2013年06月27日

優雅な貴婦人と一角獣

The_Lady_and_the_unicorn_Desire新美術館の貴婦人と一角獣展に行ってきた。こうした中世ヨーロッパの美術作品が来るのも珍しければ,タペストリーをメインとした展覧会も相当に珍しい。それもこれだけばかでかく,保存状態の良いタペストリーとなると日本に住んでいて見ることはまずない。機会としては貴重この上ない展覧会である。所蔵元はフランス国立クリュニー中世美術館で,これ自体もそこまでメジャーな美術館とは言いがたい。今回の展覧会で知名度が大きく上がったのではないか。

作品点数は約40点だが,《貴婦人と一角獣》6点が,1つ10点分くらいの大きさがあるので,見るのにはむしろ時間がかかった。1時間半くらいは美術館にいたのではないだろうか。休日に行ったというのもあるが,割りと混雑していた。会場に入るといきなりメインの《貴婦人と一角獣》6点が大広間に飾られており,その周囲の身廊で作品の説明や,他の作品が展示されている。

さて,さらっと「中世の作品」と書いてしまったし所蔵元も「クリュニー中世美術館」ではあるのだが,《貴婦人と一角獣》連作タペストリーの制作年代は1500年頃とされている。年代だけ見るとまるっきりルネサンス期である。にもかかわらずタペストリーを見ると,どう見ても確かに中世だ。ルネサンス以後の,迫真性と遠近法に慣れた油彩画か,もしくは20世紀以降のぶっ飛んだ抽象画に見慣れている現代人には,今回の展示で驚いた人もけっこういたのではないか。言ってはなんだが,リアリティの一点だけで言ってしまうと,どうしても拙いのである。油彩画ではなくて面倒な織物という点を考慮しても,やはり拙い。植物はそれほど違和感ないが,人物の表情は読み取りづらく,動物は見るからにパースが取れておらず,ひどいと何の動物かわからない。肝心の一角獣でさえ,作品ごとに角の生えている位置がずれていて,体勢も苦しい。

しかし,これらの形容は事実である一方,批判には当たらない。中世の作品とはそういうものだからだ。中世の作品にリアリティを追求する精神が全く無かったとは言えず,特に最後の国際ゴシック様式まで来ればルネサンスの手前まで来ている。本作も無理やり絵画の様式史に置くなら国際ゴシック期にあたるのだろう。が,結局のところ中世の美術作品の見どころとは「ここ」ではなく,むしろ遠近法にこだわらない,素朴でありながらかつ典雅である表現ではないかと思う。大事なものは大きく描く,大事なのは実際の色ではなくコントラスト,といったように。後者については特に現代芸術の再発見となるわけだが,本作は地が赤と青で非常にわかりやすい。特に重要な部分は青く塗られて(折られて)おり,中でも《我が唯一の望み》の天幕が鮮やかな青色なのは非常に示唆的だ。貴婦人の表情の乏しさも,不思議と優雅さに変換されている。

本作が1500年という制作年代であるにもかかわらず,全く中世的であるのは,一つはフランスであるからだと思う。ルネサンスの先進地はイタリアとネーデルラントであり,この二つの地域は15世紀から十分にルネサンス的であったが,他の地域に広がっていくのはもう少し遅れる。もう一つは本作がタペストリーであるという点で,やはり実験的に芸術表現を行いやすかったのは絵画と彫刻であり,だからこそこの二分野が他に先進したのであろう。タペストリーは大作で一点制作するのに莫大な時間と労力がかかり,下絵があればいいというものでもない。当時であれば技術的な限界もあろうし,絵画から見れば少し時間遅れの表現になるのもやむを得ないのではないか……と思うのだが,私はタペストリーの勉強はしてないし中世美術は専門ではないので,間違ってたらごめんね。


ところで,《貴婦人と一角獣》はガンダムUCに登場する。そのことを知った,普段全く美術館には来ないガノタの友人と行ったのだが,作中に出てきたものまんまだったとのこと。6枚のうち最も重要なもの(今回の画像)が第六感を表すという有力な説,その作品が侍女が「小箱」から宝石を取り出し貴婦人に差し出しているいシーンであること,第六感を表す作品の名前が《我が唯一の望み》でガンダムUC中にも「私の,たった一つの望み……」という台詞がある,注文主が「ル・ヴィスト家」であることなど,ガンダムUC的にピンとくるポイントは多い……らしいのだが,私自身はUCを見ていない。また借りなかったのだが,音声ガイドが池田秀一(シャア・アズナブル)で,ガノタの人は借りると作品がよくわかって一石二鳥かもしれない。お勧めしておく。ついでに言うと,公式カタログにさえガンダムUCの話が出ているそうなので,コラボ具合がすごい。この間の,ダ・ヴィンチ展とチェーザレよりもよほど深く食い込んでいるのでは。
  

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2013年06月26日

キングダム・オブ・ヘブン

十字軍時代を扱った話。第三回十字軍の直前,サラディンによって退潮に向かう十字軍国家を描いている。史実は主人公のバリアン・オブ・イベリンを中心とした部分のみ大きく書き換えられており,塩野七生の『十字軍物語』の2巻でも史実との違いが大きく取り上げられていた。その本が今私の手元にないので確認ができないのが辛いところだが,割りと悪くない評価であったように思う。まあ,塩野七生自身こうした史実改変は多く行なっているので,悪くは書けまい。そういえば,私がボードゥアン4世の存在を知ったのも塩野七生の『十字軍物語』だが,知らずにこの映画を見ていたら大変に驚いていたことだろう。


物語の本筋は置いておくとして,十字軍時代の西欧の雰囲気はよく出ている映画だと思う。バリアンが西欧を出てパレスチナに到着するまでの描き方を見て感心した。当時の西欧は食糧増産・産業発展が著しく進んだ一方で,深刻なマルサスの罠を抱えており,人口の排出先が必要であった。とりわけ騎士の次男坊・三男坊は継ぐべき土地がなく,騎士甲冑は買えるがこのままでは領地に居場所がなくなるという状態であったから,腕っ節で土地を奪える十字軍やレコンキスタ,東方植民はうってつけであった。もちろん庶民でも状況は同じである。中にはバリアンのように,集落での居場所がなくなったから,という動機で行ったものも多かった。バリアンがまさにそうであったように,聖地に行けば宗教的にも救われると信じながらの移動であったに違いない。

ところが,イタリアに着いたあたりから様子が変わる。実際のパレスチナでは戦争なんてしていないのである。一攫千金の土地であることには変わりないが,それは”商人にとっての”という頭文字がつくのであった。ムスリムとの交流,特に東方の物産(絹織物や香辛料)を媒介した交易は莫大な利益を生んだ。作中でも市場がとても賑わっている様子がよく描かれていた。皮肉にも十字軍の最大の成果は東方貿易の拡大であり,聖地を手に入れたというよりは,交易拠点としての沿岸都市を手に入れたのが大きな価値を持つようになってしまった。無論,巡礼もキリスト教徒にとって重要な要素であった。だから,何も考える必要のない庶民であれば,念願の巡礼を済ませ,ついでに市場を楽しんで帰っていくことだろう。ひょっとしたら地元では十字軍に対する寄付なんかをして,異教徒は殺せ!なんて調子良く叫んでいるのかもしれない。

