2007年12月14日

それにしても安土城は惜しい

今日も今日とてフリードリヒのカタログレゾネ(総作品目録)を眺めていたわけだが、あまりにも行方不明が多すぎることは前から気になっていた。紹介されている作品数に比べて明らかに挿絵の数が少ない、総作品目録なのに。それでついでにリストを作ってみたら出るわ出るわ。Verschollen(行方不明)にVerbrannt(焼失)、Verbleib unbekannt(所在不明)と見飽きるほどに単語が並ぶ。

最初から無かったんじゃなくて、存在は確認されているけど今はないってのが一番たちが悪い。確認しようが無い癖に、仮に存在したとしたら研究内容が全然変わってくるんだもの。いっそ最初から無かったことにしてくれたほうがありがたいくらいだ。まあ、西洋でこんなことになっている画家は珍しいのではあるが。フリードリヒの場合、ここまでたどってきた歴史が複雑すぎる。

よく日本美術史研究者が「安土城が残っていれば、どれだけ研究が進んだことか……」と嘆いているけど、その気持ちはすごくよくわかる。我々の研究は物がないと何も始まらない。「あれが現存してれば基準作例になりうるのに」「あれが残ってれば作者が同定できるのに、画風が明確になるのに」。そんなんばっかりだ。

もっとも、中国美術が一番たちが悪い。早くから文書で記録を残す文化が根付いていたために、記録上しか存在しない作品が西洋なんかとは比べ物にならないほど無数にある。しかもあそこは「記録上あったけど現存しないんだったら、作ればいいじゃん」という思想を持っているので贋作だらけだ。

人間の行為とはかくも身勝手で罪深く、時間の流れとはかくも残酷である。それでも我々は「眼」と「想像力」でもって立ち向かわなくてはならない。


以下、実際フリードリヒの作品がどれだけ現存しないのか調べてみた結果。  続きを読む

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2007年12月13日

偉大なる画家十選

そういうことやられると,追随したくなっちゃうでしょうが。ぶっちゃけて言えばいつもの「○○選」なんだが,基準が統一ではなくて,視点を変えていろいろ作ってみるからこそおもしろい。

つまりここでいう「偉大」ってのは,美術史への貢献度とか(西洋美術好きからの)人気の高さが重要なのであって,個人の主観を聞いてるわけではないわけだ。つまり,フリードリヒなんぞは私がどれだけ愛していても,端にも棒にも引っかかりはしない。むしろドイツ三人衆(デューラーとクレー)なんぞ誰も入らない。にもかかわらず,ある程度絞ったところだとその貢献度や人気を判断するのはあくまで主観であって,そこに間違いなく私情は入る。これはおもしろい。

今ぱっと候補考えたら20人くらい出てきた。さて,誰削ろうか。美術史というのは「点と点が無限に連なれば,普遍妥当的にそれは線である」という数学上の定義そのままなので,そこから点を抜き出して,「誰の影響が一番強いか」を考えるのは不毛と言えば不毛かもしれない。でも楽しいから,やっちゃうんだよね。しかも十選だから意義がある。二十選ならこんなに悩まない。


1,ジョット
彼を中世からの脱却と言ってしまっていいのかどうかは非常に判断の難しいところだが,むしろゴッホ同様「ジョット伝説」が後世に及ぼした影響としては,間違いなく全画家でも最高に違いない。

2,ファン・エイク
油彩画の始祖。実はジョットとどっちを残そうか,最後まで悩んだ。けど,両方入れざるを得なかったということは,やはりこういう選抜では古い画家のほうが有利なのだろうか。この選抜って,起源論争に近いところはあるからなぁ。

3,ラファエロ
ミケランジェロ,ダヴィンチで悩んだけど,「ラファエロ前派」なんていう派閥を本人のあずかり知らぬところで形成されてしまったのは彼だけ,という点を評価してみたい。ダヴィンチは偉大だが,後世への影響というとティツィアーノにも勝てない気がする。ミケランジェロはマニエリスムの門を開いたとは思うが,それはラファエロも同点かなと。

