2012年06月29日

2012鎌倉行

先週末に,鎌倉に行ってきた。鎌倉に行くのは4年ぶりで,前回は父親と同行したが,今回は友人のkome(@hoozuki37)が同行者である。この時期をチョイスした理由は言うまでもなく紫陽花で,前回は5月に行って微妙に時期を外してしまったことへのリベンジであったのだが,元神奈川県民のkomeにとっては思い出巡りの旅も兼ねていた。

私は東京駅から,相手は西から鎌倉駅に集合。朝飯を頬張りながらおおまかな旅程を決める。まずは江ノ電に乗って長谷へ。ここから長谷寺・鎌倉大仏は黄金ルートであろう。この時点で江ノ電が非常に混んでおり,ちょっと嫌な予感はしていた。しかし,これだけ年齢層が散っており,老若男女全部いる観光地というのも珍しかろう。ぎゅうぎゅう詰めの江ノ電が,あいも変わらず民家スレスレを通って長谷駅に着いた。ここから長谷寺へは人の流れに乗っていくだけで地図を見ずに着く。

長谷寺は鎌倉の寺にしてはやけに俗っぽく,観光客をさばくのにも手馴れている。まわりが臨済宗ばかりだからって,それでいいのか浄土宗。朝10時そこそこだというのに,境内はともかく展望台は人であふれていた。さらに,紫陽花園には入場規制がかかっており,余裕の45分待ちというのを見て断念した。よくもこんな朝早くから観光客が集まるものだ。あまり人のことは言えないが。境内と展望台だけ見て早々に離脱。展望台からの鎌倉眺望はなかなかのもので,鎌倉が三方山,正面が海という構造の中にいるのがよくわかる眺望である。

次に鎌倉大仏へ行くのもほとんど固定されたコースであろう。説明をよく読むと,しばしば改修を重ねた結果,飛鳥大仏を彷彿とさせるサイボーグ状態となっており,なかでも頸部は強化プラスチックという文を読むにこの鎌倉大仏も苦労してるんだなとしんみりした。さてここからである。本来のルートなら長谷駅に戻り,江ノ電で鎌倉駅か北鎌倉駅に行って,鎌倉五山めぐりでもするのが正規ルートなのであろう。が,言わせてもらうとあの江ノ電の込み方は,都会で慣れていてもちょっと嫌なものであった。というよりも,普段都会で味わっているからこそ,観光地に来てまで味わいたくないものであった。でもって,観光地だからこそちょっと運動する気分であったのも事実である。地図を見ながら,どちらともなく「ここから北鎌倉まで歩いて行けば,そう遠くないんじゃね?」と言い出し,我々は北上を始めた。

察しの良い方は気づいておられると思うが,我々はさきほど長谷寺の展望台で確認した事実をすっかり忘れていたのであった。鎌倉は三方山で囲まれている。そして長谷寺も北鎌倉も,山の端に位置している。これを直線でつないで歩こうとすればどうなるか。そう,皆さんも中学歴史の教科書で見たが記憶にあるはずだ。「切通」を無視して山を縦断すればどうなるか。どう考えてもハイキングコースである。とりあえず地図をはっておくが,ルート上に本当に切り通しがない。なお,これは歩き始めてすぐに知ったことだが,我々が通った道は本当にハイキングコースに指定されていた。ハイキングコースというか,山道と言ったほうが正しいような状況であったが(分かる人に言うと,高尾山の舗装されてない方のコースよりもきつい,ただの山道に近い)。同行komeはしきりに「見覚えがある」と言っていたので,幼少期の彼は両親に連れられ,このあたりを歩いていたのだろう。小学生には相当きつかったと思うのだが。

そういうわけで,神社仏閣観光の予定が一転して楽しいハイキングと化し,銭洗弁天に参拝しつつ,源氏山公園(という名の山)を通過し,約2時間ほどかかって北鎌倉に到着した。そりゃ攻め込めないわ,と妙に納得しつつ,浄智寺へ。ハイキング中は少なかった観光客が浄智寺では復活し,正しく観光地に戻ってきた気分がした。浄智寺は庭園を整備していないものの落ち着いた雰囲気の良い寺であった。周囲の民家も気を使っているらしく,よく見るとどこの民家も巧妙に車を隠してあるという工夫に気づいて少し驚いた。観光地なりの苦労である。浄智寺から円覚寺に行き,そろそろ昼飯を食べようか,14時だしもう空いてきているだろうと飯屋を探し始めたのが甘かった。14時でもどこも満席で1時間以上待たされる状態であり,結局すぐ入れそうな蕎麦屋に行ったのだが,ぼったくり価格で味は普通であった。この日の唯一のミスといえば,この昼ごはんである。

