2020年07月30日

「イギリス農業革命」の記事の落ち穂拾い

はてブでめちゃくちゃ反応があって,「この記事そんなに伸びる要素あったっけかな」と思いつつ,ブコメを読んでいくつか記事の補足をしておく。

>骨肥料の誕生と刃物産業の関わりの伝承はナイフ好きには分かりやすいがほとんどの人にはわかりにくい。
骨肥料と刃物産業の関わりの逸話はこれに記載がある。このコメントは,本記事に「農業革命とは,狭義には農業技術の革新である。細かく言えば農具の改良や土壌改良手法の確立等もあいまって全般的に改良されたようなのだが」と書いたのを補足していくれていて助かる。実際に骨粉を撒いての土壌改良は18世紀の農業技術の革新の一つで,19世紀に骨粉が供給していたのはリンと特定されて,帝国主義時代の欧米諸国はリン鉱石と「海鳥の糞」を求めて世界中を駆け回ることになる。

それはそれとして,牛骨の利用というと個人的にはやはりボーンチャイナを連想するところで,18世紀のイギリス人の牛骨活用がすごい。


>一方日本史では肥料の変遷を割と細かく教える印象があるなあと
これは思った。刈敷→草木灰→下肥(・畜糞)→金肥と変遷するのを習うのに,世界史は全然やらない。各地域の農業をそこまで深追いする必要はないとして,窒素・リンの発見から化学肥料の登場くらいはやってもよいと思わなくもない。ところで,金肥のうちの干鰯も言ってみれば「魚骨粉」ではあって,牛骨の利用とは不思議と似通うところはあるなと思った。


> 窒素肥料はハーバーボッシュ法で上書きされるから……(震え声)
本人に聞いたところ,世界人口の急増に影響を与えた発見としては,近代農業の出発点に過ぎないノーフォーク農法よりも,その後の化学肥料の発展の方が大きいのではないか,という指摘とのこと。これはこれで一理あり。その意味ではハーバー・ボッシュ法が高校世界史で登場しない,化学肥料が登場するのは「緑の革命」までお預け(しかも緑の革命は用語集頻度,任曚椣靴錣譴覆ぁ砲箸いΔ里魯丱薀鵐垢悪い。近年の高校世界史の用語削減運動も考慮すると,追加でハーバー・ボッシュ法か化学肥料のどちらかくらいは追加で入れましょうとも言いづらく,かと言って産業革命との縁が切れたとしても混合農業の出発点としては歴史的意義が残る輪作農法をバーターで消しましょうとも言いづらく,なんとも難しい。

>ハーバーボッシュ法による人口爆発の前史としてノーフォーク農法による窒素固定があったというのは普通に興味深いし世界史を学ぶ醍醐味でしょう
こういうコメントもあったわけで,ノーフォーク農法からハーバー・ボッシュ法までつなげて教えられると本当は一番良いのだろうけども……


>高校教師が社会科の教科書一式を持ったまま異世界転移して知識チートするなろう作品がいくつかあってもいいと思う
確かに主人公が現代日本にある有用な知識を多く持っている理由付けとしては便利そう。ただ,一歩間違えると「じゃがいもで何でも解決!」みたいな薄っぺらいストーリーになりそう……


> “ノーフォーク農法” ははーんFork(ピッチフォーク)を使わない農法で四輪作を実現したからno-forkなんやなとブコメしようとしたところNorfolkで無事死亡
個人的にはこういうダジャレ大好きです。


> 1820→1850の人口増加はポテト飢饉でアイルランド難民が大量流入したの原因の一つだったりしねえのかな。1840年から10年間の欧州ではアイルランドだけ150万人くらい人口減ってるんだよね。
良いところに気づいているけど,ジャガイモ飢饉で減少したアイルランド人口のうち,100万人以上は死亡,100万人以上はアメリカ合衆国に移住したとされていて,イギリスへの移住はこの二つに比べると多くない。


>移民を無視して良いなら都市と農村それぞれの自然増加率がわかれば社会増加率もわかりそうだけど、この時代だと難しいのかな(自然増加率が同じ前提なら移動後の子孫も含めて300万人程度の移動があったと推定される)。
人口歴史学の実証的な研究では間違いなくあると思う。下手したら「○○州の△△村出身のウィリアムさんは,20歳で村を出てバーミンガムに移住し,現地で別の村から来たメアリーさんと22歳の時に結婚,ヘンリー・リチャード・アンの三人の子供に恵まれたが,35歳で亡くなった」という個人レベルで動向を追う研究がありそう。それはそれとして言うなら,近世の大都市はロンドンでも江戸でもそうだがだいたい住環境が劣悪で,めちゃくちゃ平均寿命が短いので,自然増加率が農村と同じということはまずありえない。基本的に農村の自然増加率が高く,都市は社会増加率が高いと考えて間違いない。  

Posted by dg_law at 23:14Comments(5)

2020年07月27日

イギリス農業革命と産業革命を,高校世界史でどう説明するか

高校世界史深掘りシリーズ。またしても経済史になるが,こういうネタは経済史の方が拾いやすいというのはある。18世紀後半から19世紀前半にかけて,イギリスでは産業革命が起きているが,その前段階として農業革命も起きている。

農業革命とは,狭義には農業技術の革新である。細かく言えば農具の改良や土壌改良手法の確立等もあいまって全般的に改良されたようなのだが,高校世界史上でも取り上げられる最大の革新は,三圃制農業が四輪作農法(ノーフォーク農法)に切り替わったことであった。すなわち,輪作の周期に窒素固定を行うマメ科の植物(の根粒菌)を入れることで地力の回復を早めつつ,家畜用作物も生産することができるようになった。これによって休耕地が消滅し,穀物が増産され,同時に畜産物の肥育も容易になった。近代的混合農業の始まりである。

こうした農法の切り替わりは農村のあり方に波及することになる。イギリスの農村ではそれまで,自作農たちの耕地を共有地として,共有地に柵を設けない開放耕地制と,それによる共同体的・集団的農業が営まれていた。しかし,ノーフォーク農法が伝播すると,この新農法を導入したい一部の有力農民は,地主と組んで耕地を”柵で囲い込み”,他の農民を耕地から追い出して大農場を形成した。これにより開放耕地制と共同体的農業は崩壊し,多くの自作農は失地農民となる。一方,有力農民は農業資本家に転身し,地主から大農場を借り受けて企業的に経営し,地主と利潤を分かち合うようになった。この柵の設置による農地の集積を第2次囲い込みと呼び,企業的農場経営の誕生を農業の資本主義化と呼ぶ。広義の農業革命は,この第2次囲い込みと農業の資本主義化を含む。コトバンクにあった画像が非常にわかりやすかったのでリンクしておく。第2次囲い込みを図示すると,まさにこうなるだろう。


さて,この「第二次囲い込みによって生じた失地農民はどこに行ったのか」というのが今回の論点である。従来の説では「失地農民は都市に移動して工業労働者となり,産業革命に労働力を供給した」とされてきた。事実として,産業革命期(18世紀後半〜19世紀前半)のイギリスは全人口に占める農村人口の割合は減少し,都市人口の割合が高まっている。都市化が急速に進んだのが統計から読み取れるのである。