4,カラヴァッジョ
バロック芸術の始祖として絶対に外せない。ラ・トゥールは知名度が低すぎる。ルーベンスは発展者,ベラスケスは完成者と位置づけるならば,やはり「偉大」と目されるべきはカラヴァッジョではないかと。

5,レンブラント
カラヴァッジョを選出してしまったので,消そうか悩んだけどその北方の画家への影響を考えるにとても削れたもんじゃない。カラヴァッジョ風の表現に北方的な深い精神性を与え独自の道を開いたと思う。画業としては,私的にはフェルメールのほうがレベルが高いと思うが,彼はいかんせん寡作すぎたし,レンブラントの後継者という感じが否めないからここには出せない。

6,プッサン
ロランと悩んだけど,風景画のみに特化せず,オールマイティに古典主義を復興させた彼に,この栄誉を与えてみたい。彼の活躍がなければ今の西洋美術の発展はありえなかっただろう。西洋美術は古典とバロックの二項対立で発展してきた,と解釈するのであれば。

7,ターナー
ゴヤと死ぬほど悩んだ。両方出そうかと思ったけど他の時代はもう最低限しか残してなかったから,ロマン主義二人は多すぎるだろうという断腸の思いでゴヤには勘弁していただいた。だってさ,ロマン主義という思想自体が,後世への影響強すぎるし,そもそもロマン主義絵画の始祖って誰よ?(時系列だけを考えれば)実はフリードリヒじゃね?でも奴の後世への影響って絶無じゃね?とか。
そんな中決め手になったのは,ターナーが風景画家であることと,彼が印象派の先取りのような画法も生み出していたこと,それでいて古典主義者たちから反発を大してもたれなかったこと。時代のつなぎ目としても,偉大と称さざるを得ない。ゴヤは,スペイン一国に限れば,次ピカソまで巨匠を生むことができなかったのも失点。

8,モネ
これもマネとどっちにしようか知恵熱が出るくらい悩んだ。《オランピア》と《印象 日の出》の後世への影響を採点しろとか無理すぎる。しいて言えばジャポニズムの摂取とサロンの否定,外光派などの要素はより「後世的」か。あとはもう単純に人気で計ってしまえと考えた結果,モネを残した。

9,セザンヌ
これもピカソと悩んだ。多分多くの読者は「なんでその悩み方?」と思われるかもしれないが,発展史観をとるならば印象派→セザンヌ→マティス→ピカソ→現代芸術って一直線になるから,セザンヌで区切るかピカソで区切るか,という問題になる。確かに一般的な知名度ならピカソの圧勝なんだろうけど,ピカソがいなくても現代芸術は今の形になってたとは想像可能だが,セザンヌがいなくて今こうなったかというと,かなり違ってたと思うんだよね。ピカソが永久に青の時代辺りでくすぶってたかもしれない。
……裏を返せば,サルヴァスタイルの人も書いてた通り,(セザンヌとピカソは)今の現代芸術の迷走を生んだ張本人とも解釈できるわけですが。本人たちのクオリティは高いだけに,複雑だなぁ……

10,デュシャン
現代芸術ってやったもの勝ちであることに早々に気づき,かつそれを自虐的に利用して「やったもの勝ち」の領域に堕すことの無かった奇才。以後の芸術家は,「美術史は第一世界大戦で終了しました」と言って憚らない自分の目から見れば,美術史が第一次世界大戦で終わらないことへの数少ない反証。ちなみに,ポロックと悩んだ。でもポロックのやったことは,要素的な意味でピカソに吸収されうるな,と。そして,前述したようにそれはセザンヌに内包されて,結局セザンヌが始祖なんじゃないかと。ウォーホル?私はポップアートをアートということに疑問を持っているのであしからず。ポロック,ウォーホルへと続く現代芸術評価って,発展史観によって「作られた評価」にしか思えない。