15時過ぎから明月院へ。一番楽しみにしていたのだが,期待通りの庭園であった。見渡す限り紫陽花の絶景で,明月院は本当に良かった。

明月院:紫陽花



まさにこれを見に来たという感じ。本当はもっとわかりやすく写してある写真もあるのだが,観光客の顔がもろに出ているため,こちらを選んだ。

明月院の後は建長寺へ。建長寺では愛知万博の際にパキスタン国から寄贈されたという,釈迦苦行像(の模像)が展示されていた。模像とはいえ,これはすごい。元は3世紀に作られた正真正銘ガンダーラ仏で,めちゃくちゃ有名な仏像である。なぜに建長寺が引き取ったのかも由来がよくわからないが,あれを見に観光客がもっと来ていても良いものだと思うのだが。最後に鶴ヶ岡八幡宮に行き,国宝館は残念ながら時間切れで入れず,鎌倉駅に行って帰った。日帰りにしては一日使い切った大旅行であった。とても楽しかったが,あらかた見てしまったので鎌倉は当分いいかなー。行くとしても,次回は江ノ島とセットにして海沿いを攻めたい。もう山はいい。
  

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2012年06月27日

世界史もあれだけ用語変わりましたしね

・路上駐車氏が見てきたドイツのエロ本販売事情。欧米は日本より厳しいというのは真っ赤な嘘でした。 (Togetter)
→ 正直に言えば,これには見事にだまされていた。これとは別件で,最近になってドイツのB級新聞紙が一面にヌードを載せなくなったという話もあった。
→ 結局のところ「エロの基準」というものは文化に依存するので,国際的な基準というものを定めるのは難しい。確かにインターネットでボーダーレス化していく以上,そうした基準も必要なのかもしれないが,現実的ではあるまい。日本は日本なりの基準を作っていくしかないし,それはゾーニングという方向で徹底されればよいのではないか。ドイツがソフトコア,ハードコアの区別だからといってそれに従う必要は全くない。むしろドイツやイギリスがそうした方向性ながら「厳しくない」というのは重要な知見だ。


・これが極楽浄土…平等院鳳凰堂の極彩色を再現(読売新聞)
→ 前からCG再現は盛んだったが,今回はざっくり印刷してしまったとのこと。
→ 近年の美術展の主催・協賛には必ずと言っていいほど,新聞社と並んで印刷機に強い会社(エプソンなど)が並んでいるが,文化財保存・復元の観点と印刷技術の売り込みの共存共栄から,こうした運動は盛んである。どしどしやってほしいと思う。
→ それはそれとして,このケバさはまあ,ブコメでも指摘がある通りで。白さや侘び寂びに価値を見いだしたのは後世の勝手ということかなと。極彩色のものも見てみたくはあり。


・「劣性遺伝」なくなる? 偏見解消へ学会が用語改訂(朝日新聞)
→ 社会ダーウィニズムがはやり,撲滅しきったわけではないことを考えるに,真剣に検討すべきかもしれない。適語を決めて古い言葉を駆逐するのはなかなか難しいと思うが,がんばってほしい。
→ 実際,劣性遺伝は「現れにくい」というだけで,発言した性質が劣っているわけでは全くないからなぁ。しかもそれをしっかり習うのは中学理科より高校生物だったりするので,昨今の(改憲や生活保護関連に見る)中学公民の習われてなさ具合を踏まえるに,これも危険なんじゃないかと認識を改めている。社会ダーウィニズム的なもの,優生学的なものは常に復活を試みている。
→ その意味で,「義務教育でしっかり習うから変えなくて良い,これは言葉狩り」というのには全く賛同できない。それ以外は別に急がなくて良いのでは……対立遺伝子とか減数分裂とかはそのままで。  
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2012年06月26日

特殊な人たちと思われたら終わりが近い

・大田俊寛『グノーシス主義の思想』:おもしろいが、どこまでが定説? ポアは? なぜこんな変な発想が要請されたのか?(山形浩生 の「経済のトリセツ」)
→ 書評からまさかの著者本人登場,そして的確な解説。コメント欄で著者自身が説明しているようなグノーシスの説明は,別の著者(筒井さんとか大貫さんとか)の本でも読んだことがあるので自分はそう解釈している。
→ グノーシス主義は確かに肉体を悪を見なし,それは非常にマニ教と似ているけれども,だから死ね,ではなく自らの内なる神の残滓を自覚することで救われると説く宗教であるはず。まさに「グノーシスを会得する前に死んでしまうことや終末を迎えることは、望ましくないと考えられていた」。
→ だから,オウム真理教の虐殺思想に結び付くはずがない。私も専門家ではないので強いことは言えないが,自分のこれまで読んできたグノーシス思想に関する研究では,そうした要素はないので,むしろこの記事を見て驚いた。『ユダの福音書』の翻訳がすごく怪しい。
→ そして,知的な遊びに終始しすぎた結果として,「そうした「過剰解釈」を繰り返している内に、自分たちでも収拾が付かなくなり、自滅した」のだろう。こんな変態的な思想が広く流行した,古代地中海の思想界恐るべし。そりゃ,あのしちめんどくさいキリスト教も流行するよね。
→ ともあれ,この本はいつか読もうと思う。
→ それはそれとして,この本の書評にしろ,この間の美学書に関する書評にしろ,偏見で言わせてもらうと経済学者らしいというか,この方は根本的に思想系に言及できる性格や知識ではないと思う。思想系の人たちの問題意識を理解していないというか,それらを無価値としか断じれないというか。美学書に関するやり取りのすれ違いっぷりはひどかった。それ自体は何も悪いことではないのだが,だったら言及しないでいいのではないか,と。


