2011年06月30日

東方茨歌仙の要点

買って以来ネット上・リアル合計で10回以上は「華扇ちゃんかわかわ」と言っているDGさんですこんにちは。とりあえず,茨歌仙は別に華扇ちゃんを愛でるだけでも十分におもしろい漫画だが,一方でこれまでの東方に出てきた設定や文脈をよく押さえている。そこで,茨歌仙に見られる特徴でもまとめてみようかと思う。


・魔理沙は華扇に好意を持つが,霊夢は煙たがっている
魔理沙は1話の冒頭で「大胆小心な人間」と紹介されているとおり,またこれまでの設定通り,一見して傲慢不遜な振る舞いをしているが,実のところ精神的にはあまり強くなく,偽悪的なところもある。負けず嫌いで努力家だが,努力しているところは他人に見せたくない。パチュリーの図書館からは死ぬまで借りていく倫理観のくせに,他のゲームや書籍での妖怪との会話はむしろ霊夢よりも普通,など。幻想郷の標準的常識人な側面も見られ,また「普通の人間的に」俗物である。ゆえに,天人のような雲の上の存在にはまったく敬意を払わないが,身近でかつ寿命を伸ばしてくれるというご利益もありそうな仙人に対しては,きちんと敬意を払い,魔理沙にしては大変珍しく華扇のお小言はかなり素直に従っている。

一方,霊夢は魔理沙よりもお説教されるパターンが多いにもかかわらず,馬の耳に念仏状態である。これに関しては作中の小町の指摘がそのままであろう。霊夢は特殊な人間であり,魔理沙のような「邪念」で動いているわけではない。いわゆる「空をとぶ程度の能力」であり,幻想郷の守り手としてどの人妖にも等距離に接する。ゆえに多少修行した程度では軸がぶれないし,そうそう性格が変わることもない。また,ドライで等距離な付き合い方のため,霊夢は孤独になりがちな力の強い妖怪に好かれやすく,妖怪退治が生業の人間としてはやや不利に働いている。華扇もどうやら非常に力の強い妖怪のようだが,霊夢に惹かれていったのはこうした事情もありそうだ(とまでは言い切れないか)。しかし,「幻想郷の若者を糺すには,まずその象徴から」という華扇の意気込みとは違い,”等距離”が逆にたたって霊夢の側はそれほど関心がない。霊マリ華扇の,このすれ違いはおもしろい。なんというか,魔理沙さんかわいそうです(もっとも,魔理沙が書籍でそうした役割なのは今に始まったことではなく,例外は三月精の三妖精くらいなもの)。


・霊夢は修行しないのではなく,華扇のやり方が悪かった
儚月抄では紫のつけた修行が役に立っており,修行の成果そのものが第二次月面戦争の計画に組み込まれていた。一方,華扇が5話でつけた修行は,全く霊夢の性根を叩き直すことが出来なかった。これはなぜか?前述したとおり,霊夢は特殊な人間であるため(人間というよりも「カテゴリー:博麗の巫女」なのだろう),華扇の付けた修行は無に帰した。紫の付けた修行は精神修養ではなく,博麗の巫女(というよりも巫女)本来の能力を開花させるための具体的な修行であったため,霊夢は八百万の神の召喚を身につけることができた。ひとえに,仙人と賢者の違いと言えよう。霊夢や幻想郷に対する理解度の違いともいえるが。

なお,儚月抄をどの程度公式のコンテンツとして扱ってもよいかはかなり困難な問題をはらむが,一応緋想天などとのつながりもあるから公式だろうと見なすならば,茨歌仙の時間軸は儚月抄よりも後ということになると思われる。なぜなら,2話で霊夢は神降ろしを行い,どこぞのデスノートよろしく「金山彦命が一晩でやってくれました」という展開になっているが,これは儚月抄での修行の成果と見なすことができる。この場合,2話のこのシーンは5話の伏線と見なすこともできる。霊夢のことをよくわかっている紫と,すれ違う華扇。まあもっとも,パラジウム合金の錬成を頼まれれば応じる程度には,霊夢も華扇を軽んじていないとも見れるが。


・非常に信仰と賽銭にこだわる霊夢
おそらく書籍の中でも,これほど賽銭にこだわる霊夢は初めてであろう。霊夢が初期設定では割と裕福で信仰にもこだわってなかったのが,近年になって急速にこだわり始めたという変化は比較的知られているところである。この変化は緋想天で二度も神社を壊されたことによる修繕費が原因じゃないかとか,風神録で守矢神社が,星蓮船で命蓮寺が誕生したことによる危機感があるのではないかとか,いろいろ言われているがはっきりしたところはない(と思うが何かあったら教えて欲しい)。二次設定が原作に吸収された一例である(他だとパチュリーさんの服装だとか)。が,金銭欲が行き過ぎた結果,5話にて華扇に怒られることになる。華扇は一応かなり昔から幻想郷にはいたようだが,霊夢への無理解も含めて,風神録以前の博麗神社周辺をよく知らないのであろう。


