2023年12月29日

ニコ動・YouTubeの動画紹介 2023.11月中旬〜2023.12月中旬




メジャーだけど案外完走者を見なかったゲーム。桶の値段が高すぎてゲームバランスが崩れちゃうのは修正してほしい感じも。



話題のゲーム。ルールが単純で短く終わり,ホラー要素もあるので実況向き。これが瞬間的に流行するのはわかる。



あるべきカバー。結束バンドの曲はもっと小樽潮風高校の面々でカバーされるべき。




こういうくだらない替え歌案外好き。




ココル原人さんは活動をYouTubeに移していたのね。変わらず上手い。


某Vtuberが高瀬音源を出しあぐねている間に,別の人から出てきたのであった。様々な業界の音楽家が楽曲提供に来るV界隈の吸収力がすごい。



中村太地八段の理解力が高く,他のたややん氏との対談よりも深いところまで話が進んでいて面白かった。  

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2023年12月25日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(九州編)

97.阿蘇山
 いつもの歴史・文学語りは頼山陽から。頼山陽は1818年から1年間をかけて九州を周遊していて,阿蘇山も訪れたようだ。私事になるが,この間に長崎に旅行して訪れた料亭花月(当時は遊郭)に頼山陽は三ヶ月ほど滞在していたらしい。九州周遊の約四分の一をかけて滞在していたということになり,やはり長崎は学ぶものも遊ぶものも多かったのだろう。調べてみると大分(当時は豊後)の耶馬溪を命名したのも頼山陽と伝わっているそうで,豊後では広瀬淡窓とも会っており,わずか1年で吸収に残した足跡は多い。閑話休題,その他に『日本書紀』に早くも記述があることや,夏目漱石の『二百十日』の舞台であることが語られている。後者は存在自体を知らなかったのだが,夏目漱石は本作品に先立って阿蘇山に登っているらしい。作中の人物は登山に失敗しているのだが。
 実に深田はいざ阿蘇山に登ろうとしたが,「駅前に騒々しく群がる観光客を見ただけで,私はあやうく登山意欲を喪失しそうになった」となったのはいかにも彼らしい。観光客を避けて登ったのが大観峰だったとのことだが,面白いのは結局翌日「雑鬧に我慢して,観光バスで坦々とした舗装道路を登り,世界一と称するロープウェイに乗って労せずして噴火口の上縁へ到着した」と書いていることで,深田に雑踏を我慢しても見たいと思わせた阿蘇山の貫禄勝ちという趣がある。次に阿蘇山に行った際には「ここが深田に雑踏を我慢させた風景か」という感慨を持って眺望を確認したい。なお,そこからさらに山深くに入るとさすがに観光客が消え,中岳から見た稜線は霧氷に覆われていたそうだ(登ったのは早春)。なお,現在はロープウェイは運行を停止しており,バスが代行輸送を行っている。


98.霧島山
 1行目は,令和の御代からするとさすがに隔世の感がある「紀元節を復活するかどうか,二月十一日が近づく毎に問題になっている。」である。戦後直後の雰囲気が漂う。そこからしばらく高千穂峰の話題となり,「頂上には,有名な天の逆鉾が立っていた。」私はここにまだ登山を本格的に始めたばかりの頃に行ったが,装備が足りずに挫折した。いつか再挑戦したい。なお,深田は「もっともその逆鉾の史的価値についてはいろいろな論があった」「古代のものでないことだけは事実である」としているが,深田の執筆当時にはレプリカであることが確実ではなかったのだろうか。ついでに言うと坂本龍馬が引き抜いたという逸話を書いていないのは少し意外であった。深田が高千穂峰に登ったのは昭和14年,つまり皇紀2599年のことで,記念事業的に立派な登山道が整備されつつあったそうだ。1939年はまだ登山道を整備する余裕があった。
 深田は高千穂峰の前に韓国岳や獅子戸岳,中岳,新燃岳を登ってきたそうだが,現在では入山規制がかかっていてその半数は登れない。特に新燃岳は21世紀に入ってから断続的に噴火していて,向こう数十年は登れそうにない。興味深いことに,これら韓国岳などについての深田の記述は「それぞれの山頂から倦くほど高千穂の美しい峰を眺めた」の1行で終わっている。その後は再び高千穂峰の記述に戻り,なんとそのまま霧島山の章が終わるのだ。つまり,霧島山についての記述の9割は高千穂峰に費やされていると言ってよい。これは百名山としての大峰山の主峰が八経ヶ岳ではなく山上ヶ岳であるのと同じ理屈で,百名山としての霧島山の主峰は韓国岳ではなく高千穂峰ということになりそうだ。これに則るなら私はまだ霧島山を制覇していないことになる。困ったな……
 その高千穂峰についてだが,「日本の右傾時代には,不敬の心を抱いて高千穂峰に登ることも許されなかったが,今はそういう強制的な精神の束縛もなく」登れるようになったことを言祝いで山行記録を締めくくっていた。最後まで昭和の戦後直後の雰囲気が漂う章であった。


99.開聞岳
 日中戦争に出征していた深田が1946年に上海から復員した時,船から最初に見えた日本の風景が開聞岳だったそうだ。それは印象に残ったことだろう。開聞岳の名前の由来や歴史については,以前は「ひらきき」であったことや『延喜式』や『日本三代実録』に記録があること,9世紀の二度の噴火等,一通り触れている。
 深田は登ったのは戦前のことだったそうだが,すでに登山道は螺旋状に山を巻いていたようで,深田もこの工夫を褒めている。中腹ぐらいまでは密林で,上の方は灌木地帯で眺望がある点や,四周の風景に接することができる点も戦前と現在で変わらないようだ。山頂からの眺めは抜群であるが,南方の遠い島々だけは天候の加減で見えなかったことを嘆いている。奇しくも私が登ったのも12月で,やはり南方だけは見通しが悪かった。そういうものなのかもしれない。  
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2023年12月24日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(中国・四国編)

92.大山
 伯耆大山。「伝説的に言えば,大山はわが国で最も古い山の一つである」からいつもの歴史語りが始まり,大山寺が僧兵を擁して暴れていたことや,『暗夜行路』の最後の場面であることまできっちり言及している。山容について言及する部分では,「だいたい中国地方には目立った山が少ない。その中でひとり大山が図抜けて高く,秀麗な容を持っている」から始まり,けっこうな紙幅を費やして中国地方から選出した百名山がこの一座しかない理由を説明するかのごとく中国山地をけなしている。もっとも本人があとがきで氷ノ山が候補に入っていたことを書いているし,二百名山ではその氷ノ山・蒜山・三瓶山が入っているから,中国山地も惜しいところで一座だけになった。そう考えると,大山のページではちょっと中国山地をけなしすぎている印象である。
 大山の山容について言及するなら外せないのが,見る角度によって山容が大きく異なるという点である。深田もこれには驚いていて,西からは出雲富士と呼ばれるほどに整っているのに,別角度から見ると山頂が深く崩落していてむしろ鋭く切れ落ちている。深田も書いている通り,その壁面の美しさが伯耆大山の持ち味の一つだと思う。
  
