2007年09月30日

東京らしい出来事……?

さーて、眠いからK-1の感想は明日の朝書くかな、と思って寝たのは午前2時頃だったか。目覚ましをかけずに就寝して、午前9時ちょっと前、突然ジリリリリリリとけたたましいサイレンの音で目が覚める。最初は他人事のようにうっせぇなあとか考えていたんだが、どうやら音がかなり近いらしい。

ん?実はけっこうまずい状況?と頭を無理やり働かせ、適当に服を着て卒論の資料の入った外付けHDDと財布、携帯だけかばんに詰め込んで下宿のドアを開けたら




目の前が白かった。




煙で5cm先が見えないんだけど……さすがに生命の危険を感じ、いそいそと下宿を脱出。超煙い。一瞬で喉と鼻と目をやられる。火事で一番怖いのは火じゃなくて煙による酸欠とはよく聞くが、そりゃほんとかもしれん。いかにも白くて無害そうなあんな煙でも、密集すれば前は見えないし息は出来ないし目は痛い。

なんとか下宿を脱出して本郷通りまで出ると異様な数の救急車と消防車が到着していた。振り返るとkeep outのテープ。あれ見たの、人生で二度目だよ。前は駒場の下宿だったな、とかどうでもいいことを思い出したが、よく考えたら振り返ったらすでにテープがあったってことは、俺危険地域にいたんじゃん。それ、サイレン鳴るの遅くね?

見る人が見れば場所が特定されるかも











左側に我が家。テープのすぐ目の前まで白煙が立ちこめ、うっすらと真っ黒い煙が見えた。アパートが燃えたらしく、人が次々と避難してくる。幸い救急車で運ばれた人自体は少なそう。人間落ち着くとどうでもいいことを考えるらしく、煙のギリギリ来ない位置から「おいおい……ここはもう江戸じゃないはずだろ……」とかどうでもいいことが思い浮かんだ。

大雨が降っていたせいもあってか、1時間強で鎮火。火元はうちの裏の裏の木造民家。必死に避難してたのは真裏のアパートっぽい。うちの最上階から見下ろすと民家が見事に崩れ落ちた様子と、真裏のアパートの、我が下宿に割りと近いところまでこげてるのがよく見えて、改めて背筋が凍った。

鎮火してすぐ避難勧告らしきものは解除されたが、煙くてとてもじゃないが下宿には帰れないので東大の図書館に避難。日曜日は誰もいない。のんびり勉強して精神を落ち着けて、さっき帰ってきた。なんかもう……いろいろ疲れた。



皆様、くれぐれも火元にはご注意を。  

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K-1GP 2007 開幕戦 in ソウル

さすがに開幕戦だけあってそれなりにレベルの高い試合が多かったと思う。ただ、レベルが違いすぎる組み合わせが多くて萎えたのは間違いない。カラエフの代わりはもっとマシなのがいただろうに、なんで韓国人プッシュするかな。まあ、交通事故起こしたカラエフが一番悪いんだが。

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2007年09月28日

東京らしい出来事

今回もざっくばらんにお送りいたします。


・さっきうちの下宿の前で、テレビ局がドラマらしきものを撮影していた。ものの1時間のロケだったが、こんな何の変哲も無い場所で何を撮っていたのだろうか。「ここでの撮影はまた後日となります、次は銀座で移動です。」という声とともにすごい早さで撤収していったが、だったらそもそも銀座で似たようなロケ地を探しておけば移動の必要が無かったんじゃないかと思う。

・今年のCEDEC(デジタルゲーム開発者会議)はなんと東大、それも安田講堂だった模様。東大のデジタルゲーム研究会の会合と共同開催、しかも今日。配布された資料は900Pという力作だったとか。知ってても参加はしなかっただろうけど、知ってれば参加者の観察くらいはしたのに。大物がぞろぞろいたんだろうなあ。もったいない。馬場先生にはがんばってほしいものです。