・旧地獄の資金源が発覚
怨霊が鉱脈を生むという発想は非常に東方らしくて良い。霊夢や早苗が信仰(と賽銭)にこだわるところから見ても,次第に幻想郷の住人が霞を食べて生きているわけではなく,ちゃんと経済活動をしているといことが明らかになっている。まあ海がないのにどうやって塩を得てるんだとかいう疑問もあるが,そこら辺は適当にあのスキマ妖怪がなんとかしているという脳内補完は可能である。冥界も曲直庁から給料が出ていそうな雰囲気さえある。そうするとますます紅魔館の収入源だけが謎に包まれて取り残されているわけだが,今後明らかになるのだろうか(吸血鬼条約の一環で,紫が面倒みているとか?それはそれで非常に間抜けな構図だが)。


・妖怪であり仙人であるというアンビバレント
華扇の正体は茨木という苗字からしても,「片腕有角の仙人」という二つ名からしても,鬼であると見て間違いない。アンビバレントな属性の兼任は東方キャラを貫く一つのテーマであり,魔理沙からして「普通」の強調と「魔法使い」の強調の双方が行われている。咲夜も人間であり悪魔の犬,妖夢は半人半妖(幽),早苗も現人神と,人間側には特に真っ当な人間がいない。妖怪側にはあまり見られなかったが,最近になって最も顕著な例として,聖白蓮が登場した。妖怪であり聖者であるという設定は見事であった。

白蓮との共通性が興味深い。「幻想郷には真性いい人があまりいない」と言われ続けてきたが,ここに来て増えてきた印象がある。ただし,白蓮も華扇も心の底からの善人というよりは,エゴの表出としての人助けという面を隠そうとしていない。おそらく華扇も何かしらの罪を負い,鬼である身分を隠さなければならない羽目になったのであろう。一方で善人気質だったのは,おそらく鬼として暮らしていた頃も変わらなかったのではないか。むしろ善人気質であったがゆえに何かしらの大罪を負って,旧地獄にいられなくなり,妖怪の山に戻った。が,現在の幻想郷では鬼は妖怪の山にいてはならないため,身分を隠しているのではないか,小町はそのことをつかんでいるのではないか……等々の推測がつく。

『茨歌仙』は基本的に短編で,雰囲気としては『香霖堂』に最も近く,『三月精』にも近い。が,ところどころにシリアス要素が混ざっている。シリアス一辺倒は東方にあわないということを『儚月抄』で学習した成果ではないかと踏んでいるが,ゆえに急激にシリアス化して華扇の設定が明らかになることはなく,少しずつ情報が提供されていくことが予想される。うまくギャグとシリアスの融合がなされれば,東方書籍随一の傑作になるであろう。そんな期待感をもって今後も読み続けたい。


東方茨歌仙 ~Wild and Horned Hermit. (IDコミックス) (IDコミックス REXコミックス)東方茨歌仙 ~Wild and Horned Hermit. (IDコミックス) (IDコミックス REXコミックス)
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2011年06月27日

植物学的な美術作品

pic_redoute2文化村のルドゥーテ展に行ってきた。ルドゥーテはフランスで活躍したボタニカルアートの画家である。ボタニカルアートとは直訳すれば植物学的美術ということになるが,まさに植物を仔細に描くジャンルである。理科のスケッチに近いが陰影や彩色をつけるところは普通の絵画作品だし,一方,背景をつけるわけでもなく花瓶に生けてある花を描くわけでもなく,本当に対象となる植物しか描かないところは静物画と大きく異なる。見ればわかるが,理科のスケッチと静物画の間にあるようなジャンルである。

ボタニカルアートは元々中世ヨーロッパで科学者が片手間に描いていたであろうものが(未解読だがボイニッチ写本もおそらくこの類であろう),近世の科学発展により専門家である画家に委ねられて分化して成立したものだ。これには大航海時代により,ヨーロッパにアジアや新大陸の新種が大量に持ち込まれ,それらが知識人の注目を浴びたということが大きく影響を与えている。ゆえにボタニカルアートは近世の植民地帝国であるイギリスやフランス,オランダで流行し,特にイギリスで隆盛を極めた。イギリスの王立植物園(キューガーデン)はボタニカルアートの聖地で,ルドゥーテも訪れている。

その中でルドゥーテがフランスで名声を高めたのは,フランス革命という混乱を乗り越えて,王党派,ナポレオン政権,その後の復古王政どの政権でも活動を続けられたこと。特に帝政下においてジョセフィーヌの保護を受け,「バラの画家」として大きな名声を得たことがその理由として挙げられる。ルドゥーテは売れっ子になってもボタニカルアートの特殊性,すなわち科学的観察としての成果を主として保ちつつ,かつ絵画作品として成り立つだけの芸術性を持つことのバランスに終生心がけていた,らしい。フランス革命期の動乱は巻き込まれた科学者や芸術家が多く,政治思想によるパージが激しく,有名所ではラヴォワジェが処刑されている。今回の展示ではルドゥーテの政治思想については全く取り上げられなかった。あの混乱した状況で全くの無色透明を貫き通すのは非常に困難だったと思うのだが,どうだったのだろう。