93.剣山
 四国剣山。「わが国の山名で駒についで多いのは剣である」,そしてそのほとんどは山の形から来た名前であるが「四国の剣山だけは違う」。私もこれは以前から疑問であったし,登ったけど結局わからなかった。深田は調べて「安徳天皇の御剣を山頂に埋め,これを御神体としたから」という理由を挙げている。もちろん壇ノ浦で沈んだことと矛盾するが,地元の寺(円福寺)に残る言い伝えでは,平国盛(教経)が我が子と偽って壇ノ浦から安徳天皇を連れ出し,その際に草薙の剣も持ち出した。しかし平家再興ならぬまま安徳天皇が夭折したため,ご遺言に従って宝剣を奉納した……という矛盾を解消するための伝承が追加されているらしい。四国剣山は公式サイトの電波がかなり飛んでいるのだが,その原因の一端をここに見た気がした。深田も「日本歴史で平家没落ほどロマンティックな色彩を帯びたものはない」と書いているが,ついでに日ユ同祖論まで呼び寄せることはなかっただろうに。
 四国剣山は山容が丸みを帯びている上に現在ではリフトが運行しているから,百名山ではトップクラスに登りやすい山である。一方で麓までのアクセス性があまり良くないのだが,深田が登った当時は輪をかけてそうだったようで,祖谷川沿いを延々と歩かされて「あまりに長い」と愚痴をこぼしている。歴史と風格ある百名山としては珍しく,深田が「人里から剣山を仰ぐ事は出来ないのであろう。それほど奥深い山と言える」と書いている通り,標高もさしてあるわけでもないのに,よく古くからの信仰の山となったものだ。一歩間違えれば大台ケ原や美ヶ原のような扱いだったのではないか。そうならなかったのはやはり平家の落ち武者伝説の影響はありそうで,この際胡散臭いのは仕方がないと割り切らなければいけないのかもしれない。
 

94.石鎚山
 歴史・文学語りは,山部赤人や西行法師が「伊予の高嶺」と詠んでいて和歌の題材となっていたことや,『日本霊異記』には早くも名前が挙がっていること,役行者が登ったらしいことを語っている。なお,山部赤人は道後温泉でその歌を詠ったのだが,実際には松山から石鎚山が見えないので別の山の可能性もあるとのこと。
 石鎚山といえば長大な四本の鎖が有名であるが,深田の記述は意外にもあっさりしていて,ほぼ「上に行くほど鎖は長くなり,急峻さも増してくる」と書いているのみである。そういえば試しの鎖は言及がなかった。一の鎖以降の三本は少なくとも1779年に掛け替えた記録が残っており,江戸時代中期頃からあったようだ(現地の看板には江戸時代初期に最初に掛けられたと説明がある)。試しの鎖については調べてみたところ昭和7年に掛け替えた記録があるようなので,少なくともそれ以前からあったのだろう。深田が登った当時にはまだ存在していなかったわけではなさそうであるが,記述から漏れた理由はなぜか。
 深田は天狗岳まで登った後に下山してバスで帰ったそうで,バスの車中から石鎚山を仰ぎ見て「今日,あの頂上に立ったとは思えない,遥かな崇高な姿であった」と述懐している。これは登山が好きな人なら大いに同意できる感慨で,下山した後の帰路で山を仰ぎ見るたびに,さっきまであそこにいたとは信じられないと思ってしまう。人は半日で意外と歩けるものなのだとか,人類文明の領域である麓と自然の只中である山頂との対比等で感情が湧き出てくるのである。  
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2023年12月21日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(北陸・関西編)

88.荒島岳
 深田は石川県大聖寺(現在は加賀市)の出身だが,「母が福井市の出だった関係から,中学(旧制)は隣県の福井中学へ入った」。そのため,荒島岳は深田が中学生の頃から知っていた山だが,実は長らく登っておらず,初めて登ったのは『日本百名山』の執筆から数年前とのことであるから1950年代のことだろう。荒島岳は深田が故郷の山だから選出されたのだと言われがちだが,実は大して登っていない山だったりする。とはいえ,実は深田自身が「もし一つの県から一つの代表的な山を選ぶとしたら,という考えが前から私にあった」として,そこから荒島岳と能郷白山で悩み,荒島岳を県代表とした……と全く隠す気が無く書いている。直接明言した文ではないが,福井県から一つも百名山を選出しないわけにはいかなかったと解釈しうる。
 ちょっと面白いのは,中学の頃から麓から立派な山容だと眺めていたことが長々と述べられた後,しかしながら「千五百米程度の山へ登るために,わざわざ越前の奥まで出かける余裕はなかった」などと最近まで登らなかった言い訳を述べ,然る後に突然,上述の県代表論を語り始める。それで4ページ中のほぼ3ページを使っていて,いつもの山名や歴史・信仰についての語りが全くない。例によって山行記録は最後の半ページのみで,眺望では白山が神々しいほど美しかったと述べている。私が登った感想としてもその点には同意するが,深田がしきりに言う麓から見た山容の良さや品格はあまり感じられなかった。『日本百名山』の本項を読んだ結果,やはり故郷びいきで県代表として選出したという疑念は晴れなかったどころか,深まってしまった。


89.伊吹山
 伊吹山の章は東海道線の車窓から見えることから始まり,いつもの文学・歴史語りが始まる。当然ヤマトタケルの伝説に触れているが,「その伝えから頂上に日本武尊の石像が立っているが,尊にお気の毒なくらいみっともない作りなのは残念である」と書かれている。私もその石像を頂上で見ているが,確かにあれは残念なヤマトタケルの像で,深田が登った頃からいて直されていないことに少し驚いた。いつから立っているのか気になるが,1分で調べた範囲ではわからなかった。大体のことは褒める深田が「みっともない作り」と言うレベルの石像,さすがに作り直したほうがいいのではと思うが,少なくとも60年以上は経っているわけで,残念な姿のまま文化財になってしまった感もある。(追記)調べてくれた人がいた。大正元年11月21日に開眼供養が執り行われたとのこと。立って110年以上も立っているようだ。
 当然,スキー場にもセメント工場にも言及がある。もちろん伊吹山を騒がしくするものとして文句を言っている。深田は「頂上に密集しているたくさんの小屋を見ただけでも,夏期の繁盛ぶりが察しられる」と書いているが,現在の伊吹山山頂で経営している小屋は5軒で,当時はこれより多かったのか同じなのかが気になるところ。なお,伊吹山ドライブウェイが通って誰でも山頂まで行けるようになったのは1965年のこと,『日本百名山』発刊の翌年のことで,執筆当時にはまだ計画すら無かったか,全く触れていない。さらに騒がしくなってしまうので,深田には厭わしい出来事か。
 山頂からは「元亀天正の世」の古戦場として姉川・賤ヶ岳・関ケ原が見える他,鈴鹿山脈,琵琶湖と比叡山等も見えるが,深田が第一に見たのは白山だったようだ。伊吹山から白山はけっこう見えにくかったような覚えがあるが,それでも白山を探してしまう辺りに深田の白山への愛がある。ひょっとして荒島岳を選出したのは白山が一番綺麗に見えるという一点だけで他は後付なのでは……