しかし,近年ではこの失地農民移動説は半ば否定されている。まず,農業革命期のイギリスは食糧の増産と輸入が進んだことで飢饉が激減し,人口爆発が起きている。1750年頃に約600万人だったイングランドの全人口は,1800年頃に約860万人,1820年頃のうちに1200万人を超え,1850年頃には1600万人を突破していたというのだから増え方が尋常ではない。このうちの農村人口は,1750年頃には約260万人,1800年頃には約310万人,1850年頃には約380万人と見積もられているから,なんと農業革命期には農村人口も増加している。旧説の通りなら,減少していなければおかしいはずである。理屈があわない。ただし,計算してみるとわかるが,全人口に占める農村人口”の割合”は急減していて,都市化自体は間違いなく生じていることもわかる。

しかし,失地農民が都市に移動したわけではないのなら,2つの疑問点が生じることになる。まず,失地農民はどこに行ったのか。次に,失地農民が工業労働力に転化したわけではないのなら,産業革命の労働力はどこから供給されたのか。

これを解く鍵となるものとして,農業革命は一人あたり・土地面積あたりの生産量を向上させているものの,道具が機械化したわけではないという意外と見落とされがちだった点が指摘される。つまり,農業革命では農作業は手作業のままで,農村の労働需要が減らなかったのである。したがって,失地農民の大半が都市に移住したとするなら農村は労働力不足に陥るはずであるが,歴史上そういった現象は起きていない。すなわち近年支持されている学説では,まず「失地農民はどこに行ったのか」という問いについては「そのまま農村に残って,農業に従事する賃金労働者になった」という解答が,そして「産業革命の労働力はどこから供給されたのか」という問いに対しては「起きた人口爆発による増加分が,そのまま工業労働力になった」という解答が出されている。農村では長男が父からそのまま農業労働者の仕事を引き継ぎ,就労機会の無かった農家の次男坊・三男坊が都市に移住し,彼らが工場に就職したのだ。農業革命で増産された食糧は都市に供給されて,都市化を支えることになった。


しかし,実はさらにこれをひっくり返す議論がある。農業革命で食糧が増産されたとして,人口の増加に本当に直結するか,という点を疑うのである。確かに,増産した食糧を国内消費せず,輸出にまわしてもよいわけである。何より食糧増産に比例して人口が増加すれば一人あたりの収入は増加しない,マルサスの罠を考えれば減少すら起こりうる。人はパンのみによって生きるにあらず。事実,マルサスの罠による一人あたりの収入の減少は,前近代社会の人口抑制要素として働いてきた。食糧増産が即座に人口増加を呼んだという推論自体が短絡的なのである。

では人口増加が起きた理由は何か。それは産業革命によってGDPが上昇し,就労機会が大きく増加したことそのものに求められる。前近代の工業はエネルギー源が水力と森林(薪)にしか求められなかったために,拡張性が低く,それほどGDPに寄与してこなかった。産業革命は化石エネルギーを採用したことでこれを突破し,工業部門が多くの労働力を養うことできるようになった。産業革命の労働力を創出する人口増加を達成した要因は,産業革命そのものであるという身も蓋もないトートロジー的な理屈が成り立ってしまうのだ。この観点で言えば,農業革命は都市人口の増加によって生まれた新たな食料需要に引っ張られて産業革命と並走したということはできるが,必ずしも産業革命の前提として必要な現象だったとまでは言えなくなってしまう。極論,農業革命は偶然にも時期が少し先行したに過ぎず,都市化による穀物需要増が生じなければ大きな歴史的意義を持たなかったとさえ言えるだろう。この議論では,農業革命により生じた失地農民の行き先はさしたる論点にはならない。


では,現行の高校世界史の教科書・用語集はいずれの説をとっているだろうか。いつもの5冊と山川の用語集を比較検討してみよう。

《新説寄りの両論併記》
・東京書籍:「西ヨーロッパでは,18世紀前半には休耕地を設けない輪作法など新農法が普及して農業生産力が増大し,家畜の品種改良ともあいまって食糧事情は好転した(農業革命)。(中略)こうした好条件のなかで,ヨーロッパ諸国の人口は持続的な増加局面に入った。人口の増加が穀物の需要を高めると,イギリスでは,大地主が村の共用地や小作地を囲いこんで大農場とし(第2次囲いこみ),市場向けの大規模な穀物生産が発展した。小農や小作農は自分たちの農地や仕事を失い,大農場で農業労働者となるか,都市へ移住して工業化を支える工場労働者となった。(中略)農村の余剰人口が工業労働力を準備する一方,マニュファクチュアによる時計工業などの飛躍的な発展が,精密な機械をつくる技術を用意した。
(欄外)18世紀には三圃制をやめ,根菜や牧草栽培で家畜をふやし,畜糞を肥料として穀物増産につなげる新農法(ノーフォーク農法)がすすみ,農機具も改良された。」
→ 経済に特化した教科書の面目躍如たる説明量と正確さである。一応は両論併記としたが,ほぼ新説に沿った説明になっている。特記事項としては,農業革命の定義が狭義の技術革新のみになっている。

・実教出版:「18世紀には,市場向け穀物増産を目的とした第2次囲いこみが大規模に行われ(注1),土地を失った農民が,人口増加のために仕事のない農民などとともに都市に流入して工業労働者となった。
(注1)この第二次囲い込みによって,休耕地をなくして牧草栽培で家畜を増やし,その糞を肥料として穀物増産を図る新農法(ノーフォーク農法)が普及して,農業生産が飛躍的に発展した(農業革命)。その結果,資本をもつ地主が農業労働者を雇って市場向け穀物生産をおこなう資本主義的大農場経営が確立し,独立自営農民の大部分は没落して労働者となった。」
→ 東京書籍に比べると表現が簡素だが,問題はないだろう。東京書籍の説明は情報量が多すぎるので,これくらい簡素な方が受験生は読みやすいかもしれない。また,ここも東京書籍と同じで農業革命の定義は狭義のものを採用しているのが興味深い。


《両論併記にしたかったのかな???》
・山川『詳説世界史』:「市場向け生産をめざす農業が発達し,産業革命期に急増する都市人口を支えた。大地主は中小農民の土地や村の共同地をあわせて大規模な農地をつくり(第2次囲い込み),すすんだ技術をもった農業資本家にこれを貸し出して経営させた(農業革命)。土地を失った農民は,農業労働者や都市の工業労働者となった。」
→ この記述はぐちゃぐちゃでひどいし,短すぎる。多分,元々は旧説をベースとした説明で,後から新説に対応するために「産業革命期に急増した都市人口を支えた」という説明を追加したものと思われるが,結果としてとんでもないことになっている。以下に理由を列挙しておく。あきらめてゼロベースで書き直すのを推奨したい。
○注を含めて,農業技術の革新・輪作農法の説明を一切していない。
○産業革命が先行して,農業革命は後発で起きたという時系列に読めてしまう。
○文脈が切れているせいで,農業革命が技術革新を含まず,第2次囲い込みと農業の資本主義化のみを指すように読める。また第2次囲い込みも含まず,農業の資本主義化のみを指しているようにも読める。

・山川『用語集』:農業革命「18世紀のイギリスにおける,農業技術や農業経営方式の変革。イギリスでは人口増加と穀物不足への対応が課題となったことから新たな農法が開発され,(中略)囲い込みにより土地を失った農民の多数が都市に流入して工場労働者となり産業革命を進展させた。」
→ 教科書の『詳説』ほど変ではないが,そのためにかえって旧説の印象が強い説明になっている。農業革命の定義が広義を採用していて,正確なのは好印象。


