
画家として名声を確立してからもパリ,ローマ,そして終の棲家となったスイスのグラン・シャレと三箇所に移り住んでいる。ただし,ローマへの移住については時のド・ゴール政権の文化大臣アンドレ・マルローの指名でローマのアカデミー・ド・フランス館長に就任したためであり,「フランス人」としてのアイデンティティが無かったわけではないことがうかがえる。また,スイスのグラン・シャレは自らが終の棲家と定めた場所で,実際に亡くなるまでの最後の25年間ほどはほとんどここから動かなかった。根無し草は晩年に至って腰を落ち着けたというわけだ。
バルテュスの絵は「室内に猫と少女」というパターンが非常に特徴的である。この少女の描写がロリコン的にどストライクである。それも本来的な意味で。幼児でも成熟した女性でもない,成長途中の少女に漂うエロティシズムがバルテュス作品の強い魅力である。もちろんただエロいだけじゃこれほど芸術作品として高い評価を受けないわけだが,バルテュスはうまいこと洗練させて,あくまで「都会の少女」を描くことに成功していると思う。成長することへの困惑と恥じらい,一方で自らの美しさ・若さから湧き出る自信,残る子供としてのあどけなさ。結果的にバルテュスの少女は原義的なロリータに近い雰囲気があると思う。特に代表作《夢見るテレーズ》(今回の画像)は絶妙なパンモロと若干不機嫌そうな顔,細いが健康的にスラリと伸びた手足,無邪気な猫と,画面の全てがそれを表現するのに成功している。さらに言えばポーズが幾何学的でややのっぺりとした色の塗り方は画面に緊張感を与え,ちょっと怖い・非現実的な印象を与えているのも少女性を描く上での計算の内だろう。特にポーズの幾何学性にはバルテュスはかなりこだわりがあったらしく,今回の展覧会のキャプションでも相当強調されていた。
ここら辺が「ただのロリコンじゃないか」という誤解が誤解である所以で,ちょうどナボコフにもあてはまるところだろう。本展覧会の謳い文句が「称賛と誤解だらけの,20世紀最後の巨匠」となっているのもそれを受けてのことだ。ただし,バルテュスもこの誤解をあえて利用していた節もある。というのも,バルテュスはある一つのとんでもなく大きなタブーを犯しているからだ。西洋絵画は通常女性器(と陰毛)を描かずにごまかすのだが,バルテュスは堂々と描いてそのタブー破った。女性器を描かずに股間はのっぺりさせることで,「これは理想化された身体であって現実の身体ではない,よって猥雑ではない」という言い訳をしてきた伝統があった。無論,そのような「理想化された身体」論に対する反発はすでに前世紀のクールベやマネが行っており,特にクールベには《世界の起源》(リンク先注意)という傑作がある。しかし,この二人が描いたのは成熟した女性であるし,マネはアカデミーでの名声を勝ち得るという目的上過度に猥雑になることは避けていた。しかし,バルテュスの場合は単にタブーを破っただけでなく,少女なんだから無毛だろうと筋一本という筋金入り。たとえばこんなんだが,リンク先自己責任でお願いしたい。なお,バルテュスはこれについて「若くてお金がなかった 生きるため 仕方なかった」というどこかで聞いたことのあるフレーズで言い訳をしていた。要するに芸術上の目的があったというよりは,スキャンダルを起こして名前を売りたかったらしい。事実,名声を得てからの作品では伝統に則ってごまかしている。しかし,誤解への悪影響から言ってトータルではマイナス効果だったのでは。
さて,バルテュスについて本展覧会のキャプションでは「どこの流派にも属さない」と書いてあったが,あえて言えば,私はエコール・ド・パリに入ると思う。エコール・ド・パリは20世紀前半の運動であるから時代が違うというのであれば,その第二世代と言っても良いし,藤田嗣治らの活躍年代を考えると必ずしも重なっていないわけでもないと思う。近代都市の景観を題材としていること,ポスト印象派以後の写実性にこだわらない具象画等の要素は強くエコール・ド・パリに共通する。特に藤田嗣治やユトリロには近いと思うのだが,どうか。
なお,絵がジブリによく似ている某アニメ作品とは一切関係がない模様。