異論,反論は大いに受け付けております。リアクションは遅れるかもしれんけど。
  
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2007年12月10日

K-1GP 2007 決勝戦

好カードがそろったのは非常に良かったのだが、逆に準決勝でつぶしあいすぎた感じ。展開としてはほぼ予想通り。まあ、あんなもんじゃないかなあ。



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2007年12月07日

シラー他についての雑感

ゲーテを出したのは一つには哲学者(純粋な思想家)と小説家兼の思想家という違いを出したかっただけであって、その意味では別にティークでもクライストでもブレンターノでもシュレーゲル兄弟でも良かった。逆にカント側はフィヒテやシェリングか。要は哲学者か、小説家が哲学者っぽい思想を持つに至ったかの違い。個人的にはこの違いというのは大きいと思う、文章の論理性が読み比べてみると全然違う。サルトルとカミュもきっとこんな関係なんじゃないかな、両方読んだこと無いからうかつなことはいえないが。

その中でゲーテを選んだのは知名度の問題もあるが、二人ともこと「美学」に関しては『判断力批判』を基盤にしているという共通点がある。もっとも、ゲーテのほうはシラーほど強烈には受容していないし、自分もそんなに調べてない。henriの言うとおり、思想化することに大した興味も抱かなかったのだろう。それに対してシラーは創作スピードを落としてまでカント美学を批判する論文を書いていたのだから(事実90年代前半は発表が無い)、確かにシラーのほうかゲーテよりも、カントに近いところにいる人間かもしれない。

なんにせよシラーの美学というのは小説家よりの思想家らしい。バタイユ(あいつの文章は小説家寄り)にしてもギルピンにしてもシラーにしても、言葉の定義がいい加減すぎて、後世の人を混乱させるのが得意技すぎる。その分、思想自体は哲学者よりもストレートでわかりやすいから、どっちがいいかと言われると何ともいえない。結論としてはどっちも難しいんだが。

シラーの最大の欠点は、前に自分が書いた「美」の上位概念と下位概念をごっちゃに使っていることだと思う。一々文脈上で「これどっちよ?」と悩まなくてはならないし、箇所によっては昨日取り上げた本にも書かれていたように、どっちの美か、ということでいまだに議論の種になる。曰く「そもそもシラーはあまり区別する気も無かった」と。カントは絶対にこんなことを許さない。しかし、カントにはパッチワークという別の罠があるが。

ただ、自分としては小説家よりの思想家くらいのいい加減さが好きだ。いかに哲学と言ってもこの間少々おおげさに書いたようにどっかでデッドエンドはあるものだし、人間精神なんて矛盾した存在だから、語義自体が重複するくらいの懐があったほうが逆に真実味がある。カントは「美と崇高は並立しない」と言った。シラーは「美と崇高は混在しうる」と言った。ならば私はシラーを推そう。


またシラー美学の卑怯なところは、この間述べたカント哲学の超越論を完全にスルーして、一方でカントの美学が実践理性と結びついていることを批判したところだ。その根幹を無視して好きかって言う辺りがまた思想家っぽいんだが(誤解無いように繰り返して言うが私はそういう思想家のほうが好きだ)、つまりはシラーが求めたのはよりソフトな美学だった。

シラーの美学の肝はカントが理性を持ち出したのに対し、自由意志を持ち出したことではないかと思う。いかにもシュトゥルム=ウント=ドランクな小説家の言いそうなことかもしれない。だからこそ崇高論もすっきりしている。カントがそこから理性を媒介にして道徳を引っ張り出そうとこそこそしていたのに対して、シラーは崇高の道徳的基礎は神性にあると、はっきりと言及した。そして、神と道徳は結びついていない。