《旧説:失地農民移動説のみを採用???》
・帝国書院:「生産の中心が農業から工業に移り(注2),各地に商工業都市が生まれた。
(注2)第1次囲い込み(第1次農業革命)が,耕地を囲い込んで,牧場化を目指したのとは違って,17世紀以降の囲い込みは,改良された農法(ノーフォーク農法)を採用して穀物栽培の効率を上げることを目的とした。これを第2次囲い込み(第2次農業革命)という。囲い込みにより共有地がなくなったため,土地をもたない農民は家畜の放牧や燃料を得ることができず,自立した生活が難しくなり,多くは賃金労働者にならざるをえなかった。」
→ 新説大好きの帝国書院には珍しく,全然気合の入っていない記述内容で驚いた。記述の大半が注に回されていて,本文は1行しかない。注を読んでも農業革命と産業革命の関連は読み取りづらい。また帝国書院の記述も第2次囲い込みだけを指して農業革命と定義しているが,農業技術革新と農業の資本主義化はどこに……? 
→ ついでに言うと,「第1次/第2次農業革命」という言い回しは独特すぎて,ともすれば危うい。獲得経済から生産経済への転換を「(原始の)農業革命」と言ったりするので(『サピエンス全史』のいう農業革命はこちらのこと),ただでさえ用語の使い分けが面倒なので余分なことをするのはやめてほしい。そもそも第1次囲い込みは目的が牧羊なのだから"農業"革命ではないのでは? 


《産業革命自体が人口増加を生んだ説のみを採用》
・山川『新世界史』:「農村部では,輪作を中心とする新しい農法が導入されて生産性が高まったため,農業経営者が地主から土地を借りて営む市場向け穀物生産が広まるとともに,新農法の導入を容易にするための土地の集約(第2次囲い込み)が議会主導ですすめられた(農業革命)。
(中略)産業革命前の社会では,水力(水車)や木材(薪)がもちいられていた。そこでは,効率のよいエネルギー源が少ないため,人口が増加すると,効率の低いエネルギー源を利用せざるをえなくなり,生産費用が上昇して賃金の低下や物価の上昇が生じ,結果として人口の増加が抑制されるというメカニズムが働いていた。ところが,産業革命の過程で蒸気機関が発明され,当時としては無尽蔵な量が存在していた石炭などの化石燃料が利用できるようになると,人口が増えてエネルギー源の必要量が増加しても,効率の低いエネルギー源を利用する必要がなくなったため,人口の増加が賃金の上昇や物価の低下と両立可能になった。」
→ 本記事にわざわざ3つめの説を載せた理由はこれである。引用が長くなりすぎるので割愛したが,この前段で農業革命と産業革命が”並立して”語られているのも面白い。この説明は高校世界史の多様性を示すものとして貴重であり,個人的にはよくやってくれたと敬意を評したい。ただし,入試問題はほぼ旧説・新説から出るという実用面から言えば,教科書として死んでいる。どうせ発行部数が極端に少なくて受験生にはほとんど読まれていないから,開き直ったのかもしれない。
→ なお,5冊の教科書では唯一,広義の農業革命を採用していて,農業技術革新・農業の資本主義化・第2次囲い込みを全て含む正確な説明になっている。これも高く評価したい。


【まとめと感想】
今回は東京書籍の記述が最も良く,実教出版の記述も高校の教員が授業で補足するのを前提にすれば特に問題ないと思う。山川の『新世界史』は上述の通りで,個人的にはその潔さを買いたいが,それ以上の評価は難しい。一方,残りの2冊はどうしたんだよとしか言いようがない。君たちそれぞれ堅牢さと新説採用が売りじゃなかったの? 

もう一つ意外だったのは農業革命の定義がばらばらだったことで,広義と狭義に分かれているのは仕方がないと思える範囲だが,広義を採用して正確な説明をしている教科書がよりによって『新世界史』のみというのは厳しい。例によって『新世界史』・『用語集』と『詳説』で仲間割れが発生しているが,今回の仲間割れは流石に直してほしい。世界史が大好きな受験生は割と山川『詳説』と東京書籍・帝国書院,山川『用語集』の4冊を併用して勉強しているイメージがあるが,こと農業革命については大混乱なのでは。

最後に,山川は『詳説』も『新世界史』もノーフォーク農法の説明を徹底して避けている。事実,用語集の頻度は農業革命はА丙蚤腓А砲覆里紡个掘ぅ痢璽侫ーク農法はしかない。つまり,ノーフォーク農法を高校世界史で扱うべきか否かについて,教科書間で意見が割れているということである。以下は私見になるが,「ノーフォーク」という固有名詞は不要だと思うが輪作農法の説明自体は必要であると考えている。なぜなら,高校世界史とは現代の社会の姿を描くために必要な知識・理解を学ぶための科目という側面があり,ノーフォーク農法は現代のヨーロッパで行われている混合農業の出発点だからである。他科目との関連性で言えば,混合農業は地理Bで学習するし,マメ科植物と根粒菌は生物基礎で学習するので,その関連性が切れるのも惜しい(世界史履修者が生物基礎を履修しているとは限らないけど)。現代の人口爆発が窒素肥料に支えられていることを踏まえても輪作農法の用語に現代的価値は十分にあると思うのだが,どうも窒素肥料が軽視されている気がしてならないのである。  
Posted by dg_law at 08:00Comments(2)

2020年07月24日

大相撲の横綱・大関を世代で分析する

はてな匿名ダイアリー(通称増田)に次のような記事があった。
・将棋界の現時点での世代表
・2010年7月18日の世代表
・2000年7月18日の世代表

3つ並べてみると一目瞭然で「羽生世代のタイトル独占が20年に渡った結果,真上・真下の10年がタイトルホルダーになれず,非常に苦しんでいる」というのがよくわかる表になっている。大変に面白かったので,大相撲ではどうなるかを調べてみた。将棋と大相撲では,大相撲の方が競技寿命が短いという違いがあるものの,
・年間の主要タイトル数が6と7(8)でほぼ同じ
・個人競技であり,単発ならともかく,複数回のタイトル獲得には絶対王者を撃破する必要が生じる
・絶対王者でも年間タイトル完全制覇は困難で,半分から2/3くらいの支配にとどまる
・絶対王者が弱体化・引退すると,なぜか戦国時代は短くすぐに次の絶対王者が登場する
という全く同じ構造・性質を持つために,むしろ比較は非常にしやすい。

で,作る前からわかってはいたのだが,やはり大横綱が一人誕生すると,直下の世代は悲惨な目に遭っている。また,羽生世代が羽生善治一人ではなかったのと同様に,なぜか大横綱の生年の前後1年(計3年)にライバル的な横綱が出現し,世代で見ると向こう8〜10年ほどは完全制覇の様相になる。

まずは,直近の白鵬世代の支配から。なお,livedoorブログの仕様上,Excelデータが上手く貼れないので,画像でご勘弁を。はてなブログの方にちゃんとしたのを貼っておきます。

大相撲世代表(1980〜2000)


これはわかりやすく,真下の世代が完全に殺されている。少し上の朝青龍は時代が短かった。将棋の世代でいうところの「逆向きの渡辺明」と言えばいいのか,白鵬世代に一人で立ち向かったベテランという立ち位置と言った方がいい。そう考えると朝青龍の存在は稀有なもので,前後3年ほどに他の横綱・大関昇進者が全くおらず,完全に孤高の存在であった。不祥事で引退したのはかえすがえすも惜しい。