・橋下維新よりヒドい! 財政危機、文化が次々と死ぬ欧州(産経新聞)
→ ニュースなのでページが消えているが,欧州も財政危機で文化予算がガリガリ削られている,という話。
→ 公的に保護しすぎても自活能力を失い,一方で公的な保護がないと生きていけないものも多い。だから文化行政は難しい。
→ こういうことを自分が言うと意外かもしれないが,実際のところ,「新たな文化」というものは日々生まれ続けている。それは人間が保護しようとするのよりも早いのではないか。結局のところ,どこかで区切るしかないし,古くから続いている=もったいないという思考は,それはそれで間違っているように思う。保護しうる文化の量は,経済的事情のみを勘案せずとも限界がある。自活能力に欠けたものは,他の要素も考慮に入れつつ,ある程度死んでいってもらうしかないのも一面の真実かもしれない。
→ じゃあ何を残すのかという話で,その基準こそ議論の対象にすべきところであろう。「自分には理解できなかろうとも,他者にとって価値があるものはある」というのは大前提で,首長や議員が理解できないから削るというのは論外である。一方で,前述の通り「古いから」「ハイカルチャーであるから」という理由でしか残っていないものについては,私はとても懐疑的である。
→ その意味で重要なのは文化行政による保護よりも受け手の育成であって,教育への関与だったりするのだろうが……それはまた別のお話かな。
  
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2012年06月25日

書評『エロティシズムの歴史』ジョルジュ=バタイユ著,湯浅博雄・中地義和訳,ちくま学芸文庫

久しぶりに出たちくま学芸文庫のバタイユ著書(の文庫化)。タイトルは「エロティシズムの歴史」で,これを見ると割とストレートなテーマなのだろうかと思わなくもないのだが,実際のところ書いてあるものはいつもの断片集である。サブタイトルの通り,本書は「呪われた部分 第2巻」であり,『呪われた部分』同様の断片集は極めて読みづらい。一応タイトル通りと言えるのは,本書でバタイユはエロティシズムの起源を探し求めるという形で文章をつづっている点で,そこでは近親相姦と排泄行為,そして結婚を挙げている。これらが原初的なタブーであり,そこからエロティシズムの観念が発展していったという。理屈そのものはいつもの理性の誕生による禁止と,それを侵犯することによる快楽である。

では読む意味が全くないかというとそうでもなく,バタイユの思想を理解した上で読むと,1フレーズごとに区切ればなかなかしっくり来る言葉が多い。特にエロティシズムの定義については,『エロティシズム』の「エロティシズムとは死におけるまで生を讃えることだ」という名句よりも,本書の「エロティシズムとは動物の性活動と対比された人間の性活動である」のほうが,圧倒的にわかりやすい。要するに,理性の判断する,子供を生む”生産性”よりも,快楽が優先されて追求される。この活動の諸形態こそがエロティシズムである。動物性は,それそのものはエロティシズムと対置されるものである。(ただし,エロティシズムは一度人間性を肯定した上でのその破壊であるので,一周回って動物性の発露がエロティシズムとなることはあるだろう。バタイユが直接そう明言した文章は見たことがないが。)

他にも,バタイユの考えが端的に言い表されている表現がいくつかあり,その点では楽しめた本であった。「私の考えでは,思想の隷従性,つまり思想が有用な諸目的に屈服すること,一言でいえば思想の自己放棄は,ついに計りしれないほど恐るべきものとなってしまったように思われる。」には,バタイユが近現代にあってこのような思想体系を構築した危機感のようなものを感じる。「もし私の観点がなんらかの意味で護教論的であるとしても,その護教論の対象はエロティシズムではなく,全般的な意味での人間性なのである」も,エロティシズムの対義語が動物性ということを補強しつつ,理論構築の目的を説明している。とりあえず両方第一部から引っ張ってきたが,このような形で目を引く言葉は全体を通して出てくる。訳者あとがきも短いながらバタイユの良い説明になっていて読む価値がある。全体をひっくるめて,お勧めしていいものかどうかは,なんとも言えない。


エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻 (ちくま学芸文庫)エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻 (ちくま学芸文庫)
著者:ジョルジュ・バタイユ
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2012年06月19日

今考えてもよく会ってくれたもんだ

・ルース駐日大使:鳩山氏のイラン訪問 政府に懸念伝える(毎日新聞)
→ これで後日に「大アジア主義(東アジア共同体)のため日中朝が争っている場合ではない」と言って北朝鮮へフライトしたら,ルドルフ・ヘスと同じルートで歴史に名が残る……とか言ってたら後日
・鳩山元総理、今度は「パレスチナに行きたい」(テレビ朝日)
→ 今度は「パレスチナに行きたい」とか言い出して驚いた。この人も懲りないというかなんというか。欧州じゃなくて,ぽっぽの頭は複雑怪奇だよ。まあ,カーターになりたいんでしょうが。
→ この記事に電波少年タグを付けることを思いついた人は天才。てんとう虫のサンバは遠くになりにけり。


