2010年07月31日

砂糖って化学物質だったんだーへー(棒読)

・アートの歴史がよくわかる一枚の画像…(IDEA*IDEA 〜 百式管理人のライフハックブログ)
→ ブクマの時点で今更ブクマの類だったが,これはかなりおもしろい。
→ 解説するのも野暮だが,ダヴィンチは言うまでもなくモナリザ。レンブラントはレンブラント光線にひっかけたてるてる坊主。
→ モネは印象派の筆触分割で,ゴッホは耳切り落とし自殺未遂事件。ピカソはキュビスム表現というか,もろにこれ。ダリは時計のあれ
→ ロスコはまあ彼の作品全部こんなんですわな。ポロックはアクション・ペインティング,ウォーホルはマリリン・モンローで締め。
→ 一つケチをつけるなら,このブログ管理人のつけたタイトル。それぞれの画家の特徴はわかるが,美術史がわかるわけではないだろう。


・大阪市 水道局「2010 FIFAワールドカップ南アフリカ」(日本対デンマーク)における配水量の変化について
→ こういうあほらしいデータを開示してくれた大阪市水道局に喝采を送りたい。
→ しかし,本当にトイレタイムだったとは驚きである。かく言う私もこの間に行ったわけだけど。
→ ブクマにあったあわせて読みたい。こちらもおもしろいデータ。


・サザエさんの世界がループしてる事に気付いているキャラって (ワラノート)
→ お前らこの話題好きだなぁw
→ 「昔そんな同人誌があった。しかし18禁。」ってブコメを打ったら,なぜかありむーにスター三連打されたので,具体的にはなんだったかなと必死にぐぐってみたが発見できず。まあ,無理ですよね。


・謎の化学物質(C6H12O5)2の恐怖(Not so open-minded that our brains drop out.)
→ 今までのニセ科学ネタで一番恐怖を感じた。これはやばい。
→ ニセ科学批判にはそんなに興味なかったけど,はてな界隈で盛り上がる理由だけはとりあえずよくわかった。ネトウヨと同じ匂いってことね。


・ここ数ヶ月の間に彼女の様子が少しおかしくなってきました(Dr 林のこころと脳の相談室・精神科Q&A)
→ 林先生ばっさりだー!
→ 林先生をフォローしておくと,彼はネット上のやりとりでは(実際に会ってその人の様子を見ているわけではないため)正確な診断を下せるわけではないし,この質問コーナーは診断ではなく,あくまで推察されうる事実を告げているだけに過ぎない,と注意書きに書いている。診断ではないからこそ,このような物言いが許される。本当はすごく誠実な先生なのだと思います。
→ こういう言い方は非常に不謹慎であるのは覚悟の上で,林先生の切れ味をダイレクトに伝える案件といえばやはりこれ。知らない人のために掲載。


・食うか食われるか、ヒョウがワニを捕食する瞬間を初めてカメラがとらえた(GIGAZINE)
→ 肉食獣同士の争い自体珍しいのに,捕食目的とは。
→ 陸上だとさすがにワニが負ける模様。
→ 虎とライオンの頂上決戦だと,コンピューターシミュレーションでは虎が勝ったような記憶がある。さあ世界の金持ちの誰か,実現ry

  

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2010年07月30日

琴光喜引退によせて

ここまで横綱・大関が引退した場合,必ずその回顧録を書いていたので,琴光喜にも書いてやろうと思う。

彼の相撲人生は他人から見ていれば「どうしてこうなった」としかいいようがなく,その代名詞はガラスのハートであった。しかし,それもこれも賭博に心を奪われていたせいだと考えると,ある程度合点がいってしまう。今ひとつ相撲に身が入らず,ひどく小心者であったということも,賭博師としての自分の反動であったのだろう。しかし,この点について,我々好角家はあらゆる意味において怒りを覚えてもよい。まさにこの一点において,彼は自らの築いた名声の全てを失った。

学生横綱,アマチュア相撲で大活躍しアマ27冠。鳴り物入りの,幕下付け出し60枚目でスタートした琴光喜は(現在ならば基準がもっと緩くなっているので10枚目スタートでもおかしくはない),そこから負け越すことなくストレートに勝ち上がり,わずか4場所で幕下を脱出,そこから3場所で十両優勝し新入幕となる。しかし,場所の直前にケガをして全休し十両落ち。当時の彼にはこの程度のことは障害にもならず,すぐに2場所で幕内に戻ると,戻った場所で13−2の準優勝,あわや復帰1場所で平幕優勝であった。12年九州,このときの優勝は曙で,曙引退前最後の優勝のときである。朝青龍は十両上位で勝ち越し,来場所は史上最速11場所での新入幕を決めていた。まさに時代の変わり目を迎えていた。

昇進を先に進めていたのは琴光喜のほうであった。13年の5月に新小結,7月に新関脇,9月には初優勝と順風満帆であった。14年初場所の結果,直近3場所で34勝あったため大関昇進の可能性が高かったが,見送られた。彼の不運は,その直前に大関に昇進していた出島と雅山が成績不振ですぐに陥落し,協会が批判を浴びており,昇進基準がやたらと厳しくなっていた点。しかし一方で,その先場所の13年九州に,同じ直近三場所34勝であるにもかかわらず,栃東があっさり昇進を認められていたことで,2横綱4大関の定員が全て埋まっていたという点になる(貴乃花,武蔵丸,魁皇,武双山,千代大海,そして栃東)。

この1場所差が琴光喜と朝青龍の,そして栃東の相撲人生の明暗を分けたと言える。栃東は新大関である14年初場所で優勝。その後はけがもあり低迷するが,一時期は朝青龍に唯一分の良い大関として君臨した。引退も脳腫瘍によるもので,実力が低迷したわけではなく,最後まで朝青龍の良きライバルであった。朝青龍に関しては言わずもがなだが,人生の妙として簡潔に書き記しておく。すなわち,14年初場所(まさにこの場所!)に新関脇,そこからわずか所要4場所のほぼストレートで大関昇進,大関もわずか3場所で通過し,それぞれ1場所ずつのロスのみで横綱に到達した。この3人にとっては,平成14年ほど人生の転機となった年はない。

平成15年からの琴光喜は人が変ったようであった。今後の調査を待ちたいが,この辺りで賭博にのめり込んだのだとすれば,話としては非常にわかりやすい。特に,平成13〜14年頃とは精神力がまるで違った。ガラスのハートと呼ばれ始め,良いところであっさり負けるようになったのはこの頃であった。これは後述するが,その後の彼の土俵振りはこの時期に形成されたと思われる。もうこのまま若の里のように幕内上位にはとどまるが大関取りはできずに終わるかのように思われた。

しかしまあ人生とはわからないもので,確かに前頭上位で調子が良ければ11勝することもあったが,関脇に来ると7−8か8−7を繰り返していたのに(関脇で6場所連続8−7を達成したときは誰しもが互助会の存在を確信した),19年3月場所から,ちょうど横綱朝青龍が稽古不足による不振に入り始めたとき,三場所連続で10・12・13勝と勝ち,大関に昇進してしまった。歴代最年長の新大関で,所要44場所は史上2位のスロー昇進であった。なお,白鵬が連続優勝を果たし横綱となったのが19年の5月場所である。19年5月は,栃東が引退した場所でもある。

大関昇進後は28連敗していた朝青龍に勝つという一場面もあったが,取り立てて書くところが無い。この頃から持病の痛風が悪化し,関脇時代から頼りきっていた互助会を使わないと勝ち越せない状態が続く。序盤から崩れるパターンが多く,千代大海・魁皇とは引退チキンレースを常に走っていた。大関在位は15場所だが,うち負け越し=角番が2回というのは,その強さの割りにあまりにも不自然である。二桁は4度しかなく,最高成績は11−4という,まったく大関とは呼べない体たらくであった。野球賭博がなかろうとも,早々に引退すべきであった。