朝青龍が引退したことで,白鵬・日馬富士・鶴竜・稀勢の里の4人に誰も立ち向かえなくなってしまった。白鵬が横綱に昇進した2007年から稀勢の里と日馬富士が最後に優勝した2017年の11年間の65場所のうち,白鵬が39回,白鵬世代では53回優勝している。残りの12回のうち朝青龍が6回を占めているので,この5人以外での優勝がわずかに6場所しかなく,それも琴欧州・把瑠都・旭天鵬・照ノ富士・琴奨菊・豪栄道で1回ずつであるから,白鵬世代を大関に拡張して把瑠都・琴奨菊・豪栄道も入れるとさらに圧倒的な支配率になる。

一つ面白いのは,欄外に入れたように昭和61年生まれを「花のロクイチ組」と呼ぶが,期待に反して稀勢の里と豪栄道以外に大成しなかった。すでに散々書いてきたように,「花のロクイチ組」は少し手前に拡張して「白鵬世代」と呼んだ方が実態に適合する。今振り返ると,1・2年上の白鵬・日馬富士・鶴竜を無視して,なぜに民族的日本人だけでそうくくってしまったのか疑問である。以上のように白鵬世代の支配は10年以上にわたっているが,これは白鵬が歴史的に強い横綱であることに加えて,近年になって急速にスポーツ医学が大相撲に導入されていて,明らかに関取の現役寿命が伸びているために支配の延長されているという点は指摘しておきたい。白鵬世代はすでに35歳前後で,昔の大相撲ならとっくに引退している年齢だが,まだ白鵬と鶴竜と二人も残っている。琴欧州〜高安の大関陣では,琴欧州と把瑠都を除くと全員大関昇進が遅く,昔の現役寿命だったらまず無理だったという点も指摘しておきたい。試しに琴奨菊から高安までの4名の名前を消してみると,より白鵬世代支配の過酷さが実感できるだろう。

この11年間に比べると2018年以降は戦国時代と言っていいほど優勝経験者がばらばらであるのだが,不思議と横綱には誰も昇進しない。実はタイムリミットが迫っていて,横綱昇進平均年齢は年間六場所定着以後の面々で約25.7歳であり,かついわゆる大横綱に限定すると,これを超えて昇進したのは千代の富士一人しかいない(その千代の富士にしたって26歳3ヶ月)。朝乃山が白鵬世代を退けて時代を築くなら,今年のうちに二度優勝する必要はある。それにふさわしい実力はついてきたように見えるが,どうなるか。そして,現状で朝乃山に追随する強い横綱候補がおらず(大関候補なら28歳の御嶽海・26歳の阿炎など),正直に言ってポスト白鵬世代の大相撲の様子が全く予測できない。極めて惜しいのがやはり照ノ富士で,大ケガなく出世していれば彼は間違いなく横綱に昇進していたし,白鵬世代に楔をうち,場合によってはそのまま白鵬から政権交代を達成していただろう。「高照世代」が存在した世界線を見てみたかった。


次に若貴世代の支配。

大相撲世代表(1969〜1986)


先に注釈を一つ。「花の六三組」は初土俵が1988年3月だったというくくり方であるので,生年ではない。これは将棋でも世代を生年でくくるか四段昇進年でくくるかという議論があるのと同じで,大相撲の場合は生年でくくることの方が多いが,ここだけは初土俵のくくりである。該当するのが曙・貴乃花・若乃花・魁皇であるので表の上ではこのように表記した。

さて,やはりこの世代の支配力も高く,横綱4人であれだけ潰しあえばそうなるなという様相である。1992〜2001年の約10年間はほぼこの4人で優勝を回している。面白いのは若貴世代支配の崩壊過程で,少し遅れて出てきた武蔵丸を除く3人は後半の4年間,1997年あたりからケガだらけで「出場すれば優勝するが……」という状態であった。76〜77年生まれに大関昇進者が固まっているように,この頃にはすでに支配がやや緩んでいる。また比較的有名な話として朝青龍は貴乃花に0勝2敗,武蔵丸に4勝5敗と勝てておらず,これは朝青龍自身が「勝ち逃げされた!」と嘆いている。若貴世代は重量で自壊したのであって,実力でひっくり返されたのではないのである。前述の大関陣が横綱になれなかったのは,若貴世代につぶされたというよりは朝青龍につぶされたと言った方が正しい。若貴世代は華々しくはあったが,それゆえに短く散っていった。

特異点はやはり魁皇で,この人は本来横綱になっていたと思われるし,ならなかったおかげで長寿大関となって晩節を汚したようにも思われる。あとは栃東。当時「全盛期の朝青龍に伍した唯一の日本人」と言われ,横綱まであと一歩まで確実に来ていたが,ともかくケガに悩まされ,最後はまさかの病気で引退となった。魁皇はともかく,栃東が横綱になれなかったのは時代の不思議としか言いようがない。


最後に,千代の富士の支配。

大相撲世代表(1952〜72)


その後の白鵬世代・若貴世代と全く異なる点が3つある。まず,後ろ2つの世代の支配は約10年ほどであったが,千代の富士の支配はやや短く,約8年(1982〜89年)である。次に,後ろ2つの世代は4人の横綱による集団支配であったが,これは千代の富士単独の時代であった。3つ目はその内実である。通常の大横綱は20代後半に大半の優勝回数を稼ぐが,千代の富士の場合は20代後半に稼いだ優勝回数は10回,30代前半の優勝回数が21回と,圧倒的な晩成なのである。つまり活躍が5年ほどずれるので,彼は活躍時期だけで言えば限りなく「花のサンパチ組」に近い。少し不思議な仮定になるが,千代の富士を花のサンパチ組に混ぜ込んでいいなら,支配が1991年まで伸びて約10年になるし,横綱4人による集団支配になるから,後ろ2つの世代との違いが薄くなる。千代の富士はちょっと間違って5年ほど早く生まれて,5年ほど早く横綱になってしまったということか。

その花のサンパチ組は全員,横綱になってからの現役寿命が短いが,これは千代の富士時代の末期に成長し,引退したと思ったら若貴世代に轢き潰されたためである。1990-91年の2年間は大相撲でも数少ない戦国時代であったが,あっという間に若貴世代が台頭する予兆はすでに見えていた。「花のサンパチ組」について言えば,改めて各関取の成績を調べて思ったが,双羽黒が横綱に昇進していて,魁皇と小錦が横綱に昇進していないのはおかしい。双羽黒が残した爪痕は大きい。

表にはしなかったが,この手前に輪湖の時代(1973〜81),短い北玉の時代(1970〜72),大鵬の時代(1961〜68)とさかのぼれる。長期的に世代を区切ると,やはり次第に時代が長くなっていて,スポーツ医学の発展の恩恵が大きいのは時代を築く大横綱なのかもしれないと思った。上述の通り,白鵬世代の支配は一応2018年に切れていて,直近2年半ほどは白鵬世代の黄昏を感じさせる戦国時代である。朝乃山が千代の富士ばりの晩成を見せて時代を築くか,それとも今の10代後半の力士が急速に台頭して時代を築くか,それともとうとう10年周期の支配のサイクルが崩れて,このまま長く戦国時代が続くのか。見守っていきたい。  
Posted by dg_law at 03:32Comments(0)

2020年07月16日

16世紀の「価格革命」を高校世界史教科書でどう説明するか

高校世界史深堀りシリーズ。16世紀の西欧では,その世紀を通じて長期的・持続的な物価騰貴が生じ,最終的に約3〜4倍まで上昇した。これを価格革命と呼ぶ。100年間で3〜4倍では革命と呼ぶには随分と緩やかな物価騰貴であるように思われるが,この物価騰貴はその速度で歴史に残ったわけではなく,様々な影響をもたらしたがゆえに命名されたものである。その影響を高校世界史の内容に沿って列挙してみよう。