・日本の美術館・博物館がGoogle アートプロジェクトに初登場(Google Japan Blog)
→ けっこうな数の美術作品が高解像度で見ることができるようになった模様。
→ 実物を見るのが,その大きさや質感を含めたインパクトや実物だからこそのオーラを感じるものだとすれば,こちらは細部を見る,そしてじっくりと見ることに特化している。
→ このページから直接飛べる《高雄観風図》からしてすごい。ただ,これに感動した人はぜひ本物も見て欲しい。東京に住んでれば,割りと楽に見られる作品ではあるので。
→ Googleのプロジェクトなので,Google Chromeで見るのが適しているので注意(というよりもIEやSleipnirでは見られない)。


・『フェルメール 光の王国展』が楽しかった(IDEA*IDEA)
→ もう一つ美術ネタ。本物ではなくても,再現性が高くてキャプションがしっかりしていてフェルメール級の知名度なら楽しんでもらえるし集客も可能,という話として読むとおもしろいかもしれない。
→ 印刷による再現の技術が上がっており,鑑賞者のレベルもそれくらいには上がっている,という話かもしれない。
→ しかし,「西洋絵画の多くはパズル」という話は,どの程度知られているのかな。それで素直におもしろいと言ってくれるなら,やりようはいくらかある……気がした。


・元王朝による銅銭の流通禁止と紙幣発行政策(Togetter)
→ 唐の飛銭(為替取引),北宋の交子・南宋の会子という伝統があって,元の交鈔発行に至ったという話。革新的というよりは既成事実の追認と。
→ 社会経済史はこういうところがあるから,語るのがおもしろいと同時に,語るのが難しいとも言える。政治史や文化史ほどデジタルではない。変化とはゆっくり起きていたり,目に見えにくい形で起きていたり。


・「小遣い稼ぎ」「無報酬が筋」 沖縄県立高有料補習に保護者ら批判(産経新聞)
→ この件にははっきりとした見解を述べることができる。必修というのはまずいので選択制にはすべき。だが,その上で参加した生徒の家庭に支払いを要求するのは妥当。
→ このような完全に追加の補習に関しては,時間外勤務の「さらに外」と考えることができるため。うちの高校でもあったし(完全な受験対策の授業),謝礼もあった。そもそも進学校でさえも,受験に特化しすぎた授業で日中を埋めるのは本末転倒だ。塾や予備校ではないから,高校なのだから。受験に特化した授業をやるなら時間外が妥当だし,追加の謝礼を保護者に要求するのも妥当だろう。
→ 最後の特任教授は「お前は何を言ってるんだ」レベル。今の大学受験の大半が,学校の授業だけで対応できるんだと思ってるのであれば無知を通り越して暴言。それはそれで不自然,という指摘ならまだ聞けるが,しかし今度は「その文句は課す大学の側に」という話で,受験生や高校に言われてもお門違いである。

  
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2012年06月18日

あの鮭でした

高橋由一《鮭》芸大の高橋由一展を見に行ってきた。「ああ,あの鮭だ」というキャッチフレーズは非常に訴求力がある。美術の教科書を開いても,シャケだけが堂々と描かれている作品は,まさにあれしかないし,そのインパクトゆえに,誰しも覚えている作品なのであった。この作品が,日本近代洋画の開幕を告げることになったのは,一つの幸福なのかもしれない。

高橋由一は1828年生まれ,すなわち25歳のときにペリーが来航した。彼が洋画を志したのはそこからだが,すぐに修行が積めたわけではない。1862年になってやっと蕃書調所の画学局に入り,川上冬崖に弟子入りした。しかし,川上冬崖も洋画が専門であったわけではなく,川上冬崖は維新後に陸軍で測量で活躍した人物で,画家というよりはそちらの文脈で語られる事が多い人物である。そして高橋由一は,倒幕が本格化してきた頃になってようやくイギリス人画家のチャールズ・ワーグマンに師事することができた。

この時点で高橋由一はほとんど40歳に近い。それでも若者に混じって技術的キャッチアップできたのは,彼が優れた日本画家だったからであった。今回,この時代の水墨画も展示されていたが,これが抜群にうまかった。このままこの道を進んでいれば,狩野芳崖とは言わなくても,そこそこ名を残したのではないかと思う。しかし,高橋由一には「日本に洋画を広める」という使命感が強かった。ゆえに,似合わない洋画に転向したのである。

そのような状態だから,ぶっちゃけて言えば初期の絵,明治維新直後の絵はさしてうまくない。シャケについで有名な《花魁》は明治5年頃の作品とされているが,ご覧のとおりである。この作品を見てモデルの花魁は泣いて怒ったそうだが,確かに期待した浮世絵の美人画風でなかったというのもあるだろうが,「私はこんな顔じゃない」という言葉にもある通り,そもそも本当にそうだったのではないか。当時の由一の自画像を見ても,パースがかなり怪しい。