さて,一応取り口にも触れておこう。若い頃はそれなりに見れた力士だったが,平成15年の暗黒期以降は評価がどんどんと下がっていった。立ち合いが汚く,じらしにじらした挙句手を付かずに立つなどということは当然のように行われた。技巧派には違いなかったが,変化するでもなく身体が軽いわけでもなく,まわしをとればなんとかなるわけでもなく,技のデパートというわけでもない。結局のところ彼が技巧派たりえたのは絶妙な前裁きとよく決まる内無双によるもののみで,朝青龍のような真の意味での技巧派ではなかったのである。むしろ彼の武器はアマ相撲から数えて異常に長いキャリアから来る経験と,日本人としては恵まれた身体の大きさに過ぎなかった。

弱点は言うまでもなくその精神で,徹底して勝負師に向いていない。さらに,立会いが汚いくせに猪突猛進するため変化に弱く,押し相撲の力士のごとく立会い前のめりに倒れるシーンはしばしば見られた。それでなくともはたきには弱く,特に千代大海との取組では,互助会なのかそうなのか区別のつかない絶妙なはたかれ方で負けていた。なお,二人の対戦成績は42戦,うち2戦は琴光喜の不戦勝なので省くと40戦で20−20の完全な五分,うち琴光喜がはたき込みで負けた回数は11回と,敗戦原因の半数を数える。琴光喜の側は番付がころころと変わっているのに,千代大海は42番全て大関であるというのも,非常に奇妙な現象である。

まったくこの二人は……というところで,いい加減書いてるほうも腹が立ってきたので筆を置きたい。
  
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2010年07月29日

三国時代の歴史的意義を考える

・魏呉蜀それぞれ,外方向へ進出し中華文化圏が拡大した
魏は東胡とされる烏丸族を討ち,東北部南部を支配下に入れ,南匈奴をオルドス地方に定住させて同化させた。呉は前漢〜後漢にかけて一応中国の支配下に入っていたものの,士燮により半自立状態であった北ベトナムを再征服。蜀は言わずもがな,南蛮夷平定により雲南が新たに中国文化圏となった他,北伐の際,それまで漢民族に対し敵対的であったチベット系遊牧民(氐・羌)を懐柔し,中国本土に引き入れた。


・異民族侵入を許し,五胡の時代を準備した
三国は上記のように異民族を征服し,うまく用いた一方で,異民族にうまく使われてしまった側面もある。三国統一後の晋では内乱(八王の乱)の際,侵入していた異民族の兵力を借りたため,異民族への軍事力依存が危機的な段階に達し,案の定そのまま王朝をひっくり返されてしまった。以後,中国は隋が統一するまで,300年ほど群雄割拠,ないし南北朝分裂の時代が続く。三国時代自体が分裂状態であったから,100年加えて合計400年。

しかしこれは,隋唐という中国史上稀に見る「外に寛容な」国際的色彩の強い王朝を誕生させる遠因となる。隋唐帝国を作ったのは,三国時代末期に中国に侵入を果たした五胡の一つ,鮮卑族である。


・長きにわたる戦乱は儒教を一時衰退させ,仏教・道教繁栄の下地を作った
儒教というのは本質的に支配を安定させるための思想であり,実際に社会が乱れてしまった世の中では効果を持たない。魂の平穏をもたらす類の教えではないからである。ゆえに三国時代という戦乱の世に突入し,さらに五胡の時代が訪れると儒教は次第に衰退し,戦乱の時代にあった宗教が期待された。その一つが現世利益的面の強く,中国古来の思想に由来を持つ道教。もう一つがまさに魂の平穏と輪廻を説く,中国初の本格的な外来宗教となる仏教であった。この二つは,まさに五胡の時代に急成長を遂げ,唐王朝にて全盛期となる。北宋以後は儒教が復権することを考えれば,これは三国以後,唐以前の時代の特色と言えるだろう。

そういえば,陳舜臣が書いた『諸葛孔明』では,諸葛亮が仏教徒だったような。実際にはまったくそんなことなかったのだろうが,いかにも歴史小説的なお遊び。

・江南への人口移動と経済開発を促した
それまで中国の中心地と言えば洛陽や長安のある地域であり,より広い言い方をすれば黄河流域の華北であった。農業的に先進し,人口も多かった。しかし,三国時代には人口が大きく江南に移住した。これはなぜか。プッシュ要因として,まず華北中心で起きた黄巾の乱,次に曹操・呂布の戦争でも転機となるイナゴの大量発生による華北全般的な飢饉,そして時代が下ると五胡の侵入などが挙げられる。

逆にプル要因としては,南方諸政権の安定した統治がその最大の理由であろう。三国志の序盤は孫策の揚州統一くらいであとはずっと華北の話が続くように,実は華南が戦乱に巻き込まれるのはかなり遅い。戦乱に巻き込まれてもその舞台の多くは荊州北部に限定され(赤壁にせよ襄樊にせよ),あとの地域は比較的平穏であった。華南は温暖多雨で,治水さえうまくいけば,養える人口の素地は華北よりも有望であった。ゆえに,開墾を推進しそれを実現させた孫権や諸葛亮の業績は強く讃えられているのである。

隋の煬帝の業績として有名なのは黄河と長江を結ぶ大運河の建設であるが,これは五胡・南北朝の時代に江南が経済的に発展したことによる。しかし,自らが鮮卑という北方民族の出身であり,中国王朝としての伝統もあったから,政治の中心を華北から移動させるわけにいかなかった。そこで華南(特に江南)の経済力を華北に結びつけるため,運河がどうしても必要だったのだ。経済の江南依存は,ある意味中華人民共和国たる現在にまで続いている。


・豪族による王朝支配を固定化させた
地方から優秀な人材を吸い上げるために推挙のシステムを公式化したのは前漢の武帝だが,後漢でもこの傾向が続き,すっかり地方豪族と中央政府のつながりは強くなっていた。こうなると中央政府の側がしっかりしないと推挙される人材の家系,母集団が固定化され,既得権益と化すのは世の常である。これを改革しようと曹操の配下である陳羣が発案し,曹丕が施行したのが九品官人法であるが,これも結果的に豪族支配の固定化を促したに過ぎなかった。地方豪族の一部は都に拠点を移し,隋唐帝国の支配層・世襲貴族を形成していく。陳羣自身は曹操に才能を見いだされ,荀の娘をめとった典型的な荀スクールの人間であった。


・余談として。
三国各王朝の性格はそれぞれ特徴的でおもしろい。曹操下の魏は能力主義的・実力社会的で,前漢以前の戦国時代の風潮に近い。ただし,曹丕以降は急激に保守化し,九品中正の影響もあり世襲貴族による王朝へと変質していく。呉も孫堅,孫策までは個人のカリスマでまとめあげる小集団であったが,孫権の時代に大量の名士・豪族が参入し,むしろ君主権力の弱い,後漢的な豪族連合政権となる。その点,蜀は劉備個人に拠って立つところが強く,劉備死後は諸葛亮や蒋�粍といった名士と宦官による権力争いが続き,やはり後漢的な性格を引きずっているように思われる。実は地方政権のほうが旧時代的で,魏が最も後漢的ではないというのがおもしろい。それは往々にして曹操,劉備,孫権という三人の性格に依拠するところが大きく,個人が時代を形成するという歴史の醍醐味を感じさせてくれる。  
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2010年07月23日

ダースベーダーの愛されっぷりといったら

最近こればっかりですが書いている時間がない。何個か書こうとしてうち捨てた記事があるのが痛い。土日でなんとか取り戻す予定。


・ドラクエとFFのラスボスまとめ(最終防衛ライン2)
→ ところどころ日本語が著しく間違っているのはご愛敬。
→ ドラクエのラスボスは世界征服系,FFの場合は世界滅亡系。FFは段々説明されてもわからないように。「存在」がかかわってくるため,どうしても哲学チックになる。
→ FFが中二病と言われるのは設定の複雑さというよりは独自の言語(と見せかけたヨーロッパ系言語)が多いからではなかろうか。ところどころに陳腐さが見える。
→ ドラクエのラスボスは自分も昔考察したことがある(前編後編)。やはり7のオルゴデミーラが史上最も惜しかった征服系ラスボスということになるだろう。
→ そうすると滅亡系だと誰が一番惜しかったんだろうか。FFはやってないのも多いので私では判断不可。8のアルティミシアかなぁ。
→ この点で統一性がないというかよくわからないのが開発二部。サルーインも七英雄もいまいち何がしたかったのかわかりません。破壊するものとエッグに至っては暴走しただけで自身の意志がない。


