先週末、友人たちと京都に旅行した。目当ての狩野永徳展はめちゃくちゃ混んでいて入場40分待ちだった。こんなに待たされたのは、このブログ書き立ての頃のゴッホ展、そして去年のダリ展以来だ。まあそれだけの価値があるものだと思うが。
狩野派といえばオフィシャルな絵師たちであり、しっかりとした描線、整った構図、中国系の画法が特徴だ。その中にあって確かに狩野永徳は《唐獅子図屏風》のように豪放な障壁画が多いが、しかし彼もやはり狩野派だと思う。山水画を見ても、やはりロマン主義的というよりはロランやプッサンのような感覚しか受けない。
そして同時に思ったのは、自分が思っていたよりも中国的な様式で描いていたということ。やはり自分の中でも、永徳=豪快な松のイメージが強かったということらしい。あんな山水画が永徳作だと違和感があるような、狩野派らしくて安心するような、なかなか複雑である。ただ、自分はああいう整った風景画も好きなので別にたいした問題でもない。
植物を描き散らした屏風もいくつかあったのだが、あまり感動できなかった。自分でも良くないとは思うのだが、やはりこういう細画では伊藤若冲や円山派の絵画が網膜にちらつく。そしてそれらに比べたら狩野永徳の花鳥にはリアリティが足りないということは、時代が違うということを考慮に入れなければ、認めざるを得ないだろう。
そして網膜レベルで若冲がちらつく自分に、時代を考慮に入れるなんてことはできるわけがない。
おそらくこの展示最大の目玉である《洛中洛外図屏風》は間近で見るためにはさらに列を並ぶ必要があったため、遠目から見て我慢することにした。正直そこまで惹かれるものでもないし。ただ、やはり単眼鏡を購入する必要性を自分に再認識させることになはなったが。
それよりもその裏側に展示してあった《吉野山風俗図屏風》のほうが見るべきところが多いと思う。DiL曰く「この絵に対して違和感をぬぐいきれなくなったら絵を理解している証拠」だそうだが、まったくもって同感。やはり吉野山はやまと絵で描いてほしいだなんて、(伝)永徳の思う壺にはまってしまった形。さすがだ。
展示の最後のほうは全部金碧画。金箔のべた塗りは嫌いじゃないが、緑のべた塗りはあんまり好きじゃなかったり。正直に言って冒頭の山水画に比べてあんまりすごいとは思えない。それでも会場の外に出て、京博の庭に生えてる松を見ると「葉にはダイナミックさが足りないし、幹の曲がり方も物足りない」とか文句つけたくなるんだから不思議。だからあれはあれでいいのかなと思っておくことにした。京都まで行きながらあんまり褒めてない気もするが(カタログも買ってないし)、いろいろ見れたので実は十分満足している。