しかし,バリアンのように鋭い人間がこのような状況に直面すると,どうしてもこう考えてしまうのである。十字軍とは何か,聖地とは一体何なのか。バリアンは一度「無」だ,という結論に至る。それでも彼はイェルサレム王国の名門イベリン家の新当主である。騎士としてあるべき道を信じながら進んだ先は……というところまで至る,史実に沿った話の誘導が非常に巧みであった。なるほど,これはこういう設定を施したバリアンでなければ,主人公が務まるまい。最初から聖地にいる騎士では,そうした疑問を抱くまい。西欧側のことを知らず,ムスリムとの奇妙な共存が所与のものであるので,比較対象がなく悩む余地がないのである。最初から騎士であっても困る。完全に戦いに来たことになってしまうので,やはり悩む余地がない。急造の騎士としてパレスチナに降り立ったからこそ,バリアンは視聴者に違和感を与えず,思う存分悩むことができた。これは設定の勝利だろう。


バリアンが最後に得た結論についてはネタバレになってしまうので隠しておく。単純に戦争が派手で,物語もおもしろいので歴史とか何も考えずに楽しめてしまうのだが,むしろそういう映画だと思われて敬遠されているなら悲しいことだ。どうせならこの辺の時代背景も含めて楽しめると良いと思う。というか,今amazonやyahoo映画のレビューを読んだら「バリアンの動機付けが駆け足すぎてイミフ」という評をいくつか見たので,やっぱりそれなりの予習が必要かもしれない。

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2013年06月25日

アレクサンドリア(映画)

4世紀末,キリスト教徒が増加するアレクサンドリアで,大図書館(ムセイオン)が破壊され,科学が殺されていく経過を描いた作品……と書くと作品評としてダメだと思う。正確にはこうである。キリスト教徒が増加するアレクサンドリアで,古典古代の宗教が破壊されていく過程を描き,ついでに古代の科学も破壊される作品。これは実は見事で,単純な宗教VS科学にしなかったところは好感が持てる。

これに伴って,本作の悪役は言うまでもなくヴァンダリズムにいそしむキリスト教徒なのだが,一方的な悪役にしないことに注意が払われている。そもそもキリスト教が広まったのは古代ローマ社会の貧困層や奴隷から支持を集めた点であることが冒頭で描写される。しかも,大図書館が破壊される直接の契機となった乱闘は,多神教徒の側からの不意打ちである。多神教徒(裕福な層である)は,自分たちのほうが多数派であると勘違いしていた。だから,マジョリティの暴力で押さえ込めると思い込み,不意打ちという卑怯な行為を仕掛けた。ところが実際に乱闘を始めてみると,街角からキリスト教徒が出るわ出るわであっという間に逆襲されてしまう。そして堅牢な大図書館に閉じこもり,ローマ皇帝の裁定を待つこととなった。ところが,4世紀末ではローマ皇帝(作中ではテオドシウス帝)もすでにキリスト教に帰依しており,有利な裁定が出るはずもなく……と,徹底して多神教徒は「間抜けな金持ち」として描かれている。

ヒュパティア本人はあくまで科学者である。科学者というと近代の響きがするが,当時の自然哲学者の一人であり,自然現象や宇宙の原理を明かすことで神に近づこうとしたのであった。作中では明かされないが,史実の彼女は新プラトン主義の思想家でもあったそうなので,とても納得の行く行動である。彼女も多神教側には属していたが,このような態度であったため,女性であるということもあり戦いには全く加わらなかった。それでも大図書館を拠点に活動していた以上,争いに巻き込まれる。ここに,次第にキリスト教に惹かれていく奴隷,教え子たちとのラブストーリーも絡みつつ,物語は展開する。教え子たちもさまざまなで,結局皆時代の流れでキリスト教徒にはならざるをえないのだが,仮面キリスト教徒もいれば,大司教まで上り詰めた者もいた。その中で物語の鍵を握ったのはやはり奴隷で,奴隷としてそれを否定するキリスト教に惹かれつつも,ヒュパティアに学問の才も認められ,彼女自身にも惹かれていく……複雑な葛藤を抱えた彼の行動が物語を動かしていく。

本作では,科学が未熟な世界における「神の名において」という文句の強力さを,まざまざと見せつけられることになる。彼らが少数派であったうちは「カルトだ」と一笑に付すことができる。しかし,彼らがある程度の勢力になってくると,あらゆることが「神の名のもとに」正当化され,敵対勢力は理不尽な目に遭い,勢力を縮小させていく。内側の統制も同様で,仮面であるのは許されなくなっていく。自分たちが弱いうちは「神のもとの平等」を歌って社会的弱者を集め,数の暴力を「神の名において」で正当化する。本作をキリスト教徒の成り上がり物語としても見ることが可能だろう。


宗教戦争の傍らでは,本来の本筋であるヒュパティアの天文学の研究が進められていく。彼女の業績はほとんど残っていないので推測の域は出ないのだが,彼女が作中で持った疑問,それに対する研究の進め方,行き着いた結論はどれも不自然さがなく,「ありえそうだ」という範囲にとどまっている。公式サイトを見ると,ここは制作上かなりこだわったポイントであるようだが,成功したと言えるだろう。一応,見る前にアリスタルコスからケプラーに至る天文学史を大雑把に知っておいたほうが,ヒュパティアが何をしたかったのかわかりやすいと思う。

原題は『Agora』で,要するに古代ギリシア語の「広場」を指す。確かに本作は多神教徒とキリスト教徒の街の奪い合いであるから,そこに焦点を当てるなら正しい題だろう。また,アゴラを政治的場だと捉えてもしっくり来る。ある古代の一都市だけで起きた現象というわけではなく,こうした悲劇は油断すればいつだって起きるというメッセージから,アレクサンドリアに特定されるタイトルをつけるのは避けたのかもしれない。現在のキリスト教と古代中世のキリスト教は違うとはいえ,キリスト教徒が圧倒的多数派のスペインで制作され,欧州でヒットしたのだからそのメッセージ性は高い。が,私は日本語の題『アレクサンドリア』のほうが好きだ。古代都市アレクサンドリアに憧憬を持ちすぎなだけかもしれないが。

なお,本作が放映されたのは2009年。つまりエジプト革命の3年前である。そこではまたしても宗教が問題になったが,今度はキリスト教徒が圧倒的少数派であった。そう,これだけ横暴をほこったアレクサンドリアのキリスト教徒たちも,映画の時代から約250年後には,あっさりとムスリムに塗り替えられていくのであった。


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2013年06月24日

松実玄は裏ドラにまで能力を及ぼしているのか議論について

最近,玄の裏ドラ支配能力に関する議論が盛り上がっている。中途半端に口を挟んでしまったので,私の見解を述べておく。先行記事は以下。

・松実玄の支配は裏ドラまで届くのか(Cat in the box,ミスタさん)
・松実玄がリーチをかけられない,もう1つの理由(Danas je lep dan.,Mukkeさん)
・【考察】松実玄は裏ドラを支配しているのか?について考えてみる(麻雀雑記あれこれ,しののぬさん)


今のところしののぬさんの説が一番説得的であるので,その成果を見つつ。ここまでの議論が大体作中の描写をもとにした帰納法的なアプローチなので,なるべく演繹法的にやってみようと思う。まず,基本原理から言えば,玄は裏ドラを支配できない。その理由を箇条書き的に書くと,

・裏ドラはめくるまで誰にも認知されない,もしくは確定しない。
・したがって,「ドラを捨てない限り,ドラが集まる」という玄の能力の性質上,玄は裏ドラを切れないはずである。
・ということは玄は裏ドラをめくる前から特定していなければならないが,そのような描写は作中にない。よって,裏ドラ察知能力は無いと考える。
・認知できない以上,玄は「どれが裏ドラ牌かわからない」ので,そもそも切る切らないの判断ができない。
・よって能力の制約上,裏ドラは支配できない。