・【パクリ】ワールドカップを大相撲で例えてみた(どんより)
→ Jリーグで例えてみたのぱくり。しかし,案外わかりやすい上に妥当という。
→ 下から見ていくと,まず韓国=春日王という奇跡。これを私以外誰も指摘していないというあたりがとても悲しい。いかにもワールドカップ視聴者層と好角家はかぶらないということか。その分日本=翔天狼というのは……なお,翔天狼は今場所は幕尻でここまで4−8と不調。日本とは好対照。
→  デンマーク=高見盛,カメルーン=岩木山なら,翔天狼好調時ならば倒せてもおかしくはないかなと思えなくもない。オランダ=琴光喜の惜敗も理解されよう。琴光喜解雇になったけどね。
→ パラグアイ=猛虎浪と考えても,やはりあれは勝てたなーとか本末転倒な妄想。ちなみに猛虎浪もモンゴリアン。
→ フランスが期待の割にダメダメだったというが,フランス=琴奨菊と聞くとむしろ相応の結果だったのではないかと思えるのが怖い。
→ イングランド=安美錦も同様。
→ イタリア(笑)=魁皇(笑)。ポルトガル(笑)=琴欧洲(笑)。
→ アメリカ=栃ノ心,ドイツ=把瑠都もおおよそ納得の行く感じ。ブラジル=白鵬も,守勢に回ると案外もろい絶対王者という点で共通していた(結果的に)。そりゃ,スペイン=日馬富士だってこの間初優勝しましたね。それだけの実力はあった。


・ワールドカップにダース・ベイダーが出てくるとサッカーはこうなるというムービー(GIGAZINE)
→ 昔同ネタのゴルフの動画があった。いや、それだけの話。


・ナメック星人のすごさは異常(デジタルミックスニュース)
→ してみると,あの漫画で一番報われなかったのは,実はピッコロさんではないか。
→ ただ強いだけではないというのがポイント高い。燃費いいのね,それは初めて知ったかも。原作にそういう表現があったとしたら完全に忘却してるな。  
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2010年07月19日

保守主義とは何か

自称がつかなければ保守と名乗れないような状況は異常である。ここでは私の保守主義の定義を出すが,別にオリジナルというわけではなく,こんなことはバークが規定し,ディズレーリが実行し,マンハイムが再確認したところでしかない。これをもって私は「自称」を外すことにする。代わりに「古典的」でもつけようかと思う。


・保守主義とは「漸進的な改革」路線である。改革を否定すればそれは事大主義となり,改革を過度に進めればそれは革新勢力となる。あえていうなれば,反原理主義と,最も急進的な改革としての(暴力)革命に対する抵抗=反革命が,保守主義にとってのほぼ唯一の理念と言える。

・保守主義はそれ以外の特定の理想・理論を持たない。理想を掲げれば革新勢力になる。特に「平等」を掲げ理論で肉付けすれば,それは左派になる。「自由」を標榜すればそれは自由主義になるだろう。加えて,そこに宗教的論拠や民族主義を持ち込めば右派となる。現実の諸問題は個別に対応すべきであり,その都度手を取り合う相手や理論を変えなければならない。

・このような態度は場当たり主義ではなく,秩序の重視,もしくは肌感覚の重視の結果の態度であるということを,自他ともに念頭に置く必要がある。現実主義と名乗ると一気に胡散臭くなるので避けたいが(一部な左派・右派以外は誰だって自分が現実に即していると思っている),現実にあるものをひとまず肯定的に扱うことは保守として心得ておきたい。

・自国の歴史・伝統は全般的に取り扱い,特定の時代を理想化しない。特定の時代や宗教を理想化することは理念を掲げることと同義であり,保守主義とは本来的に相いれない。これを行えば反動主義となる。一方で,これらは現実との折り合いをつけ,陋習はその都度検討・改善されなければならない。

・言うまでもないことだが,歴史・伝統を無視することは,やはり理念的行動であり,これを排撃しなければならない。現実の抱えるすべての政治状況・社会状況は「特殊」であると考える。

・文化,慣習,制度は理論ではなく,知恵である。すべてが抽象概念で説明できるとは思っていない。ゆえに,一つの文化・慣習・制度を陋習と見なすには相応にかなりの説得力が持たれなければならない。ただし,このような説得力をもたらすのはどちらかといえば革新勢力であり,我々保守が往々にして受け身である点は批判されるだろう。


・結果として,特に啓蒙主義的理性とは最も敵対するだろう。だがそれでよい。右派にしろ左派にしろ,啓蒙主義は暴走し革命に至る。人類はいまだフランス革命とナチス,そしてソ連の亡霊から逃れられていない。(というよりも半永久に逃れられないのではなかろうか。)

・左派に比べると「革新的な」右派,自由主義,反動主義,事大主義とは親和性が高いように見えるが,保守主義者はできる限りこれらとは離れなければならない。自由主義とは世界史的事情により立場が近くなりやすく(新保守主義),右派とは反共において同じ立場となりやすい(自民党の結成理念でもある)。懐古的になりがちという点では反動主義的であり,急進的な改革の制御という点ではやはり事大主義には近いだろう。しかし,これらとは左派への態度同様に一定の距離をおかねばならない。その理由はもはや述べるまでもない。

・それでも左右一元的に表現するならば,保守主義は中道的右派ということにはならざるをえないだろう。しかしこれは反共的結束が強かったという歴史的事情によるもので,私自身右寄りではあると思う。そうすると「中道左派」は何主義なのか?と言われると,私の手には余る話なので,だれか適当に名付けるとよかろう。

  
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2010年07月18日

それはそれとして原作は……

・「文章書けない」問題を抱える子供たち(ディスグラフィア)(Tech Mom from Silicon Valley )
→ その通りだと思う。文章を書くことも一つの才能だと捉え,できない場合は障害扱いするか否かはおいておくとしても,特別な訓練が差別抜きに補われるべきだろう。
→ とりわけ日本の小学校教育では「書くこと」自体が重視されがちで,文章のテクニックは今ひとつ教えられない。ディベートのやり方を学習させてくれないのと同じ病理を感じる。


・これはすごい!W杯に出場する736人の選手がどこでプレーしているのか一目瞭然なFlash (ajickr blog)
→ アジアのひきこもり体質と,アフリカ・南米とヨーロッパ依存がよくわかる画像。
→ こうして見ると四大リーグというのがくっきり浮き出る。フランスさんもっとがんばれ。


・夏休みの風景 白ワンピに麦わら帽子 せみの声 バス停にたたずむ少女って、男にとって永遠の定番だよね(スチーム速報 VIP)
→ バス停は置いておくとしても,前者は全力で肯定する。
→ 画像一枚目水月。那波は俺の嫁。ええぃ,雪さん派は散れ。
→ さて,このスレの興味深いところは,きっちりとした図像学的,図像解釈学的な部分まで踏み込んでいるところでして。なぜそうなのか,それにかかわる我々の意識はどうか,という部分は非常に重要である。本題そのものに興味が薄い人も,ぜひご一読あれ。
→ 考えてみると観鈴ちんは言うに及ばず,那波もアレだな。サナトリウム説は正しいのかも。
→ そういえば,昔読んだ川端康成の短編にもそんな話があったような気がした。タイトルは全く覚えてないが。
→ 本来的に都市民な私でさえも,こういった光景は懐かしく思える。どれだけ日本人に刷り込まれているんだと思う。


・お気に入り@tawarayasotatsu 岩渕潤子氏 の博物館美術館分野の仕分けについての呟き(togetter)
→ 今更ながら第二次事業仕分け。
→ 仕分け人の無知。美術館・博物館の意義,日本の国立美術館の財政の現状,新国立美術館設立の経緯,等について。本当にひどい仕分け人だったようだ。
→ 関係者(というか青柳先生)がうまく反論できたお陰なのか,結果的には良い方向に行きそうだ。「収益を翌年度以降に繰り越して積み立てる仕組み」が実現できるなら,大きな買い物がしやすくなるだろう。
  