 ‥時の封建領主は永代的な固定地代を農民から徴収していたため,物価騰貴に追随できず,相対的に経済的に困窮することになった。
◆‥時の西欧の主要産業の一つに銀鉱山の経営があったが,価格革命は銀価格の下落をもたらしたため,多くの鉱山に一時的な経営破綻をもたらした。これにより没落した名家としてアウクスブルクのフッガー家が有名である。
 持続的なインフレが投機ブームを生んだ。かつ,同時期の商業革命の影響により主な投機先が英仏蘭であったため,これらの地域が近世の商工業の先進地域となる基盤が生じた。
ぁ,海硫然奮很燭賄豌い任牢砲笋だったために,特に農産物において物価に大きな東西格差が生まれた。結果として東欧は西欧向けの穀物生産に特化して,経済的に従属的な地位に自主的に転落していくことになった。

かくのごとく価格革命は歴史的な意義が極めて大きいため,高校世界史での扱いも極めて大きく,入試でも頻繁に出題される。一方,価格革命は発生した原因が確定していないという面白い現象でもある。現在のところ有力な学説は2つある。

・アメリカ大陸から大量に銀が流入したことに原因を求める説
= 比較的古い学説。銀貨は当時の西欧の主要な通貨であったため,スペインは征服したアメリカ大陸で多くの銀山を発見し,採掘した銀を持ち帰って銀貨に鋳造した。当時のスペインはオスマン帝国・フランス・ルター派等と絶え間なく戦争を続けていたため,軍事費という形で銀貨が西欧中にばらまかれた。流通する貨幣量が増えたのだから,貨幣数量説から言ってインフレが発生するのは当然である,とする説。
・西欧の人口増加に原因を求める説
= 比較的新しい学説。西欧の人口は,1340年代のペストの大流行を契機に16世紀に入るまでの間は減少するか停滞するかであった。しかし,16世紀に気候が温暖化すると急速に回復・増加し,それに伴って穀物需要が増加した。そして穀物に引っ張られる形で諸物価も騰貴し,16世紀の100年間は人口増加との両輪でインフレ・スパイラルが続くことになった,とする説。

前者の貨幣数量説的な説明(以下煩雑なので貨幣数量説と表記)は,なんと16世紀当時にはすでに唱えられていたという伝統があり,かのアダム=スミスやケインズ等の歴史上の経済学者たちが支持し,研究に蓄積がある。ただし,貨幣数量説は1950年代以降に本格的な検証が始まり,たとえば「17世紀にもアメリカ大陸からの銀の流入が続いているが,インフレは止まっている」といったように多面的に批判されている。近年では後者の説を取る川北稔に「近年にいたってあますところなく批判され,本来の形を喪失している」とまで言われている。ただし,完全に否定されてきったかというとそうでもなく,「全面的には採用されないけど,影響をゼロに見積もるのは多分無理」というような空気である。一方,後者の人口増加原因説は,工業製品よりも農産物の価格が先行して上昇したことに支えられている。しかし,これはこれで史料の制約もあって単独での立証は難しいようだ。そもそも単独で説明するのではなく,両説が複合して起きたのではないか,という論もある。詳しく知りたい方は,各々でCiNiiで論文探して読んでください。

さて,本稿は価格革命の原因を探りたいわけではなく,どちらを取るかの意思を表明したいわけでもなく,こうした「学界で割れている学説の高校世界史における取り扱い」の研究が目的である。というわけで,いつもの教科書5冊と用語集の比較。なお,歴史的意義についてはほぼいずれの教科書も Ν・い砲録┐譴討い拭△詫儻貊犬里澆傍載あり。

《貨幣数量説的な説明のみを掲載》
・山川『詳説世界史』:「ラテンアメリカの銀山から大量の銀が流入し,ヨーロッパの物価は2〜3倍に上昇した。この物価騰貴は価格革命と呼ばれ」
・東京書籍:「アメリカ大陸から大量の銀が流入して,価格革命と呼ばれる物価騰貴が起こった」
→ 山川の『詳説』は良くも悪くも保守的なので,納得の記述。経済史で先進的な記述の多い東京書籍はちょっと意外。

《人口増加原因説のみを掲載》
・帝国書院:「16世紀のヨーロッパでは人口が増加し,食料や土地の価格が上がり,激しい物価上昇(インフレーション)が起こった。これは価格革命と呼ばれ」
→ 川北先生が執筆陣にいる教科書なので……また,新説大好き帝国書院の性格がそのまま現れたとも言える。

《両論併記》
・山川『新世界史』:「人口が大きく増え,これが生産全般を刺激した一方で,新大陸の銀の流入もあって生産増と価格上昇(価格革命)が両立していた」
・実教出版:「アメリカ銀の大量流入と人口増加により,物価が大幅に上昇した(価格革命)」
(参考)山川「用語集」:「銀の大量流入により起こった」としつつ,「人口増加が価格革命のより直接的な原因とする説もある」と補足。
→ 山川は仲間割れ。『新世界史』の説明は面白いが,高校生が読むにはちょっと固い気も。実教出版の説明は簡素ではあるが,適切な表記であると思う。


【感想】
やはり現状においては両論併記で複合的な原因とするのが最も穏当であり,実教出版の説明が一番優れていると思われた……とだけ最初書いていたのだが「説明不足では」という指摘を受けて再考するに,確かに簡素すぎて高校生が一読しただけでは意味がとれないだろう。ただし,実教出版の教科書は本文外で小麦価格の推移のグラフを載せて補足している点と,帝国書院を除けば他の教科書も結局因果関係を説明しきれていない点を踏まえると,両論併記をしている時点で現状ではやはり相対的に優れていると言っていいとは思う。高校教科書は紙幅が極めて限られているので,どうしても長くなる貨幣数量説の本格的な説明は難しく,そこは教科書を使って教える高校教員の役割になる。その意味で,帝国書院の記述は短い字数で人口増加原因説の因果関係を示すことができていて,これはこれで良い記述であると評価しうる。かえすがえすも両論併記していない点だけが惜しい(ここまで7/16の19時頃に追記)。

山川の仲間割れは面白い。仲間割れというよりも,『詳説』はとにかく堅牢に,『新世界史』は執筆者の好きなように書かせるスタイル,「用語集」で詳細に補足説明,という3冊で分業をしていると言った方がいいかもしれない。東京書籍が両論併記していないのは,その経済史で他の追随を許さないというスタイルからすると,ちょっと残念である。逆に帝国書院はその性格がそのまま出ていて,期待通りの記述ではあった。一応,帝国書院も資料集(タペストリー)では両論併記であったから,これも山川と同じで,イデオロギーを教科書で示しつつも,受験対応の観点から資料集では現実に即した対応という分業体制なのかもしれない。

これは全くの余談だが,パラドゲーの『EU』シリーズは貴金属鉱山を所有していると自国の貨幣がインフレするというシステムがあるが,これは価格革命を再現するために実装されていると思われ,パラドは明確に貨幣数量説をとっているということになる。しかし,上述の通りに人口増加説も有力になってきているので,そろそろこのシステムを廃棄してもいいのでは。  
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2020年07月13日