彼がちゃんと描けるようになったのは,お雇い外国人としてきていたアントニオ・フォンタネージに師事してからである。フォンタネージに影響を受けた明治の画家は多いが,彼もまたその一人であった。そうして明治10年頃に出てきたのが,この《鮭》である。《鮭》は全部で3作あるが,今回全部来ていた。生で見ても実にインパクトの強い作品で,鮮やかな肉の色がうまそうに見える。公式HPでさかなクンが解説しているが,それぞれ状態が違うのでおもしろい。高橋由一はその後東海道や東北地方を旅行し,国土を西洋画として残す活動を行った。当時白黒写真しか無かったこともあり,彼は「記録に残すのならば油彩画が優れている」と考えており,それが洋画を広めるという使命感にもつながっていたそうだ。《鮭》をはじめとする優れた静物画の数々も,そうした自意識によるものであろう。今回,東北旅行のスケッチが大量に展示されていたのだが,この後友人と会う用事があり,時間がなかったために適当に見てしまった。ここもじっくり見ればかなりボリュームのある展覧会であった。

なお,同時開催で芸大所蔵品展もやっていた。いつも出ているせいでありがたみにかける《絵因果経》はいいとして,今回は1880年のバイエルがあって,ここから日本のピアノ教本がバイエルになっていったらしく,これが一番興味深かった。
  
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2012年06月16日

非ニコマス定期消化 2012.2月下旬〜3月下旬



今まで嘘予告が積み重ねられてきたけど,本当に劇場版が来るらしいので,さらに嘘予告を重ねてみたの巻。がんばれ公式。



TASさん「俺にだって……できないことくらいある……」。いやまあそりゃ無理ですよね。完熟エッグの強さはサガシリーズでさえも屈指ですしおすし。ちなみに,時間的にも追記回数的にもそんだけあれば,TASさんならまっとうにクリアできる。与えるダメージ量が少ないことが原因の尺の都合ではなく,露骨な調整が原因の尺の都合による倍速になるのは初めて見た。なお,最高100倍速。



ワールド,64と来て次はブラザーズ3。64よりは楽そうかなー。ただし,ブレーキがききにくいゲーム仕様なので,そこは苦労していそう。今回も楽しく見ている。



動画でたどるボカロの歴史。ミクさんリンレンから超レアキャラまで,全員集合で踊っている。そもそもMMDに全員モデルがあったのがびっくりだが,それをよくそろえたもんだ。歌も全ボカロでカバーしているが,技術の進化を感じる。アペミクさんとかいろはとか,やはり最近出たボカロは精度がすごい。



「ちょっと杏子先輩!」がやりたかっただけ疑惑。相変わらずの,すさまじいまでの素材不足感が楽しいMADである。



NG集第三弾。今回もひどい。



こちらも第三弾。別名:神主のネタつぶし。過去には本当に当ててしまったことがあるからなぁ。本当に嫌なものから要望集っぽいものまで。



とても良いアレンジ。



倒産するときの音のせいでとても心臓に悪い動画。ちなみに,風が吹かない「正攻法」(笑)による攻略。いや,似たようなもんだけど。

  
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2012年06月13日

石橋さんちの美術館

和田英作《チューリップ》ブリヂストン美術館の所蔵品展を見に行ってきた。いいものを持っているのは知っていながら,なかなか表に出してくれない&宣伝しないので,ついつい行きそびれてしまっていた。ちなみに場所は東京駅八重洲口を出て歩いて5分という好立地であるにもかかわらず,である。

ゆえに,今回の所蔵品展は非常にいい機会であった。所蔵品の良い物が全部出ていたわけではないが,おおよそ出ていたと言ってよいラインナップだったのではないだろうか。今芸大がやってるシャケ展じゃないが,教科書に出てくる……は言い過ぎとしても,美術系の入門書には大体載っているようなものが多い。いくつか例を挙げると,マネの《自画像》,青木繁の《海の幸》,藤島武二の《天平の面影》など。ここらへんでピンときた人は行っておくとよいだろう。リスト上は全部で150品ほどだが常設展を含むので,企画展としては100点ほど。企画展はほぼ油彩画なので,十分なボリュームだろう。常設展のほうは彫刻や古代美術が多いが,こちらもなかなかすごい。特に,紀元前24世紀のシュメール人の石像。あれは根津美術館のガンダーラ仏並に驚いた。

全体を語るより,一品一品ごとに語りたい感じなので,以下は個別評。ちなみに,実は大体公式HPで見られる。無いものは本来,久留米の石橋美術館のほうで所蔵しているものである。しかも,各紹介ページにそこそこ詳しいキャプション付。労力はむちゃくちゃ大変だと思うが,全部こうしておいてくれると非常に展評が書きやすくて助かる。

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2012年06月08日

「埋もれた名作」という言葉について

”埋もれた(隠れた)名作”という言葉を考えるとき,短く説明しようとするとこれが案外と難しい。一言で言えば「ある作品が知名度不足ゆえに,本来受けるべきものよりも過小評価されている状態」ということになるのだろうが,問題は『知名度不足』の点である。多くの「埋もれた名作を紹介する」系の記事(個人・まとめサイトよらず)で最も指摘されるのがこの点だ。これは,おごった専門家・上級者による揶揄であることも多いが,一方で紹介されているものが本当に「ちっとも埋もれてない」ということもまた同様に多いのである。