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2010年07月17日

非ニコマス定期消化 2010.3月下旬〜4月上旬

ネタの方向性はバラバラ。




ソラユニPらしい動画。




競技の中に笑いを求めるすばらしい姿勢。選曲もダンスもすばらしい。過去のものもすごい。





サガフロブルー編TAS。ブルーTASってだれうま。上がおやつの人で,代表的なルート。下は最近独自に発見された新ルート。アメリカ語と日本語の違いはあるが(表示の関係でアメリカ語のほうが遅い),新ルートの速さが意外。こういうのがあるからRPGのTASはわからない。




同じくサガフロ1。さすがにT260編は長い。独自イベント多数で強制バトル多数だから仕方ない。TASに関する説明多数でじっくり見るとおもしろい。




予想の斜め下。



同じ作者という驚き。この方削除シリーズも作ってる。多才。




これは有名か。エイプリルフールの日に大流行した。




このコサックダンスすげぇ。  
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2010年07月14日

上半期のアニメもろもろ

なんか今頃なことを書こう。

・1〜3月で見てたアニメは「ヴァンパイアバンド」のみ。あんまりシャフト好きじゃないのでちょっと心配だったが,1話は完全に成功だった。2話まで見て原作全巻そろえた。もちろんミナ様大好き。理想的ロリババァの一人。原作は7巻まではすごくおもしろかったが,8巻は若干マンネリに感じた。9巻はそれ展開としてはおもしろいけど,オチが若干不安。アニメは非常に中途半端なところで終わったと思う。あれなら無理に三支族編につっこまず,話を適当に膨らませて原作2巻のところで終わっておけばよかった。三支族編は非常に窮屈に感じたし,「浜さんは犠牲になったのだ……」もあんまり見たくなかったかなと。アニメで原作参入組が言っていいことじゃないかもしれないけど。個人的にはおもしろかったアニメだけど,世間的には埋没したっぽい。あと,原作者の環望が「ミナ様,ロアナプラを訪れるの巻」という同人誌を書いてるわけですがどっかで売ってませんか。超プレミアついてそうだけど。

・4〜6月は「四畳半」と「けいおん!」。四畳半に関しては,世間の評価も高く何より。あとは商業的に売れてくれれば文句はないが,自分で買う気はあんまりない。原作との最大の違いというと主人公が毎回添い遂げるか振られるかにあるわけだが,毎回振られるというパターンはアニメっぽくてよかったと思う。一週間に一度見るもので毎回成就されても見飽きるだろう。アニメのほうが話数の関係でパターンが増えたわけだが,それもそれとなく原作の情報を用いたものが多く,不自然ではなかった。最終話二つ前の福猫飯店で成り上がる話は特に良く出来ていた。あと,明石さんは俺の嫁。

・「けいおん!」2期は,1クール目のOPEDは最初どうかなーと思ったが,13話分聞いているうちにかなり好きになった。ただし,某人の「高校生があれを弾いているというイメージは大切にしてほしかった」という意見には同意したい。その意味で2クール目のOPも大概だよなぁと思う。2期は1期よりもゆったり時間が動いていて,それは別にいいのだが,あと一年で卒業というのを強調しすぎていてちょっとくどくなってきた。仕掛けが1話からというのは早すぎたのではないか。4人の未来に対する考え方の違いやその変化を丁寧に描いている,というのは十分にわかるんだけど。最近,ムギ回が多くて嬉しい。まゆげかわいいよまゆげ。

・本来ならば「GIANT KILLING」は見るべきなんだろうが,1話見逃して萎えた。気付くともう2クール目。というか,あんまり話題になってないのは萌えアニメでないからか。だとしたら悲しいなぁ。原作もおもしろいよ。

・「Angel Beats!」は見なかったわけだが,友人たち及び世間のリアクションを見るに,見なくて正解だったようです。オチはネタバレしたが,読んで納得した。

・さて,7月から見るのは「けいおん!」続きのほかだと「カンパネラ」しかない状況だが,早速カンパネ切りそうで怖い。正直ニコニコのコメント無いと1話も途中でやめていた。一番心配していた作画が意外と安定していたのには驚いたが,そういう問題じゃなくて一番やばいのは脚本ということに早くも気付かされた。「イケメン爆発しろ」というコメントが乱舞するのは,そうしないと鑑賞者側の間がもたないからである。話のペースを早くするべきではないか。そして,誰のルートに進むのだろう……一番ありうるのはミネットだろうが,あのルートはぐだぐだなので,カリーナルートに進むという英断が見たい。それはそれとしてFD開発開始は喜ばしく,ガーネットルートの実装を土下座してでもお願いしたい所存であります。

・将来的に見る予定があるのは「ヨスガノソラ」のみ。公式サイトの穹さんが最初から全力全開すぎてたまらん。やりようによってはおもしろくなるはずなのでがんばってほしい。
  
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2010年07月13日

Fussball Weltmeisterschaft in Suedafrika

意外と見てたワールドカップの感想をここにまとめておく。

グループA
はっきり言ってウルグアイがこんなに躍進するとは思わなかった。興味も無かったから選手を調べてもおらず,後々に後悔することになる。南アはあんなもんだろう。フランス(笑)はイタリアと同じ病か。ジャブラニに慣れなかったとかそういうレベルじゃない病を感じた。yahooのコラムにあったが,移民を使いこなしているかどうかでドイツと差が出たのかもしれない。

グループB
アルゼンチン強すぎワロタだったのだが,メッシ無得点というのと,正直このグループはぬるすぎただろう。韓国の躍進は素直に喜ぶべき,アジア枠のためにも。ナイジェリアは最初からダメな気がしてたけど予想以上にダメだった。

グループC
アメリカは出来る子だと思ってたけどそれ以上にイングランドが出来ない子だった。まあイングランドはいつもこんなもんだと言われればそこまでだが。ルーニーが役に立たなかったというよりはオフェンス陣が皆動きが悪かった。スロヴェニアは残念ながら勝ちあがれなかったが,アメリカ戦が熱かったので良しとしたい。正直,イングランドよりもトーナメントに上がる資格があったと思う。最後負けてなければなぁ。

グループD
ドイツのセルビア敗戦はなんだったのか。蛸の呪いか?試合見てなかったのでなんともいえないのが悔しいが,イエローカード乱舞しすぎである。今大会,イエローカードの出方が審判によって極端ではあった。ガーナの2位抜けはアフリカ勢唯一の残留として喜ぶべきところなのかもしれないが,オーストラリアが残ってアジア枠維持の担保になったほうが嬉しかった気がする。オーストラリアは断片的にしか試合を見ていないが,4年前のほうが強かったのでは。

グループE
はい,0勝3敗とは言わんまでも,1分か2分だろうとは思ってましたごめんなさい。このグループは日本の躍進に尽きる。それでもカメルーン戦はまぐれで勝ったようなところがあり,守備に意識が行き過ぎててその割にカメルーンには再三攻め込まれ,負けてても全くおかしくなかった。オランダ戦はあんなもんだろうとして,デンマーク戦は別のチームのような動きで感嘆した。あれが毎回できるなら,確かに4強まで行けたかもしれない。

グループF
イタリア(笑)に尽き,他に印象がほとんどないグループ。予選がEと半分は同じで,見る機会が得られなかったというのが大きい。イタリアの失墜により,結果的に全チームそんなに強くなかったという結果のような気がする。パラグアイもスロヴァキアも決勝トーナメントあんなんですし。ツイッターのログを見たら,イタリア・ニュージーランド戦は見ていたようで,ニュージーランドのGKががんばってたらしい。記憶に無い。


グループG
ブラジルとポルトガルの試合が塩試合すぎて萎えた。まあどっちも気が抜けてたのはわかるが,決勝トーナメントで敗退したのもむべなるかな。このグループのハイライトは北朝鮮・ポルトガル戦にあるのは間違いないわけで,これはしっかり90分見てしまった上に,しっかりツイッターで実況してしまった。北朝鮮かわいそうでした。

グループH
最初スペインが負けたとき「こいつもか」と思ったが,なかなかどうして,見事に立ち直った。逆にスイスはもったいない,最後ホンジュラスに勝っておけば,チリに逆転して2位でトーナメント進出だったのに。