伊香保温泉旅行記

6月最後の週末に,渋川市・伊香保温泉を旅行してきた。東京の新型コロナウイルスの感染者数が再び増加する傾向が見られたので,7月はまた県外への移動の自粛が勧告されそうだということを見越して,急遽旅行の計画を立てた。当初の予定では行き先に妙義山を含んでいたが,石門巡りが落石により封鎖されていたのでこれを外し,榛名山をロープウェーで登るというぬるい旅行になった。以下,観光地別に。


《渋川駅》
北陸新幹線で高崎へ,そこから在来線の上越線に乗り換えて渋川駅へ。ここで自動車で来る頬付・隙間坊主待ち。



渋川駅,名前の通り渋くてかっこいい。渋川駅の駅構内にある観光案内所のおっちゃんが異様に話好き&渋川愛にあふれる人で,公式やらご本人手作りやらのパンフレットをどっさりもらい,観光案内を聞いていたら20分くらい軽く経過していた。足元はスニーカーだったのだがリュックサックがモンベルの小さいやつ(15Lだったか20Lだったか)だったので,「どこか登るの?」と聞かれた。よく見ている。「今回は登らないんですけどね。また今度,榛名山の外輪山には登る予定です」と返事したら『ヤマノススメ』の聖地巡礼パンフレットをくれた(※ 榛名山の外輪山は『ヤマノススメ11巻』聖地です)。しかし,強烈にお勧めされたあじさい園は旅程の都合上どうしても入り切らなかった。申し訳ない。


《伊香保温泉街》
渋川駅の観光案内所のおっちゃんに「最奥の露天風呂の横にある無料駐車場,無料の割に僻地すぎて止める人が少ないから,まず間違いなく空いている。それ以外の駐車場は全部有料」という有益情報を聞いていたので,真っ先に止めに行ったら確かに空いていた。露天風呂の近くに飲泉所があったので飲んでみると,血と同じ味がした。成分表示を見ると,主要成分は鉄とマグネシウム。なるほど。有馬温泉の金の湯ほどではないが,かなり赤く濁っている。それで意識して街歩きしながら見渡すと,道の脇の側溝も,街の中心を流れる風流な川も,水が流れているところ全て川底が赤茶けており,鉄分の強さがうかがい知れる情景となっている。これは伊香保温泉特有の光景で面白かった。

伊香保温泉街の川


駐車場から坂道を下ってまずは伊香保神社に。神社自体はどうってことなかったが,「高山彦九郎腰掛の石」なる珍妙な石碑があり,周囲の観光客に全く見向きもされない中,一人で「三条大橋の土下座だよ土下座!」と騒いでいた(※ 土下座ではありません)。

高山彦九郎腰掛けの石


なんで高山彦九郎なのか疑問だったが,彼が上州出身だからのようだ。とは言っても現太田市の生まれ・育ちだそうなので伊香保からはかなり遠く離れているのだが,まあ箱推しならぬ国推ししてほしいということか。なお,後で京大出身の知人に聞いたところ「確かに京大生は『今日は土下座集合な!』みたいに使いますよ」とのことであったので,高山彦九郎は実質ハチ公ということでよいか。

また,伊香保温泉街がやたら武田押しであった。確かに真田の領土ではあったけど,と思っていたら長篠の合戦敗戦後に武田勝頼が兵士に湯治に行かせたのが伊香保温泉発展の契機だったらしく,疑問が氷解した。上州でこれだけ武田押しをしている場所も珍しかろうと思う。それで16世紀末に現在の位置に石段が整備されて温泉街となったが,十数度にわたる大火事があって,実は原型が残っていないのだとか。大火になりやすい土地柄というのは史跡の説明の随所で自嘲気味に語られていた。現在の石段は昭和55年製だそうだ。とはいえ,江戸時代にもなっていない時代に観光地のアイデンティティを持って温泉街を形成した点は先見の明がある。その後,1631年に関所が設置されて交通の要衝となった……わけではなく,本来の三国街道は伊香保を全く通らず,現在の渋川市の中心地あたりを通っていく。実は三国街道の渋川宿付近は吾妻川や利根川が暴れて通行不能になることがあったので,伊香保はサブルートとして設定されていたそうだ。石段の下部の脇に関所跡が残っている。

石段の中腹で昼食にうどんを食う。厳密に言えば水沢うどんを名乗ってはいなかったが,要するに水沢うどんとはこういうものなのだろうと解釈。コシが強くて透明感があるという前評判は納得したが,讃岐や稲庭のようなパンチがあるかというとやっぱり無い気がする。下っていって,前述の関所の跡があり,向かいには旧ハワイ王国公使別邸があった。



これがなかなか感じの良い明治期の和風建築であった。使っていたのは当然ながら駐日ハワイ公使であったのだが,そのロバート・アーウィン(アルウィン)なる人物,意外にも日本語版Wikipediaの情報がかなり充実している。ここにある通り,そして現地の説明でも確認できる通り,ハワイの先住民ではなく普通にアメリカ人である。明治の初期に来日し,井上馨と知り合って三井物産に立ち上げから参加……とビジネスマンとしては成功者であるが,ここまでの経歴がハワイと全く関係ない。にもかかわらず1880年ハワイ王国総領事代理に就任したのは,ビジネスに通じた親日のアメリカ人であったからか。1885年から1894年にかけて官約移民の送り出しに尽力するようになり,約3万人を送り込んでハワイのサトウキビ・プランテーション開拓に貢献した……と書けば聞こえはいいが,これ実質的なクーリー貿易の仲介人ですよね。その仲介料で巨万の富を築いたのなら,これは安易に誇ってはいけない人では……しかもその後台湾製糖の立ち上げにもかかわっていて,清々しく植民地ビジネスの王道を行っている。にもかかわらず渋川市とハワイ郡(ハワイ島)は姉妹都市になっていて,双方細かいことは気にしていないのかもしれない。いや,細かくないだろ……



1枚めの自販機の通り,群馬県は温泉が多いせいか割と温泉むすめ押し。2枚めは,石段を折りきったところで,アニメを模しての写真撮影。実は階段中央には水路があり,滞留した鉄分でひどく淀んでいてぶっちゃけ汚いのだが,アニメでは写真撮影の角度により隠れているのが現地で判明する(私のTwitter上の写真ではその淀んだ水路を『ヤマノススメ』パンフレットで隠している)。汚点は写真撮影技術により消せるのだ。その後は折り返して石段365段を登り(365日に合わせたとのこと),駐車場まで戻って露天風呂へ。川底の色でわかっていた通りの赤茶色。いいお湯に浸かって『ヤマノススメ』聖地巡礼完了。露天風呂の休憩所にちゃんと『ヤマノススメ』のポスターが貼られていたので(3枚めの写真),現地でも聖地として認識されているようだった。再び駐車場に行って車に乗り込み,今度は榛名山へ。


《榛名山》

途中,運転中の隙間坊主が「あ,ここから例のコースですね」とちょっと嬉しそうに言い出したので何のことかと思ったら,そう言えばここ”秋名山”コースか。彼が「ゲームでなら何度も走ったなー」と大変楽しそうだったので良かった。あまり知らない作品の聖地でも,他人が2.5次元に旅立っているとこちらも楽しくなってくる。笑ったのが連続ヘアピンカーブの場所,めちゃくちゃ波打つように舗装されていて,完全に走り屋対策されていた。往時にはここもタイヤの痕がすごかったのだろう,というのを忍ばせる工夫で,これはこれで趣深い。なお,このコースの手前はメロディーロードになっていて,静かな湖畔が流れた。ここからして速度対策である。そして榛名山の麓に到着。えらい人が「ロープウェーのある山では,ロープウェーに乗っていい」って言ってた。あっという間に山頂へ。