『過小評価』とは,誰からの過小であろうか。というのがこのことを突破する鍵になるだろう。それは「本来その作品に触れていれば,評価しているであろう層に,知名度不足ゆえに届いていない」からこそ,過小評価は発生するのである。つまり,”埋もれた名作”というのはある特定の集団内部でしか発生しない。もっとも,その特定の集団が非常に巨大な「世間」などになることはあるものの,それもひとつの集団には違いない。しかし,”埋もれた名作”は集団が大きくなればなるほど,存在しづらくなる。その集団を構成する人々の共通項が減っていくからである。感性や知識の違う人間複数に,同時に評価されるのは困難なことであるし,そのような稀有なものは大概の場合さっさと見つかってしまう。これが,個人に推薦するより集団に推薦することの難しさの理由であろう。

なぜ”埋もれた名作”が紹介されるのかというと,当事者による商業的な事情を除けば,端的に言って悔しいからである。多くの紹介者は自らが属する集団(クラスタ)の評価軸をおおよそ知っているので,「私の好きな◯◯は,□□さんや△△さんが読んでもおもしろいはずだ!なのに読んで(聞いて・やってetc)ないのは彼らにとってももったいない。」という,ある種純粋な精神がおせっかいなまでに紹介する気力を呼び起こすのである。

結局のところ,”埋もれた名作”紹介が失敗するのは次の理由であるように思う。1.集団内部の評価軸や知名度を,紹介者が見誤っている。2.紹介する先が間違っている,または「集団外部にだって受けるはずだ」という紹介者の勘違い。そうして紹介系の記事を読んでいくと,「これは十分知名度高いから埋もれてない」「これはニッチ受け」とどんどん消えていき,実際に定義通りの名作は,何十と紹介されていてもほとんど残らなくなってしまう。(逆に言って,そう削っていく側の人間が,集団内評価軸を見誤っている可能性もある。が,それはとりあえず置いておく。)

前者については,まあ「普通の名作集」として読めばおもしろいので良いと思う。その意味では,「それ十分知名度高い」は無粋と言えば無粋なのだが,それによって紹介者の(集団に対する)見識が増すので無駄ではない。一方,苦しいのが後者だ。”埋もれた名作”とは過小評価されている作品であってニッチ受けする作品の紹介ではない。ニッチ受けを狙った作品は,その層では当然のように有名だし,より大きい集団では評価軸が違って評価されない。はっきりと言えば,それは嘆くだけ無駄である。埋もれているのではなく,分相応なのだから。粛々と自分(とその周囲)でその作品を楽しむしかあるまい。

してみると,実は”埋もれた名作”なんてものは極少数しか存在していないのではないか,という気がする。そう,大体のものは「外部に受けるように見えて実は狭い集団の評価軸でしか評価できない」のであって,知名度不足などというのは,その集団内部の熱気が余って漏れ出てしまっただけなのではないか。という悲観的な結論になってしまいそうだが,あえて言えば,それでも”埋もれた名作”は確固として存在するし紹介は正義であると思いたい。私自身,そうでないとこのブログ上でニコマス紹介やエロゲ紹介,各種ブックレビューなんてやってられないのである(ニコマスなんてド直球にこんなものを書いている)。もしくはニッチ受け紹介と割り切り,数撃ちゃ当たるを地で行くか,逆に「埋もれてないかもしれないけど名作集」という方向で振り切るか。方向性はいくつかある。

私は割りと,「余って漏れ出た熱気」が嫌いではない。
  
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2012年06月07日

ドラクエマップもう一回見たいな

・この春行きたい!東京の滅亡城跡めぐり(デイリーポータルZ)
→ 東京以前,むしろ江戸以前の武蔵南部について。なかなかおもしろい。江戸開府で一気にメジャー化したけど,それまではマイナーな地域だからなぁ。まさに,兵どもが夢の跡。
→ 豊島氏関連の城は『八犬伝』に出てくるので,ある種の聖地と言えるかもしれない。私もはるか昔に読んだので,ちょっと回ってみたくなってしまった。結局行ってないけど。


・紅林麻雄(Wikipedia)
→ 冤罪多すぎて笑えないレベル。昭和の遺物だなぁとかなんとか思った。
→ まあこういう人がいたからこそ,自白だけじゃ証拠にならないし取り調べも視覚化しますわな。


・「リリカルなのは」では何故子供が戦っているのですか (教えて!goo)
→ 案外となのは世界の核心を突いた質問と回答になってておもしろい。なのは世界は優しいようでシビアな都築世界の典型なので,まあそういうことです。
→ 結局なのはさんは才能ある人達がどう振る舞っていくべきかというお話でもあるので。超人が超人であるがゆえの悩みといいますか,それでいてノブレス・オブリージュ的な。しかし,一方で社会自体は超階層社会でディストピア。わんことくらそうでもそうだったし,ドッグデイズもいっぽ間違えるとそんな雰囲気が。それを隠しているようで隠しておらず,あからさまなようでそうでもないあたりが,また都築世界らしいのかなと。


・ぎなた読み(Wikipedia)
→ ぎなた読みと呼ぶのを初めて知った。こうしてみると,ジャンル横断して見ても「アフガン航空相撲」と「この先生きのこる」「せつなさみだれうち」はクオリティ高い。
・防衛相 1分以上飛行し落下か(NHKニュース)
→ で,最近見かけたぎなた読み……ではないけど同じ空気を感じるものとして。記事本体が消えているのではてブページ。
→ タイトルが「アフガン航空相撲」に対抗しているとしか思えない。折しも田中防衛相が話題になっていた時期でもあるので,ツッコミ入りまくりであった。