90.大台ケ原
 大台ケ原は大峰山と違い,明治になってから開かれた山である。人が踏み入ってからの歴史が浅い山なので深田は何を書くのかと思ったら,享保六年に蘭学者の野呂元丈が薬草採取のために登った記録があるというのを引いていた。探してみれば登った人がいるものだ。
 大台ケ原の特徴といえば年間4,000mm超の降水量であるが,深田も「大台ケ原に登って雨に遇わなかったら,よほど精進のよい人と言われる。」と書いている。その後,深田自身は「素晴らしい天気に恵まれた」と書いているのだが,深田さんはそんなに精進のよい人でしたっけ……? 深田自身も自覚があって「精進がよかったからではなく,選んだ季節が雨期を外れていたからであろう」と書いている。私自身が登った時も快晴に恵まれたので,どうも精進がよいかどうかは関係がなさそうだ。なお,「精進の(が)よい」でググるとほぼ大台ケ原についてのページしか出てこなかった(いずれも『日本百名山』からの引用)。現在では「精進のよい」という語はほぼ大台ケ原の天気についてしか使われない言葉と言っていい。
 深田は大台ケ原の山頂について「秀ヶ岳」と書いているのだが,現在の呼び名は「日出ヶ岳」である。ググるとこれまた『日本百名山』からの引用記事ばかりが見つかり,旧名なのか別称なのか,深田の誤記なのか調べはつかなかった。あまり誤記には思えないので旧名のような気はする。
 大台ケ原の牛石ヶ原には神武天皇の銅像が立っていて,これが雰囲気に合わず異常に浮いているのだが,1928年設置と古く,当然深田も見ていて一応存在に触れているが,感想は特に書いていなかった。伊吹山のヤマトタケルもそうだが,少なくとも私は神話の由来があるからと言って雰囲気に合わない像を立てるべきではないと思う。しかもこの神武天皇は記紀で大台ケ原に登ったとされているわけではなく,伝説・神話としてさえも信憑性が薄い。まあ立てたのが神道系の新興宗教の開祖なので突拍子のなさについては仕方がないのかもしれない。
 深田は大台ケ原に二度登っていて,二度目は大台ヶ原ドライブウェイが通っていたから1961年以降の登山である。行きはこれを利用したそうだが,帰りは(おそらく喧騒を嫌って)大杉谷から下山したそうだ。美しい渓谷で知られる長い登山道であるが,深田に「渓谷の美しさは日本中で屈指といっていい」とまで言わせている。興味はあったが,やはり計画を立てるべきか。


91.大峰山
 私が深田久弥の『日本百名山』に本格的な興味を抱いたのは,大峰山に登った時である。下山後に宿泊した洞川温泉のあたらしや旅館で,廊下に深田久弥の色紙が飾ってあり,同行者と「何か縁があるのかな」と話していたところ,仲居さんに「深田さんはここに泊まって山上ヶ岳に登られたのですよ」と返された。その後,夕飯の牡丹鍋に舌鼓を打っていると,古株の従業員が話しかけてきて,深田久弥の思い出話を聞かせてもらい,なんと深田の宿帳まで見せてもらい,「深田は山上ヶ岳こそ大峰山だと考えていた。八経ヶ岳はただの最高峰でしかない」と熱弁を聞いた。これが非常に印象に残ったのであった。あたらしや旅館は深田が泊まった宿であることを全然アピールしていないのだが,もったいないのでもっと宣伝すべきだと思う。
 
 閑話休題。日本人の登山としては最古の山なだけあって書けることが多すぎるためか,歴史パートは役行者が開山したことから書き始めて存外すぐに終わる。その中で確かに「(山上ヶ岳が)大峰山の代表と見なしていいだろう」と書いている。ただし,修験道の道場としての大峰山は山脈全域であって,特定のピークではないことも強調していた。
 山行記録について,深田は「泉州山岳会の仲西政一郎さんの案内で大峰山を訪れた」と書き始める。あたらしや旅館の宿帳にはこの仲西政一郎氏の署名もあり,確かに二人で泊まっていたのが確認できる。私は宿帳を見てから『日本百名山』を読んだので順番が逆になってしまったが,『日本百名山』を読んでから宿帳を見た方が感動するだろうと思う。なお,この仲西政一郎氏は父親も当人も修験者(山伏)であった筋金入りの登山家であり,関西の登山ガイドを多数執筆したことでも知られる。
 そうして深田は洞川温泉を出発して山上ヶ岳に登り,「女人不許入」の石標から入って洞辻茶屋,「西の覗き」と見て山頂の宿坊に泊まった。翌日に山頂を踏んだ後に南下し,大普賢岳・行者還岳・弥山と縦走して,八経ヶ岳の山頂から下山している。確かに山上ヶ岳以外の記述は淡白であった。なお,修験道としての縦走路はまだ南に続いていたが,「私はその最高峰を踏んだことに満足して山を下った」そうなので,深田の本質は登山家であって修験者ではないのである。  
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2023年12月15日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(金峰・瑞牆・木曽駒・北岳)

68.金峰山
 荻生徂徠が金峰山に言及して「最も険しく」「天を刺すもの,金峰山なり」と述べていると引用しつつ,「漢文口調の誇張であって,甲府盆地から仰ぐ金峰山は決して嶮峻といった感じではなく,むしろ柔和で優美である」と評している。これは深田の意見に賛成で,金峰山は2599mの高峰ながら周囲の山も高く(『日本百名山』では2595m),山塊の中心にいるどっしりとした山である。荻生徂徠は誇張したというより,何を見てそう述べたのか,そちらの方が気になってしまう。著書の『峡中紀行』は一応甲斐国を巡って書かれたものらしいので,実地に踏み入れているはずである。
 荻生徂徠への指摘はまだ続く。彼は金峰山の名前の由来について「頂上はみな黄金の地であって」「登山者は下山に際してワラジを脱いではだしで帰らねばならない」としているそうなのだが,金峰山は大峰山の別称からとられた名前であって蔵王権現信仰に由来するというのが正しく,深田久弥も当然このことを指摘している。なんというか,荻生徂徠,『峡中紀行』については相当に雑なことしか書いておらず全く信憑性が無い。江戸中期の知識人なら金峰山の名前の由来くらいは日本仏教史の基礎知識として知っていて然るべきはずで,荻生徂徠の教養に疑問を持ってしまった。他の本でも適当こいてない? 大丈夫?
 例によって深田自身の山行記録は短いが,関東大震災の翌年に登ったというから1924年,一高の生徒だったとのことである。若くて経験が浅い上に一人旅であったから,長距離登山を散々迷いながらこなしたのがわかる記録になっている。それにしても当時は昇仙峡から登ったそうで(そもそも甲府から昇仙峡も歩いている),地図で確認してもらえばわかるが,尋常じゃなく遠い。当然,富士見平にも大弛峠にも言及はない。