肝心の作品はどれも質が高く,非常に満足した。1時間もあれば見終わるだろうと17時半頃に入館したら,結局閉館までいついてしまった。今回メインに据えられたのはルドゥーテ最後の大作である『美花選』だが,やはり特に優れていたのは彼のあだ名でもあるバラである。特に彼はピンク色のバラを好んでいたらしく,ロサ・ケンティフォリアが多かった。『マリみて』ファンとしてはロサ・ギガンティアもキネンシスもフェティダもカニーナも無かったところは納得がいかないが(無論冗談である),でも同じ感想を持った人が日本にあと一人か二人くらいはいるような気がする。バラ以外では東洋や新大陸から持ち込まれたばかりの植物群の作品が興味深い。東洋からでは椿,紫陽花,牡丹等。

なお,本来であればこれらの版画以外にも水彩画も展示する予定だったのだが,震災の影響で全部版画の展示に代わってしまったらしい。水彩画が持って来られなくなったのは,貴重品だから先方に断られたということだろうか。であれば大変に残念である。版画のほうは所有者が散ってはいるが全て国内であるため,急遽こちらでそろえたということだろう。中止にならなかっただけマシということか。

この後,文化村は長らく改装期間に入り,次のオープンは12/23になる。フェルメール展から再スタートする。  
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2011年06月25日

センター試験の地歴公民2科目化問題について

・2科目受験し解答時間を倍に…センター試験で“裏技”発覚

ニュース記事なので消えてしまったときのために,重要な部分を引用。

「これまでは地理歴史の「世界史A」「世界史B」「日本史A」「日本史B」「地理A」「地理B」と公民の「現代社会」「倫理」「政治・経済」の中からそれぞれ各1科目を選択。理科も同様で「理科総合A、化学I」「理科総合B、生物I」「物理I、地学I」の3グループから各1科目を選ぶ方式だった。

 来年は、世界史Aと同Bなど同一分野の受験は不可とした上で地歴・公民の計10科目(新たに「倫理、政治・経済」が追加)から2科目を選択できるよう変更された。理科もグループ分けをやめ、計6科目から2科目を選べるようになる。受験生に選択の幅を広げたのが特徴だ。

 1科目だけ受ける場合の試験時間は60分、2科目なら130分だが、1科目目の答案用紙を回収後、2科目目の答案用紙を配布する。

 だが、試験が始まってから科目を選択できるように問題を1冊の冊子にしたため、1科目目を受験した段階で2科目目の問題を見て2時間解答に充てられる。

 例えば、日本史Aのみ受験に必要な生徒の場合、1科目目に世界史A、2科目目に日本史Aを選択し、1科目目の時間から日本史Aの問題を解き始めることも可能。はじめの世界史Aが白紙答案でも、受験大学の採点対象になってなければ、合否には影響しない。」


この問題については言いたいことがいろいろあるのだが,全部詰め込んでいたら非常に長くなったので,比較的重要ではない部分は折りたたんで下に隔離した。読む気がある人だけ読んで欲しい。じゃあ,本題は何かというと,「実際にはこの問題は解決しかかっていたのもかかわらず,あたかも解決していないかのように報じた産経新聞のやり方」についてである。以下,時系列に沿って説明する。


まずこの改革が浮上してきたのが2月頃。関係者各位に伝えられ,「多分こうなる」的な噂が流れてきた。そして3月上旬に正式発表されたが,この時点で報じていたマスコミはほぼない。だが,トップに掲げた記事で問題視されている「2科目受験で申し込み,120分かけて1科目解き,1科目しか必要ない大学を受験」という不正は,すでにこの時点で指摘されていた。特に理系はどこでも社会科1科目で十分であり,理系に選択者の多い地理は解くのに時間がかかるため,これは有利になりやすい。

で,このまま放置されれば確かに大問題になっていたし,実際のところ大学入試センターの側は対策をあまり練ってなかったのだが,ここで救世主が登場する。4月の上旬頃,九州大学が画期的(?)な方法を発表する。「開始後60分で1科目目のマークシートを回収,10分強制的に休憩を入れ,後ろ60分で2科目目のマークシートを回収し,(1科目しか必要ない場合は)1科目目で回収したマークシートを入試に用いる」という方式を採用する,と。確かにこうすれば不正は不可能である。130(120)分かけて解いたほうのマークシートは無に帰すからだ。この方式はすぐさま教育業界において「九州大学方式」と命名された。4月下旬,大学入試センターが国立大学協会に対し「受験準備を鑑み,6月末までになるべく方式を発表して欲しい」と要請を出す。

5月下旬。正式には未発表ながら,東大はほぼ九州大学方式で行くことを決めた,ということが関係者各位には伝えられる。で,この直後のタイミングでようやく産経と朝日が記事を出し,特に産経があたかも九州大学方式がすでに存在していることをスルーする形で問題点のある入試形式だと報じ,さらにYahooのトピック入りしてしまったため,ネット世論の一部で大学入試センターアホじゃね,という論調が沸き立った(はてブ一つとってもこの状態である,twitterでも2chでもまあご想像の通り)。実は,同時に朝日新聞も報じているが,似たような文面ながら河合塾・駿台の名前を出すなどまだマシな内容になっている。