理論的な部分をすっ飛ばして、彼らの導き出したかった結論だけを見ると、逆になぜ過程の理論や持ち出してくるものに違いが出てきたのかが見えてくる。カントの理想は理性的な人間であり、シラーの理想は美的、芸術的な人間であった。カントの理想的な人間は厳格的過ぎる、と言ったのは有名な話で、シラーから見ればそれは禁欲的でつまらない人間のように見えたのだろう。キルケゴールで言うならばカントは倫理的段階(第二段階)を志向したのに対し、シラーは第一段階と第二段階の中間くらいが一番良いと主張していることになるだろう。

ところで、道徳と神を切り離し、神的な威力に対し自らの自由意志で対する、その決断する意志こそが崇高性の起源であるとシラーは言った(意志の部分を全部理性で置換するとカントの主張になる辺り、やはり根底にはカント美学がある)。この部分だけ見ると、ショーペンハウアーやニーチェ、ヤスパースの萌芽が見えるのは私だけであろうか。  
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2007年12月06日

第121回「人間の美的関心考 シラーによるカント批判の帰趨」長倉誠一著、未知谷

シラーの崇高論を中心に、その思想の独自性についてまとめた本。図書館の返却期限や、(卒論のテーマから比較的離れていたので)より重要な資料を読む必要性に怯え睡魔と闘いながら読破したため、自分の読書史の中では割と不幸な部類に入るかもしれない。著者の独自の解釈はあまり示されていないとは思うが、そもそもシラーの思想自体がマイナーなので、まとめること自体に意義があったのではないかと思う。

シラーの思想はカントを基盤にはしているものの、そこら辺はゲーテに似ているというか、良い意味でも悪い意味でも哲学者ではなく思想家なのだ。厳密で論理的な議論をあえて避け、直観的な領域で自らの思想を体系立てていっている。やたらめったら独自の用語を定義する一方で、それらを自らが大雑把に運用してしまう。ゆえにある意味カントよりはわかりやすく、ある意味ではカントよりも難解である。シラーの思想そのものに対する雑感は別の記事に任せることにしてここでは避けたい。

本書にもそのシラーの「思想家」っぷりに振り回されつつも食らいついた、という感じが出ている。国内では小説家としてのイメージばかりが先行し、その小説も大して有名ではなく、ましては思想家としてはほとんどスポットライトの当たっていないシラーの基礎的な研究書となれば良いと思う。だが、厚い上に、それにもかかわらずカント哲学の説明を相当端折っているので読むには前提知識と根性が必要だ。にもかかわらず、相当眠い頭で取り掛かってしまった自分は愚かすぎるわけだが。


人間の美的関心考―シラーによるカント批判の帰趨
  
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2007年12月05日

ブラックジョークだらけ

短く遊べて楽しいゲームを発見したのでご紹介。その名もThird World Farmer。まあ最初は何も考えずに一周してみてほしい。英語が読めないなら、知らないままやっていったほうが逆にリアルかもしれない。操作自体は英語が読めなくても感覚でわかるはずだ。ゴールは一番下の電球マークの一番右にあるアイテム"Crop Insurance"を購入すること。

二周くらいしてもらえばわかるが、絶望的な難易度であることはわかるだろう。だがこの無理ゲーっぷりが、逆に現実の「第三世界の農民」を示しているのかもしれない。病気でもないのに、毎年HPが減っていくし(毒の沼地じゃあるまいし)、ランダムイベントが凶悪すぎる。運が悪いとなすすべも無いまま5年ほどで一家離散する。しかもろくな対抗策が無い。

じゃあ攻略方法が無いかというとそうでもない。  続きを読む
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2007年12月04日

短編集に近いと思う、あれは

今日くらいブログ休もうかと思ったけど、前述の本を読み返していてふと思ったので一筆。『判断力批判』は比較的わかりやすい一方で話が細切れで論立てについての説明も無いから、段落ごとの話の違いが大変脈絡が無い。その脈絡をつけようと後世の学者勢ががんばってみたわけだが、つければつけるほど矛盾が生じる。では、なぜカントは『判断力批判』を、こんな面倒な構成にしたのか?