・秋の美術館特別展ラッシュに死にそう。良いのが来てるってよりは、勉強したら守備範囲が広がって、良いものを全部見ようとしたら毎日美術館の羽目になりそうといったほうが正しい。とりあえず、10/1は損保ジャパン美術館が入館無料の日なのでここでベルト・モリゾ展に行こうかと。「タダなら見に行ってやるか」って人はご一報を。その次は新美術館のフェルメールで、その次はムンク展かな。あ、ムンク展の金券が研究室にあったよ、とかこっそり言ってみる。


・大相撲の時津風部屋の不祥事にはうんざり。ビール瓶で頭殴れば力士でも死ぬだろ……常識的に考えて。朝青龍にあれだけの厳罰を処したんだから、こっちも親方としごきに参加した力士の廃業は当然だわな。北の湖が辞めてもいいくらい。しかし、時津風部屋というと豊ノ島他、幕内に3人もいる名門なわけで、ここでこれなんだから他も、と思うと悲しくなる。今の時代、スパルタははやらないし、リンチでストレス解消とは、そんなもの日本の武道ではない。


・スクールデイズ最終回視聴。と、その前に巷で話題のNice boat商法(アニメの最終回が見たかったら原作エロゲの未開封商品買ってこい)だけど、最初空気読めよとか思ったが冷静になって考えれば当然の商法だったんじゃないかと。本来ならDVD待ち2月にならないと見れないってところを、7000円で見せてやるってわけだが、見たい人なら見るでしょ、今回のアニメは神作品だったし。あこぎには間違いないけど、曲芸商法やあのね商法よりは倫理的だと思うよ。

んで、肝心の中身については、原作を完全に超えたね。予想通りのオチといえばそうなんだけど、予想通りやられると逆に驚く。ただ、どうせ放映するなら妙な自粛なんてせずに血は真赤が良かったし腹裂いた中もしっかり映してほしかった。ところで、刹那がフランスに行ったフラグを回収してなくね?まあ、いろんな意味でアニメの歴史に残った作品だった。グロと昼メロ展開に耐性があるなら、見ずには死ねない作品。

・ついでになのはの最終回。こっちはあまりにあっさり終わりやがって拍子抜け。結局、人を守るならチートも辞さないくらいの覚悟がいるよってことですかね。そういう意味ではとらハ3のテーマの焼き直しそのままなんだが。ところで、名前覚えてないんだがナンバーズのなのはさんにバズーカ対決を申し込んで負けたあの子、助けられてなくね?まあ4期はないでしょう。都築御大には、是非また新シリーズで活躍していただきたい。  
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2007年09月27日

明智光秀

昨日カシンの化身に誘われて、なんと巨人・中日戦天王山最終決戦を見ることができた。彼には最大限の感謝をしたい。チケットは指定席が早い者勝ちということで(規定数を超えた分は立ち見券扱い)、指定席券引き換えの列には4時間前から並んだ。コミケ並の気合の入り方、といえば聞こえはいいかもしれない。カシンの化身のうだうだ会話しながら待って、良い場所をゲット。ちょっと並ぶの早すぎたかもわからんね。2時間前くらいからで十分だったかも。

午後6時プレイボール。初回、いきなり尚成乱調でノリタイムリー、森野3ランで4点先制。相変わらず森野さんは3ラン男ですね、奇妙な能力すぎてパワプロには採用されないだろうけど。その後英智が続くが、いきなり負傷退場で井上選手会長と交代。思えば、これが中日の運の尽きだったのかもしれない。井上、最近ずっと当たってないじゃん……今日も何度彼に流れを止められたことか。井上は好きな選手だから、あんまり言いたくは無いが。

一回裏、ビョン吉の華麗なる守備で谷のどう見ても二塁打を外野フライにする。君はいつもそのくらい機敏ならいいのに……常日頃の君の緩慢な守備は韓国に帰りたがっているようにしか見えない。二回表以降、中日は出塁し二塁を踏むものの本塁に帰ってこれない。が、「中日ファンには見慣れた光景だよ」と隣のカシンには説明しておいた。