まあ,あまり調べずに批判すると間抜けになってしまうといういつものアレなわけだが,今回の場合は,この時点で九州大学方式を知っていたら,それは教育業界かマスコミ・出版業界に属しているか,もしくはそれらの知り合いがいるということにほかならないし,よほど関心のある分野でもなければ新聞各紙の記事読み比べなんてしないだろうから,免罪されるだろう。現段階でさえ「九州大学方式」でぐぐっても,ほとんど引っかからない。やはり批判されるべきは,情報としてはつかんでいたであろう九州大学方式をスルーし,わざわざたたきやすい公的機関を用意して報じてしまった産経新聞でしかない。もしくは本当に調べずに九州大学方式について全くの無知だった可能性もあるが,その場合はさらに罪が重い。記事中の「大手予備校の担当者」も実在するのかどうか疑わしい。九州大学方式を知っていたら,「不正が起きない仕組みの変更が必要だ」などとコメントするはずがなく,そして知らないはずがないのである。「合否判定に1科目の成績しか利用しない大学にも2科目の成績と受験した科目の順番を提供する対策を取る方針だ。」とは一応書いているが,提供するだけなら対策になっておらず,これ書いた本人も内容をよく理解していないんじゃないだろうかと思われる。

なお,読売は記事が見つからなかった。毎日は6月上旬時点では報道せず,後述の東大の態度が確定した後に報じてはいるが「受験生の選択の幅を広げるための制度変更が,実質的意義を失った」と問題の本質の見えていないようなコメントがやや気になった。ちゃんと経緯を知っていれば,九州大学方式が採用される前から,受験生の選択肢は実質的に縮んだ制度改革であることはわかるはずなのだが。総じて,他の出来事でもこうした捏造じみた報道がなされているかと思うとぞっとする話で,自分が詳しい業界だとこういうことも見えてくるのかと,自分としては割と衝撃を受けた一件だった。


話を戻す。こうして今週(6/20),東大が入試要項を発表し,九州大学方式を採用することを正式に決定&通知した。これに伴い,国立大学協会が「来年度の国立大学入試は,なるべく全大学九州大学方式で行うことを要請する」と発表し,現時点で要項を発表している国立大学はほぼ全て九州大学方式に則っているはずである。さて,いつも通り反逆のカリスマ(笑)であり問題児である京都大学がいまだこの問題に関して沈黙を貫いており,現時点でもまだ入試要項を未発表である。なんかあそこの大学なら「130分使って解くという裏技を使うのも,テクニックの一つじゃね?あえて2科目目のマークシート採用とかおもしろそうじゃね?」とか言い出しかねないから怖い。  続きを読む
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2011年06月21日

第192.5回『悪霊(1)(2)』ドストエフスキー著,亀山郁夫訳,光文社古典新訳文庫

完結してないのにうっかり買ってしまい,読み通したはいいが物語があまりにも複雑で登場人物が多く,3巻が出るまでに内容を忘れそうであるため,半ば備忘録的に感想を残しておこうと思った。よって,ナンバリングは0.5回である。


論点は2つ。第一点。既読の『罪と罰』,『カラマーゾフの兄弟』でもそうだったが,ドストエフスキーは物語の雰囲気を作り出し,それをだれさせないまま維持することが巧みで,ストーリーテラーとしては(当たり前だが)超一流であるということを再確認した。ただし,物語の雰囲気はゆっくり創り上げていくタイプなので,どうしても冒頭は物語の方向性がつかめず,どこに連れていかれるのかわからない不安感がある。『カラマーゾフ』は遺作なだけあって,あれだけ長編であるにもかかわらず割とつかみはばっちりであったが,『罪と罰』はラスコーリニコフが実際に行動し始めるまでよくわからなかった。本作の場合はこの欠点がやや大きく,第1部の第1章は訳者が読書ガイドにも書いている通り,その後の展開の下地に過ぎず物語的には本筋とほとんど関係の無い描写が続く。真の主人公であるニコライ・スタヴローギンが登場するまでに100ページもかかるのは少々やり過ぎではないか。

その後も2章・3章は準備段階が続きどうしたものか,と戸惑うのが典型的な読者像ではないかと思うのだが,これだけじっくり雰囲気をつくってきただけあって,第1部のラスト,シャートフがスタヴローギンにグーパンチしたところから突然弾ける。第2部以降の『悪霊』の雰囲気は一言で言って狂騒以外何物でもないと思うが,第2部に入った途端,第1部の展開は全て嵐の前の静けさの演出に過ぎなかったのだということを悟らされ,かつ狂騒の雰囲気は収まるどころか次第に増していく。読んでいてこちらがはらはらさせられる,まだ何も事件が起きていないのに。無論狂騒の張本人はピョートル・ヴェルホヴェンスキーであり,第1部の時点ではスタヴローギンとともに「こういう悪目立ちする奴はいる」という程度の印象だったのに,第2部になって随分キャラが深くなった。こいつこそ紛れもなく悪霊だ。第3部はとうとういろいろ事件が起きていき,狂騒はクライマックスへと向かっていくわけだが,楽しみにしておく。と同時に,中短編ではこの方式で雰囲気作りができないわけで,どうしているのか気になった。次は『地下室の手記』でも読もうか。