それは、ブックレビューでは「カントに隠した意図は無かっただろうが」と書いてしまったものの、実はカント自身無謀なものに挑もうとしていたということを自覚していたからではないかと思う。それで、真の意図である「美は理性の象徴であることの証明」をうまくごまかしつつ、それでいてその意図を達成しようとする要素を文章中に潜ませるには、あえてすごくわかりづらい構成にするしかなかったのではないか、と。

心身二元論を破綻させないまま、感性的なものと超感性的なものを橋渡しさせることで心身二元論を否定できるのではないかという提言をすること、一行に要約してみるとなおその無謀さが理解できる。彼がそうまでしてこの提言をしようとした理由は以前述べたとおり、カント哲学の究極的な目標が「近代哲学の完成者カントは同時に理性崇拝者であり、その理性とは彼にとって神から授かった、人間が最も神の恩寵を受けた生物である」ことの証明であったからだ。理性理念が感性界に降りてこないのは、我慢ならなかったのであろう。カントにとってはその橋渡しが偶然「美」であっただけだ。

逆説的には、カントにはもう既に現代哲学の萌芽が見えるのかもしれない。結局、心を感性界に持ってくるには、実存主義にしろ構造主義にしろ、神なるものを否定するしかなく、「美」という一概念程度では不可能であったというわけだ。  
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2007年12月02日

第120回「美と崇高の彼方へ −カント『判断力批判』をめぐって−」甲田純生著、晃洋書房

カントの三大批判は当初二大批判の予定であり、『判断力批判』は副産物とも言えるものであった。なぜなら、カントの目指していたところは超感性的な道徳規範を、感性的な領域まで引き摺り下ろすという、現代学問で言えば倫理学の領域に当たる作業であり、それは『実践理性批判』ですでに達成されたかのように見えるからだ。にもかかわらずカントが『判断力批判』を上梓したのは、彼が「美とは道徳の象徴である」という、プラトン的な考えを持っていたからであり、『実践理性批判』を認識論の面から補足する必要性を感じたからだ。ゆえに、後世『判断力批判』が哲学や倫理学とは独立した「美学」という一大学問の基礎になるとは、カント自身は全く考えてもいなかったことだろう。

本書はカントの認識論的美学を、このようなカントの倫理学的な批判体系から切り離し、「自律的な美学」として語ることは可能だろうか、という目標を掲げながら『判断力批判』を詳細に分析していくものである。裏を返せば、カント美学を自律化させていく過程で、カント哲学に巧妙に隠された(カントに隠した意図は無かっただろうが)倫理学的な抜け道がクロスワードパズルの正解のごとく見え隠れしている。これを指摘していくのが本書の第二の目的である。

自分はカント哲学に妙な違和感を覚えていた。その違和感はこの「倫理学的な抜け道」だったのだろう、この本を通してすごく頭の中を整理できたのが自覚できる。著者の甲田純生氏の文章が非常に流麗な上に、上記のような内容のため、自分のようなカント哲学かじりかけの人間にはむちゃくちゃおもしろいはずだ。

ただし、本書は著者の博士論文をベースにしているため、内容的にはとてつもなく難解で、実際に自分は一度挫折している(大学3年の夏のこと、再度読み始めたのは今年の11月)。とりあえず、上記の紹介文を読んで意味がちんぷんかんぷんだったら手を出さないほうが無難な気がする。しかし、それとは別に序文、及び第一部の序章は名文なので、そこだけ読んでみるのもいいと思う。また、上記のようなカント哲学に対する解釈、アプローチが納得行かない人にとっては、最初から最後まで反りが合わない本であることもまた確かである。




美と崇高の彼方へ―カント『判断力批判』をめぐって
  
Posted by dg_law at 23:43Comments(0)TrackBack(0)