付け加えれば,玄が裏ドラを(無意識的に)支配しているとすると,しののぬさんが指摘しているように「一見無関係に見える暗刻」がもってあってもよさそうであるが,玄の手牌を見ると意外とそうした暗刻は少ない。また,裏ドラが必ず配牌がツモ牌に紛れ込んでいて,玄は無意識的に切れないとすると,これは大変なことになる。赤ドラ4+表ドラ4+裏ドラ4で合計12枚が最終的に玄の手許に集まってくることになるが,赤ドラ4枚が5p2枚に5s・5mが1枚ずつであることを思い出してほしい。たとえば表ドラが2p,裏ドラが8sとすると,玄の手牌は早い段階で「22225p58888s5m」に近い状態になる。これがいかに絶望的な状態かは,多少なり麻雀をやっている人ならわかるだろう。裏ドラが5pでドラがだぶってるとか,せめて4−6のpで順子にしやすいなんて状況でない限り,玄ちゃんの和了が絶対に不可能になってしまう。

ここでMukkeさんが指摘しているように,「和了した照が裏ドラを確認していない」のは不自然といえばそうなるので,言及が必要だろう。彼女は彼女で打点制限という制約があるので,裏ドラが乗ってなくても制限をクリアできるよう,手役を組むはずである。ゆえに,「余分に打点を上げてしまうと,次に上がりにくくなり,稼げる総得点が逆に少なくなる」という可能性があり,ゆえに照は余分な打点上昇を避けるべくわざと裏ドラを見ていないという可能性はなくはないことを一応指摘しておく。照とて役満近くまでたどり着いたら連荘が苦しくなるはず,と考えたとき,1000→2000→3900と小刻みに刻んでいって48000までたどり着いたほうが,1000→3900→12000と刻んでいったときより,連荘回数が増え,獲得得点が大きくなるという単純な足し算の話である。

また,「玄の自分の裏ドラ支配力と,他人の裏ドラに対する支配力を別個に考えれば他の仮説も成り立つのではないか」という意見を見たが,私は無いと思う。そもそもこれは裏ドラが伏せられているからこそ成り立つ仮説である。表ドラにおいては開局時から全員の知るところとなるため,玄のドラ独占能力と他者の妨害が表裏一体で必ず同時に成り立つ。ただし,あくまで玄の能力の主体は他者にドラを与えないことではなく自らがドラを独占することであって,妨害は副産物である。能力を分離する意味はないし,分離すると場合分けの数が倍に増えるので大変なことに

これに,しののぬさんの成果である「怜の和了時の裏ドラを,すばら先輩が配牌で持っていた」という検証から,少なくとも妨害効果に関しては皆無ということがわかり,あわせて玄は裏ドラに対する支配力が無い,という非常に強い仮説が成り立つ。つまり,ここまで玄の対局者がどれだけ立直をかけても裏ドラが乗らなかったのは偶然ということになり,また照が裏ドラをめくらなかったのは上記の如く「余分な打点上昇を防ぐため」,ということになる。これが一番説得力が高い仮説だが,そこに夢はない。また,普通に考えれば照とて裏ドラくらい見るはずであり,見なかったのは玄の能力を察知していて乗らないことがわかっていたから,と考えうる。


というわけで,しののぬさんが出した結論から,少なくとも玄が誓約を破らずリーチをかけた場合は裏ドラを独占する可能性があるのではないか,という方向で考えてみる。そこで,注目したいのは「(裏ドラはめくるまで)確定しない」という点だ。認知されないのではない。Mukkeさんが別記事(咲-Saki-色のクオリア――能力者は量子雀牌の夢を見るか?)で指摘していたように,麻雀牌はめくってみるまで世界線が収束しない。問題は収束するタイミングだ。

まず,”玄がリーチをかけた瞬間に裏ドラが確定”がある。実はこのタイミングで確定にしてしまうと,とても困ったことになる。裏ドラが上がり牌ではなかった場合,玄は強制的に誓約を破らされることになる。そうでないとしてありうるのは,「誓約を破らず玄がリーチをかけた場合は,上がり牌が必ず裏ドラになる」か,「ツモ筋から裏ドラが消滅する(しかもずらされても有効)」か,「リーチまでに裏ドラが全て手の中に入っている」ということになる。これとんでもなく強力な能力じゃないか,強制力的に……強さの割に役に立たないけど。そして作中にそんな場面がないので検証できない。

もう一系統立つ仮説として,「裏ドラは和了時に確定」というものがある。すなわち,

・局の開始時,玄の能力は一切裏ドラに作用しない。
・ただし,誰かが立直をかけて和了した瞬間に,ようやく裏ドラは確定する。
玄本人がリーチして和了した場合:対局者4人全員の捨牌以外,かつ玄の手牌もしくは山に4枚とも埋もれている牌のなかから裏ドラが選択されて確定。玄は”無意識的に”裏ドラを支配しているということになる。
・玄以外がリーチして和了した場合:前述のしののぬさんの検証から,玄は支配力を全く及ぼさない。

となる。すると玄の参加している麻雀では,対局者3人は最高32種類の麻雀牌しか使用できない。なぜなら対局者3人で33種類の牌を使い切った状態でうち1人が和了すると,裏ドラになれる牌がなくなってしまうからだ。つまり,この仮説は作中で「玄と戦った対局者3人が,3人あわせて(表ドラ以外の)33種類の麻雀牌を使用した」局が出てきた瞬間崩壊する。というわけでそれを調べる価値が出てきたが,しののぬさんの記事によると「「玄以外の手牌と捨て牌を合わせて表ドラ以外の33種の牌が見えている」シーンを見つければ良いのですがそんなシーンはありませんでした。」とのことなので,32種類に減らしても結果は同じではないか。

これは逆の発想もできる。すなわち,玄がリーチをかけた上で和了できるかどうかは局の開始時点であらかじめ定められており,その局のみ他家3人は32種類の牌しか使用することができない……どっかで聞いたことがあると思ったら,遡及的過去形成ならぬ,まるっきり予定説である。阿知賀女子学院はカルヴァン派もしくは聖公会系の学校である可能性が微レ存……?”学院”ってついてるし(学院とついている学校はキリスト教系である可能性が高い,ex.青山学院,関西学院)。


まとめると,現時点で成り立ちうる仮説としては,5つ。

1.玄は裏ドラに対する支配力が全くない。
2.玄は裏ドラに対する支配力を及ぼすが,本人が誓約を破らずリーチした場合という,極めて限定された状況のみである。
2−1−1.玄がリーチした時点で裏ドラが確定する。しかし,強制的に誓約を破らされる可能性がある。
2−1−2.玄がリーチした時点で裏ドラが確定する。かつ,場に強烈な支配力が働き,玄は裏ドラを切って誓約を破ることなく和了できる。
2−2−1.玄がリーチをかけて和了した場合にのみ,裏ドラは確定する。裏ドラは手牌もしくは山に4枚とも埋もれた牌から選択される。
2−2−2.もしくは逆に,玄がその局リーチをかけて和了できるかどうかは局開始時に決まっており,和了が確定している場合のみ,裏ドラを支配(独占)できる。(阿知賀女子カルヴァン派説)