もう一つは,ドストエフスキーは真っ当な恋愛描写ができないのではなかろうかと。これを某人には言ったら,「中二病的に女性を神格化させたらなかなかだけど,具体的な人として恋愛を書くのは苦手かも」という返答をもらった。これには完全に同意である。これはまあ美点というよりは欠点だと思うのだが,ドストエフスキーの場合,何を書かせても社会的になるか宗教的になってしまうところは多分あって,こと恋愛劇に限ればこれは相当余分な要素がくっついてしまっているのではないかと思う。おかげで本作でも足が悪く精神も病んでいるマリヤ・レビャートキナについては描写が豊富だが,ダーリヤやリーザについては特筆すべき動きがない。

前出の某人はついでに「そういうリアルな人の機微はチェーホフ先生に任せておきましょう」とも言っていた。まあチェーホフ読んだことがないので何とも言えないが,私が最近読んだものとしてはトルストイの描写の細かさとは大きな違いだなと思った。最後に。また足の悪い女のかよ。カラマーゾフとネタかぶってんよ(カラマーゾフのほうが後だけど)。


悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫)悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
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悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
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2011年06月18日

非ニコマス定期消化 2011.3月中旬〜3月下旬



ゲームを実写化するとすっごいシュールな光景になってしまうを地で行く動画。この人ら,他にも似たようなことをたくさんやっているので,おもしろかったならタグをめぐってみてもいいかもしれない。



皆大好きたろう16bit。言うまでもなく武士語がひどい。なんだよ森に住みし巨体妖怪って。



レミ霊が俺のディスティニー。



やまもとのりおマリオ64最終回。そして,ご両人は実況引退へ。社会人になるので忙しもなるよな,と。のりおは関西離れるらしい。64マリオだけで丸1年,最初の実況から約2年半,おもしろかった。今までお疲れさまでした。




ここからまどマギ関係。ティロ・フィナーレ(物理)で一世を風靡した動画。かく言う僕も初見で大爆笑しました。



元ネタも十分意味不明。ゲイの街での殺人事件を扱った映画で,該当シーンは取調べ中らしい。と考えるとあのテンガロンハットの紳士も,まあ理解できなくはない。




ある意味超ネタバレコラボなわけだが,公式がばらしてるからまあいいか。上が10話までのもの,下が完結してからの完全版。



正直最後の全員集合でうるっときた。思ったよりも自分が10話でダメージをうけていたことに気付かされた動画。
  
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2011年06月15日

売上は分析して楽しむもの

・私は如何にして「まどか☆マギカ」に騙され続けたか(GilCrowsのペネトレイト・トーク)
→ あるあるwすぎて共感を得られる。だまされるって楽しいですよね。
→ あらためて3話の仕掛けは完璧だったなとか。死亡フラグ乱立→実はすでに死んでた,しかもさらにひどい目に遭ったとか。バトルロワイヤル的展開も,結局直接の正面衝突はあんさやだけのミスリードとか。
→ 3(4?)ヶ月間,みんな疑心暗鬼で,楽しんだ時間でした。そういう楽しさだけを強調するわけではないが,乗せるという点でも大変良く出来た作品。


・担当飼育員出てこい。今すぐにだ。 on Twitpic
→ 今日の腹筋破壊コーナー。コラにしか見えない。
→ 赤き真実を使っているところや「・絆」があまり浮いていないところがポイント高い。
→ こういう仕掛けをやりたくなる心情はわかる。でも普通は若気の至りであり,しかも大体はなんとなく透けて見えてしまい,痛い。まあ大体高校生あたりで皆通る道だ。
→ それだけにこうした巧みなものは賞賛したい。


・貴方は「アニメの売り上げ」の話題で楽しめますか? 楽しめないですか?(【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´) )
→ ジャンプの連載順位と一緒。ネット発コンテンツの一つとはおもしろいと思う。
→ 無論行き過ぎは良くないわけだが,売りスレの連中だってネタでやっているわけで。マジギレするのは自由だけど,一々「売り上げと作品の質は無関係」などと煽りに乗るのは不健康だと思う。彼らがネットのスタンダードというわけでもないし。
→ というと,2chまとめブログの管理人は煽ってスタンダードにしようとしているじゃないか,というコメントもたまに耳にするが,それはそれで過大評価かと。


・卒業した学校の校歌、まだ歌えます?(Garbagenews.com )
→ 歌えるの基準にもよるが,おおよその旋律・歌詞は覚えており,伴奏付きなら多分7割方は一発で歌えるでもよいのなら,自分はおそらく卒業した小中高全部歌える。
→ 一番怪しいのは,一番愛着があるはずの高校。愛校心と校歌は関係ないのがはっきりしてしまう。そこは国歌と愛国心も同じか。まあ好き嫌いを別にしても,『君が代』の歌詞覚えていない日本人はほとんどいないと思うが。
→ 高校は歌った(もしくは歌わせられた)回数が圧倒的に少ないので,脳に染み付ききっていないのだろう。その点,小中学校はやたらと歌の練習があった。高校は音楽の授業でさえも歌わないのが大きい。
→ 同校出身者より「うちの高校の校歌は難易度が高かった記憶がある。」というコメントが入っているが,それも確実にある。なんであんなに覚えにくいフレーズにしたんだ。
→ 大概の中学・高校には校歌のほかにもう一つ「応援歌」というものがあり,こっちとなると難易度は跳ね上がる。かく言う私も全く記憶にない。応援歌も,覚える気もなかった高校に比べれば中学はうんざりするほど歌ったはずなのだが,なぜだろう。
→ なお,東大の校歌(は公式には存在しないが実質的な)は『ただ一つ』だが,まったく歌えません。これでも愛校心はかなりあるのだが,またしても愛校心と校歌は関係ないのが証明ry