・Google Maps 8-bit for NES(YouTube)
→ 今年の日本エイプリルフール大賞はこれだろう。受賞先をGoogleとスクエニで。
→ 本家本元が消えているのでとりあえず消えてない動画を張っておいたが,4/1当日にスクエニのサイトに行くと「竜王様の世界征服が完了した」と告げられ,Googlemapを見に行くと世界がSFC時代のドラクエ風のドット絵になっているという。主だった世界の建築物までドットで再現されている,さらに世界中に有名モンスターが点在している,という力の入れよう。
→ これで少しは当時の様子がわかる?
→ なお,本当はカセットに息を吹きかけるのは,やめたほうがいいそうで。
→ Googlemapのほうは4/15くらいまでは見れたっぽいが,今は見られない?  
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2012年06月06日

書評『入門 世界システム分析』ウォーラーステイン著,山下範久訳,藤原書店

世界システム論(分析)について,ウォーラーステイン本人が書いた入門書の翻訳。翻訳したのも山下範久という第一人者である。ただし,決して基本的な知識の話をしているわけではなく,具体的な史実がどうこうという話をしているわけではない。ではどこらへんが入門編なのかというと,ウォーラーステインが何をどう考えた結果,世界システム分析という考えに至ったのかという点について,懇切丁寧に説明している。そこで,ウォーラーステインの出発点が,文系諸学問というと主語が大きいかもしれないが,社会科学の学問的行き詰まりへの関心から,世界システム分析に至ったことがわかる。ウォーラーステイン自身の経歴を見てもわかることだが,実は歴史学を基盤としているわけではないのだ。むしろ逆で,現代の学問の手法的行き詰まりからさかのぼっていって史的分析にたどり着いたのである。

だから話として続くのは史実の再検証ではなく,抽象的な,理論的に世界のシステムがどう変わっていったかという話であり,理論的にはこうなるという話や,ゆえに現実世界はこう分析できる,という総括的な話が多い。ややこしい・細かい話をばっさりと省いているという意味では,確かに入門書然としている。が,そうした事情により歴史畑の人間にはなかなかハードルが高い。むしろ政治学や経済学に明るい者のほうが,「この方面から歴史を切ってくとこうなるのか」という理解ができて読むのが早いかもしれないし,楽しめるように思う。

では,歴史畑の人間にとって入門書として機能してないか,というとそうではない。じっくりと読んでいけば,結果的に世界システム分析についてはきっちりと十全に説明がなされている。「世界経済」「世界帝国」「垂直的分業」「国債分業体制」「近代世界システム(=資本主義的世界経済)」あたりの基礎的な概念は,読み通せば理解できるようになっているだろう。

そういうわけで,とてもおもしろい良書ではあるのだけれど,誰に勧めてよいかはとても悩みどころである。しいて言えば自分のような,歴史畑から世界システム分析には興味を持っているのだけれど,そういえばウォーラーステイン本人の研究自体は詳しくないなーという人を対象とするのが一番勧めやすいのかもしれない。ブックガイド含めて250ページしか無い割に,読むのはけっこう根気が必要であった。今見たらamazonのレビューでも「誰に勧めて良いかわからない入門書」的なレビューが多かったので,やっぱりそうなんだろう。これも他の方のレビューにあったが,先に講談社選書メチエの『ウォーラーステイン』(リンク先amazon)を読んでおいたほうが,理解はしやすい。私からもこちらを推薦しておく。


入門・世界システム分析入門・世界システム分析
著者:イマニュエル ウォーラーステイン
販売元:藤原書店
(2006-10)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年06月05日

im@sMSC4決勝メモ



投票したものは全部残った。以下ネタバレ有。

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2012年06月04日

書評『天使と悪魔』ダン・ブラウン著,越前敏弥訳,角川文庫

本作は『ダ・ヴィンチ・コード』同様,主人公はハーバード大学で美術史学(正確には宗教象徴学)を専門としているロバート・ラングドン教授で,宗教が引き起こした事件に巻き込まれるスペクタクル小説である。基本的に敵役がオプス・デイではなくイルミナティになっているだけで,話の本筋は大体同じである。実は『ダ・ヴィンチ・コード』よりも先に世に出ており,『ダ・ヴィンチ・コード』が売れたことでこちらも世界的に有名になった。ゆえに,本作がヒットしたので,同じ方式で書かれたのが『ダ・ヴィンチ・コード』と言ったほうが正しかろう。そして,後者のほうがキリスト本人を扱った分センセーショナルであり,より爆発的にヒットした,というわけだ。もっとも,本作も扱っている分野は相当に際どい。舞台はローマとヴァチカンで,サン・ピエトロ大聖堂が灰燼と化すか否かの瀬戸際で話が続く。

『ダ・ヴィンチ・コード』を楽しめた方なら間違い無く楽しめるだろうし,逆に言って,本作を先に読むことで『ダ・ヴィンチ・コード』の試金石にすることもできよう。本作の対立軸は信仰(狂信)と科学であるが,その落ちもなかなかおもしろい。科学は時として,その宗教が創始された頃には全く予期されていなかったことをなしてしまう。それは何も素粒子物理学だけがなせる技ではないのだ。どんでん返しではあるのだが,不自然さが少ない。そういえば本作も映画化されている。今度見ておこうと思う。