ガスってて何も見えなかった。山頂の場所が曖昧で,山頂の標識すら無い体たらくである。ニ百名山としてそれでいいのか。一応,帰りのロープウェーが来るまで時間が空いて暇だったので,ちょっとだけ登山道を散歩してみたが,かなりよく整備されているようだった。ロープウェーで下山後は再び伊香保温泉に戻る。

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帰路に秋名山コースのスタート地点では見覚えのある感じのAE86が大量に駐車されていて,まだまだ巡礼は盛んな様子をうかがわせた。伊香保温泉では予約していた旅館に泊まる。冷房が無いと聞いていたが,まだ6月の下旬であったし,一応標高が700mくらいあるので十分に涼しく,寝苦しいということはなかった。夕飯はニジマスが大変に美味であった。群馬のニジマスはブランド化されていてギンヒカリと言うらしいので,また見つけたら食べたい。群馬県はもっとギンヒカリを押していくべき。


《おもちゃと人形自動車博物館》
二日目はここだけで終わってしまった。ものすごくボリューミーな博物館である。公式サイトを見てもわかる通り,ものすごく雑多な収集物が陳列されているが,大きく分けると順路順に言ってまず大量のテディベア。次に昭和30〜平成中期のおもちゃ・人形・アイドルグッズ・プロレスグッズ・ゲーム。ゲームはファミコン以降PS3までのテレビゲームソフトも含まれる。その次がメインの自動車博物館で,2000GTやフェアレディ Z432等のレアな自動車や古い自動車が陳列されている。最後に謎にティーガー気M4シャーマンの実物大再現ジオラマが設置されていた。

これだけ手広く収集・陳列されているのでどんなメンバーで行ってもどれかは刺さると思われるのだが,やはり最大の目玉は自動車博物館で,さらに絞れば『イニシャルD』の藤原豆腐店が完全再現されていること。

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これはモデルになった藤野屋豆腐店が,区画整理で閉店になった際に店のパーツを引き取って博物館内に再現したもので,店の前に置かれているAE86の中にちゃんと紙コップが置かれているのはもはや当然の再現と言えよう。「YOUは何しに日本へ!」でこれを見に来日した外国人が出演していたそうだが,それも納得の再現クオリティである。

結局3時間ほど滞在して,あとは昼飯を食って帰路へ。高崎駅で降ろしてもらって新幹線で帰宅。これでまた当分は県外移動ができないのだろうか……  
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2020年07月12日

約30〜40年前の日本に「マジか……」と思うことはたまにある


→ 環境型セクハラの典型例だったもの。たまにこういう「自分のよく知らない昭和の社会史」が出てくると,平成・令和ってよく浄化されたんだなと思う(1990年なので厳密には平成に入っているが)。当たり障りのある性的なるものが職場にある違和感は,令和の今となっては女性に限った感覚ではないだろう。男性の私でもこれは無くなってくれてよかったと思う。
→ じゃあ公共の場にある萌え絵はどうなの? と言われそうだが,だからこそ(少なくともちゃんと着衣しているなら)萌え絵を即座に性的なるものと判断するのは違うからそこで思考停止しないでくれという方向性の抗弁は続けていなければならないなと思った。


・丸ノ内線はなぜ直接新宿・荻窪に向かわないのか <東京地下鉄100年史>(ハーバー・ビジネス・オンライン)
→ なぜあんなコの字型に,という疑問が氷解する記事。なるほど,元は東京ー池袋と東京ー新宿を結ぶ別の路線だったものを合体させたのでコの字になったと。つながっていない環状線ではなく,つながってしまった放射状の2本であるのだ。これを補うのが東京ー渋谷を結ぶ銀座線で,両者が赤坂見附で極めてスムーズに乗り換えられる設計というのも納得できるところ。ただし,東京ー新宿間は中央総武線があるわけで,より正確に言えば丸ノ内線は「皇居の南側を通って」新宿に行ける(霞が関や六本木を通っている)ことにもかなり重きが置かれているだろうとは思った。
→ しかし,戦後の東京は戦前よりもさらに山手線の西側に偏ったために結局は池袋ー渋谷間の輸送力を補強する羽目になり,副都心線を引いて擬似的に東京メトロの環状線が完成してしまったというオチがついたのは,この話を知っているとかなり面白い。「都市交通の未来は極めて読みづらい」という教訓付の小噺である。
→ 後段にある「丸ノ内線は本来は神田で銀座線と接続して,池袋から東京駅の八重洲側にスムーズに行けるはずだった」ことについてはおっしゃる通りで,神田ー銀座間にスムーズに行けることに現在の東京でどこまで需要があるかは微妙なところだが,この方が便利なのは間違いない。はっきり言ってしまうと淡路町は存在が微妙すぎる。御茶ノ水・神保町・神田の三角形の重心になにか地下鉄の駅があってもいいかなとは思うものの,不自然な距離で3つもあるのは奇妙である。この歪みの淵源も「丸ノ内線は本来ここを通らない予定だったことにある」と言われると,割と納得してしまう。しかし,仮に丸ノ内線が神田を通っていたとすると,東京駅までは山手線と完全に並走する形になるから,大手町を通らないことになる。それはそれで不便かも。


・同盟国という名の敵−リビア内戦をめぐるフランス・イタリア対立(六辻彰二)(Yahoo個人ニュース)
・コスパ最優先の「次世代の戦争」――実験場になったリビア内戦が示すもの(六辻彰二)(Yahoo個人ニュース)
→ トリポリ政府(イタリア・トルコ・カタール)VSトブルク政府(フランス・ロシア・サウジ・UAE・エジプト)という並びが珍妙すぎる。自分用に整理しておくと,トリポリ政府が国連に承認されている政府で,ムスリム同胞団が政権内にいる関係でトルコとカタールが支援している。一方,トブルク政府はムスリム同胞団を敵視するサウジとエジプトがつく。エジプトはムスリム同胞団の政権を倒したシーシー独裁政権なので当然。サウジは「アラブの春」以前はムスリム同胞団を支援する側だったが,「アラブの春」の一時的な成功でムスリム同胞団の革命思想が強まり,サウジや湾岸諸国はカタール以外,王政批判が怖くなって敵対するようになった。この辺は同じイスラーム復興運動でも,あくまで民衆の支持の下で政権を獲得したいムスリム同胞団やトルコの公正発展党と,昔ながらのワッハーブ派を堅持するサウジの違いが見えて面白い。
→ 中東諸国の介入はそうしたイデオロギー対立があるので必然的であるとして,利権で乗っかる欧州諸国は罪深い。ロシアはそういうのを気にしない国であり,イタリアは旧宗主国で旧カダフィ政権とつながりがあり,1つ目の記事の解説の通り難民の問題もあろう……と考えると一番余分な動きをしているのは間違いなくフランス。もちろんロシアとイタリアを免罪しているわけではなく,これは幻滅度の話である。社会党オランド政権でさえ西アフリカへの介入となると旧宗主国ヅラを隠せなかったし,フランス政府はアフリカを何だと思ってるんですかね……
→ 2つ目の記事の「傭兵とドローンのおかげで正規軍を派遣しなくてよくなった」がゆえに,「国民感情に配慮しなくてよくなり,かえって戦争介入のハードルが下がってしまった」ため,「局地戦では同盟国同士の衝突や,別の地域の敵対国の乗り合いも起きやすくなった」というのは面白い現象である(もちろん当事者にとってはたまったものではないが)。同じようなことはイエメン等の他の中東地域でも起きていて,こうして冷戦時代とは全く別の代理戦争が展開するのは21世紀前半のトレンドということになりそう。30年後くらいにならないと正確な評価はできないが。  
Posted by dg_law at 12:00Comments(2)