・「岡本太郎「明日の神話」に東電原発!??」(togetter)
→ 結局「犯人」はchim↑pomと判明したわけだが,それ以前の問題でこれはないと思う。
→ ちょうど少し前に岡本太郎展をやっていたのでそちらに行った方はわかってくれると思うのだが,岡本太郎の作風はもっと抽象度が高く,わかるかわからないかのギリギリを狙ってくる。そして抽象度が高い分,批判の範囲が広い。「明日の神話」や「太陽の塔」が受け入れられているのは,範囲の広さに伴ったスケールの大きさを作品そのものが持っているからだ。
→ 彼が「芸術は下手でもいい」としばしば発言したのは,芸術の反権威性を強調していたためであり,また芸術は本能的な魂の発露であることを示すためであると思われる(「芸術は爆発だ」もこれに類する発言)。本来は片岡鶴太郎のような例を正当化するための論理ではない。
→ これらの点を踏まえると,あれだけ具象的な形で福島原発の一件だけを指し,しかも空いている部分を付け足すのみという形での批判は,岡本太郎の作風にそぐわない改悪である。社会的活動として考えるならばまだしも,芸術としてはまるでダメな作品であった。爆発が足りない。
→ それはそれとするなら,いろいろやらかしているchim↑pomの過去の行動を批判してた人が,本作を褒めてたら笑えるな。


・日本の天皇をラテン語に直すと(MURAJIの戯れ言so-net blog版)
・Imperatores Iaponiae(Vikipaedia)
→ 違和感がぱない。なんでもus付ければいいってもんじゃねーぞw
→ そもそもラテン語版wikipediaがあることに驚いた。誰得。
→ ブコメでまはる殿下がご指摘なさっているが,確かに女性天皇であれば女性形,つまり語尾は-aにするべきであろう。CocenusはCocenaか。
→ あと,「後」は2世扱いなのはどうなんだろう。意味が違うような。平安後期から室町時代にかけての2世乱発っぷりがぱない。
→ これもやはりラテン語的に発音せねばならんのだろうか。強母音と短母音区別して。ラテン語は語順が日本語以上に自由でしかも助詞をつかわないので(その代わり格変化がひどいが),非常に詩を作りやすく韻も踏みやすい。その分単語のアクセントが大事でリズムがどーのこーのという話を大学時代に勉強したが,もう忘れた。
→ septentrionで北朝,Pretenderで詐称者だが「足利氏による僭称者」というのも何か違和感が。


・第伍回 ゾッとするほど中二病が考えたっぽい武器名書いた奴が優勝(カオスちゃんねる)
→ 優勝同士の決定戦では第三回が総合優勝だと思った。
→ こうして見ると中二病にも流行あるのか。昔型月今西尾的な。第3回優勝がつぼるってことは,自分はやはり型月世代ではあるのだろう。
→ そしてこっそり入るマミさんいじめ。これからはこれがスタンダードに……はならないだろうなぁ。
→ 「何言ってるかよくわからない上に,突き抜けすぎて陳腐を超えた何か」がこの種の中二の条件ではあり,結果的にダークヒーローが多い。


・珍項目(Wikipedia)
→ 最近つぶすほどの暇がないので全く活用できていない。が,紹介はしておく。
→ 本項目そのものがwikipediaらしくなく,むしろUncyclopediaじみている。
→ 横に付けられた画像が一々シュール。駅長かわいいよ駅長。
→ 日本語版限定かと思いきや,意外と多い他国語版がある。ちらっと英語版を見たが,やはりいたのがDHMOとSealand公国であった。まあその二つは典型的な珍項目ですよね。


・名古屋の宝石店・美宝堂が事実上の倒産 2回目の不渡り(朝日新聞)
→ これは愛知県民にとっては大きな衝撃でしょう。
→ 最近は危ない商売に手を出していたということも含めて全く知らなかった。
→ 何人かの愛知県出身者と話すと皆すでに知っててやはり驚いていた。まあコメ兵のほうは好調らしいので,あちらはつぶれることはないだろう。  
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2011年06月09日

これを機会に

エロゲ予定の更新。前回。

・ユースティア → 買ってすぐクリア。レビュー済。
・G線 → クリア。レビュー済。
・くどわふたー → プレイ中。今,大会に向けてペットボトルロケット作ってるところ。思ったとおり短いので,がんばれば今週中にも。


・仏蘭西少女 → 空けてインストールはした。次のプレイ予定。
・バイナリィ・ポット → オーガストでやってなかったのだが,やらなくてはいけない空気を感じた。買ってはあるが「98,Me推奨」とか書いてあるので動くのかが大変不安である。歴史としてやるという意味合いが非常に強いので,出来に期待もしてないしレビューも多分せずに終わる。
・オーガストFANBOX → 同上。これに関しては,そんなに『はにはに』以前の八月は評価してないので未プレイだったが,ついでに買ってきた感じ。
EU3と仕事に時間を吸い取られているので,多分夏コミ前はここで打ち止め。そうすると今年は8ヶ月で8作品?まあ良いペースかな。