があるのではないかと思う。


ついでに,槓ドラについて考える。開く前の,つまり確定前の槓ドラに対しては,裏ドラ同様玄の能力が及ばないと考えたほうがいいだろう。これは単純に,裏ドラよりも開く機会の少ない槓ドラのほうが支配が強いということは考えづらいという点が一つ。そして裏ドラ同様,開く前から槓ドラを支配しているのなら,玄の手にはもっと「一見無関係に見える暗刻」があってもよさそうなものだが,彼女がドラ以外の暗刻を抱えてるシーンはそう多くない。よって,槓ドラへの支配は裏ドラ同様,本人が槓をした時のみ,かつ開いた後から支配が及ぼされるという仮定をひとまずできそうだ。

これも一つは予定説を使うと成り立つ仮定がある。すなわち,「玄本人,もしくは他家が槓子を作れるかどうかは局開始時に予め決まっており,その場合にのみ玄の槓ドラに対する支配(独占)は発揮される」。これなら照が暗槓したときに,すでに槓ドラが3枚も玄の手の中に存在していたという不自然な現象をなんなく説明できる。これは卑怯。なんか予定説で全部解決する気がしてきた。というか,裏ドラが予定説仮説をとらないにしても,槓ドラは予定説が非常にしっくりくるような気が,個人的にはするのだが,どうか。

予定説を取らずに考えられるのは,槓ドラが開いた後からはドラ支配(と制約)の範囲内だが,開く前は普通の牌として処理されるという仮説だ。たとえば槓ドラが一萬だとすると,玄は槓ドラが開く前までは一萬を捨てられるが,開いた後は捨てられなくなる。また,開いた瞬間に4人の捨て牌か相手の手牌にない一萬は玄のツモに出現するよう山が再構成される。(まさに遡及的過去形成。ある出来事が起きて未来が確定した瞬間,不確定だった世界の部分は,その未来に都合がいいように再構成される。ただし,確定した事象については当然書き換えることはできない。)

もう一つは当然考えられる,玄は槓ドラに対する支配力は全くないということ。現状,やはりこれが一番説得力が高い気がする。よってありうるのは,

1.玄は槓ドラに対する支配力を持っていない。
2.玄は槓ドラを察知できず,開く前には支配が及ばないが,開いた後からは表ドラと同様の支配力を及ぼす。
3.玄本人,もしくは他家が槓子を作れるかどうかは局開始時に予め決まっており,その場合にのみ玄の槓ドラに対する支配(独占)は発揮される。

くらいではないか。  
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2013年06月20日

アンナと王様

ラーマ4世(モンクット王)の治世,彼は王子教育のためイギリス人の家庭教師をつけた。その女性家庭教師アンナと国王の交流を描いた作品。

なのだが,テーマが混在しすぎていて,うまくまとまっていない気がした。West meets East物(異文化衝突・交流物)としては,アンナがすでに慣れているので戸惑いが薄い。これは彼女が本国出身ではなく,インド出身であるためだ。実は,元ネタになったミュージカルでは本国出身で,異文化衝突の面が色濃いそうなのだが(見てないので伝聞),史実では本作のように彼女はインド出身であるため,史実に合わせたのだろう。作中,アンナがタイの風習を批判する場面が何度も出てくるが,それは「前近代的だから」という理由であり,「イギリスと違うから」という理由にはならないようにしていたように思う。しかし,近代化の方向が何か間違っているというべきか,アンナが言うのは「現代的」であるように感じた。アンナにイギリス本国の植民地主義を否定させるのはさすがにおかしかろう。時代考証がどうのというより不自然に感じた。

じゃあタイの近代化がテーマかというとそうでもなく。当たり前の話なのだが,アンナはあくまで王子の家庭教師であって,ラーマ4世の顧問政治家として招かれたわけではない。改革の成果を出すのはラーマ5世ことチュラロンコーンであり,この映画の時点ではまだ即位前の少年である。この映画中にタイはほとんど近代化しない。もっとも,史実ではアンナがラーマ5世に与えた影響はそれほど強くなかったようで,この点は脚色が入っている。それはおいといたとしても,この観点で見ると,本作のアンナはでしゃばりすぎである。ラーマ4世の寛容さに甘えて言いたい放題言っているようにしか見えない。貴女の本分は,確かに究極的な目標を見ると「タイの近代化」ではあるが,目の前の目標は「王子の教育」であって,政治の近代化ではないわけだ。もっとも,アンナがラーマ4世に口を出さなければ交流の機会が減り,王と家庭教師の交流は描けない。

では,国王と家庭教師の交流としてはどうだったかというと,これは中途半端とは逆にやりすぎた感が強い。2/3くらいまで見たところで「あ,これラブストーリーだったんだ」とようやく気がついた。で,驚いた。いやいやいや,ラーマ4世ほだされすぎでしょ。主演のジョディ・フォスターが美人すぎるせいもあって,それに惹かれたようにどうしても見えてしまう。精神的交流を描きたかったのであろうが,であれば無理にラブストーリーにする必要性は無かったのではないか。そのせいで交流が不自然になったように思えた。

とどめに,本作はある意味爆発オチと言っても嘘ではない。アンナが宮廷の陰謀に巻き込まれて最後は王様ともども割とピンチになるのだが,超展開と言うと言い過ぎにせよ突飛な展開をして最後は爆発する。なにそれこわい。あれってミュージカルのほうだとあったんだろうか,もっと言えば原著にあったんだろうか。全然知らないのだけれど,無いんじゃないかさすがに。


というわけで,金はかかってるしキャストも豪華で名演技,素材も良しで,どうしてこうなったのか真剣に悩むべき凡作だと思う。せめてテーマをぶらさず統一させ,あくまでWest meets East物にし,ラブストーリーではない友情にとどめておき,最後は妙な事件を持ってきて爆発させない,で名作になったように思う。ラーマ4世があの扱いでは,タイ国内で放映禁止されているのも納得である。ちなみに,制作時点で拒否されたので,今回使われたのはマレーシアで作ったセットだそうだ。本物と見間違える程度には,セットの再現度が高かったことは一応書いておく。

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商標:20th Century Fox Jp
(2010-06-25)


  
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2013年06月19日

アマデウス

1984年の映画。主人公はアントニオ・サリエリ,18世紀末から19世紀前半にかけて活躍した音楽家で,タイトルのアマデウスはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを指す。二人の交流が物語の主軸となる。

本作は天才モーツァルト,それには一歩及ばない秀才サリエリ,とその他の凡才の3つの区分がはっきりと示されている。秀才サリエリはモーツァルトにかなわないことに苦悩するが,これは単純に才能が追いつかないから,と見るのは少し違う気がした。結局のところ本作のサリエリがモーツァルトに嫉妬するのは,モーツァルトが「下品で世間知らずでいけ好かない若造」である”にもかかわらず”天才,というところだろう。モーツァルトが謙虚であったなら,このような脚本にはならない。また,史実はどうやらわりとそうだったようで,サリエリとモーツァルトの確執は後世の創作のようである。本作の,ではないのがサリエリの不幸で,モーツァルト暗殺疑惑は終生つきまとったようだ。この映画でサリエリが再評価されているのだから,皮肉なものである。

もう一つモーツァルトに欠点を挙げるとすると,それは相手を理解できるほどの天才ではなかった,という点だ。より完璧な天才なら,相手を見てそれにあった作品を提出できるはずである。そこで,芸術性だけを見てそこだけを追求し,「音が多い」と言われれば皇帝相手でも反論してしまう危うさがモーツァルトにはあった。確かに,モーツァルトやサリエリから見れば不要な音など存在しない状態であったのだろう。しかし芸術性が超越しすぎた結果,秀才のサリエリにしか通じない音楽しか作れなければそれはやはり偏った才能であり,より優れた天才とは言いがたい。その後の『フィガロの結婚』も『ドン・ジョバンニ』も,真価がわかったのはサリエリだけであった。それは本作のモーツァルトにおいては,無論謙虚さを欠いた結果でもあるのだが,同時に才能が欠如していたとも言えるのではないか。本作のモーツァルトは完璧な才能の持ち主ではなかった。


