続きまして、西洋美術館のウルビーノのヴィーナス展に行ってきた。本当は四月頭に行く予定だったのだが、紆余曲折あって持っていたタダ券が無駄になったりしたのだが、そこら辺の事情についてはもはや何も言うまい。
概要としては《ウルビーノのヴィーナス》を中心とした、古代からバロックにかけてのヴィーナス像の列挙である。そこら辺がいかにも西洋美術館で開催された企画展だというのを感じさせるのだが、古代におけるイシス信仰との合祀だとか、横たわるヴィーナスというモティーフはルネサンス時代の創造であって古代からの伝承ではない、だとかいう豆知識を知っている人にはにやりとできる展示物が多く、学術的価値を考えて持ってきたのだろう(たとえばプリニウスの『博物誌』の写本等、絵画や彫刻ではないものも多い)。
一見して一点豪華主義ではあるが、まあまあそうでもなかったので良かった。《ウルビーノのヴィーナス》と同じ部屋に、ミケランジェロの下絵を元にしたポントルモの《ヴィーナスとキューピッド》が展示されていたのはおもしろい。ティツィアーノの、ヴェネツィア派の女性らしいヴィーナスに対して、ポントルモ(というよりもミケランジェロ)のヴィーナスは腹筋が割れている。「それはねーよwww」とつっこむのが正しい楽しみ方だと思う。
文句をつけるとするならば、作品数が70点程度とやや少なかったことと、せっかく中心に《ウルビーノのヴィーナス》がいるのに、他のヴェネツィア派はほとんど見られなかったこと。主にフィレンツェから持ってきているわけだから、仕方がないのではあるが。
《ウルビーノのヴィーナス》について。どこにでも書いてあるような説明を一応付けてみると、手に持つバラはヴィーナスの象徴、ベッドの端にいる子犬は忠誠の象徴ではあるが、ここでは眠っていて、女性を訪れた者には慣れていることを示している。うがった見方をすれば「忠誠」が寝ている、という解釈もできそうではあるが、この作品が結婚の引き出物(という説が有力)であったことを考えると、あまりそういう解釈はしたくないところだ。しかし、ヴィーナスの裏の緑のカーテンは、ヴィーナスの肌の白さとの対比であると同時に、やはりここを訪れた者が他の家人には見えないようにさえぎっている、と考えることもできるわけで、この疑念は尽きないかもしれない。
カーテンの後ろ、長い物置のようなものはカッソーネというらしいが、まあ結婚の引き出物で衣装箱として使われていたことを知っていれば大丈夫だ。これについては塩野七生が『愛の年代記』に印象深い話を書いているので、興味がある人は読んでみるといい。窓辺の鉢植えはミルトという常緑樹で永遠に続く愛の象徴らしいが、だったらこんな遠くに描くなよ、と思えばまた怪しい雰囲気がないわけじゃない。画面効果としてはどちらかといえば窓があること自体のほうが重要で、重々しいカーテンの緑色と空の淡い色彩が対比されることで遠近感が生まれ、よりカーテンの内側の密室感が強調されているのではないだろうか。そしてこの密室感がよりヴィーナスの官能性を高めている。