美術・芸術とは一体なんだろうか。ここは私らしく,ガチガチに歴史的な方面から攻めていってみよう。超ざっくり端折って説明するので,部分的に間違っているという指摘はある程度勘弁。
その起源を追うと,古代ギリシアに置く人もいるだろうが,私はあえてルネサンス期に置くことができると言いたい。なぜなら,古代においても確かに「芸術作品」は存在したし,後世から芸術家と判断されるような人物も存在はしていた。芸術論というようなものも,プラトンやアリストテレスあたりから読み取れる。が,それでもやはり,古代ギリシア・ローマにおける芸術と,ルネサンス期以後の芸術では概念的な意味合いが異なると思われる。
そもそも,なぜ芸術という概念が必要なったか。これは実は至極現実的な問題に基づく。
つまり,一部の職人の賃上げ交渉に他ならない。中世末のヨーロッパ・キリスト教的世界においては,手作業を行う職業・形而下を扱う職業は卑賤で,思考を伴う職業・形而上を扱う職業のほうが高貴であるとされていた。さらに言えば社会的地位も持てる金銭もまるで異なっていた。よって,ランクアップを狙うのならば,自らの職業が前者ではなく,後者,すなわち思想家と同等のものであると社会に認めてもらうほかない。
キリスト教神学とは後付と屁理屈の学問で,ギリシア哲学を中心に他の学問分野からいいとこどりで進化してきたものであるが,中世末北イタリアで最も熱い話題となっていたのは,トマス・アクィナスのアリストテレス引用と,イスラームの神学者であるイブン・ルシュド(アヴェロエス)のアリストテレス解釈の対決であった。この辺をガチでやると自分もよくわかってない超屁理屈のぶつかりあいになるが,歴史的な経緯だけで言えば,ギリシア語文献を捨て去った西欧世界に,ギリシア語も読めたイブン・ルシュドさんがアリストテレスをアラビア語に翻訳・注釈し,その文献が多国語話者だらけのシチリア島でアラビア語からラテン語に再翻訳され,ようやくラテン語しかできない西欧の神学者にも読めるようになった(いわゆる12世紀ルネサンス)。
しかし,いかんせん二度翻訳を経ている上に当時は写本であったため,トマス・アクィナスの読んだものが原典とはかけ離れていたことは想像にかたくない。それでも,トマス・アクィナスはうまくアリストテレスのエッセンスを用いてキリスト教神学を一度は大成させた。しかし,ビザンツ帝国の衰亡によりギリシア語知識・文献がイタリアに流入すると,ギリシア語の読める西欧人が増えた。そしてアリストテレスの原典及びイブン・ルシュドの正しい注釈が西欧人によって読まれるようになり,改めてイブン・ルシュド派が復権し,大論争を巻き起こした。このとき同時に新プラトン主義・グノーシス思想も同時に流入し,やはり大流行を起こしている。
で,これらの新思想に目をつけたのが知識人層でもあった上位の職人層だった。何故彼らは知識人層に入っていたかというと,中世末では描ける題材も限られ,もっぱらキリスト教ということになる。しかし単に題材を物語的に知っているだけではなく,その物語の持つ聖書上・教訓上の意義まで含めて,知識として持っていなければならなかった。すると聖書を読解する頭脳がなければ作品を描けず,売れっ子の「親方」ほど自然ラテン語が読めなければならなかった。すると,ラテン語が読めるほどの知識人であるのに賃金が安く社会的身分も低い,という不満が彼らの中で高まるのは自然な流れである。そして彼らがいろいろ難解な思想に触れていくうち,理論をこねくりまわせばなんとかならないだろうか,と考えるようになり,また,哲学者・人文主義者の側もこれに応じ,”親交のある発注先”をなんとか救えないだろうかと知恵をめぐらせた。
そしていくつもの屁理屈じみた思想や理論がいくつも積み重なった結果,14〜15世紀頃から次第に形成され,誕生した概念が「芸術」である。西洋で歴史的に「歴史画」が最上位のジャンルとされてきたのはここに起源がある。知識がないと描けないものが最上位に設置されるのは当然のことだ。知識が無くても描けるものは思想家ではない=職人同然の卑賤な技であったからだ。次席に肖像画が置かれたのは,人間そのものが高度な意味内容を持ち,描かれるに値するものとされたからであるが,この人間中心主義自体も中世末に勃興したものであった。
