本件についての議論の要点は,『宇崎ちゃんは遊びたい!』という作品を初見時にどう読解するか,という点にあると思っている。ある人が「ある程度この種の作品を見慣れている人たち(主にオタクと呼ばれるような)なら,仮に『宇崎ちゃん』という作品を全く知らなくても,この3巻の表紙を見たら,まあ大体『高木さん』とか『長瀞さん』とかの,あの系統の作品なんだなという想像がつく」と書いていて,それに完全に同意する。そう,文脈がわかる人には,乳袋表現はあくまでヒロインをかわいく見せる一つのテクニックでしかなく,そこが作品全体の主要ではないことに容易に察しがつくのである。(※)
しかし,そうした文脈を読む力が一切ない人がこの絵を見たとして,これだけの解釈ができるかどうか考えてみると,まあ無理かろうなと思う。どう見ても絵の中央にやけに強調した胸が鎮座し,注射針が怖い男性を見下して煽っているかのようなセリフまで付いている。作品内容を想像する段階には全く至らない。してみると,文脈を読める人には「自分では読んでない作品だけど,なんかコラボしてるんだな。日赤さんはコミケにも毎回来てるし熱心だな」という話になるが,読めない人には「エロで献血者を釣っている! けしからん!」という話になる。より正確に言えば「女性には身体的特徴にしか価値が無いという風潮を強めることになるような広告は不適切であり,特に献血のような公共性が高いものにはふさわしくない」という辺りが,批判者の意見を総合したものになろう。
さて,少なくとも私はこの批判のロジック自体は反対ではない。男性中心の社会が女性をそうした地位に不当に押し込めてきたのは事実である。商品内容と無関係に過剰に性的な意味合いのある広告はそういう価値観が込められているというのは否定しがたいと思われ,またフェミニズムの運動によってそうした広告が社会から消えていったという時代の流れもあり,それは大変良いことである。私以外の広告の擁護派でも,程度の差はあれど,少なからぬ人が似たようなスタンスであると思う。だから,批判派の方々は理由を求められるとその都度繰り返し「なぜ女性の身体的特徴を前面に押し出した広告はダメなのか」ということを説明していたが,あれは半ば暖簾に腕押しである。極端な表現の自由原則論者と純粋なミソジニスト以外は,そんなことはわかっているし,そこを戦場にしたいわけではない。意見が極端で多弁な人ほど目立つというTwitterの法則でそう見えているだけで,極端な表現の自由原則論者は実際にはそこまで多くないとも思われる。
であるからして,私が批判派に反発しているのは,『宇崎ちゃん』が”そういう作品ではない”し,今回のポスターは”そういう広告ではない”からである。もちろん,宇崎花の胸が大きいのは彼女の魅力の一つである。しかし,献血に行く『宇崎ちゃん』ファンがクリアファイルを欲しいのは,宇崎花が巨乳であるからではなくて,宇崎花というキャラが好きだから,『宇崎ちゃん』という作品のファンだからに他ならない。こうして見ると,かえって批判派の方が宇崎ちゃんを巨乳としか見ていないようにさえ思われる。なんとも「非実在青少年」なる概念を思い出すところだが,あの時とは批判派の中身がそっくり変わってしまった。ともあれ,あの時とは逆に擁護派は,宇崎花とは巨乳に付随する人体ではなく,先輩にかまってほしくてしょうがない豊かな感情と表情を持つ女の子であるということを主張していかなけばならないのである。
そういえば議論の中で批判派の方が「乳袋表現を使っておいて『これはエロ表現ではない』等というのはカマトトぶっている」ということを言っていたが,以上の説明でカマトトぶっているわけではないのを理解してもらえるだろうか。乳袋表現そのものは性的な強調であるが,本ポスター上の意図は必ずしも性的な強調ではない。これは宇崎花のアイデンティティの一つなのであり,ある種彼女のウザさの象徴であり,表紙絵だから普段の作中よりも際立って表現されているに過ぎない。”巨乳そのもの”として観察するのが誤りである。文脈とはかくも複雑なのだ。
ここまでまとめたところで,改めて本件の議論について考えると,「擁護派はどこまで我々の,オタクの文脈の読解を世間に求めてよいか」というところに行き着くように思われる。これは本当に私の雑感にすぎないのだが,私は『宇崎ちゃん』は世間様にご理解いただくには”まだ”文脈が深すぎたと思っている。その意味で譲歩しうるポイントはあったのではないかとも。それがいつか理解されるものなのか,それとも半永久的に理解されないのかはわからないが,希望は常に持っていたい。
そして批判派の皆さんには「萌え絵とオタク文化がすでにある程度世間に浸透してしまっている」という現実と,「現代の萌え絵はそれ絵柄自体が即座に女性への抑圧を表象するものではない。また,批評には個々に読解が必要。」という事実を,さすがにそろそろ受け入れてもらいたいと思っている(これはキズナアイバッシング騒動の時にも指摘されていた)。それが議論のスタートラインであって,それが受け入れてもらえないなら,騒動のたびに不毛な議論を繰り返すことになろう。なお,「批判派は,実は単なる萌え絵フォビアなのではないか」という話については,おそらくフォビアになった理由が「萌え絵はそれ自体,女性への抑圧を表象するもの」という思い込みにあると推測されるので,擁護派がこれを一概にいわゆるお気持ち表明として切り捨てるのは正しくないように思われる。そこで断絶して擁護派が得るものあるのかを考えたい。 続きを読む