実はこのブログの第1回書評が『ダ・ヴィンチ・コード』だったりするのだが,当時と今では自分の美術史学的知識に大きな違いがある。で,時間が経ってて知識も違うからどうだったのかといえば,なんのことはない,やっぱりずば抜けておもしろかった。むしろ,美術史学的知識がある分,本作のほうが楽しめたところはあると思う。「サンティ」の罠や「聖女テレジアの法悦」などはまさにラングドンと同じ心境であった。もっとも,『ダ・ヴィンチ・コード』は読んだ直後にパリへ旅行して直接サン・シュルピス教会を訪れる機会を得たという幸運があったのだけれども,今回はローマ旅行が企画されているとかそんなことはなかった。と,私事はこれくらいにして。


天使と悪魔 (上) (角川文庫)天使と悪魔 (上) (角川文庫)
著者:ダン・ブラウン
販売元:角川書店
(2006-06-08)
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2012年06月03日

言うても言語にそんなに関心がない

・「魔法先生ネギま!」よ永遠に(未来私考)
→ 『ネギま!』考。僕の読みは実は逆で,魔法世界編はまさに「熱的死」だったのではないかと。ネギの成長は急激すぎ,クラスメイト達の成長は描写不足だった。それを挽回すべき魔法世界編後はまさに「熱」が足りず続かなかった。
→ 気合いがあれば,後から1記事立てて書くつもり。


・日本エスペラント学会が想像以上にヨーロッパ中心主義を標榜している件について(Danas je lep dan.)
→ コメント欄まで読んだ上で,この記事(Mukkeさん)に同意する。それなら,少なくとも現状は,文化的覇権とその問題点を認めた上で,英語が世界的リンガ・フランカでかまわないと思う。私の中にある「印欧語とそれ以外の中国語や日本語などの主要言語を混ぜる,ないしどの言語にも似ても似つかない形で創造された,過半数の人類にとって完全に公平中立な言語」は現実的に可能なのかという疑問は,コメント欄を読んでもなんら解消されなかった。
→ もう一つ,いかに公平中立であろうとも,かなりの割合の人類にとっては「厄介で勉強しづらい外国語」が一つ増えるだけではないかという疑問がつきまとう。誰からも遠いということは勉強しづらいことこの上ないし,文化的に無味無臭な言語は非常に覚えるのに苦労すると思う。これは現状のエスペラントでも同じだとは思うが。結局中立公平って使いづらい・覚えにくいの言い換えにすぎないのではないか。不規則変化が無いなどは,人工言語のほうが勉強しやすい点にはなるのだろうが,メリットとデメリットの割合が不明瞭である。
→ ついでに言えば,言語的差異がそのまま社会的格差につながってしまう問題については,個別に対処すべきであり,そもそもそれって「上から公平中立な言語を降らして」解決するものなの?という疑問を呈しておきたい。


・男でも女でもない「中性」容認の波紋(ニューズウィーク日本版)
→ ある種似たような言語の問題として。英語だと隠れに隠れてるのであまり気にならないが,男性・女性・中性とあるのが印欧語の特徴である。この場合,セクシャルマイノリティの名称どうするの?という。
→ ひとまず使われている人称代名詞としてはzie-zir-zir-zirsもしくはzie-zes-zem-zesがある模様。しかし,どちらもhをzに変えただけで実質的に解決している気はしないんだよなぁ。あとこの格変化,ドイツ語に似ていて,英語も一応ゲルマン諸語ってことか,と思った。


・旧幕府と軍事技術に対してのペリー来航の衝撃(Togetter)
→ 江戸時代は物流が発達していたがゆえに都市経済が発展し,特に江戸は海運による食糧供給に依存していた,ということを知っていると黒船到来の衝撃が理解できる。リアルシーレーンの危機。この辺はもっと高校日本史で強調したほうがいいよなぁ,と確かに思った。だからこそ江戸後期には海防論がいろいろと浮上していたわけだが,今ひとつ身動き取れないまま幕末へ。


・表面的愛国心に拘る狭量 〜国旗・国歌の問題に寄せて〜(Consideration of the history)
→ 右派からの日の丸・君が代強制反対論。ほぼ全面的に賛同する理路である。1.強制では愛国心は芽生えない 2.儀礼的意味合いだからこそ起立指示は合憲なのであって,思想信条の踏み絵に使うは違憲 という司法の判断 3はちょっとおいといて,4.最高裁判決にも強制を抑制する補足意見がある。
→ 言うまでもなく私自身右派なので,今の国旗国歌には愛着もあれば改廃すべきではない,と考えている。しかし,このブログ上では重ねて言っているが,生徒はともかく教師への過度な強制は反対だし,生徒にも「(民族)教育の範疇」で,義務教育の範疇でなされるべきであろう。
→ それはそうとして,他の方から指摘が入っている通り,ところどころに入る「ある種の左派」への揶揄がおもしろい。まあ,強制に反発する理路が全く違うのだから当然なのだが。
  
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