だからこそ、初回に取れた4点は守って欲しかったんだが、朝倉の不調は目に見えていたんだから、落合監督は少なくとも5回3失点の時点で石井か久本にスイッチすべきだった、というかドームでそうカシンにそう愚痴ってた瞬間にスンヨプがぽーんとホームラン。だから言ったのに、と。それに比べて簡単に尚成を降ろして野間口にロングリリーフさせた原監督の采配は正解だった。普段中日は落合監督の名采配で足りてないチームパワーを補っているところがあるが、今日に限っては巨人にそのお株を奪われた。

加えて言うならば、3回の荒木の失策がこの試合の全てというか、今年の中日の全てを象徴していたと思う。今年の失策の多さは異常。1アウト満塁から1点も取れない機動力野球はまあいいとして、中日のチームカラーである守り勝つ野球が実践できないようでは優勝できるはずがない。まあ外野が英智はいいとして、残りが森野とビョン吉って時点でたかがしれてる気もするが。福留の穴はあまりにも大きい。

それにしても、巨人の打線は迫力が違う。脇谷以外全員4番を任せられる。逆に言えば、なんでこの戦力で中日や阪神程度とこの時期まで優勝争いしてんの?ってことなんだが。まあ中日ファンとしては、あとは巨人の二連敗と中日の七連勝を祈るしかない。天文学的確率とか言わないで、悲しくなるから。  
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2007年09月26日

美しい土地、美しい絵画

Canaletto前回休館だった駒場図書館にリベンジすべく再び駒場へ行ったらなんと「明日」休館日だった。ギリセーフというか、今回に限っては悪運が強かったとでも言うべきか。探してた本はすぐ見つかった。それにしても、駒場の美術史系の文献の少なさは異常。これ、表象に行ったらけっこう本郷に足を運ぶか、駒場図書館の職員のお世話になるかになりそうな気がする。

まあ駒場に足を伸ばしたのはぶっちゃけついでで、真の目的は文化村のヴェネツィア絵画展。学期前に行けるものには行っておこうかと思い。ちなみに、あと損保ジャパンのベルト・モリゾ展で夏休みは終わりにする予定。そしたら次は大徳川展かな。大徳川展はあまり期待してなかったけど、出品リストを見て行かざるをえなくなった。

それで今回見に行ったヴェネツィア展だが、ヴェドゥータ(都市景観画)を見に行った。と言ってもティツィアーノからロンギまで、と副題があるように、全部が全部ヴェドゥータというわけではなかったが、最初に出迎えてくれたのは一枚の巨大なヴェドゥータということから、文化村の職員もスポットはここと考えているのだろう。

まず、ルネサンス期のヴェネツィア絵画のゾーン。思うに、ヴェネツィア派の淡くて田園詩としばしば表現される画風は(フィレンツェは対照的に歴史画的といわれる)、実はかなりロココに近いのではないかと思う。基本的に時系列的な並びで展示してあったが、ヴェロネーゼとティエポロの間には違和感がほとんど無かった。バロックをすっとばしたような地続き感は、こうして見るとおもしろい。

ジョルジョーネは来ていなかったが、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレット、ヴェッキオといったそれなりに知名度の高い画家はそろっていた。注目はヴェッキオの《未完の風景の中のウェヌス》だろう。ティツィアーノのウェヌスを知っている人なら、この絵を前にしてにやりとせざるをえまい。

そして18世紀へ。ティエポロはやたらいっぱいあった。やはりヴェネツィアを代表するロココ画家という位置づけだろうか。個人的にはフランチェスコ・グァルディがそれなりに来ていて喜ばしかった。目を引いたのは、ヨーゼフ・ハインツという画家の《アイソンを若返らせるメディア》という作品で、画家がボッスやブリューゲルの版画から学んだ、ボヘミア出身の画家というだけあって、明らかに浮いている画風となっている。確かに、あの辺の北方系の絵によく似ていた。