決勝トーナメント

見たものだけ。イングランド・ドイツ。イングランドのDF陣がしょっぱなから崩壊しててこれ大差つくだろう……と思っていたところに疑惑のゴール。あれが入ってれば2−2だったわけだが,惜しくも判定覆らず。イングランドはうまく抜けたのがあのシーンだけで,あとは攻撃陣が押さえ込まれていた。結果4−1という大差。ドイツのカウンターの速さが光り,今大会見てて2番目におもしろかった試合(一番は日本・デンマーク戦)。

オランダ・スロヴァキアはロッベン登場で期待がもたれたがつまんねー試合で先が思いやられた。しかし,スナイデルはすごかった。パラグアイ・日本。日本はデンマーク戦とは違い,オランダ戦のような動き。前線で本田が孤立し,松井がドリブルで切り込むもパスが本田に通らない。DF陣は奮戦した。パラグアイはそれほど強くなかっただけに,惜しい敗戦。あと少しでもパスの精度が高ければ……。日本の最大の弱点QBKを克服できたのが今大会最大の収穫であるのは間違いないが,反面教師過ぎてシュートの精度も落ちていたような気がする。落ち着いて狙うのが次の課題。

オランダ・ブラジルはオランダを応援していたものの意外な結果に。やはりスナイデルが光った(頭的な意味ではなく)。前半はブラジルペースだったが,後半はブラジルが気を抜いたところでオランダが点を入れると,ブラジルが一気に崩れた。「ブラジルは弱者の気持ちがわからなかった」とコラムで読んだが,その通りであろう。

ドイツ・アルゼンチン戦。ドイツの強さが光った試合。内容そのものはイングランド戦とそれほど変わらない。足速すぎパス精度良すぎ。この日もメッシは常に三人に囲まれ仕事できず。他のアルゼンチン選手はなめられすぎであったが,実際に動けなかった。それだけメッシ中心にチームを組んできていたのだろうか?他の試合を見るにそうも思えないのだが。ただし,ドイツは余分なことをしてミュラーがイエローカードをもらい,次の試合出場停止に。これが伏線になろうとは。皆書いていることだろうが,4−0で散ったアルゼンチンは,マラドーナ監督らしい派手さといえばそうかもしれない。あと,メルケルさん喜びすぎ。スペイン・パラグアイは見てなかったのだがひどいgdgdだったという話を聞いて「ああ今回はドイツ優勝だな」と思ったのだが,サッカーとはどうなるかわからんもんだ。

ウルグアイ・オランダはスコア以上にオランダが強かった。ロッベンはようやくエンジンがかかってきたがもう決勝しか試合がない。ウグルアイは仮にスアレスがいても結果は同じであっただろう。逆のことが言えたのがドイツ・スペイン戦で,ミュラーの欠場が如実に攻撃力不足となって現れていた。ドイツは攻撃陣をクローゼ以外全員若返りさせた結果,あのとんでもなく早いカウンターを成功させていたわけだが,ミュラーを一人欠いた途端速度が落ち,スペインの守備が間に合うようになってしまった。日本の本田同様,チームプレーに見えて個に頼っていたのかもしれない。対してスペインは実に卒の無い試合運び。

三決は放送されなかったので試合内容については何もいえないが,ドイツが勝ってよかったと思います。決勝,オランダ・スペイン戦。第二次オランダ独立戦争の結果は,スペインが400年越しのリベンジを果たした。もちろんオランダを応援していたのだが,イエローカード乱舞でペースを乱されたのは否めず,決勝なのにつまらない試合であった。全部で14枚はひどすぎる。しかも延長とはね。やっぱドイツ・オランダのほうがおもしろい試合になったような気がするな,とぼやいて今回のワールドカップの締めとする。
  
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2010年07月11日

最も古い中国

mod_work_img01東博の古代中国文明展に行ってきた。殷墟・洛陽・開封のそろった河南省にスポットライトを当て,夏王朝の時代から北宋まで,中国文明の誕生を追っていこうというもの。借りてきたものは全て河南省から持ってきたものだ。

中国という文明圏は大きく三度性質を変えている。現代に近いほうから清朝の崩壊,唐末から五代にかけて,そして春秋戦国時代の間の三度である。春秋より以前はすなわち儒教以前で,儒教が理想化した世界ながら,実際には儒教が採用された前漢以降と全く異なる世界であった。社会的には封建制であり,地縁よりも血縁が強い。文物も儒教が「淫祠邪教」としたような,道教ともまた違う素朴な自然崇拝に近いものであった。農業生産力が弱く,商工業もまだそれほど発展していなかった。

確かに中国美術の粋というと北宋以降の「第三期」であることは疑い得ず,「第二期」にあたる唐の時代の唐三彩や南北朝期の仏教美術,シルクロードの影響を受けた美術などは紹介されることも多い。「第四期」にあたる現代の中国美術は,今まさにバブル的活況を迎えているところだろう。その是非は別とするならば。さて,そうすると「第一期」はあまり日の目を見ていないことになる。本展覧会は,まさにこの「第一期」を中心に扱い,「第二期」「第三期」へと移り変わっていく様子を説明するものである。(なお,今回の展示は河南省を中心においたものだが,実のところ河南省にある都市を首都においたのは「第三期」最初の王朝である北宋が最後で,つまり河南省を中心においた時点で本展示の目的は明らかなのである。)

春秋以前の中国美術というのはなんとも表現しづらい。エキゾチックと言ってしまうには少しナイーブな気がするが,儒教以後の洗練されたセンスがそこにはない。どちらかといえば縄文土器に近いセンスならば感じることはできる。たとえというよりはそのままになってしまうが,漢字と隷書以前の文字,隷書・金文・甲骨文字に感じるような不思議なオーラが,どの美術品からでも感じられるのである。トウテツのようなデザインはその典型であろう。今回の展示でそれが最も感じられたのは,チラシにも大きく使われていた今回の画像,動物紋飾板である。夏王朝の制作の可能性が高いというのだから恐れ入る。

使われている材料が青銅と玉が中心というのも大きい。今回の展示で一番感じたのは,玉の美しさである。玉は大雑把に「美しい石」という意味でしかなく,実際の化学的な分析ではおそらくバラバラの名前が出てくる。一番多いのは翡翠らしいが,今回見たものでは濁った白い物質が一番多かった。あれは化学的には何になるのだろうか。玉壁の吸い込まれるような輝きには,あれを追い求めた春秋戦国時代の君主たちの気持ちもわかるというものである。完璧という言葉の重みも理解されよう。

あとは金縷玉衣をよく持ってきたなぁと。こればっかりは中国本土に行かないと見れないかと思っていた。あとは嫦娥のレリーフがあったので,東方厨は拝みに行くこと。


  
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2010年07月10日

イタリア・バロックの祭典

西美のカポディモンテ美術館展に行ってきた。入ってすぐのキャプションにあることだが,カポディモンテとはイタリア語で「山の上」を意味し,ナポリの後背地の丘の上にこの美術館は存在する。両シチリア王国の集めた美術品が収蔵されている。

両シチリア王国は12世紀の初めに建国され,その後王朝がころころと変わっているにもかかわらず,18世紀まで長く繁栄した王国である。地中海が世界の中心であった時代にはシチリア・ナポリの立地は非常に条件が良く,交易の中心であった。地域主義が強く分裂しがちなイタリア半島において,長靴の南三分の一を一括して支配し続けた両シチリアは,その王朝交代の激しさの割には領土が不変で,大国として安定していた。地中海が世界の中心ではなくなった17世紀以降においても,両シチリアは農業先進地帯として繁栄し,物資の集積地となったナポリは人口50万人を抱えてパリに次ぐ大都市となっていた。南イタリアが現在のように寂れてマフィアが闊歩するようになるのは,19世紀:工業の時代になってからである。統一の主導が北イタリアであったことも災いした。

ナポリは,ルネサンスでは今ひとつ影が薄いが,バロック以降ではスペイン支配の影響を受けて多くの作品を収集している。本展覧会でもバロック美術が中心であり,作品はほぼ16〜17世紀に固まっている。16世紀がやや充実していたのはスペイン・ブルボン家の血統にパルマ公のファルーゼ家の血筋が混ざっており,パルマ公国からナポリに多数持ち出された影響だそうだ。