69.瑞牆山
 特徴的な山名であるので,山名蘊蓄が長い。昔の人の命名は笊や槍などシンプルであるから「昔の人はこんな凝った名前をつけない」。そこで深田は瑞牆山の由来を熱心に調べたが,結局わからなかったため,深田にしては珍しく憶測で書いている。山が三つ連なっていることから三繋ぎ(みつなぎ),そこから転じて「みずがき」の音となり,最後に風流な漢字が当てられたのではないかという。それに対し北杜市のホームページは瑞牆山の岩峰群が神社の周囲の垣根(つまり玉垣)に見立てられ,そこから転じたものではないかとする説を唱えている。その他にも説がいくつかあり,真相はわからない。ともあれ深田は「由来はどうあれ,瑞牆という名は私は大へん好きである」と気に入っている。
 瑞牆山は金峰山に比べると記録に乏しいが,深田は金峰山を見つけた修験者が瑞牆山を見逃すはずがないとして,実際には瑞牆山も古くから知られていたのではないかとも推測している。これは私も同感で,深田や私でなくとも巨岩があったら大体修験者がいる印象は登山者なら誰しも持っているのではないだろうか。言われてみると記録に乏しい方が不思議である。また,深田は瑞牆山の美点として「岩峰が樹林帯と混合しているところ」を挙げており,これにも強く同意する。樹林帯から突き出るように岩峰が伸びているのが美しいのである。
 なお,瑞牆山の登山道は当時と現在でほぼ変わらない経路であったようだが,それでも富士見平の名前は出てこなかった。深田が書き落としているだけか,『日本百名山』出版後に命名された比較的新しい地名ということか,どちらか。


74.木曽駒ヶ岳
 とりあえず山名の由来から入るいつもの構成。駒ケ岳という単純な名前ではあるが,意外と様々な説があるらしい。深田が言う通り,「それらよりも,岩や残雪によって山肌に駒の形が現れるという説」が最もそれっぽい。深田はそれ以外に,日本は古来山脈を竜に見立ててきたが,「竜は駒に通じる」ので,それを由来とするのではないかという説も押している。木曽駒ヶ岳は雨乞い祈祷が盛んであった山であるから,あながち外れてもいないのかもしれない。
 木曽駒ヶ岳はロープウェーが無かった時代でも比較的登りやすい3000m級だったようで,江戸時代から高遠藩による調査登山の記録が残っており,庶民にも集団登山の文化が及んでいた。このため1913年には麓の小学校が教職員と小学生合わせて37名の集団登山を行い,暴風雨に遭って遭難し,8月であったにもかかわらず校長以下11名が凍死するという事件まで起きたことを紹介している。長野県の義務教育課程には学校行事で集団登山の風習があることは聞いていたが,1913年からあることにも,こんな事件があっても続いたことにも驚きである。いや,小学生に3000m級の山を麓から登らすな。例によって山行は短く,4ページ目の半ページも使っていないが,四方の眺望の絶景を褒め称えている。


80.北岳
 「日本で一番高い山は富士山であることは誰でも知っているが,第二の高峰はと訊くと,知らない人が多い」という書き出しで始まる。深田もこのネタが現在まで擦られ続け,むしろ北岳が有名になってしまったとは思うまい。なお,『日本百名山』では北岳が3192mとなっているが,現在では3193mである。北岳は現在でも隆起が続いていて,年間約4mmずつ標高が高くなっている。100年で40cmとするとなかなかのペースであり,西暦4000年頃には3200mの大台に乗っているかもしれない。
 深田は北岳も白峰三山として意外と歴史があることに触れた上で,にもかかわらず「あまり人に知られていないのは,一つにはこの山が謙虚だからである」と擬人化して説明している。確かに「奇矯な形態で,その存在を誇ろうとするところもない」。高潔な気品があるとして,「富士山の大通俗に対して,こちらは哲人的である」と褒めちぎっている。深田は本音では富士山よりも北岳の方が好きなのだろう。
 それだけに,夜叉神峠から広河原までの車道が完成し,難易度が大きく下がって簡単に登れるようになったことについて,「喜ぶべきか,悲しむべきか,私は後者である」と率直に述べている。その広河原から登った身として言えば,いや広河原からでも十分に険しかったし,北岳まで来てしまうような人はもう深田の言うところの大衆とは言えまい。富士山や天城山などに比べれば,まだまだ全然神秘性が剥ぎ取られていないのが北岳だと思うのだが,どうだろうか。  
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2023年12月14日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(雲取・大菩薩・富士山・天城)

66.雲取山
 深田久弥は都会の喧騒が嫌いすぎて,「煤煙とコンクリートの壁とネオンサインのみがいたずらにふえて行く東京都に,原生林に覆われた雲取山のあることは誇っていい」とよくわからない褒め方をしている。また「雲取山は東京から一番近く,一番深山らしい気分のある二千米峰だけあって,高尾山や箱根などのハイキング的登山では物足りなくなった一が,次に目ざす恰好な山になっている」とする。これは現代でも変わっていない。かく言う私も初めて山小屋に泊まったのはこの雲取山だった。一方で,「一番やさしい普通のコースは,三峰神社までケーブルカーであがって,それから尾根伝いに,白岩山を経て達するものであろう」としている。現在では鴨沢から登っていくのが一番楽だと思われるので,当時は鴨沢ルートが荒れていたものと思われる。奥多摩を手に入れた東京都が,過保護気味に登山道を整備するとは,深田も予想していなかっただろう。それでハイキング気分の登山客が増えるのは深田の望むところでは無かっただろうが,雲取山については難易度の問題で現代でも深山の雰囲気を保っているように思う。なにせ登山道でクトゥルフ神話が打ち捨てられている程度には深山である。
 ついでにどうでもいいことに気づいたが,深田久弥は竈門炭治郎とほぼ同時代人で,約4歳差で炭治郎が年上と推定される。炭治郎が鬼殺隊解散後に故郷に戻ったとしたら,学生時代の深田久弥とすれ違っているかもしれない。創作物と現実を混同するのはやめよう。
 深田は三条の湯に前泊し,そこから登り始めて「山の家」(後の雲取山荘)で一泊,それから富田新道(「山の家」の主人富田氏が開いた新道)で下山したとのこと。富田新道は知らなかったので調べてみたら,現在では登る人がほとんどいない道のようで,スタートから2時間も林道歩きが続く。それは絶えるわけだ……それが使われていたということは,前出の三峰からのルートが一番易しいと言われていることも合わせるに,当時はよほど鴨沢ルートが勧められない状態だったということか。非常に意外であるが,どの程度荒れていたのか気になる。