2020年07月09日

ニコ動の動画紹介 2019.5月下旬〜2019.7月上旬




高層ビル経営シミュ。ゲーム内容をネタにしたささらとつづみの会話の掛け合いが最高に楽しい,傑作実況となった。「神をも恐れぬ向上心」と書いてバベリアン・スピリッツと読む言語センス,好き。



おやつ氏が発見したサブフレームリセットによって味方にソウルスティールを覚えさせる方法で,七英雄を瞬殺する動画。




アニメティカ革命。とどトド氏,とんでもないものを見つけてしまったものだ……この後,いくつかのゲームで『RPGツクール3』内部のアニメティカを用いた革新的なRTA・TASが作られていくことになる。



他の方が最適化してほぼ最速記録誕生。



おやつ氏。アイテム溢れという新たなバグが見つかったために,とうとう0勝クリアを達成。おやつさんもやっとFF6から卒業できるんやな……



これもおやつ氏。しれっと目的違いのTASの最速記録も更新しており,この後でピロ彦氏がこれを最適化している。





『ゾンビランドサガ』の傑作MAD。一応,純愛コンビ中心のまとめ方。



自分が登ったことのある山だと追体験しやすくて楽しい。ちなみに,記録の2時間半はそこそこ早い。標準タイムは3時間半くらい。私と頬付が登った時はけっこうゆったり休憩をとって3時間ちょうどくらいだったので,やや急いで登れば同じくらいのタイムにはなるかも。





しょじょんP。上半期20選選出。今期のストレートにかわいいPV。ステラ千早は愛らしすぎるのだが,こういう曲ならばっちり似合う。



藻蔵氏。上半期20選選出。この方のあんゆり手描きはいつもながらにかわいい。



ふるの氏。上半期20選選出。名曲に名曲を混ぜてもやっぱり名曲だったという感じ。



あずまうど氏。上半期20選選出。見事な謎の技術。



たらひP。下半期20選ノミネート。かわいいPVだったので,この人の編集で見たかった映像。  
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2020年07月04日

2020上半期ニコマス20選

ポータルサイト

今回も参加します。

<総評>
いやもう,あかりんご旋風以外に何をコメントしろと。年明けからブームが始まったのは20選的に大変良かった。あとはノクチルブームですかね。今回は20枠を完全に使い切ったが,思っていたよりもあかりんご動画だらけにならなかった。私の20選の果汁は60%でした。

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Posted by dg_law at 20:45Comments(2)

2020年07月01日

「なんとなく」の裸体像への違和感とか

・3国立博物館が4月から値上げ(共同通信)
→ いつも企画展のついでに見ているから個人的には関係ないな,と思っていたら企画展も値上げする説もあるので様子見。直近のKIMONO展は1700円だったので特に変わった様子はない。
→ いつ行っても外国人観光客,特に欧米から来た観光客が多いので,それを考えると1000円は高くないと思う。東博の常設展は日本美術史が上手くパッケージングされていてわかりやすい。東洋館も同じチケットで入れる。日本美術に比べると貧弱さを感じなくはないが,中国からインド・イスラームまで一通りそろっている。あわせて東洋の美をお楽しみいただければ半日は簡単に潰れるから,展示品のほとんどを初見と仮定するなら,娯楽としての費用対効果・時間あたりの効用は非常に高い。ルーヴル美術館の15ユーロ(約1800円),ウフィッツィ美術館の20ユーロと比べても遜色はないと思う(大英博物館は無料と言われると何も反論できないが)。無論,ルーヴル美術館の方が数倍広いが,どうせ1日では見切れない。どうせ国内観光客は企画展も見ていくだろう,リピーターは年間パスを買うだろう,近隣の大学生は大体全部キャンパスメンバーズで無料で入れる……という発想で焦点を絞ったと考えると,今回の値上げは納得できる(年パスも2021年4月に値上げ予定らしいが)。
→ 余談だが,キャンパスメンバーズの無料は本当にありがたかった。東博と西美はあわせて隔週か毎週くらいの頻度で,授業の隙間等を使って通って常設展を眺めていたので。あれは贅沢な時間の使い方だった。


・落第生を再試験で救済しようとした大学教授が懲戒処分を受けた事件(弁護士 師子角允彬のブログ)
→ 牧歌的な時代にはよく聞いた話だが,もうそんな時代ではないわな。これに限らず,大学生を取り巻く環境は21世紀以降の20年で大きく変化しているように感じられ,世代的な断絶は大きい。ちゃんと学生を育てる大学が評価されるようになったのは良いことであり,人情が無くなったのは悪いこととは思われない。大学はレジャー施設と言われていた世代は,現在の日本社会においてまだマジョリティだとは思うが,思われているほどのボリュームを占めないようになってきているのではないか。


・事故死した少女を悼む「本人がモデルの裸体像」を作られたら、当人は嫌じゃなかろうか〜(これが『裸体像』か、や裸体像の意義自体をめぐる議論にも)(Togetter)
→ この銅像が作られたのは1989年であるので,もう当時と現在では社会の価値観がずれてしまっているのだろう。「裸体こそが真の人間美であって,何かしらの抽象的な象徴を負うものとしてふさわしい」という考え自体がそもそも古典的に過ぎる。1989年当時の日本社会では,その価値観が共有されていなかったにせよ,街に立つ像といえばなんとなく裸体(かそれに近いもの)と思われていたのだろう。なお,モデルというのには本人に似ていないので,それを考えてもこれは抽象化された裸体と解すべきである。しかし,それから30年も経つと日本社会でその「なんとなく」が薄れてしまった。皆が違和感に気づいてしまったのだ。裸体であることに今ひとつ意味を感じられない銅像が町中(今回の場合は校門のそば)に立っていれば,一般市民が不自然に思うのは理解できる感覚だ。しかも本作の場合,事故の追悼なのに何かしらの象徴を追う必要あるの? という疑問もつきまとう。そう,問題の焦点は裸体が不自然であることだ。これに,似てないにせよ一応モデルではあり,死後に作られたから本人の遺志は確認されていないことも加味すると,ますます「裸体の意味はどこにあるの?」という疑問は大きくなる。
→ その意味で,今回の批判に大して明治日本のあれやこれやの事件や対抗宗教改革期の事件を引用して反論するのはあまり適切と思われない。今回の批判には裸体が社会の風俗を壊乱させるというような思想が背景にあるわけではないだろう。と同時に,こういう銅像への批判が性的なものを公共の場から追放する保守的な風潮への加担になるとか,性の解放に反対することになるとも思われないが,どうだろうか。
→ あまり注目されていないが,本件においてTogetter途中にこの記事をつぶやいたものが貼られている意味は大きいと思う。この記事中にある以下の指摘はなかなか重く,まさに本件に直撃していると言えよう。
>「ただし《平和の群像》以後、街頭に乱立した裸体彫刻群にそのようなコンセプトが継承され、裸体が衆目にさらされることの意味づけが個別になされたかといえば、そのようなことはなかったと思われる。そればかりか、公共空間における女性裸体像のはじまりは忘れられ、街頭に裸体を置くという形式のみが踏襲されて現在に至っている。」  
Posted by dg_law at 08:00Comments(0)