それでも風景画や静物画がまったく評価されなかったわけでもないのは,思想がなくとも高度な技術そのものが賞賛の対象であったためである。いかに高度な内容の作品であっても,それが伝わるよう表象されなければ無意味であったからだ。また,後述するデューラーの自画像のように,ジャンルが異なっても高度な内容を伴う作品も出現するため,必ずしもジャンルで完全に切り捨てるわけにはいかなかったという事情もある。それとは別に,ジャンルヒエラルキーとは関係なく,自己の感性から風景画/静物画が好みだ,と考えるパトロンはいつの時代も必ず存在したのが,これらのジャンルが廃れなかった事情であろう。
一つそうした理論の例を挙げると,私が比較的詳しいところで「神としての芸術家」という思想がある。これはプラトンの『ティマイオス』からデミウルゴスの概念をもらい(より正確には新プラトン主義やグノーシスからの援用であるが),俗物的なデミウルゴスは職人的だと規定し,その上で「迫真的な絵画とは一つの世界の創造である」とすることで,
創造主が無から有を生み出したのと同様に,単なる物質的材料から一つの世界を創造する芸術家は神・創造主に比されるべきである,と話を持って行くのがこの理論である。(デミウルゴスと創造主の違いは,自分で新プラトン主義なりグノーシスなりの本を読んで確認してほしい。)
2つほど余談を挟む。まず,この「神としての芸術家」(artist as God)という言葉から,ルネサンス後期に「神のごとき芸術家(Divine painter)」という言葉が生まれ,ペルジーノやミケランジェロに与えられることになる。この二人は,システィーナ礼拝堂の壁画を担当していることで共通している。もう一つ,この理論を踏まえて
デューラーの《28歳の自画像》を見ると非常に意義深い。当時ほぼタブーであった正面観での自画像により,自らをキリストになぞられたのは,三位一体を踏まえれば自らを創造主になぞらえる行為にほかならない。ここに示されているのは,ルネサンスの生んだ「芸術」概念の意義の再確認と,自らがドイツにルネサンスを持ち込むのだという彼の気概である。と同時に,当時の知識人はこのような意義を明確に読み取っていたからこそ,この作品はジャンル的ヒエラルキーでは次席の肖像画であるにもかかわらず,当時からすでに例外的に評価の高い作品となりえたのであった。(なお,実際には他にもこの自画像には多数の仕掛けが施されているのだが省きたい。)
現象面での証拠として,中世からルネサンスにかけては,画家や彫刻家に対する給料の支払い方が決定的に違ってくる。すなわち中世では「親方」が画材・顔料の調達から完成・納品まで全てに責任を負い,業務全体の経費をパトロンから受け取り,弟子への給料もそこから支払った。題材もパトロンが指定した。利益は作品の評価ではなく,経費削減から生まれるものであり,彼らは職人である以上に経営者でもあった。それがルネサンス期以降は次第に,材料や納品は状況やパトロンとの話し合いによるようになり,工房の経営という点での労力はかなり少なくなっていった。題材も話し合いで決められるパターンが増え,場合によっては芸術家の側に決定権が与えられた。値段も経費ではなく描かれた内容・技術で評価されるようになった。なぜなら描かれた内容の知識・思想こそが重要であり,それが芸術家が哲学者や思想家と同等の地位を保証される理由でもあった。同様に技術も重視された。世界を正しく再現・創造する能力は神に比されるものとされ,これもまた思想同様に芸術家の上位の社会的地位を規定する要素であった(前述の通り,歴史画以外のジャンルもそれなりに評価された理由でもある)。中世末から急激に逸名の画家が減り,名前が特定可能な芸術家が増えていくのも,社会的地位の上昇を示す大きな証拠である。
ちなみに,似たような現象は東洋でも起きている。時代は五代末〜北宋である。ただし,こちらは「芸術」という抽象概念の誕生を伴ったものではなく,芸術家が思想家と同じ高みに上ったわけでもない。しかし,いっぱしの文人が親しむべき余技として「琴棋書画」が挙げられ,絵画は書と同様の地位を得て,その専門家もやはりそれなりの敬意をもって遇されるようになったのである。画家の名前が史書にはっきりと残るようになり,画論が盛んに論じられるようになったのも,やはり五代末の時期であった。ゆえに,このような現象は西洋限定と扱うべきではなく,人類には比較的普遍的な現象として扱ってもまずくはなかろう。
(2)へ続いた。