70.大菩薩嶺
 小説『大菩薩峠』は1913年から1941年にかけて連載された。大菩薩嶺もその影響で人気が高まっていくことになるが,深田曰く1923年に登った際には他の登山者に全く出会わなかったという。『大菩薩峠』で大菩薩峠が舞台だったのは最序盤のみであるが,1925年に作者の中里介山が大菩薩峠を訪れているそうなので,そこから人気が出たということだろうか。深田自身は喧騒が嫌いなので,この件はあまり紙幅を割いていない。比較的有名な話であるが,深田は今の大菩薩峠は『大菩薩峠』が舞台とする幕末当時の場所から少し南にずれていることにちゃんと触れている。一点補足すると,真の大菩薩峠は現在「賽の河原」と呼ばれていて,大菩薩峠から大菩薩嶺に向かうと自然と通る。また,樋口一葉が『ゆく雲』で大菩薩嶺の名を挙げていて,文学史上,中里介山よりもかなり早いことを指摘しているのは文人としての深田久弥の面目躍如だろう。
 大菩薩嶺は非常に難易度が低い山であるが,昭和の初期からそうだったようで,深田は「初心者にとってまことに恰好な山」「東京から日帰りができる」「安全なコースが開かれている」と記している。元は青梅街道が通っていたわけであるから,街道の中では難所だったとはいえ,ハイキングコースとして見れば自然と易しいという話になるか。
 深田は登山道入り口に雲峰寺という国宝の寺院があると記しているが,残念ながら現在はさらに近くに登山道入り口ができたため,わざわざ雲峰寺に寄る登山客は少なかろう。実は私は図らずも下山時に雲峰寺に立ち寄っているのだが,がんばって寄るほどの価値があるかと問われると微妙であると思う。また,雲峰寺の建物群は重要文化財である。国宝ではない。これには少し事情があり,戦前は国宝と重文の区別がなかったので全て国が指定する文化財は全て国宝だったのだが,戦後に文化財保護法が制定されて,旧国宝は改めて国宝と重文に分けて指定された。これは1949年のことなので,深田が『日本百名山』を執筆するよりも前の出来事なのだが……調べずに戦前の記憶に頼って書いたか。『日本百名山』では珍しい明らかなミスだ。


72.富士山
 饒舌で4ページに文章を収めるのに苦労していそうな深田にしては珍しく,冒頭「この日本一の山について今さら何を言う必要があるだろう」から始まっている。と言いつつも,役行者小角に都良香に山部赤人,松尾芭蕉に池大雅に葛飾北斎を引いて歴史を語り,紀行文『日本百名山』としての役割を果たしている。「一夏に数万の登山者のあることも世界一だろう」と書いているが,コロナ前は約20万人に達していた。まさに「これほど民衆的な山も稀である。というよりも国民的な山なのである」。
 深田は富士山の特殊性を「富士山ほど一国を代表し,国民の精神的資産となった山はほかにないだろう」「おそらくこれほど多く語られ,歌われ,描かれた山は,世界にもないだろう」として,もっぱら日本人の精神的土壌になったことについて紙幅を費やしている。実際に富士山はその価値が認められて文化遺産として世界遺産となったのだった。それだけ卑俗的な山ということになるが,深田は「結局その偉大な通俗姓に甲(かぶと)を脱がざるを得ない」と降伏している。俗世を嫌う深田にここまで言わせる富士山はやはり別格である。ただし,深田はとうとう富士山のページでは自らの山行について一言も言及がなかった。歴史や文学を語って紙幅を消費しきっただけかもしれないが,深読みするなら,実はやはり世俗にまみれすぎていて富士山のことはそれほど好きではないのかもしれない。


73.天城山
 深田は天城山について,戦前は要塞地帯だったために地図が無かったことや,信州や甲州の山に比べて惹かれなかったことから,長らく興味が持てなかったことを吐露している。しかも,終戦後に地図が出るや否や世俗に染まっていきそうなことを危惧している。それで最初の1ページが終わり,2ページ目で伊豆半島が活発な火山活動で形成されたことに触れ,3ページで早々に山行記録に入ってしまう。……あれ,『伊豆の踊り子』や『天城越え』(松本清張)は? 下田街道は? 歴史や文学にほとんど触れていない点で他の山と一線を画している。
 山行記録も山に入るまでが長く,3ページ目は概ね伊豆半島や大室山の感想であるから,実質的に4ページ目だけである。しかも深田が登ったのは12月下旬,ひたすら寒かったようで,早々に下山して温泉に入ったことで終わっている。また,「天城のいいことの一つは,見晴らしである」としているが,現在の天城山は樹林帯に埋没していて,万二郎岳や万三郎岳はあまり眺望が良くない。
 実は私自身も天城山を登って百名山にたる良さが無いという感想を持ったのだが,読んでみると深田もそこまで思い入れがあって百名山に入れたようには全く思われず,いわゆる当落線上の三十座の一つに違いなかろう。百名山からクビでいいのでは。  
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2023年12月12日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(長野県編)

43.浅間山
 浅間山が常に煙を吐いていることが強調されているが,現在では言うほど煙を吐いていない。とりわけ私が登った時には全く煙が出ていなかった。もっとも,だから噴火警戒レベルが下がっていて前掛山まで登れたのではあるが,深田が登った当時はどれだけ煙が出ていようがきっちり登頂できたのだろう。おおらかというか人命が軽い。なお,深田が浅間山に登ったのは高校1年生の時だったとのことで,案の定「絶頂の火口壁で噴煙に襲われて逃げまどった」と述懐している。挿絵の登山地図には前掛山の表記が無い。浅間山に直接登れた当時は,前掛山に登る人はいなかったということか。
 また当時は峰の茶屋(軽井沢側)から登るのが一般的だったところ,深田は小諸から登ったとのことである。現在では峰の茶屋からの登山道は封鎖されていて,小諸側か嬬恋村からしか登ることができない。私が登ったのも小諸側からであるが,天狗温泉浅間山荘で一泊してからの登山であった。深田が登った当時はまだそこに旅館がなく,小諸市街から「夜をかけて」登ったようなので大変である。調べてみると,あそこに浅間山荘が建ったのは1957年のことで,深田が高校1年生の時には存在していない。


60.御嶽
 他の霊山が一般登山に飲み込まれたのに対して,御嶽山だけは宗教登山の風俗を濃厚に保っていることを強調しているのは,いかにも深田らしい記述である。これは数十年後の現在では評価が難しい。御嶽も随分と一般登山者が増えていて,深田が言う一般登山者が「疎外感のような感じ」ということは完全に無くなっている。それでも他の山に比べると信仰篤く,宗教色が残っているようにも思われる。深田は御嶽の宗教的モニュメントの多さを指摘していて,これは2014年の噴火も乗り越えて,今なお残っている。というよりも石碑の多さが御嶽山をまだ信仰の山たらしめている最後の砦と言えるかもしれない。あるいは逆に,そうした膨大な石碑が生み出す一種異様な雰囲気自体か観光の対象と化していて,やはり信仰は観光に飲み込まれているとも言えよう。
 深田が登った当時と現在の最大の違いはやはり2014年の噴火である。浅間山や磐梯山など他の火山では噴火に言及があるが,御嶽山のページでは一切言及がない。どころか御嶽が火山であること自体に言及がない。なにせその頃の御嶽山は死火山と思われていて(死火山という概念自体が21世紀には滅んでいる),御嶽山の小規模な活動が見られたのは1979年のことであった。2014年の大噴火は当時の登山家にとって青天の霹靂であり,だからこそ大きな被害が出たのである。死後40年以上も経ってからの出来事であるから言及できるはずがないことはわかっていても,微妙な違和感がぬぐえない。もうこれほど牧歌的に御嶽を語ることができなくなったわけで,『日本百名山』で最も時の流れを感じるのはこの御嶽の部分かもしれない。


