久々の高校世界史深堀りシリーズ。先日Twitterでこんなアンケートを取った。回答してくれた方々はありがとうございます。
正解は万国津梁の鐘の制作年が1458年なので,一番上の「1429年〜16世紀前半」が正しい。実際に琉球王国の最盛期はこの時期であるというのが一般的な認識であろう。後述の理由から正解者は少ないだろうと思っていたのでそこはあまり驚きがなかったのだが,こんなに綺麗に解答が割れたのは予想外だった。琉球王国の盛衰については,Call of Histroryさんの次の記事が詳しい。
・琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史(Call of History)
この記事にもある通り,琉球王国の繁栄の源泉は明朝との朝貢貿易を生かした中継貿易にあった。明朝の海禁政策下(民間貿易の原則禁止)において,海外需要の高かった中国の特産品(絹織物と生糸・陶磁器等)を朝貢貿易の形で大量に獲得し,転売した。代わって日本(硫黄や刀剣類)・朝鮮・東南アジア(香辛料・香木)から特産品を集めて朝貢を通じて中国に献上し,その見返りとしてまた大量の下賜を得る……琉球王国はこの繰り返しで莫大な収益を上げていた。こうした中国産品と諸外国の特産品の交換センターとなっていた琉球の生業を中継貿易と呼び,その繁栄の誇りを記したものが首里城正殿の鐘,その銘文から通称「万国津梁の鐘」と呼ばれているものだ。
しかし,こうした琉球王国の黄金期は16世紀初頭から状況の変化により崩れ去っていくことになる。明朝の国力が衰えたために海禁政策が弛緩し,東シナ海では後期倭寇による密貿易が活発になっていった。朝貢に頼らず,抜け道で中国産品が手に入るのであれば,琉球を頼る必要はなくなる。さらにポルトガルを筆頭にヨーロッパ船が出現し,高い航海能力と軍事力でこの密貿易に参入していった。1565年頃からは明朝自身が厳格な海禁政策を諦めて緩和し,民間貿易を黙認する方針に切り替えていった。こうして琉球は国際貿易の独占的地位から追い落とされ,1570年には東南アジアとの交易が途絶える。そうして琉球は日中間のみの中継地に変わり,その矢先に1609年の島津氏による侵攻と日中両属体制がある。
さて,なぜ突然こんな話を始めたかというと,
2020年の東大の世界史の入試問題でこれに関連する事項が問われたからである。
ありがたいことに最近は公式が問題を発表してくれている(pdf注意,p.14-15)。
第1問,問題の要旨は「15〜19世紀末までの冊封体制のあり方と近代における変容」で,追加の条件として事例のうちベトナムと朝鮮を中心にすること,6つの指定語句を必ず使うこと,そして史料A〜Cに論拠の形で必ず言及することの3つがある。問題全体の解説は本記事の本旨ではないので省くが,このうち最後の「史料を論拠として使わせる」のは東大入試で初めての試みであった。このうち史料Aは朝鮮王朝の小中華意識の論拠に,史料Bはベトナムの阮朝がフランスの侵略を受けた時期であってもなお冊封体制を遵守しようとしたことの論拠に使える。そして
史料Cは万国津梁の鐘の銘文である。この銘文に見覚えがある受験生は少なかろうが,これは知識を試しているものではない。むしろ知らなくても,一読して琉球王国の最盛期の中継貿易を描写したものと気付けるかどうかを試しているのだ。あまりにも理念先行だった明朝前半の冊封体制が生んだ特異点として琉球王国があり,その論拠に用意されたのが史料Cである。琉球王国の衰退は,理念先行だった明朝の冊封体制が現実的な形に落ち着いていく歴史の一端であり,上手く使えば解答上のアクセントになる。
しかし,この入試問題は思わぬ受験世界史の盲点を掘り起こすことになる。
受験生も教える側も大して琉球王国の中継貿易に詳しくないということである。東大入試の分析は需要が大きいので大手の予備校からすでに様々なデータが出ているが,それらを参照するに,
受験生の多くは1609年の日中両属以降を琉球王国の最盛期と捉え,史料Cをその論拠に用いたということが推測されている(予備校各社の分析が間違いでなければ)。Twitterアンケートでいうと上から三番目である。作題者もここで躓かれるというのは想定外だったのではないか。
どころか,
指導者側が発表しているネット上の解答でもこの史料Cは受験生と同じ誤りを犯したものが多く,むしろ三大予備校の解答以外では正しく使えているものの方が少ないと思われる(一つだけ名指ししておくと,東進さんは解答が修正されており,公開直後は上述の間違いをしていた)。これは大変な手抜きである。受験生が間違えるのはしょうがない。しかし,受験会場の外ではどれだけでも調べようがある。あるいは,調べた上で,16世紀半ば以前・以後の差異が本問の解答上必要であると認識しなかった可能性もある。