サリエリは確かにモーツァルトの立身出世を妨害した。が,サリエリが妨害しなかったからと言って本作のモーツァルトの人生が大きく変わったかというと,大差は無かったかのようにしか思えない。最終的な死因も,心因的なものを除けばサリエリが手を下したというわけでは全くなかった。だからこそ,サリエリの惨めさは際立つのではないかと思う。彼自身が言うように,サリエリの不幸は何重もの不運が重なって生まれたものだ。まずモーツァルトが音楽の才能以外ではどうしようもない奴だったこと。次にモーツァルトの才能は偏っていたこと。そしてモーツァルトの飛び抜けすぎた才能を理解できたのが,よりによって自分だけだったこと。さらに,モーツァルトを妨害できる立場に自身が立っていたこと。最後に,妨害しても結末にさしたる大差は無かったであろうこと。その全ての要因がモーツァルトには死を与え,サリエリには不幸を与えた。

このどれか一つでも欠けていればサリエリの人生は幾分マシだったに違いない。神にすがり神に音楽を捧げて努力してきた結末がこれでは,神を裏切りたくもなるし,裏切り切ることさえサリエリには許されなかった。サリエリにはレクイレムを共同で完成させるという罰が与えられた。なんとも恐ろしい話である。「アマデウス」とは見事な題だ。Gottliebではないのは,モーツァルトが民族主義者で,ドイツ語オペラにこだわっていただけにこれまた皮肉である。


最後に一点だけ。『魔笛』はモーツァルトがフリーメイソンであったために書かれた作品であり,ストーリーはイニシエーションをなぞったものになっている。また,モーツァルトに作曲を依頼した大衆オペラの座長もフリーメイソンの会員であった。本作ではこれらの描写が全くなく,単純に貧困・栄養失調・疲労困憊のまま『レクイレム』と並行して書かされたため,死因の一因になったという描写があるのみである。話がややこしくなるからカットしたのだと思う(ただでさえ本作は約180分もある)。もっと言うと『魔笛』の上演から『レクイレム』,及び死去まではややタイムラグがあるはずで,それをほぼ同時並行にしたのは本作の歴史改変である。本作はモーツァルトやサリエリの人格に史実改変が入っているので,時系列くらい今更ではあるが,フリーメイソンが関心分野であるので少し気になった。


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(2010-04-21)

  
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2013年06月17日

非ニコマス定期消化 2012.12月下旬〜2013.1月中旬



これはうまい。これ聞いた後しばらく自分の中でカントリー・ロードブームが来ていた感じ。




ななひらから2つ。かわいい。あんずのうたは似すぎ。




昔よくあった懐かしのネタ。タイミングが完璧。あとロマサガがんばってください。



おやつの人でもう一つ。更新時間が約1時間18分ととんでもないことになっているが,それもそのはず。メモリ破壊系バグによりゲームを根本から覆す,とてもサガTASらしいTASとなっている。一応エッグはちゃんと倒します。



これもひどく懐かしいネタ。5年経ってMAD制作者のレベルが上がり,映像も音楽も豪華になっている。ある意味ニコ動の進化を語っているのかも。



2013年に入って高速マリオ復活。記念MADだが,改めて聞くとやっぱPさん天才だわ。





続く友人マリオ3の攻略。とうとう最初のステージのヨッシーを持ち越せるように。



そして作者の示した基準20分を達成。このTASを作ったのはフランス人というから驚きである。さすがのTASさんもけっこう時間がかかった。しかし,この後とんでもないTASが来て,我々は恐れおののくことになる。
  
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2013年06月16日

夏目漱石もネタにしやすいのかな

・【エロゲ解析】2012年は本当に不作なの?(今日から始めるゲーム統計学)
→ 何よりよくこれだけデータとって調べたなと思う。
→ こういうのは大体「印象はあてにならない」という結論になりがちだが,「意外と印象通り」「やっぱり2012年は名作が少ない」というふうになったのはおもしろい。
→ ついでに言うと,2007年が変わり目だったんだなと。そこまではなんだかんだでコンスタントに名作が出てたのに対し,隔年で不作になってしまっている。何があったのか。
→ この記事がはてブ的に伸びてないのは今ひとつげせない。賛はいいとして,「批評空間が元データでいいのか」とか「別の統計の取り方があるんじゃないか」とか否も出せそうだけど。


・広島高裁が衆院選「無効」判決 戦後初 NHKニュース
→ 画期的な判決かと思ったが,結局選挙のやり直しはなく終わった。
→ 抜本的な改革は後回しとしても(改憲を伴うと思われるので),行政による司法の軽視案件として本件は重大な意味を持っていた。結局我が国の司法は骨抜きらしいな……とさらに思わせる事件がこの後某国連的な場所で起きるのだが,それはまた別の話。
→ それにしても0増5減という解決方法はよろしくない。どうせなら増やせと思う。減れば減るほどマイノリティの意見は無視されていくわけで。


・文学作品のタイトルをラノベ風に書いて当てるスレ(ゴールデンタイムズ)
→ 意外とセンスあるネタが多い。
→ やっぱりネタにしやすいのはカフカの『変身』なのか。これ思い出した。 → 兄が部屋から出てきません(発言小町)


・安倍首相「有名な憲法学者」の名にポカン 「芦部信喜知らないって…」支持者もドン引き(J-CASTニュース)
→ これはクイズ大会というレベルの話ではないと思う。
→ 当時,勘違いしている人がいたが,知らなかったこと自体が問題だったのではなくて,憲法を勉強していれば絶対に出てくる固有名詞を知らなかったから,「勉強してないんじゃないか」と怪しまれていたわけで。「名前を知らなくても内容を知ってればいいんじゃないか」という反論はあろうが,固有名詞を知っていたほうが通りやすい説明はあり,他人に内容を説明するなら知っておいたほうがいい固有名詞は,当然出てくる。また,実際反論できてないわけで,その反論は筋が悪い。
→ もう一つある反論は「芦部は安倍首相が学生だった当時の権威ではない」というものだが,これも現在の憲法解釈の主流を追っていないという意味でまるで反論になっていないどころか,勉強不足感をさらに強めている。というか,この反論は「名前を知らなかった事自体が問題ではない」という核心を捉えていないので,反論者自体も問題点をよくわかっておらず最悪に近い。
→ 漢字が読めなくても答弁はできるし,カップラーメンの値段がわからずとも経済政策はできるが,”憲法学に触れずに”改憲はできないと思うのだが,どうか。それも国民の支持でいやいや変えるのではなく,率先して変えたがっているのは本人だ。さらに言えば,憲法学者的なものを敵視しているとしても,敵を知らないままやりたいようにやるのはやはりまずい。  
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2013年06月14日

闇色のスノードロップス レビュー

本作はネ右の勧めでプレイした。自分の感じたことも大体書いてくれているので,彼のレビューを読んだほうが良い。
→ 闇色のスノードロップス レビュー(凍てつくが如く、哀槌を鍛つ)
「凌辱と純愛が綺麗に住み分けられており、ルート毎に結末が大きく異なる。大別すると、純愛展開・凌辱展開・ハーレム展開の三種類。」であることさえ押さえられていれば,本作をプレイする前情報としては十分であろう。当然,私も同人版未プレイである。