そして最後にヴェドゥータゾーンへ。宣伝ほど数が多くない気もするが、そこには目を瞑ろう。ヴェドゥータは現代の富豪にも人気の作品であるため、個人蔵が多い。借りてくるのが大変だったのではないだろうか(ちなみにそのせいで、小品でさえ数億円で取引されるので日本の美術館では予算不足で購入できない。日本の美術館の常設展示でヴェドゥータがあることは極めて珍しい。)

少ないながら、もってこられたものは私を十分に満足させるものであった。あの紺碧の色をまとったまま漸近する海面は、どうすれば描けるのだろうか。図版で見るとつぶれてしまっているが、実物を見ると極めて細かな作業が施されていることがわかる。これが実におもしろい。今更ながら50選に入れてもよかった気がしてきた。カナレットもベロットも好きだが、ベロットのほうが線が太く、建物の硬質感が強くて好き。ただ、あの線の太さはもはやヴェネツィア派ではないのかもしれない(彼は後年、ドイツのドレスデンで画業に専念した)。


しかし、さすがにこうも連続して美術館に行くとさすがに疲れた。立っている時間自体はものの2時間くらいなもんなはずなのだが、それだけ頭を使いながら見ているということなのだろう。これくらいでへこたれていてはいけない。自分もまだまだ修行が足りない。  
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2007年09月25日

全体的に予定調和

予想通り白鵬の優勝(13勝2敗ではあるが、事実上の圧勝と言えるだろう)で終わり、若手の躍進が目立ったがこれも予想通りといえよう。若手が着実に伸びてきている。安馬や豪栄道はあと数年のうちに大関入りするのは目に見えている。自分がけなしたことは関係ないと思うがw、稀勢の里一人元気が無かったのが気になるところではあるが。この先当分、若手に大関陣が脅かされる中、白鵬が優勝をかっさらう形が続くのではないだろうか。

琴光喜はあのガラスのハートを考えれば、大関になって初めての場所でよく二桁乗せたと思う。残りの大関はふがいない。満身創痍の千代大海と来場所引退の魁皇は仕方が無いとして、特に琴欧洲は許しがたい。勝ち越してからは無気力相撲に近く、場所の後半の緊張感を緩めていた。来場所は猛省を促したい。

安美錦は予想通り後半崩れた。やはりあの怪我が厳しいし、実はけっこう年だ。地力が強いだけにもったいないが、関脇がやはり限界なのではないだろうか。私的には、来場所は是非琴奨菊に期待したい。がぶり寄りが場所ごとに良くなっている。まわしを取るところまでを迅速にすれば、三役にも定着できるだろう。それにしても、佐渡ヶ嶽部屋は安定して強い。

豪栄道を14日目に白鵬と組ませたのはやりすぎだったと思う。安馬に負けた時点で優勝はほぼ無いのだから、翌日千代大海戦が決まっていたことは仕方が無いが、白鵬戦は外せたはずだ。豪栄道には良い経験になったかもしれないし、確かに琴欧洲とやるよりは良い取組になったとは思うが、こういう見せ掛けの番狂わせを演出しては、「番付」の意味が薄くなってしまう。

最後に、把瑠都関三度目の十両優勝おめでとう。まあおめでとうと言っていいものかは微妙だが。まだ膝は治ってなさそうだが、治しながらでも番付下位には定着できるはずだ。若いのだし、じっくりがんばってほしい。


さて、十一月場所の予想番付。関脇は三人になると予想。  続きを読む
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2007年09月24日

東洋の精神

海棠目白図昨日は花鳥画デーということにして、六本木の美術館を回ってきた。花鳥画はジャンルとしては風景画の次に好きだ。ちなみにその次が静物画で、風俗画、静物画と続く。つまり、興味の序列としては岩>植物>人工物>動物>人間ということらしい。萌え絵が好きなことを考えると普通に人間の絵も好きなはずなんだが、まともな絵だとどうしてもこういう順番になる。またDiL辺りに「お前は神秘性にこだわりすぎだ」と言われてしまいそうだが、要は人間から遠ざかるほど神秘性を感じるということなんだろう。