展示作品は西美の客層にあったもの,といえば大体通じそうな気がするが,メジャーすぎずマイナーすぎず,しかし質は高いものであった。教科書には載っていないが美術系の一般書には載っている程度には知名度が高く,美術好きならば「これどっかの本で見た」と思えるような作品がちらほらと展示されていた。こういった現象は近代以降の絵画ならば多いが,バロック期では珍しいことだと思う。カポディモンテ美術館という今まで日本にはほとんど紹介されてこなかった場所だからこその現象だろうか。

具体的に言えば,個人的にはパルミジャニーノ《貴婦人の肖像(アンテア)》,ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《マグダラのマリア》,グイド・レーニ《アタランテとヒッポメネス》,アルテミジア・ジェンティレスキ《ユディトとホロフェルネス》等がそれにあたる。アンテアは本展覧会のチラシに大きく使われているので,見た人も多いだろう。カポディモンテの顔といわれる作品。ティツィアーノのマグダラのマリアは,画面左下に香油の壺,右下に髑髏が描かれ非常に教科書的な作品である。アルテミジア・ジェンティレスキはカラヴァッジョフォロワー(カラヴァッジェスキ)としても有名である一方,ソフォニスバ・アンギッソラと並ぶこの時代の女流画家でもある。

その他では,ブロンズィーノの貴婦人は相変わらず首長いなとか,ヴァザーリ先生いかにマニエリスムといえど画面ごみごみしすぎだよとか。ソフォニスバ・アンギッソラの自画像は一発でわかるが,そういえば生で見たのは初めてかもしれない。また,(反宗教改革期の)スペイン・バロックの特徴ではあるにせよ聖書や聖人を題材にしたものが非常に多く,特に乳房を切り取られたことで有名な聖アガタが3点,ユディトが2点,マグダラのマリアが4点と,ここら辺が多いのは珍しいのではないだろうか。


若干素描と工芸品で数を水増ししているところがあり,80点の割には早めに見終わってしまったが,バロック絵画が好きならば行く価値は十分にある展覧会。  
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2010年07月07日

芸術定義議論の歴史的経緯(3)

前回あえて書き落としたことから触れておく。それは18世紀の中葉に起きた出来事である,「美学」という学問の誕生である。してみると,美学とは哲学と美術史の間に立つ学問だと思われるが,その歴史は浅い。哲学は古代ギリシアから存在し,美術史の確立もどう新しく見ても16世紀後半のヴァザーリということになるだろう。もちろん,美学もさかのぼろうと思えばプラトンに到達できなくはないのであるが……

美学という学問の創設者は一般にバウムガルテンというドイツ人とされるが,実はバウムガルテンに美学を作ったという意識はなかった。これには当時の学問分野の分け方に事情がある。すなわち,哲学は人間の理性や悟性を対象として扱うが,「感性」を対象にする学問は当時存在していなかった。そこでバウムガルテンは感性を研究する学問を創始した。そこで美を認識するのは感性であると定義し,バウムガルテンは感性は下位的な認識能力であり,哲学こそが本道とした。つまり,バウムガルテンの時点では「感性学」であった。

これに続いたのがバークとカントだが,この二人に関しては以前崇高概念の説明で語ったことがあるので簡潔に書いておきたい。すなわち,バークは美のみが感性の観念ではなく,崇高という概念を提示した。カントは,美とは感性と構想力(悟性)の双方(=判断力)による認識であるとした上で,感性は劣った認識能力ではなく,悟性と同格であるとした(ただし,理性を最上段におくことが前提)。バウムガルテンの物言いを,きちんと学問の形として筋道をつけたのはやはりカントであろう。ただしそれは自律した美学ではなく,いまだ倫理学によりかかるものであった。その意味で,美学が完全に自律するのはヘーゲルを待たねばならないだろう。以後,本来「感性学」という意味合いだったaestheticは,美という概念について考える「美学」という新たな意味合いに変質していった。

もう一面の重要人物たちがヴィンケルマンとレッシングで,やはり二人ともドイツ人である。彼らが引き起こした大論争こそ,いわゆる「ラオコーン論争」である。ラオコーンの彫像はもとより傑作であり有名であるが,ヘレニズム期の彫刻の中でも最も有名になったのはこの論争のせいだろう。ヴィンケルマンがそれまでの価値観に拠ってラオコーンの均整な美を称揚すると,これにレッシングは「一場面に切り取られた感情・激情」がこの像の表現するものだと反論した。つまり,古代ギリシア・ローマこそが憧憬の先にあり,すなわち人間の理性や思想こそが最上の価値であり,美はその表象であるという価値観にくさびが打たれたのである。これはバウムガルテンとは別方向に,美学の誕生を宣言するものとなり,やはりカントやヘーゲルを経て19世紀の美術史家たちに引き継がれていく。これらの美学の勃興とロマン主義の誕生は,鶏と卵の関係だったと言えるだろう。



美術史の本流に話を戻す。発展史観的に見れば,ロマン主義の立ち位置は非常に中途半端であった,と私は思う。ロマン主義の指す範囲は非常に広く,幅がある。しかし,ロマン主義の美術は,「思想」か「技術」のいずれかにおいて新古典主義を脱しているが,そのもう片方は保守的であるという点で共通している。逸脱しなければ感情を描けなかったからだ。たとえばドラクロワは色で魅せたように技術において逸脱したが,彼は題材については歴史画の範疇であった。それに対しフリードリヒは技術においてはアカデミックであったが,「思想」においては革新的であった(つまり,「技術」の解体と思想の優位という発展史観において,ドラクロワが賞賛されてフリードリヒの芸術が長らく発掘されなかったのは容易に理解されうる)。この点,一歩頭を抜けていたのはターナーではないかと思う。彼の絵画にはすでに,自然主義を飛び越えて印象派が誕生するという予兆があった。

さて,ロココが衰退するとその隙間に入ってきたが自然主義である。自然主義はさらに一歩進めて,背景の風景を線で描かない上に,題材も歴史画からは外れるということころに至った。しかし,それでもまだ人物は線だったし,「見たままに描いている」という点では既存の美術からそれほど離れてはいなかった。加えて言えば,彼らは自分たちの作品の,伝統的ヒエラルキーにおける低さを自覚していたので,反発を受けなかった。自然主義がロマン主義とともに,アカデミーに取り入れられていったのは理解できる。

そうすると,自然主義・ロマン主義が印象主義への橋渡しとなったのは,非常に納得のいくことである。にもかかわらず前者二つは受容され,印象派は激しく反発されたか。印象派の描法は同じ線の否定であっても,筆跡を残さない自然主義とはやはり異なった。モネの絵画が「死体を描いているようだ」と評されたという逸話は有名だが,アカデミーの規範において,まだ人物>自然という観点は生き残っており(その理由については(1)を参照),自然と同じ描法で人物を描けばモノである死体を見なされるのは当然のことであった。要するに,自然主義・ロマン主義が踏み込まなかったアカデミーの規定する芸術の概念に対する一歩を,印象主義は踏みつけた形になる。それは「見たままに描く」から「印象を描く」への転換であり,印象(impression)が表現(expression)にすぐ反転したことは,歴史が雄弁に物語っている。

それでも,決定打はやはりセザンヌまで待たねばなるまい。セザンヌの最大の仕事はポリフォーカスの発明であった。「見たままに描く」が「印象」となり,「描きたいように描く」へとうとう足を踏み入れた瞬間であった。すでに「線」はとうの昔に死んでいたが,ここではさらに線的遠近法=理性=神は二度目の殺害に遭った。奇しくもニーチェが神の死亡を宣言したのとまったく同時期であった。ここにルネサンス的芸術観は完全に打ち崩されたのである。

ただし,これは学者ではなく好事家的な物言いになるのだが(そして私は紛れもなく後者だから許されるだろう),印象派の画家たち自身には,そこまでの意志がなかったように思う。そもそも彼らは「自分が見た印象を描く」ということを標榜していたのであり,「思想」的にはこれほど薄っぺらいものは無かった。もっと言えば,これは自然主義も同様であった。彼らは見目麗しい物を描こうとして,偶然アカデミーから逸脱し,アカデミー側の論理で受容されるか排除されるか決定された。そこに,「反権威」や「意味内容の消滅自体=芸術の純粋化」という“思想”を持たせ,前衛の誕生に一役買ったものが本当に存在しなかったか?それは誘導されず,自然発生的に起きたことなのか?私はノーであると答える。これは美術史学の,ひいては学者や批評家の功罪であるように思う。

