき」境界であるがゆえの神秘性、美しさが自分の感性の基盤になっているのだ。百合ではなくて単体の女性で見たときの自分の属性も、神秘性であった。
しかしこの不可侵性は、自分にとってオタク趣味以外においても発揮されていると思われる。神秘性この越えがたき壁は、けして越えてはならない。むしろ越えようとしても行けない。だからスポーツは観戦するだけで自分からはやろうとしないし、小説も読むだけで書かないし、音楽も聴くだけ、美術も見るだけ。全て受動である。
実践主義は間違っていない。むしろそれは正しい。だがそれでも、自分は受動のみの視点だからこそ見えてくるもの、絶対的な領域の外側にいる人間だからこそ見えてくるもの、それを大切にしたい。そこを基盤にして、全てのものを「観察」することが出来れば、それは幸せなことだろう。