・素晴らしき日々 → 夏コミ明け一発目は,現状これになる可能性が高い。
・Rewrite → 体験版プレイ済。スルー確定。竜騎士部分に耐えられない……彼は自分の世界の中ならキャラを動かすのは良いと思うのだが,あれロミオ世界だから浮きまくっている。
・ホワルバ2IC → 前回書いた通り。完全版商法待ち。
・群青の空を越えて → Vista対応版が出てるので買いやすいよと言われてリストアップしているのだが,実は未購入。そして探し続けて半年経過してるが見つからない。いやまあ,amazonには在庫あるんだけどね……
・まほよ → もう2011年中に出るとか誰も信じてないレベル。


ついでに。
・EU3HttT → プレイ中。超おもしろい。でもCoTにバグがあるのでサイフロがんばれ。
・Vic2 → EU3が楽しい現状,エロゲも忙しいし当分出番がない。真面目な話,最初の拡張パッチが出たあたりからがんばることになると思う。
  
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2011年06月08日

G線上の魔王 レビュー

『車輪』の反省がいろいろと見られるが,そのせいで惜しいことになっている作品。なんだかんだで同人版の『A profile』もやってるのでるーすぼーいはこれで三作やっているが,彼は本当にヒューマンドラマを描きたいんだなと,本作までやってようやく確信した。しかし,るーすぼーいが世間的に評価されているのは,ヒューマンドラマよりも「飛び道具」的な仕掛けのおもしろさのほうが大きいはずである。実際私もそうだと思う。特に『車輪』は,ヒューマンドラマとしてはやや陳腐で,しかも飛び道具のための諸設定のアクが強すぎて,シナリオの側が随分振り回されていた。結果的に,仕掛け以外はあまり評価したくない作品であった。一章はかなり評判良かったが,私はあまり感動しなかった。(なお,『A profile』は飛び道具の仕掛けが弱く,やはりありがちなシナリオではあったがバランスは取れていたし,後の片鱗を感じ取れる作品ではあった。嫌いな作品ではない。)

それに比べると『G線』は,飛び道具が幾分後退し,ヒューマンドラマをうまく成立させようとしている努力は見られた。そして,それはある程度成功していたように思う。確かに人間の感情を主眼に置いた描き方であり,テキストも乗っていたし,椿姫・花音のシナリオはおもしろかった。ここは素直に評価したい。しかし,いかんせん飛び道具が作品全体を牽引している構造にはなっており,この飛び道具が弱かったため,終盤のインパクトを欠く作品となってしまっている。これはるーすぼーいがライターとして抱えるジレンマであり,しかも非常に解消しがたいものではないかと思う。

こう書くと「『車輪』と比較するから良くないのではないか」,「『G線』に期待するものが間違っていたのではないか」と言われるかもしれないが,それは間違いである。私は出来さえ良ければ,全く飛び道具のないヒューマンドラマでも評価したし,その意味で『G線』には何も期待していなかった。しかし,ふたを開けてみれば結局仕掛け頼りの構造にしたのはるーすぼーいの側である。ならば,作品論・作家論として「るーすぼーいはこの構造でなければヒューマンドラマを書きづらく,結果としてドラマと設定が飛び道具に振り回されるジレンマを持つ」と言うことは可能だろう。


それ以外では,聞いてよかったのか聞かずにいるべきだったのかが微妙なのだが,魔王の正体が遡及的過去形成だというのは正直な話,減点要素である。前から言っているように,確かに私はKanon問題において決定論犠牲説をとっているが,それは『Kanon』限定の話であり,そもそもKanon問題は生じる作品個々において判断されるべきだ,というのが私の正確な主張である。この観点から言って,『G線』も『Kanon』同様に,そこそこはぼかしておくべきだったのだ。作品内で匂わせてしまっている,かつ確定させたのはファンブック内での発言とはいえ,遡及的過去形成であることをライターの側が明言すべきではなかった。その上「ある章ではライターのほうでも決めてない」と言われてしまっては,飛び道具がずばり「魔王の正体」そのものであるだけに,こちらとしては仕掛けも何もあったもんじゃないだろこのゲーム,という感情を抱いてしまう。どうせそこまで考えてなかったのなら尚更,「あとは皆さんの想像にお願いします」にしておけば良かったのに。

これに関連して。本作の作品分岐は『Stein's Gate』及び『穢翼のユースティア』と同じで,メインヒロインへの一本道の途中各章から個別ルートが分岐し,サブヒロインのルートは短く終わるという,擬似的な一本道構造をとっている(『ユースティア』についてはそちらで書いた)。本作を遡及的過去形成で確定させたのは,この構造が関係あると思う。ぶっちゃけて言えば『ユースティア』も『シュタゲ』もこの構造のせいで個別ルートは半ばバッドエンドになるが,『G線』では魔王の正体が変わるおかげで,十全とは言えないにしても一応ハッピーエンドと言えるようにはなっている。これを踏まえれば,確かに遡及的過去形成を採用した意味が生きてくるので,必ずしもマイナス効果だけではなかったと言える。