さて,本作に対する私の感想の第一は「日常がたるい」の一言に尽きる。無論,日常があることで物語が暗転した時の落差が激しくなるので,本作のテーマから言って日常描写は不可欠だ。また,そのような目的である以上,過剰におもしろい必要はなく,ギャグが盛ってあればいいというものでもない。が,本作はそれ以前の問題で,あまりにもたるいのである。原因は物語の筋とテキスト双方にある。同じ事の繰り返しで,ただ漫然と日々が過ぎていく。テキストもあからさまに乗っておらず,同じような言葉が続く。ここまで書けば歴戦のエロゲーマーなら大体どういう状態か,想像がつくのではないか。もうちょっとなんとかならんかったのか。

また,確かに純愛展開・ハーレム展開・陵辱展開と綺麗に分岐するものの,あからさまに純愛展開・ハーレム展開(の一部)は物語が適当で投げっぱなしである。同人版を知らないのでこの点あまり強く言えないのだが,元々は無かったのなら付け足す必要があったのか疑問になる出来である。実際,同人版もやっている人のレビューを読むとそういう指摘もされている。ただし,純愛展開・ハーレム展開を作ったおかげで,あるおもしろい現象が生じた(Kanon問題)。これに関する考察は後述する。

一方,陵辱展開についてはなかなかおもしろかった。情報管理については巧みといってよく,日常の節々で小出しにしつつ,ルートに入った途端にどーんと一気に放出する。主人公が気づいたときにはすでに手遅れであり,完全に逃げ場がない状態が演出される。プレイ時間ものの10分の間にして,主人公の人生が一気に暗転する急転直下の展開は,急激すぎておもしろい。主人公は解決策を持ち合わせていない。彼は極普通の一般人であって,力があるわけでも知恵が回るわけでもない。だから,うまく行くときは「愚かな勇気」を発揮した時だけであって,しかも「愚かな勇気」そのものが功を奏するのではなく,その結果何かしらが起きて偶発的に助かるのである。偶発的ではない助かり方をしては”愚か”とは呼べず,かと言って助からないのでは”勇気”の意味が無い。絶妙なバランスの上で,本作のテーマは成り立つ。「愚かな勇気」をテーマに据えただけのことはあり,とても良かった。

絵について。立ち絵は基本かわいいのだが,一枚絵になるとパースが狂い脱がすとさらに頭身がおかしくなるという,一部エロゲンガーに共通する現象は,なんと表現したらいいものか。誰か命名してください。せっかくの陵辱展開が,これで萎えたことがなんと多いことか。音楽。ボーカル曲は良かった。BGMは平凡で,正直全く記憶に残らなかった。システムは可も不可もない。使いづらいとまでは言わないが,使いやすいとは言いがたい。この辺は総じて同人上がりらしい,という感想でまとめておきたい。


総評。光るところが無かったわけではないものの,眠いテキスト・共通パートが大きく足を引っ張り,絵・音・システムでも特に褒めるところがないので,終わってみるとどうにも中途半端さが目立つ。多くのレビューにあった文言だが,同人上がりならもっと尖った作品でも良かったのではないか,と私も思う。70点弱を付けておく。


以下,ネタバレというか,本作におけるKanon問題の話。遡及的過去形成,という言葉を見て何のことだかわからない人は先にそっちでぐぐるか,回れ右を推奨します。
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2013年06月13日

アトランティコ手稿展,が正しい

レオナルド・ダ・ヴィンチ《音楽家の肖像》都美のダ・ヴィンチ展に行ってきた。正直あまり期待しておらず,ラファエロ展を見に行ってミケランジェロ展も見に行く予定なのに,ダ・ヴィンチ展だけ行かないのは気持ち悪かったから行った,というのが一番の理由である。あとはチェーザレとのコラボがどうなっているのかというのは少し気になっていた。

そんな薄い期待感の割りには楽しめたのではないかと思う。事前に作品リストを見てわかっていたことではあるが,ダ・ヴィンチの油彩画は1点しかないし多くは手稿・素描。その唯一のダ・ヴィンチの油彩画である《音楽家の肖像》はさしておもしろい作品でもない(今回の画像)。レオナルデスキの作品もサライもフランチェスコ・メルツィもチェーザレ・ダ・セスト欠き,いるのはジャンピエトリーノとベルナルディーノ・ルイーニくらいという状況ではあった。そしてレオナルデスキ以外の画家による油彩画はほとんどなく,展覧会全体の8割は素描であった。

が,まずキャプションはものすごくがんばっていたのでそこは汲んであげたい。特に今回の目玉であるレオナルドのアトランティコ手稿については,作品間で大きく間を取り,映像による説明をつけるなどかなり凝っていた。レオナルデスキについての説明もがんばってやっていたように思う。また,レオナルデスキの作品については,今回の展示品は全てミラノのアンブロジアーナ図書館から持ってきたものであるから限界があった,という擁護はできよう。

もう一点,こうした展覧会にありがちなことで,レオナルドとはそれほど関係性が強いわけではない画家の作品で作品数を増やすということは行われていたものの,それらが割りと美術好きのツボを突いたものであったと思う。メジャーすぎずマイナーすぎず。全て素描ではあるが,ブロンズィーノ,ルドヴィーコ・カラッチ(アンニーバレの従兄弟),ピサネッロ,ジュリオ・ロマーノ,フェデリーコ・ズッカリといった面々もいた(超メジャー級ではデューラーも)。一部は持ってきた意味があるのか疑問になる走り書きも見られたものの,なかなか見る価値のある展示だったのではないかと思う。が,よくよく考えてみると「ルネサンスの素描」と言い張るのはちょっと難しい面々が混じってないか。ピサネロ以外は全員マニエリスム〜バロックでは。

おもしろい展示としては,《岩窟の聖母》の模写があった。ロンドン・ナショナルギャラリー版に則っているにもかかわらず,十字架と光輪がない。レオナルドの真筆のものは,宗教上の理由から後世の人間が描き足しており,こちらのほうがレオナルドが構想したものに近いと言えなくもない。模写をしたのはミラノで17世紀前半に活動したヴェスピーノという画家だそうだ。また,レオナルドの愛読書として数々の書物が並べられており,興味深かった。マルコ・ポーロの『東方見聞録』がラテン語版とヴェネト方言版であり,他にはルカ・パチョーリの幾何学書,マルシリオ・フィチーノのプラトン神学についての著書,イソップ物語のラテン語版など。ルネサンス的な雰囲気のする展示でとても良かった。

最後に,チェーザレとのコラボは割りとがんばっていたのではないかと。さすがに展覧会内部にはあの漫画とのコラボは全く見られなかったものの,展覧会の外ではうまく取り込んでいるように見られた。惣領先生がんばって描き下ろしてた。この展覧会ではチェーザレがすっかり髭を生やしており,よく見られる肖像画に少し近くなった。今後登場するであろう主だった面々のキャラ絵も見られ,展開に期待が持たれる。早く連載再開してほしい。思えばチェーザレが連載開始したのは私がまだ学生で,連載当初から研究室内で大きく話題になったものである。その後,小佐野先生が監修する展覧会とコラボするとは,当時全く思っていなかったことだ。
  
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2013年06月09日

第224回『ロスト・シンボル』ダン・ブラウン著,越前敏弥訳,角川書店(文庫)

ダン・ブラウンによるロバート・ラングドンシリーズの第三作である。今回登場する秘密結社は超メジャーどころで,フリーメイソンであった。場所もヨーロッパではなく筆者と主人公の地元,アメリカ合衆国はワシントンDCである。