まず、サントリー美術館のBIOMBO(屏風)展。実は急いで昨日行ったのは、京博の《山水屏風》の展示が24日までだったからだ。平安時代の作と断定されている山水屏風はこれと東博のもののたった二点しかなく、大変貴重な品である。どっちも完全なやまと絵で良いのだが、個人的にはこの京博のほうが人物や秋草の様子が生き生きとしていて好きだ。

その他だとまあ南蛮屏風は割りとどうでもよかったが、近世の屏風が多くてよかった。狩野派を中心に土佐派も多くそろっていたように思う。一つを選ぶのなら伝土佐広周の《四季花鳥図屏風》を推したい。伝原在中の《白絵屏風》もおもしろい品だった。水墨画とは逆に、白一色で輪郭を描くとは、美しい。まさに吉事を祝う屏風としてふさわしいものだ。

そして、各所から集まった屏風が合体復元されていたのには感動した。屏風というのは襖絵を分解して作られる場合もあり、その屏風がバラバラの美術館に所蔵されていた場合ほとんどピースの合わないジグソーパズル状態なわけで、その復元は難しい。今回はケルン東洋美術館とサントリー美術館、メトロポリタン美術館の三隻が見事に組み合わさり、確かにこれが元は一「部屋」だったことを確認させてくれる。この襖絵を見せるために美術史という学問は存在するのだなと思わせてくれた。

しかし、一つだけ苦言を呈すると、狭い会場に巨大な屏風を展示しようとするから仕方の無い話ではあるのだが、展示替えがあまりにも多い。リストには100以上載っているのに、実際に見たのは60か70か。全部見るためには4回くらい通う必要があるだろう。見たいのにないものもあって、少々残念ではあった。


サントリー美術館に満足し、六本木一丁目へ。六本木と言っても少し外れてるとけっこう寂れている。大通りなのにシャッターの降りている店が多く人通りも少ない。空気も悪いし、けして住み心地の良い街とは思えないのだが、金持ちはそれでも住んでいるわけで。つまり彼らは車で生活しているから、地元の風景など見ないのだろう。

そうして泉屋博古館にたどり着いた。泉ガーデンプレイスのはずれにあるこじんまりとした美術館で、住友グループ系の美術品を取り扱っている、本館は京都の東山にあり、東京にあるのは分館である。今回ここでやっているのが花鳥礼賛展、というわけだ。

展示してあったのは京都画壇の花鳥画の掛軸が多く、展示数は少ないが感動したものが多かった。いくつか挙げるならありきたりだが伊藤若冲の《海棠目白図》(画像のもの)、円山応瑞の《牡丹孔雀図》、椿椿山の《玉堂富貴・遊蝶・藻魚図》。どれもそれぞれの画家の特徴を示していたが、やはり江戸後期の絵画の共通点として、物体描写の偏執的なまでの細かさ(没骨法なのでけして線ではないのだが)や鮮やかな色遣いは挙げられるだろう。中国趣味の濃いものも多く、そういう意味でもおもしろい展示であった。

中国絵画を展示している美術館は少ない。こういうこじんまりしたところにもがんばってほしいと思うし、自分のアンテナも伸ばしておきたいところだ。  
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2007年09月19日

思い出して、くれますか?