冒頭のTwitter上のアンケートはこの受験生の解答状況や塾・予備校の解答速報と,普通の大人との差異があるかどうかを調べたかったのでとらせてもらったものだ。結果はさして変わらないということが判明して有意義であった。なお,普通の大人として,このアンケートに誤答するのは誇れないにせよそこまで恥じるべきものでもない。ちょっと奇妙な仮定になるが,仮に高校以降に得た知識を脳内から消去して,義務教育レベルの歴史の知識とイメージだけで回答しろと言われたら,私も一番上はちょっと選べない(上から二番目を選ぶと思う)。一般教養の問題としては割と難しい部類に入るのではないか。
このような状況を前にして,そういえばそもそも高校世界史の教科書・用語集・資料集の表現はどうなっているのだろうかということが気になりだした。義務教育の段階では触れないか,触れても薄いと思われるので,高校世界史でやらないのなら,1609年以前以後の判断は受験生には不可能である。同時に本問も,例の企画で言うところの「範囲外の難問」ということになり,無理な要求だったということになる。
ということでいつもの比較である……のだが,実は面白みの無い結果に終わった。受験用世界史Bの教科書5冊のうち,山川の『新世界史』を除く4冊はほぼ横並びで同じ記述であったからだ。以下に一応書き並べる。(非受験用Bの2冊とAは需要があるなら後で調べて追記します)
【山川出版社『詳説世界史』】
◯「琉球が15世紀に明との朝貢貿易を活用した中継貿易で繁栄した」という記述あり。
◯一方,衰退過程については記述なし。次に登場するのは島津氏の侵攻。
【山川出版社『新世界史』】
◯本文の記述は概ね『詳説』と同じ。
◯ただし,コラムで「琉球とマラッカ」の枠が大きくとられていて,琉球もマラッカもポルトガルの出現や明の朝貢体制の弛緩で衰退したことが詳述されている。このコラム中でポルトガルや後期倭寇の出現は,海上交易に軍事力が必要になる時代の到来だったこと,そして「琉球やマラッカのような小国は,そのなかで自立して生きていくのが困難だった」と指摘しており,これは名文と言っていい。
【東京書籍『世界史B』】
◯概ねは山川の『詳説』と同じ。
◯15世紀の繁栄の記述は詳しく,「那覇港に多くの福建系中国人が移住」「那覇は首里の外港として繁栄」という記述もある。
◯コラムで「江戸幕府は,琉球を通じて明との国交回復を図った」という記述があり,このコラムは面白い。
【実教出版『世界史B』】
◯これも盛衰の記述は概ねは山川の『詳説』と同じ。日本史の記述がかなり厚いことに特徴がある教科書なだけに,やや意外である。
◯一応,教科書上15〜17世紀のユーラシアを「第二次大交易時代」と定義した上で,「その前半の主役は,琉球とマラッカ」という書き方をしているから,後半には主役ではなかったという読みは一応可能である。明示的とは言えないが。
【帝国書院『新詳世界史』】
◯こういう時に新鮮な記述が多い帝国書院ではあるが,今回は山川『詳説』と大差の無い内容。
◯那覇港と福建系中国人に言及がある点は東京書籍に似ている。
この状況を加味して東大の問題に戻ると,史料Cを15世紀の琉球王国の中継貿易の論拠として使うことを要求するのは,範囲内の出題として適正と言えよう。それ自体はいずれの教科書にも記述があるのだから。しかし,
教科書が琉球王国の衰退を明示していないために,1609年を過ぎても琉球はまだ15世紀と同じ繁栄をしているという勘違いが受験生に広がっていたというのは,教科書執筆者の皆さんも,東大の作題者の方も,全くの想定外だったのではないだろうか。各教科書会社には,琉球の衰退にも触れるのをお勧めしたい。
ここで一種の種明かしになるのだが,この東大世界史の第1問の作題者は
川島真氏と推定されており,川島先生は東京書籍『世界史B』の執筆者の一人である。ただし,実際に彼が書いたのは近現代の東アジア史の部分と思われ,前近代は佐川英治氏が書いたと推測される。自分の専門領域以外の部分にどの程度かかわれるかは教科書会社によって異なるらしいのでなんとも言えないが,少なくとも東京書籍の琉球の15世紀の繁栄の詳しい記述を読むに,「史料Cを用意してあげれば,琉球王国の繁栄へのヒントは十分だろう」と判断するのは納得できる。もっとも,上述のような勘違いが蔓延しているなんてことは想定していなかっただろうが。
また,教科書の記述がこうなのであれば,受験生の側にも過失があると言わざるをえないと思う。
教科書を”素直に”読むというのは学ぶ者の態度として重要であり,素直な理解があれば,解答作成中に「そういえば16世紀の琉球王国って習った覚えがない」ということに気づき,知らないことは解答に書かないことにすれば,史料Cと島津氏の侵攻を結びつけるという愚行には至らないはずである。
なお,もののついでで日本史も調べてみたが,世界史と記述に大差は無かった。資料集のレベルだと万国津梁の鐘の銘文が記載されていたり,東南アジアとの貿易は1570年を最後に途絶したという説明がされていたりするものもあったので,そこまで見れば世界史よりややマシな状況かもしれない。現代史における沖縄県の立場を考えると,記述が薄いのは日本史の方が問題なのではないか。