さて,読んだ感想をすぱっと言えば,つまらないとまでは言わないが,まあおもしろいかと言われると別に……というくらいであった。『ダ・ヴィンチ・コード』,『天使と悪魔』のずば抜けたおもしろさに比べると,格段に落ちると言わざるをえない。その理由を端的に言うと,2つある。まず,話のテンポが遅く,起こっている事件の大きさの割りには緊迫感に欠いた。『ダ・ヴィンチ・コード』は次々と解くパズルが変わり場面も変わる。パリからロンドンと移動距離も長く,常に公権力から追われる立場である。さらに,『天使と悪魔』は場面こそローマに集中しているが,序盤に謎が4つ提示されていて,しかもタイムリミット付で素早く話が進む。ラングドン本人の生命はかかっていないものの,4人の枢機卿の生命がかかっており,かつローマ教皇庁そのものも存亡の危機に立たされていた。4つの謎もそれぞれインパクトがありつつ,ラングドンがすいすいと解いては話が進んでいった。これは緊迫感に満ちていた。

一方,『ロスト・シンボル』は延々と同じパズルの解読が進む。それも解読方法がわからないからというよりも,ラングドン本人が解読に乗り気でなく,謎が提示されてから延々と謎が放置されていたからである。いいから早く答えをくれと。パズルの数は実際のところ少なくなく,今ざっと数えたら4つはある(ピラミッドの表の刻印の”暗号”,ある人物へのアナグラム,ある科学実験で現れる文字,最後の暗号)。にもかかわらず謎の数が少なく感じられたのは,前述のようにラングドンが解かずに躊躇していたからというのと,提示されてから解法がわかるまでのタイムラグの長さが理由であろう。いいから早くその謎を解いてほしいと,読んでて何度思ったことか。

そして,公権力や犯人に狙われて身体の自由や生命が危険に晒されていた点は『ダ・ヴィンチ・コード』と同様ながら,犯人はともかくCIAがラングドンの身をつけ狙っていた理由がなかなか明かされない。で,明かされてみるとCIAの打った手が非常に悪手であり,そりゃラングドン逃げたくなくても逃げるよなぁと思ってしまう。『ロスト・シンボル』は早々にCIAがうまいこと手を打っていれば,もっとすんなり解決した事件ではなかったか。事件が長引いた理由を誰かの愚かさ,とりわけCIAのような組織に押し付ける手法はうまくない。これも話のテンポが遅くなった理由であろう。

もう1つの理由は,今回出てくるトンデモ超科学「純粋知性科学」のせいではないかと思う。『ダ・ヴィンチ・コード』ではラングドンたちが追っていたもの(イエスの血筋)自体がトンデモではあったが,そもそもこれはそういう話というのが前提にあるので問題がなかったし,科学面でぶっ飛んだ話というわけではなかった。『天使と悪魔』はトンデモ超科学が生んだとある大量破壊兵器が出てきて話が進むものの,あれはローマをぶっ壊すための小道具というのが読者には十分わかる作りになっていて,科学的な理屈自体はどうでもよかった。また,そのトンデモ超科学自体が『天使と悪魔』のテーマである「宗教と科学の融和」に直接結びついてるので,この点から考えても自然に納得できるSF的な設定であった。

そこへ行くと,本作の「純粋知性科学」はだいぶ弱い。これ自体がラングドンに脅威を及ぼしていたわけではないし,フリーメイソンの暗号にも全くの無関係である。物語のテーマである「言葉の重み」には関連性があり,フリーメイソンの理想ともかかわりがあるので,全く無意味だったというわけではない。が,前作に比べると科学の絡め方が弱いとしか言えない。作劇の小道具としては全くの不要だったのがどうしても響いている。


そんな本作も映画化が進行中だそうだが,意外にもそれなりに楽しみである。なぜなら本作は「ワシントンDC観光名所を巡る旅」としては優秀で,場面のつなげ方と紹介の仕方という点ではよくできていたからだ。しかもこれだけ間延びした展開だから,映画にする上で脚本はおそらくばっさりとカットした部分が多くなり,逆に引き締まった展開になっていいかもしれない。『天使と悪魔』もローマの観光名所紹介ムービーとしては大変素晴らしかった一方,脚本がばっさりと切りすぎて原作の再構成という観点では落第であった。本作の映画がどうなるか,注目である。


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著者:ダン・ブラウン
出版:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-08-25)

ロスト・シンボル (中) (角川文庫)ロスト・シンボル (中) (角川文庫) [文庫]
著者:ダン・ブラウン
出版:角川書店(角川グループパブリッシング)
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ロスト・シンボル (下) (角川文庫)ロスト・シンボル (下) (角川文庫) [文庫]
著者:ダン・ブラウン
出版:角川書店(角川グループパブリッシング)
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2013年06月08日

咲関連の気になったもの(13年2月頃)

・【咲-Saki-】九州対決で新道寺と永水戦ったらどっちが勝つかな(ヒーローチャンネル)
→ ぶっちゃけ残り2つの席次第だとは思うし,さらに姫様の二度寝次第でランダム性が高い。その上で,何度かやったら勝率高そうなのは永水かな。
→ 検討とその理由。単純にそのままぶつけると,
先鋒:姫様ががんばればすばら先輩が飛ぶ一歩手前まで考えられる一方,二度寝がなければ良い勝負かも。すばら先輩は弱くはないけど,火力があるわけでもないので。
次鋒:なんとも普通な対決。柔軟に打てて上手そうなのは美子なので,若干有利かも。
中堅:ここは本編で活躍できなかった子同士の対決なので,なんとも。なんか持ってそうなのははるる,普通にうまそうなのは羊先輩。
副将:哩さんリザベし放題。一方はっちゃんは二回とも鬼門を達成しないと火力的に厳しい。ノーガードの殴り合いで残りの二校が大変なことに。
大将:ここもリザベーションキーと絶一門の壮絶な殴り合い。なんだかんだで霞さんが殴り勝ちそうな雰囲気はある。
→ 似たような妄想では,大阪対決とか。姫松と千里山なら千里山が勝つだろう。東京対決は臨海が未知数すぎていかんとも。
→ この4校で西日本最強決定戦やったらおもしろそう。それでもなんだかんだで”安定して”勝つのは千里山かなー。


・【徹底検証】風越はどうすれば勝てたのか(るびーとさふぁいあ)
→ 根本的な所ではコメ欄に出てる通り,そもそもメンバーがそろってないから無理で,しいて言えばフロントの怠慢だろう。より正確に言えば3年前のフロントの怠慢。和と久を特待生勧誘しておけばこんなことには。ただし,どうがんばっても勧誘できなかった可能性はあり,その場合は本当にどうしようもなかった,としか。
→ オーダー変えるだけで何とかしたいなら,先鋒と大将交換でキャップを衣にぶつけるならまだ戦えたかも。その場合,キャップが衣につぶされ,池田が純くんにつぶされ,より悲惨なことになる展開も,想像しうるわけだけど。これもコメント欄にある通り。
→ CIA1942さんが「類題「鶴賀はどうすれば勝てたのか」はもっと難問の予感。」とコメントしているが,確かにこれは難問。というか同様に無理,かなぁ……あれが攻勢限界で。しいて言えば先鋒:むっきー・次鋒:ワハハでやり過ごし,中堅:ゆみちんで部長と一ちゃんを抑え,副将:モモで稼ぎ,大将:かおりんで天変地異に期待……かな。