ニコニコでとらハ関連の動画を偶然発掘してしまって、そこからタグでいろいろ見てしまった。懐かしさでマジ泣きしてしまった。お前、あの下手くそな風に負けないハートのかたちは反則だってば……以下、98%の読者は置いてきぼりの話。

というか、そもそも今現在とらハ好きってどのくらいいるのだろうか。現役のエロゲヲタに限れば、相当数が減ってしまったんじゃないか、この間の同人の流行から考えても。とらハも、自分がまだ全然存在しなかったような時代のコミケならそこそこの規模を誇っていたはずだと思う。元々1桁だったとは考えづらい。



自分がとらハを知ったのは大学1年の秋頃だった。最初の動機はI'veが聞きたいだけだったが、とらハ3の美由希ルートをクリアして考えを改めた。この作品は古典とされるだけはある、と。そこでとらハ1をインストールしたのが運の尽きというか、綺堂さくらに出会ったことが人生の転機というか。後はのめりこむように、1・2・3・FD×2と駆け足でクリアした。

とらハ1は「優しい恋は、好きですか」という謳い文句の割に、バッドエンドで陵辱があったり、タイトル通りの三角関係を再現しようとしたりと、割と作りかけ感が溢れていた。ファンブックで都築さんもそこら辺を弁解していて、それはそれでおもしろかったり。とりあえず御剣の登校シーンのせいで開始3分でお茶吹いたことも、今となっては良い思い出である。

当然さくらは俺の嫁。DVD版の追加シナリオで原画がかっちんに変わって俺歓喜。鳥居花音は名演技が多いけど、今でもさくら以上の名演技は無いと思っている。スプリングフィールド七瀬さんとか、小鳥も大好き。今と方向性があんまり変わってない。あ、でも当時は中国要らない子だと思ってました。3のOVA等で大役を与えられて重役になってましたね、こうして見るとけっこうありかも&ごめんなさい。

とらハ2も「まんまラブひなやんw」と、開始3分で吹いた。すっかり都築マジックにかかっている。「一緒に暮らして、くれますか」のキャッチフレーズの通り、あの「住んでる」感はマジでマジック。どうやったらあんな空気出せるんだろうね、他のエロゲには無い。

実はとらハ2であんまりキャラ萌えはしなかったけど、一番を挙げるなら愛さん。影が薄いとか言われてるけど、あのマイペースさはとらハシリーズのリズムだと思う。あと、やはりちかぼーとゆうひはガチ。ちかぼーはみずいろの雪希、DCの音夢等と並ぶ最強妹の一人だと思うのだが、いかんせん知名度が足りてない。ゆうひは、リアルであんな女友達欲しい。Nameless Melodiesは涙腺直接攻撃すぎて卑怯。

とらハ3は神ゲー。へたくそな主題歌もとらハっぽいけど、I'veのうまさも捨てがたい。「守りたいもの、ありますか。」の通り、バトルモノ一直線で、この戦闘民族高町家(不破家)が後にリリカルなのはを生んだんだなあと思う。ちょっぴり物悲しくて、でも基本的には優しくて。そんなとらハの世界観は、とらハ3からリリカルなのはへ、きちんと受け継がれている。君がいた季節とSee youは涙腺決壊攻撃です。

キャラとしては、忍はどう考えても俺の嫁。あと、意外かもしれないけど美由希は大好き、特に眼鏡外してからは。とらハ(&リリカルなのは)世界で戦闘力最強は美由希だと今でも思ってる。でも蓮も那美もノエルも捨てがたいし、久遠は是非リリカルなのはでも出してほしかった。まああの狐は万能すぎるんだが。とらハ3は嫁多すぎて困る。フィアッセは……ベルダンディーにしか見えませんでしたごめんなさい。

なのはのCVはリリカルなのは1期の頃はむちゃくちゃ違和感あったけど、A'sからは逆に田村じゃないと不自然かなあと思い始めた自分がいる。あと、スバルって晶だろ?wディバインバスターは吼破。異論は認めない。


リリカルなのはのとらハ世界だって、山奥に行けば九尾の狐がいて、おっちょこちょいな巫女さんがいる神社があって、麓にはさわがしい女子寮があって、そこには天然な獣医がいて、テレビをつければななかがテレビレポーターをやっていて、海自ではちかぼーががんばっていると、今でもそう思っている。とらいあんぐるハートよ、永遠に。