61.美ヶ原
 古来の日本で高原を愛する趣味はなく,もっぱら西洋趣味として導入されたが,それに最も適合するのが美ヶ原であるという。確かに修験にも向かず酪農の生業もなかった日本人は高原を扱いにくかったのかもしれない。深田はここで西洋趣味としての高原の事例としてセガンティーニの絵を引いており,ここは昭和の文人らしい。実際に美ヶ原は名前負けしない高原としての美しさを持ち,私も行ってみて驚いた。命名の勝利である。当然このような名前が古くからあったわけではなく,昭和になってからとのことで,深田が訪れたのは命名されてからさほど時間が経っていない時期であった。何しろ美しの塔が建つ(1954年)よりも前のことであり,それだけに深田は全く他の登山者と会わずに高原を独占したそうだ。その後すぐさま世俗化してしまったため,『日本百名山』執筆当時の美ヶ原の様子を嘆いている。私は深田と違って世俗化にこだわりはないが,人っ子一人いない美ヶ原を歩く気持ち良さについては羨ましくなった。


62.霧ヶ峰
 深田は戦前に一夏を霧ヶ峰の山小屋に逗留して過ごしており,隣の部屋に小林秀雄がいたことを述懐している。天気が良ければ二人で歩き回ったそうだ。小林秀雄の登場は谷川岳に続いて二度目である。深田は霧ヶ峰について,登る山ではないが「遊ぶ山」としては最高だと評している。それだけに霧ヶ峰は蘊蓄よりも山行記録が長い珍しいページになっている。車山や八島湿原はもちろんのこと,霧ヶ峰の山行記録は細かな地名にも触れていて詳細である。
 霧ヶ峰は美ヶ原と違って歴史が古く,旧御射山で源頼朝が狩猟を催した記録があることに触れている。深田はそこで「大昔の土器のかけらを拾うことができた」そうなのだが,実際に旧御射山は鎌倉時代の遺跡が発見された。発掘調査が進む前だったので簡単に拾うことができたのだろう。また旧御射山を散策中に諏訪明神を祀った小さな祠を見つけたと述べているが,その小さな祠は現存している。まさかあんな小さな社で深田の追体験をしていたとは思わなかった。


63.蓼科山
 『日本三代実録』にも登場する古い山であり,文人,特に『アララギ』の詩人に好まれ,斎藤茂吉らに詠まれていたことが紹介されている。立科,諏訪富士,飯盛山,高井山,女の神山と様々な呼び名があるが,富士山に似た円錐形の形に由来しているものが多いとのこと。深田は直接触れていないが,蓼科という名前自体,蓼(立)は切り立っていること,科は階段の意味でやはり円錐形に由来している。
 個人的には蓼科というとビジンサマの印象が強いのだが,何にでも言及する深田ながらこれには言及が無かった。怪異には興味が薄かったか。ついでに言うと蓼科や八ヶ岳の長野県側は縄文時代の遺跡が多数見つかっているが,八ヶ岳のページを含めてそれにも言及がない。調べてみると,戦前から発掘が進んでいたのは尖石遺跡のみで,他の遺跡は1950年代以降が多かった。とすると,深田には蓼科や八ヶ岳に縄文のイメージが無かったと思われる。
 例によって当人の山行記録は短く,最後の1ページのみ。北側斜面の蓼科牧場から登っている。現在の蓼科山登山は南側斜面が主流であるが,偶然にも私も北側から登った。やはり「頂上は一風変わっている」として,「大きな石がゴロゴロころがっているだけの円形の台地で,中央に石の祠が一つ有り」とのことなので,あの独特の景観は60年以上前から変わっていないようである。ここでも小さな祠は私が見たものと同一と思われ,ああいうタイプの小さな祠は意外と耐久力があり,数十年単位で残るものらしい。小さな祠に一々言及する深田のおかげで検証できている。  
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2023年12月11日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(北関東編)

30.谷川岳
 最初の話題は当然,遭難死者である。『日本百名山』が書かれた昭和30年代ではまだ二百数十人だったようだが,2023年現在は800人を優に超えている。調べみると,ちょうど昭和30〜40年代に最も死者が出ており,しかもその多くが一ノ倉沢の登攀と積雪期での凍死である。21世紀に入ってからは危機意識の高まり,装備の改良等により死者が大きく減っている(それでも年に2,3人ずつの死者が出ている)。百名山ブームが死者を増やしたとあっては深田もやりきれない。
 深田が紹介していて面白かったのは,山名に関するエピソードである。実は真の谷川岳はトマの耳でもオキの耳でもなく俎瑤噺討个譴觧海任△辰が,国土地理院の前身にあたる機関が5万分の1地図を作った際に,それまで谷川富士・薬師岳と呼ばれていた両耳を指して谷川岳と記載し,それが定着してしまったのだという。その俎瑤呂匹海砲△襪里とYAMAPの地図で調べてみると,トマの耳からかなり西に位置し,現在では登山道が点線(バリエーションルート扱い)になっていた。訪れる人もほとんどいないのだろう,山行記録を探して読んでみると藪こぎの痩せ尾根であった。なかなか後世への影響が大きいミスであるが,俎瑤鷲弦發1886mとオキの耳より約90m低く,天神峠から一ノ倉岳に続く谷川連峰からは少し外れた場所に位置しているから,こちらが主峰と言われても納得しがたい。国家機関が勘違いしたのもやむを得ないように思われた。仮にミスが無かったとしても将来的に両耳が主峰扱いされるようになっていったのではないか。
 自らの山行記録として,深田は1933年に小林秀雄を連れて谷川岳に登った思い出を書いている。二人の関係を全く知らなかったので調べてみると,東京帝大の一学年違いで深田は1926年に文学部哲学科,小林は1925年に仏文科に入学している。雑誌『文學界』を小林が立ち上げると深田は編集委員に誘われているし,谷川岳以外に八甲田山・霧ヶ峰・鳳凰三山・鹿島槍ヶ岳・八ヶ岳も二人で登っているから相当に親しい。なお,登山中の小林秀雄は深田の指示に従順だったそうで,小林秀雄は中学生時代に雲取山に登って遭難しており,それがトラウマになっているのが理由だろうと論じたブログも見つかった。まあそうでなくとも登山中に先達の指示に従わないと普通に死ぬから,小林も従順になるだろうが,従順な小林秀雄の姿はどうも想像できない。