・青天井の長野決勝大将戦 〜卓に魔物は2人いる!!編〜(麻雀雑記あれこれ)
→ 青天井ルールの頭のおかしさがよくわかる記事。普段では絶対にやらないような計算で,見たことないような桁の点数が出てくるので,やってみるとなかなか楽しい。自分はこんときやりました。(→ハーベストタイムの実験をしてみた……はずだった ) 
→ 青天井だと翻数がどれだけ大きくなろうとも符が関係してくるので,実は青天井ルールだと咲さんがとんでもなく強い。13翻で80符は反則でしょう。


・当ブログは亦野さんを応援しております(迷子の坊やのみちくさ日記)
→ 亦野さんは決して弱くない,という検証は多いが,ここも説得力のある論考の一つ。
→ 本文中の「副将戦の結果ほどこの4人の実力は離れていません。ただ、全てが亦野さんに悪い方に流れてしまっていたんです。」や,コメント欄の「2回戦の玄ちゃんと同じ目」というのがしっくり来る。相性と運気により実力差以上の差が出てしまう。
→ 逆パターンが準決勝の怜さん。照が圧倒的過ぎて残り2校と実力差より僅差で終わってしまった。この辺は麻雀の運の要素が強い部分と,4人競技ということの特性だと思う。
→ この麻雀の特性をチーム戦と重ねることで点数調整を自然にしたのは咲の発明かなと。それでも阿知賀編の準決勝は変動が激しすぎたとは思うが。

  
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2013年06月07日

ビッグサイトをさらにビッグに

・東京ビッグサイトは「世界で68位」:安倍首相も注目の「展示場問題」と見本市ビジネス(WIRED.jp)
→ つまりコミケ会場が広がる可能性が微レ存……?
→ 真面目な話,広い広いと言われつつ,今のコミケの規模を考えると正直手狭で,拡張して欲しい気はする。サークル詰め詰めなので人口密度がひどいし,それでなくても落選するサークルは大勢いるわけで,コミケ的には広いに越したことはないのではないか。まっとうな博覧会でも役に立つなら尚更。
→ ビッグサイトの拡張性について疑義を呈するコメントもあったが,埋め立てて東駐車場の面積を二倍にした実績があるので,まだ行けるんじゃないかと。というかそもそもあの駐車場,コミケの待機列以外で埋まったの見たことないので,ひとまず東駐車場の手前側をつぶして東789を作れば大きく拡張できるはず。まだまだ行けるって。


・Internet Explorer 6
→ これを使った画面を塗りつぶす遊びは誰もが通る道ではないか。かく言う私もやりましたがな。IE9(現在)では見なくなったなぁ。


・フルプライスエロゲの平均プレイ時間は1本あたり20時間(spring efemeral)
→ やっぱり大して変わってない。長くなってなんていないわけだ。自分の実感としても30時間を超えるとこのエロゲ長いなーとか考えだす。あと,20時間前後でも長いなーと感じるものについては単純につまらない,のでは。
→ こういうのをすぱっとデータで出してくれる人がいると,批評をする側としてはとても助かる。


・ケニアに明の「永楽通宝」 米研究者が発見(47NEWS)
→ 鄭和がいたし,当時のムスリム商人の活動領域を考えるに何も驚かない。鄭和がいたのは600年前で,今回発見された永楽通宝もその時代。
→ もっと言えば,さらに古い時代から東西交易は発達していたわけで。オケオの事例って案外と知られてないのか。ベトナム南部のオケオの遺跡からは,2世紀頃のものと見られるローマの金貨が発掘されている。無論,ローマのギリシア商人ではなくて,インド商人あたりが持ち込んだのではないかとされている。
→ 東西交易(交渉)史は超ロングスパンで見れば中継貿易の回数減少・直接貿易への変化の歴史であって,だからこそその先に「ヨーロッパ人が”直接”商品を取りに行く」大航海時代があった。インド洋の航路自体は,ムスリム商人の商業網に乗ったに過ぎない。鄭和自身もムスリムである。もっとも,彼の出自は沿岸部ではなく,雲南地方なのではあるが。
→ 別記事を見ると,この47NEWSの一ヶ月半前にはすでに報道があり,かつそちらでは鄭和の遠征が指摘されていた。なぜに47NEWSは省いたのか,疑問である。


・287円のお碗、実は北宋の名磁器 NY、2億円で落札(朝日新聞)
→ 北宋代と古く,かつ模様が希少なものなので値が跳ね上がったようだ。
→ が,写真では状態が良いものとは思えないし,模様も特に独創的には見えないので,200万ドルを超えるような美品とは思えない。類似品なら無数にありそうな文様なので,真に「古くて希少」かは疑問が残る鑑定である。
→ 個人的には,歴史的価値が必ずしも美的価値ならずの一例として受け取りたい。


・【画像】日本で一番人口の少ない村がある、ファンタジーのような島、青ヶ島 写真12枚(小太郎ぶろぐ)
→ ドラクエによくある「空飛ぶ系の乗り物じゃないと行けない場所」。こんな場所本当にあるんだなぁ。しかも日本に。
  
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2013年06月06日

トーテンインゼル本郷

・韓国の僧侶ら、対馬を訪問 盗難被害の寺に別の仏像持参(朝日新聞)
→ これいまだに解決していないのが驚きなんだが。もう半年くらい経ってないか。
→ 某人も言っていたが,いい加減韓国政府の動きが遅すぎる。寺の僧侶や司法が暴走してるんだから,政府でなんとかせいよ。韓国人の側でも常識的な判断をしている人はいるのだから,暴走している連中に引きずられていてはいけない。政府の冷静な判断に期待したい……


・なぜ誰も「かわいい女の子」ではなく「かわいい子猫」になりたいと言わないのか(Ohnoblog 2 )
→ こういう文脈なら「女の子」より「猫」だと思う。おそらく,結局なりたいのはイデア的な少女であって,現実の少女ではないので。自信やら羨望は不要である。他者からの視線は関係なくて,自分が自分から見てかわいければそれでよい存在にはなりたいのだと思う。”愛されているから”かわいいものになりたいわけではない。愛されなくたってよいのだ。この点を見誤ると,オタク分析として的を外すのではないか。
→ しかも,実際なりたいかどうかと言われると,割りと個人差はあり,なりたい先も異なるだろう。たとえば私は自身に女装癖的なものは全くなく,男性としての自分も好きだが,それはそれとして二次元美少女になら転生したい。一方,私の友人にはやたらと女装したがる奴もいるし,そもそもこんなしちめんどくさいこと自体全く考えていない奴もいる。


・#美術史用語の後に地名つけると住むのを躊躇するマンション(Togetter)
・【美術】 美術史用語の後に地名つけると住むのを躊躇するマンション 【画像大量】(NAVERまとめ)
→ NAVERまとめのほうは画像つき。
→ 「一木造堀田」「トロンプ=ルイユ麻布十番」「デペイズマン下北沢」「ヴァニタス渋谷」あたりが好き。いかにも住みたくない(いろんな意味で)マンションばかりである。ヴァニタス渋谷なんて幽霊屋敷になってそうな。多分なんか出る。


・「文章力」とかいう正体不明の存在を身に付けようとする前に(不倒城)
→ よく言われるのは後者の「整理・構成力」の方かなと。わかりやすく,論理展開の追いやすい文章を書く能力。字数制限下で書く訓練すると伸ばしやすいと思う。
→ 美文を書くのはまた全然別のジャンルの話かな。というよりも,美文は価値観にもよるので,ところ変われば悪文と言われたりするので。わかりやすければいいというもんでもないものを求められることがある。場合と状況にあった文章を書きましょう,というのが当たり障りの無い結論かもしれない。
  
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