それで、夜の一族の血を引いて父親から御神二刀流を習得した、魔法少女リリカルしずくはまだですか?  
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2007年09月13日

第113回「フリードリヒ【氷海】」ペーター・ラウトマン著、長谷川美子訳、三元社

あまり専門書をこのリストに載せることはしないつもりだったが、何かの間違いでフリードリヒに興味を持った人のためにこれは載せておく。卒論を書くならまずはモノグラフを3冊ほど読め、と言われ手を着けた一冊目の本。と言ってもモノグラフと言えるほど伝記の体裁はとっておらず、C・D・フリードリヒの代表作の一つ《氷海》について、美術史の基本的な作業の結果が書かれている。

《氷海》をどう分析しているかというと、ある特定の分野による攻め方ではなくて、非常に多岐に渡る戦い方をしている。単純に氷の図像が持つ意味から迫ってみたり、フリードリヒの持っている政治的状況に触れてみたり、フリードリヒの触れていた自然科学の知識から切り込んでみたり、といった感じだ。ゆえに、一冊目に読んだものとしては次へのステップになりやすくておもしろかった。

訳者解説も詳しく、最初の一冊としてはかなり良いものを読んだように思う。参考文献や画像も充実していた。そもそもフリードリヒを扱った本は日本語では少ないので、今後も紹介していく所存。



フリードリヒ『氷海』―死を通過して、新しい生命へ
  
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2007年09月11日

そのほうが「ロマンチック」じゃないか

窓辺の女今日も今日とて論文を読んでいて、一つ気になる話があった。その論文のテーマになっていた絵がこの《窓辺の女》(C.D.フリードリヒ、ベルリン国立博物館、1822)である。

この絵に関して有名なフリードリヒ研究家は皆、キリスト教的な象徴性や窓の生み出す彼岸的世界への憧憬などを指摘しており、当時この絵に写る後ろ姿の女性に対する恋慕の情を歌った詩人に対し「本質を捉えていない」とケチをつけている。ちなみに、ところが、今日読んだ論文の著者は、もっと別の論拠からこの詩人を擁護している。

意外に思われるかもしれないが、私の意見は後者である。つまり、フリードリヒの真意はこの写っている女性、ぶっちゃけて言えば彼の妻に対する親愛の情を描いたものだと思う。もちろん、キリスト教的な象徴性や彼岸世界への憧憬のような思想を、フリードリヒが込めていないと主張しているわけではない。彼のことだから多義的な解釈が可能なように絵を描いていることだろうし、実際そういう見方もできるのだと思う。

しかしだからといって、そのような小難しい解釈が、よりわかりやすい解釈を退ける理由になってはいけないと思うのだ。”両方の理由”で描いた、というのがより正解に近いところであるように思う。もちろん、論拠無しに主張をしてはいけないのではあるが。

私は浅学だから、この論文以上の明確な論拠を提出することはできない。しかしそれでも(研究者としてはあるまじき主張ながら)、フリードリヒが1818年の結婚以後は若干画風が明るくなったこと、妻を溺愛していたこと、そして何よりもフリードリヒの絵画にしてはありえないほどの温かみがこの絵からは感じられること、これだけでも十分な論拠になりうると、私は思うのだ。

(その論文:木村和実「C・D・フリードリヒ《窓辺の女》」、『河南論集』、1999)


余談。結婚当時、フリードリヒ43歳、妻カロリーネ・ボマー25歳という事実。そりゃ溺愛するのもわかるが…………  
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2007年09月10日

もやしもん

『もやしもん』の知名度が低いので宣伝してみる。この漫画は世にも珍しき、農業大学が舞台の漫画で、主人公は「菌類が肉眼で見える」という特殊能力を持っている。彼が見える菌類はデフォルメされた姿であり、これが相当にかわいい。はっきり言って、この漫画の真の主人公は菌たちである(最近あんま見かけないけど)。もっと言うと、A・オリゼー(黄麹菌)と酵母菌。