しかし,それならそれで作中で,個別ルート内で魔王の正体をはっきりと明示させてしまい,「良かった……あのかわいそうな人は救済されたんだね」としておけば,何も問題なかった。それが出来なかった理由は割と明白で,仕掛けに不備があるので下手に作中で正体を確定させると思わぬ矛盾が生じる可能性があり,管理しきれなくなってやめたのだろう。これはこれで一つの英断だとは思う。だが,「魔王の正体」という飛び道具があまり強くなかった上に,正体が判明してからの,肝心のメインルートであるハルシナリオが終盤超展開の嵐なので,そこまでぶん投げたならいっそのこと『車輪』並の仕掛けでも良かったんじゃないのか?という疑問さえ浮上した。このシナリオと仕掛け(主に飛び道具)と設定と分岐構造のちぐはぐさが,ヒューマンドラマとしてはそれなりに悪くなかったのをぶち壊していると思う。結局,飛び道具を弱くした程度ではジレンマは脱却できなかった,という三段落前の話に戻ってしまう。るーすぼーい作品をやることはおそらく二度と無いと思うが,彼は次,ジレンマ脱却のためにまったく飛び道具なしで書いてみるべきだと思った。


じゃあメッタメタにけなして終わりかというと,クラシック好きとしてBGMの使い方は評価しておきたい。確かにアレンジの出来はピンきりだったり原曲ブレイクしすぎていているのもある(第九のアレンジであれはないだろと思っている)。が,選曲そのものとアレンジの方向性,またそのBGMが流れる場面とその原曲が持つ意味合いなどの兼ね合いは素晴らしく,この観点では概ね賞賛できる。たとえば,朝の曲がペール・ギュントのあれなど基本を踏まえる一方,ハチャトゥリアンの剣の舞がふぬけ風のアレンジになっていて気の抜ける場面での起用,小フーガト短調が「交錯」など。この点は考えられた配置をしていると思う。原曲の一覧へのリンクを張っておく。参照されたし。あとはアレンジさえ良ければこの点は文句なく満点だった。余談にはなるが,本作のタイトル画面は章が進むごとに変わり,タイトル画面曲の『G線上のアリア』が次第に楽器が増えて豪華になっていく。この仕掛けは他作品だと『月陽炎』では見たことがあったが,割と好きな仕掛けである。


今回はネタバレゾーン無し。点数としてはクラシックで下駄をはかせて75点弱くらい。下駄はかせなければもうちょっと低いし,ぶっちゃけて言えば椿姫・花音のほうが評価高いので,ハルシナリオだけ考えるならもうさらに低い。
  
Posted by dg_law at 01:44Comments(0)TrackBack(0)

2011年06月01日

ぜん息患者には共感を得たい

・ぜんそくは甘え、とは言うが果たして本当だろうか?(安心ちゃんねる!)
→ 自分も小学生時代は喘息患者で,大イベント(運動会や林間学舎系)の翌日は必ず寝込んでいた。中学校まではちょいちょいそれで休んでいた。
→ 中学時代の部活(剣道部)で身体が鍛えられた結果,また山ほど漢方薬を飲んだ結果,高校時代になってやっとほぼ治癒された。身体を鍛えるのは,子供時代の喘息対策で最も有効である。
→ そんな経験のある身からすると,「ぜん息持ちは哲学的になる,子供ながら死を意識するんで。」これはガチだと思う。実際死ぬわけないんだけど,苦しすぎて死ぬんじゃないかと思うことは何度もあった。外で遊べないからインドア派になるし,病院がよいが義務づけられ,厭世的にもなる。自分の人格形成に確実に多大な影響を与えている。
→ これもスレにある通り,たまに死ぬほどほこりっぽいところに行ったり疲れ切ったりすると再発するが,なんだか懐かしい感覚になる。
→ 風邪やアレルギー性鼻炎を併発すると尚やばい。本当に,死ねないんだけど死にそう,ないし死にたくなる感じ。


・最強のカツ丼はなんなのか  卵とじ?ソース?味噌?(暇人\(^o^)/速報)
→ ソースも味噌も,あるんだよ。いや,卵とじも好きだけど。
→ 味噌の国の出身としては味噌カツがやはり捨てがたい。
→ 味噌もソースも,カツからはみ出てご飯が染まってるくらいかかってるのがうまいのです。そうでなければスレに上がってる通り「バラバラに食べても一緒」。
→ 辛いのが苦手なので滅多に食べないが,カツカレーがおいしいのも同じ原理で,結局米に何かしら味がついてるのが,おいしいのだと思う。
→ あと,なか卯のカツ丼があまりおいしくないのはなぜだろう。牛丼も親子丼も良いのに。


・おそらく反省など一切していない猫さん達の画像集( 〓 ねこメモ 〓)
→ ティッシュとトイレットペーパーは許せる。だが障子,お前はダメだ。張り替えるのがめんどいのよ……
→ むちゃくちゃ堂々としてて反省を一切してない奴と,なんとなく悪いことをしたというのを感じ取っていて,ごまかそうとしていたりうなだれていたりする奴がいる。おもしろい。うちのは割と後者で,反省した振りだけは昔から得意であった。  
Posted by dg_law at 23:42Comments(0)