なお,この頃になるとイタリアは完全に美術の中心地ではなくなっていた。古代の芸術を規範とする必要がなくなってきた上に,鉄道が普及して「留学」するほどのものでもなくなってきたからだ。同じドイツ人でもフリードリヒは一流の画家であるのにイタリアに行かなかったので相当後ろ指を指されたのに対し,その半世紀後のベックリンはイタリアに赴かずとも変人扱いはされても批判はされなかった。二人のイタリアに対するかかわりは,ドイツ人の持つ芸術に対するイメージの違いをよく示している。イギリスにラファエロ前派が登場したという点も興味深い。イタリア離れがナショナリズムの勃興や鉄道の普及に関連していたことを考えると,美術の歴史も政治史・社会史とは切り離せない。

勝利した「思想」は暴走を始める。20世紀の初頭に,アーツアンドクラフツ運動やバウハウスが起きたのは,まさに歴史画の失墜と表裏一体であった。古典的な「芸術」概念が崩壊すれば,「芸術家」と職人の区別は再びつかなくなるからである。また,モネが晩年,抽象的な表現に向かったのは大変に興味深いことであると,私は思う。始めはよりよく対象を描くために発明された筆触分割は画家の個性を表すものとなり,対象は具象物をとる必要がなくなった。「筆触」こそが重要になったから,対象はうち捨てられた。

私が現代芸術に対して最も反発しているのはこの点である。美術は「何かの表象」であるからこそおもしろいのであり,表象を読み解くにはルールが共有されている必要がある。ルールが無い,基準が無ければ趣味は判断され得ない。とりわけ,古典的ルールから外れ,見目も麗しくなく,さらにデザイン的なセンスの良さを示したものでもなければ,それはもはや画家の個性の表出でしかない。意味内容を持たない「純粋な芸術」などというものは幻であった。もしくは,「純粋な芸術」は各々の心の内にしか存在しない,ということができる。しかし,個性の表出がやったもん勝ちに堕し,どんどん鑑賞者との距離は開いて「前衛」化する。結局,自らの個性を万人に訴えかけるには,具象物に思いを託し,一定のルールに則るしかないのである。古典的ルールに代わる新たなルールが,これまで提示されたか?もしくは,提示されたものは受け入れられて共有されたか?

現代において「芸術」とは何かと問われれば,すでに解体された概念であるか,定義不能というほかない。現代芸術家は自らの個性を表出する前に,自らの則りたい芸術概念がなんであるかを先に示さなくてはならなくなったが,その過程をすっ飛ばすか,その概念自体が突拍子もないため,理解がえられない。私がよほどのことがなければ,20世紀以降の画家・作家を評価しないのは,一定のルールなしに評価するなどおこがましい行為でしかないと感じているためである。自然,セザンヌ〜ピカソあたりが限界になる。

「芸術」という概念が解体されているにもかかわらず,芸術と見なしうるかもしれないものが存在し,しかも国家や富豪がパトロネージしているのは,まさに既存の制度から逃れることを皆怖がっているからである。芸術が本当に線的に発展してきたもので,現代がその到達点であるならば,よくわからなくても保護しなければ,「あの国(人)は芸術のわからない野蛮な国(人)だ」ということになってしまう。正直な話をすると,私はここにとやかく言うつもりはないし,完全に無駄な投資だとは思わない。結局それが「芸術」であったかどうかということは後世の人間が規定することであり,選択肢の幅を縮めることはないからである。50年後,私の側が「敗北者」になっているということもありうるだろう。


なお,(3)で書いたようなことはちょうど今月の『芸術新潮』で高橋明也がオルセー美術館の実際の展示にひっかけて語っているので,皆買って読めばいいと思う。俺は超頷きながら読んだ。
  
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2010年07月05日

風景画!風景画!

文化村のストラスブール美術館展に行ってきた。ストラスブールといえば独仏境界の街であり,独仏係争の地でもあり複雑な歴史をたどってきた街だが,それゆえにしばしばナショナリズムの目線で語られがちなところがある。今回の展示もそんな方向性だと,逆に見飽きすぎていて嫌だなと思っていたら,良い意味で普通の風景画中心の展覧会であった。一方で,ドイツ側のマイナーな風景画も少数ながら展示されており,これは非常に嬉しかった。こういった展示の機微が真にストラスブールが現代に果たしている役割を伝えるものではないか。機微すぎてどの程度の鑑賞者に伝わったのかは疑わしいが。というのも,今回画像がない理由なのだが,ドイツ系の画家の画像が,HPに一枚も無いのだ。せっかく貼ろうと思っていたのに。


作品は若干つまらないものもあったが,おおよそおもしろかったと言っていいだろう。第一章のテーマは「窓」で,これは非常に意義深い。「風景画は窓か壁か」という議論は風景画が誕生したルネサンスの当時から存在するし,窓=境界という観点からしばしば哲学的な命題を示すための道具となった。窓=額としてだまし絵的な使い方をする画家もいる。では今回の展示はどうだったかと言えば,これらを説明するには力不足であったと思う。そもそも作品数が5点しかないのに一章設けてしまったのは間違いではなかったか。

第二章は人物と風景画で,こちらも語れるトピックは多いのに作品数と質が力不足であったように思う。そもそもこのテーマでこの作品数で,周囲が全て自然主義であるのに,ぽつんと青騎士やピカソがあっても浮くだけだろう。だったら以って来ないほうが良かった。なお,こんなことを言うと「あいつはまたセンスの無いことを」と思われるかもしれないが,やはり私にはピカソがさっぱり理解できない。

そんな感じで前半ぐんにょりしながら過ぎたが,第三章「都市の風景」からが本番であった。この章から先はマイナーながら良いものが多く,時代・流派もおおよそ19世紀の100年間に固まっていた。若干異色ながらあるべき作品であると感じたのが《フランス軍のストラスブール入城,1918年11月22日》で,ここでは住民が歓喜している様子が描かれているが,これは一種のプロパガンダである。実際にはストラスブールのアイデンティティは「アルザス人」であって,ドイツの支配に甘んじていたわけでもなければ,フランス人の支配を歓迎していたわけでもない,ということが歴史家によって暴かれている。章立てせず,一作で語るこの姿勢を私は機微と呼びたい。もちろん一番多かったのはストラスブールを描いたアルザス出身の画家たちの作品で,「お前民族的にはどっちだよ!w」とつっこみたくなる画家名を見てニマニマしたのはきっと自分だけではあるまい(ちなみに,実際にはアルザス語というものがあるのでどちらでもないのだろう)。あとはユベール・ロベールの1点だけあった小品が印象的であった。

第四章「水辺の風景」,確かに海景画及びロイスダールをプレ・ロマン主義と位置づけるなら,オランダ・バロックがその系統の風景画の始祖になるだろう,とキャプションを読んで思った。展示としては小品が多くやや残念。これもこのテーマならどれだけでも広げられたような気がするのだが,手を広げすぎて拡散したか。第五章「田園の風景」,ここは至高であった。この章を見直すために図版を買ったようなものだ。ロマン主義的風景画が多く大変満足したのだが,キャプションには不満であった(※ 後述する)。第六章「木のある風景」。特に書くことはないのだが,カンディンスキーの非常に初期のポスト印象派じみた小品があって,ここから抽象画に進むのだから納得するようなそうでないような。


あと来週だけで終わるが,行く価値はあると思う。空いてるし。
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2010年07月04日

2010上半期ニコマス20選

2010上半期ニコマス20選(卓球P)

今回も参加します。選ぶだけで疲れてコメントがいつもよりいい加減なのはご容赦を。選評としては,思っていたよりも良作が多くて選ぶのに悩んだ。しかし,不作だったイメージがあったのは1月と6月にはやはり選ぶべき作品が少なく,結果完成した20選はやや時期が偏ってしまったように思う。架空戦記,ノベマスにやや元気がなく,PVが少しだけ復権したような印象もある。依然手描きは強い。最も特徴的なこととして,絶対誰しもが選ぶPVというのは非常に少なかったように思える。今回はけっこうばらつくのではないか。