そんな漫画なので、やたら菌類には詳しくなる。もっと言えば酒。酒の蒸留のメカニズムとかやたらと詳しく解説する。化学屋が狂喜しそうな、理系御用達漫画である。当然、酒好きも狂喜。泡盛からワインまで、何でもかもすぜ。

それを抜きにしても『もやしもん』がおもしろいと思うのは、大学生活が(ある一定の読者層にとって)極めてリアルなことだ。「チャラくは無いし思ってたものとも違うけど、確実に楽しい生活」とは登場人物の言だが、けっこうその生活の楽しさとは、学校の授業とか実習とかに結びついているわけで。授業とか実習そのものもまあ楽しいのだけれど、本領を発揮するのはそこで得た知識をネタに転用してから、だと思う。中途半端にアカデミックで、時間も金もそれなりに自由がきく大学生だからこその生活。『もやしもん』の中だと、どぶろく密造してみたりとか、キビヤック作ってみたりとか。

結局のところ、自分は文学部生だけど、自分がこのブログでやっていることは、形式的には全く同じことなのだろう、「中途半端なアカデミックさ」とネタの混じり具合が。そこが『もやしもん』の登場人物たちに対する妙に強い親近感がわく理由になっている。

まあアニメ化するし、一度読んでみてはいかが。


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2007年09月01日

うみねこのなく頃にEpisode1

以下はクリア前に読んでもあまり差し支えない程度のネタばれ。「続き」以降は完全ネタばれ。どこまで読むかは自己責任で。


推理小説であるにもかかわらず、ノックスの十戒をことごとく破ったことでさまざまな物議をかもしだした『ひぐらしのなく頃に』の作者による、第二の推理小説が誕生した。前回、何のヒントもなしにノックスの十戒を破ったことに対し批判が続出したので、今回は冒頭のオープニングムービーをよく見ると流れてくる英語に"No Knox"とあり、そのような批判を先に回避している。(まあ、あの英文に気づかなければそこまでだけど)

だが、これは巧妙な罠かもしれない。確かに、『ひぐらし』はノックスがいなかった(ネタばれになるので詳しいことは書けないが)。だがその根源的な理由は『ひぐらし』が犯人探しの推理小説ではなくて、「まず何を推理すればいいのか」から推理が始まる小説であったこと。このことがノックスを無視させまくっている理由になっていた。そこへ行くと『うみねこ』は随分わかりやすい。最初から犯人はわかっているし、推理すべきものも判明している。しかし、その推理すべきものこそが「ノックスは守られているのか破られているのか」そのものだから、とんでもなく性質が悪い。

もう一つ、この小説の具体的な読解に入る前に注目したい言葉がある。前作では主人公が追い詰められるとしばしば「KOOLになれ」とつぶやいていたが、今作では「チェス盤をひっくり返せ」だ。より一般的に言い換えると「敵の立場に立って考えろ」ということになる。

しかし前作でKOOLになったキャラは大方失敗しているように(なぜ失敗しているのかは『ひぐらし』の根幹的なネタばれになるので割愛)、今作でもチェス盤をひっくり返すとろくでもないことになることは容易に想像が付く。「チェス盤をひっくり返す」ことにおける大前提は相手も自分と同じ思考回路/行動原則を持っていることだ。仮にノックスが守られていないとすれば、相手は人間ではない可能性も高い。とすれば、行動原則は人間通りにはいかない。

むしろ「チェス盤をひっくり返す」ことの真価は、著者の竜騎士氏の立場に立って考えたとき、なのではないだろうか。前作『ひぐらし』では処女作ということもあり竜騎士氏の思考が全く読めなかったし、ノックス云々も意識せず皆推理していて、迷宮入りしていった。今回は違う。誰しもの頭にはひぐらしの洗礼(先例)があり、「同じチェス盤」の上で闘うことができる。


さあ、推理を始めようか。
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