36.男体山
 深田は男体山について,縁起に紙幅を割いている。胡乱なものが多い日本の山の開山記録において,「一番実証性のあるのは,日光の男体山である」という書き出しで始め,4ページ中の丸2ページを費やしている。782年,勝道という修行僧が登頂に成功したことが空海により『性霊集』に書かれており,その記述がかなり詳しいので,深田も紹介したくなったのだろう。日本に近代登山の概念が導入されたのは明治になってからであるが,空海によれば勝道は登頂に成功して「一たびは喜び,一たびは悲しみ,心魂持し難し。」と感じたようである。深田が指摘するように,これは近代登山的な精神だろう。
 元の名前は二荒山であり,補陀落が由来であろうことを紹介した後,短く自らの山行を書いているが,登ったのは1942年のことらしい。思い切り戦時中である。「非常に急峻で,湖畔から頂上までひたすら登りづくめ」との評である。確かに登りづくめなのだが,他の百名山と比べて相対的に急峻かというとそこまでではないと思われ,また当時と今で登山道が変わっていないとも思われるので,ここは深田久弥の感覚がわからない。


37.奥白根山(日光白根山)
 まず驚いたのは,深田が日光白根山について「注目する人は極めて少ない」と書いていることである。当時は人気が無かったのか。また「日光側から登る人が大部分であるが」と書いているのも現代とは異なる。深田は上野(群馬)側に史跡が多いことに注目して,こちらが表口だったのだろうが,現在では廃れてしまったと指摘している。それがスキー場ができてロープウェーができて,すっかり群馬側から登るのが主流になろうとは,深田も想像していなかった。
 深田自身は日光側から登っていて,珍しくも山行記録が4ページ中2ページと長い。山頂付近について「どこを最高点とすべきか判じ難い」とし,火口跡が多く,「岩石の小丘が複雑に錯綜している」。「その丘の一つに貧弱な小祠があって,白根権現が祀ってある」とあり,山頂の様相もこの小祠も,私も見覚えがある。下山は群馬側に進み,「七味平という気持ちのいい小草原まで下ると」という記述があるが,七味平は現在では七色平と呼ばれている。名前が変わったのか誤植か判断がつかないが,なんとなく誤植ではないかと思う。しかも現在は言うほど平でもなくほぼ樹林帯になっているから,日光白根山の群馬側は深田が登った時とは相当景色が違うのではないか。
 余談になるが,自分が初めて『日本百名山』を読んだのは日光白根山登山の際に泊まった丸沼高原のペンションの蔵書であった。ワインで酔った頭でも意外と気楽に読めたことで,日光白根山登山とともに印象に残った。


44.筑波山
 深田久弥が標高1500m以上という縛りを破って入れた山の一つ。しかも深田が嫌った世俗化した観光地の山である。それを押してでも百名山に入れたのは,深田曰く「歴史の古いこと」であるという。なにせ『常陸風土記』に記録がある。そこには富士山をディスりつつ筑波山は雪が降らないことを称揚するエピソードが書かれているらしいのがちょっと面白い。筑波山は登りやすすぎるためか,古くから宗教登山ではなく庶民による遊楽登山の対象であり,女性は筑波山で男性から結婚を申し込まれる風習まであったようだ。だから世俗的なのは当たり前……というのが深田の立てている理路である。なるほど,であれば現在の筑波山が格好のデートスポットになっているのは歴史的に正しい。
 また,深田は東京から筑波山が見えたことを挙げ,関東平野という単位で考えれば筑波山は案外高い独立峰であると指摘している。しかし,現在の東京から筑波山を見るのは難しい。深田が大学生だった頃とは何か条件が変わっているのだろうか。高層ビルは間違いなく増えているが,空気が汚れているかどうかは少し疑わしい。  
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2023年12月10日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(東北地方編)

書籍全体の書評を書いたので,個別の山の記事についての感想はこちらに書いていく。主には勉強になったメモと,深田の感想と自分の感想の違い,時代の違いによる差分について。数字は深田自身によるナンバリングである。


10.岩木山
 深田は1930年頃に,嶽温泉から登って岩木山神社の方向に下った。私が登った時は霧が出ていて山頂からの眺望が死んでいたのだが,深田が登った時も雨混じりの曇天で眺望は全く得られなかったとのこと。さらに,私も岩木山神社の方向に下ったのだが,大きめの石が転がる沢筋で,斜度の割には疲れる道であった。これは約95年前の深田も同様であったらしく,ほとんど弱音を書かない深田にしては珍しく「ガクンガクン膝こぶしの痛くなるような下りが続いて」と書いている。岩木山神社への下山路はほぼ100年間そのままらしい。山頂でも下山路でもほぼ同じ体験と感想で,読んでいて笑ってしまった。これもまた『日本百名山』を読む楽しみであろう。最後に深田は下山の最後の方を「スキーで飛ばしたらさぞいいだろうと思いながら」下りていったそうだが,さすがに先見の明がある。こうなると,私は旅行計画を立てるのがぎりぎりだったために嶽温泉に入りそびれたのだが,入って深田の追体験をしておくべきだったと後悔している。


11.八甲田山
 山の名前の由来は,八つの峰と多くの湿地(田)を有することからとのこと。続いて八甲田雪中行軍遭難事件について言及しているが,これは短く終わった。深田が訪れた当時はまだ国立公園に指定される前で,閑散としていたらしい。十和田八幡平国立公園の指定はかなり古く,1936年のことであるから,深田が登ったのは岩木山と同じタイミングか。眺望や湿原の素晴らしさについては同意しかない。この山も深田にしては珍しく登山の難易度に触れており,「酸ヶ湯から女子供でも楽に登ることができる」とある。私も八甲田山の大岳から酸ヶ湯に下ったが,意外と斜度があってそこまで楽な登山道ではなかったように思われた。というよりも落石防止を中心にかなり整備して歩きやすくしていたのが見てとれたので,深田が登った当時はもっと登りにくかったのではないかと思う。上記の岩木山の通りで,他の紀行文を見ても深田の難易度の感覚は現代人とそれほど違わないことが多いので,この八甲田山の評価はよくわからない。
 深田は登山中に偶然,八甲田の主と呼ぶべき登山者に遭遇していて,「この名物男は,いつも軍装をして……右肩にラッパ……頂上では陸軍のラッパ曲を吹く」とあるから,相当な面白じいさんだったらしい。1930年頃で八十歳とのことだから,1850年頃の生まれか。実は私も八甲田山に登った際,何百回と八甲田山に登っているという地元の方に話しかけられて,山頂で少し話を聞いた。八甲田山にはそういう名物男が存在する伝統でもあるのだろうか。
 深田は「大岳に登ったら,帰りはぜひ反対側の井戸岳を経て毛無岱に下ることをお勧めしたい。これほど美しい高原は滅多にない」と書いている。私はむしろ井戸岳を経て大岳に登り,その後は酸ヶ湯に下りたので毛無岱は経由しなかった。深田の時代は酸ヶ湯から登っていくから井戸岳や毛無岱はむしろ下山で寄る場所であったのだろうが,現代ではロープウェー山頂駅から井戸岳を経て大岳に向かうのが一般的であるから,向きが逆になっている影響はありそうだ。なお,深田はここでも「スキー場としての八甲田山は今後栄える一途であろう」と書いているが,スキー場のためにロープウェーができ,ロープウェーのために登山路が逆向きになることまでは想像がつかなかったか。