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2010年07月02日

芸術定義議論の歴史的経緯(2)

前回。ルネサンスからしばらくの間,西欧美術の中心地はイタリアであった。一般的な歴史ではローマ劫掠(1526)でイタリアが経済的に壊滅し,ルネサンスの中心がフランスへ移ったとされる。今そんなバカな,と思った方はおそらく美術通だと思うのだが,その通り美術の場合は状況が少し違った。理由はいくつかある。反宗教改革運動により,イタリアにはいまだ美術作品に需要が大きかったし,教会には資金が集まっていたこと。これはマニエリスムやバロックが伸びていく理由となる。そしてもう一つは,イタリアの風景が美しく,古代ローマの遺跡も豊富であったということ。これらは歴史画を描くための格好の材料であった。こうして,ヨーロッパの画家たちはこぞってイタリアに旅行した。

それは北方ルネサンスの中心地にして油彩画発祥の地,オランダであっても同様であった。近年の研究では,オランダにおいてイタリアに赴く画家は「親イタリア派」と呼ばれ,それなりの規模をほこっていたことが明かされている。最も有名な親イタリア派といえばヤン・ボトではないかと思うのが,それなりに知っている人も多いのではなかろうか。もはや王道は発掘しきった感もある美術史の学者の次の仕事はこういった画家たちを発掘し,正しく位置づけることなのだろう。


マニエリスムの時代には,もう一つ大きな出来事が起きていた。それは芸術家が職人から「芸術家」になったことで,ギルド的な職能制度では対応しづらくなったために私的な学校が作られ,後には自らの宮廷を権威付けたい君主たちによってアカデミーという公的な機関になっていくという現象である。その端緒は一応,私の知っている限りではカラッチ一族ということになっているはずだ。カラッチ一族といえば16世紀初頭から活躍を初め,ルネサンスからバロックに至るまでを駆け抜けた北イタリア(ボローニャ派)を代表する芸術家の名門一族である。最も有名なのは16世紀末のアンニーバレで,まさに彼の頃に原初的なアカデミーは創設されたのであった。カラッチ一族の特徴はバロックでありながら(特にアンニーバレはマニエリスムからバロックに踏み出したカラヴァッジョと並ぶ最初期の人物であった),古典主義を重視しルネサンスを忘れなかった。この点は,後のアカデミー教育に強い影響を及ぼしたということは,後世を知っているものに今更説くまでもあるまい。

(余談だが,アンニーバレの直弟子にグイド・レーニがいると言われると妙に納得するのは私だけではないと思う。ついでに言えば,グイド・レーニといえば本来は敬虔なカトリックで歴史画の大家であるにもかからわず,私には《ベアトリーチェ・チェンチの肖像》のイメージしかない。これは絶対に「美の巨人たち」の陰謀。間違いなく。)


しかし,いかんせん経済力の盛衰や世俗化の流れは食い止められないもので,美術の中心他の西欧諸国に移っていく。それでもイタリアは美術修行の中心としてはかなり長く生きながらえた。なぜなら,美しい風景と多くのキリスト教寺院,そして古代ローマの遺跡という点では他の追随を許さず,自らをルネサンスの後継者たちであると自負する以上,画家としては一度赴かざるを得ない土地になっていたからだ。すなわち,ここでもいまだルネサンスの定めた「芸術」概念の威光は十分に残っていた。

その中で,フランスは絵画芸術の最大の中心地として名を挙げていった。その理由は様々である。フランスはイタリアに地理的に近く,大国で,旧教国であり,当時としてはずば抜けて王権が強く,大航海時代のお陰で海外貿易で潤っており,結果として宮廷が豊かであった。フランスの美術アカデミーは1648年開設だが,それ以前からフォンテーヌブロー派が存在し,宮廷を中心に画壇が築かれる伝統は存在していた。教育機関,イタリア留学,サロンが早々に整備されていた点は特筆に価する。

しかし,フランスのアカデミーにおいて本当に特筆すべきであるのは,イタリアから古典主義を輸入したことだ。それぞれ発現の方向性は異なるとはいえ,スペインもドイツもオランダもバロック一色で染まっていた時代に,ニコラ・プッサン,クロード・ロランを輩出したフランスの独自性には脱帽する。フランスアカデミーが最終的に他を出し抜き,頂点に躍り出たのは古典主義が保存されていたためであるとされる。

で,どうしてここまで長々とアカデミーの歴史を書いたかと言えば,プッサンの名前を出したかったからに他ならない。後世に言うプッサン・ルーベンス論争である。言い換えればこれは「線か色か」という,17世紀後半の画家同士の争いであった。プッサン=古典主義=線であり,線とは均整を意味し,均整とはすなわち人間の理性であった。どういうつながりだってばよ,意味不明だぜという人もおられるかもしれないが,ラテン語で理性を示すratioには「比例,割合」という意味もあるように,古代ギリシア・ローマの伝統では物事を切り分けて推理することが理性の仕事であり,これは絵画におきかえれば確かに線の仕事なのだ。

(またどうでもいい余談を挟むと,この線=理性=キリスト教の神という思想を突き詰めていくと理神論に到達し,さらに発展させるとフリーメイソンの教義になる。フリーメイソンの直訳が「石工」であることや,彼らの掲げるシンボルマークは「コンパスに目」であることに注目したい。一方で社会を取り巻くこの理性狂信はフランス革命という政治的成果も生んだ。革命政府が何を好んだか?新古典主義というのは偶然の一致ではない。)


逆にルーベンス=バロック=色であり,世界の再現・創造が絵画の使命であるのならば,色も線に勝るとも劣らぬ重要な要素であり,場合によっては線を凌駕する機能を持つとしたのがこちらの側であった。またこの対決は,理性を意味する線に対して,色彩は人間の感情を激しく揺さぶる情動を示すとされ,その意味では心身二元論上の哲学代理戦争であった一面もある。さらにこの対決は,この時代には表面化しなかったさらなる要素もはらんでいた。そもそもルネサンスの時点で「思想」と「技術」が,芸術家が芸術家たりうるための条件として設定されたが,問題はこれらがごっちゃになっていたということであった。そして,「思想」と「技術」の分化が始まったのが,プッサン・ルーベンス論争ではないかと私は思うのだ。

プッサン,というよりも古典主義はうまく線を引き,世界を構成する「技術」の優越をうたったが,ルーベンス派は世界の創造という「思想」的要素を重視し,その世界は必ずしも均整のとれた理想的世界である必要は無いという理念を,ルネサンス以後の西欧の美術に初めて打ち出した。つまり,極論して言えば(今私は世界中の美術史家に土下座しながらこの文章を書いているが),以後の美術史はプッサン・ルーベンス論争の延長でしかなく,そしてルーベンスの勝利で締めくくられることになる。


19世紀の初頭には,3つの派閥が形成されていた。ロココ・新古典主義・ロマン主義である。これらはそれぞれ共通する部分もあれば,異なる部分もあった(しばしばロマン主義は新古典主義への反発と言われるが誤解である)。たとえばロココ・新古典は親アカデミーだが,ロマン主義がアカデミーに受け入れられるまでは少し時間がかかった。一方で,新古典主義もロマン主義もロココへの嫌悪感から誕生したという点では共通し,またロココが卑近なものを題材とし,風俗画や肖像画を得意としたのに対し,新古典・ロマンは歴史画を得意とした。何よりもこの2つの流派は,現在の歴史を題材としたという点で共通する。「理性の世紀」18世紀に対する,「歴史の世紀」19世紀の幕開けであった。プッサン・ルーベンス論争はよりラディカルな議論へと発展し,アングル・ドラクロワ論争と呼ばれるようになるのであった。プッサン・ルーベンス論争には明確な決着がつかなかったが,アングル・ドラクロワ論争は最終的にアカデミーがロマン主義を受容したという点で,ドラクロワの勝利であった。


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Posted by dg_law at 12:00Comments(0)TrackBack(0)