12.八幡平
 冒頭で「十和田湖へ行く人数に比べて,八幡平はずっと少ない」と書かれている。八幡平については先行する紀行文が少ない,とも。そこから八幡平は随分とメジャーな観光地になった。というよりも深田久弥レベルの人がその印象だったのに,八甲田山や十和田湖とくくられて突然1936年に国立公園になったのだから,そちらの方が不思議である。名称の伝承については,八幡太郎義家が由来であることに触れつつ「もちろん信ずるに足りない」とばっさりである(もちろん坂上田村麻呂説も否定している)。深田は割りとドライで,伝承を調べるのが好きな一方,割りと正直にばっさり行く傾向が強い。八幡平が開かれた理由として温泉が挙げられており,地図中には藤七温泉も記載されていた。私は泊まったことがあるが,あの温泉は昭和の初期からあったのか……調べてみると開業が昭和5年とのことで,深田が八幡平を訪れた当時は開業してすぐのことだったのだろう。もっとも深田自身は蒸ノ湯と後生掛に入っていったようだ。
 深田はこの山でもスキーについて触れていて,最初に八幡平を訪れた理由がスキーだったと述べている。このまま整備が続けば「今後スキーのパラダイスになりそうである」とまで述べており,深田はスキー百名山も書こうと思えば書けたのではないか。なお,当然ドラゴンアイについての言及はない。ドラゴンアイは10年ほど前に私が行った時にもまだ話題になっていなかったので,本当に極最近観光名所に変わったのではないか。


20.吾妻山
 吾妻山といえば山域が広く,かつ中心が存在しないであるが,深田も「これほど茫洋としてつかみどころがない山もあるまい」と冒頭で書いている。例によって早々にスキーの話を始めるが,ここではアクセスの良い東吾妻にばかりスキーヤーが集まって,広い山域に目が向けられていないことを批判的に取り上げている。深田にとってのスキーとはバックカントリーだったのだろう。ついでに磐梯吾妻スカイラインが通ってにわかが増え,「我々はいよいよ山奥深く逃げ込むよりほかはない」と嘆いている。
 山名の由来について,珍しくも深田をもってして調べがつかず,山域に家形山があるからそれが変じて「東屋」となり現在の字が当てられた……という自説を唱えている。それでは現代視点で答え合わせをするかとインターネットの力を借りたところ,山と溪谷オンラインに同じ説が載っていた。これとは別に『角川日本地名大辞典』も深田と同じ説を採っているというページも見つけたので,深田の説はかなり強そうである。なお,吾妻山という名前の山は日本全国に点在していて,広島・島根県境の吾妻山は「イザナギがイザナミを偲んで『我が妻』と呼びかけた」説を採っていた。さすがは島根県の山である。群馬県の四阿山もヤマトタケルがやはり妻を偲んだことを由来としていて,ここから類推するなら福島の吾妻山も誰かしらが妻を偲んでいても不思議ではない。深田自身は,少なくともヤマトタケル説について「それは附会であって,やはり東屋からきたと見る方が適切」と退けている。
 最後に,西吾妻山については「稜線というより広大な高原」としつつ,いたく感動していた。また「一人の登山者とも出会わなかった」「まだリフトなど全くなかった頃である」としているが,リフトができたところで,西吾妻山はメジャーにはならなかった。喧騒を嫌う深田にとっては良かったことかもしれない。

 
21.安達太良山
 当然引用される『智恵子抄』。引用と論評のため,この安達太良山は定形を破って6ページに渡っている。山行の記録もやや長い。岳温泉から登っているが,冬場は岳温泉がスキーで混雑することに言及している。隙あらばスキー。途中でくろがね小屋に言及があり,岳温泉の源泉であることが示される。私はくろがね小屋に寄らなかったのだが(老朽化による建替工事で休止中),深田久弥が言及するほど歴史の古い山小屋だったとは。しかし調べてみると開業が1953年とのことなので,深田が訪れたのはそれ以降ということになる。深田が東北の山々に頻繁に登っていたのは1930年代のことのようなので,安達太良山だけ新しいのは意外である。
 深田は山頂付近で「鉄梯子のかかった岩場を登ると」と書いているが,言うほど大きな梯子がかかっていた覚えがない。迂回可能な小さな梯子ならかかっていたと思うが……。あの岩場の登山道が当時と大きく変わっているのだろうか。事前に読んでから登っていたら写真を撮っていたのだが,惜しい。なお,この山頂の岩場について,平らな山頂付近からぽこっと飛び出ているように見えることから深田は「乳首山」と呼ぶとも紹介していた。ググると乳首山という通称が残っていることが確認できるものの(たとえばこのページで梯子も確認できる),自分が安達太良山に行ったときには現地でそういう呼称を全く見かけなかった。ちょっとセンシティブなこの呼び名は滅んでいっているのだろうと思う。


22.磐梯山
 1888年の大爆発から紀行文は始まっている。その上で磐梯山の山容は裏磐梯よりも表磐梯の方が美しいという。その山容の紹介が含まれていることから,磐梯山もまた例外的に6ページに渡っている。深田にとって磐梯山の山容はそれだけ重要であった。山名は「岩」と「梯(はし)」から,噴火口の岩壁に由来しているのではないかとしている。登山記録も表から登っていて,とすると当然のようにスキーにも言及がある。弘法清水で裏磐梯からの登山道と合流して人が増え,登山者のゴミが散らばっていることに苦言を呈していた。当時の登山者のマナーよ……。帰りはその裏磐梯に下っていているが,やはり観光客の多さが気に食わないらしい。最後は「シムメトリーよりもデフォルメを好む傾向を近代的とすれば,たしかに磐梯の(磐梯山と猪苗代湖しかない)表よりも(変化に富む)裏にそれがある」と詩的な表現で締めている。この評価は当たっていて,裏磐梯の方が栄えているのだから,現代人の好みは60年経っても変わっていない。  
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2023年12月09日

書評:深田久弥『日本百名山』

 『日本百名山』について,深田久弥自身はあくまで自分が登ったことがある山から選んだこと,深田久弥の選定であって日本の登山家の決定版的に選んだわけではないことを強調しているが,結果として日本百名山は神聖視されている。日本百名山の選定に対する不満としては,
・深田久弥が喧騒を嫌ったために過度に観光地化した山は外された(御在所岳など)
・深田久弥が登っていないために選ばれなかった(石狩岳など)
・標高が1500mよりも低い山は,筑波山・天城山・伊吹山・開聞岳の例外を除いて一律外された(比叡山など)
・選定が東日本,特に北アルプスと北関東に偏っていて西日本からの選出が少ない(蒜山・氷ノ山など)
辺りがよく聞かれるところで,これらの批判自体は当てはまっている。私自身,低山が外されたことについては疑問に思う。しかし,刊行から60年を経て,結局深田の百名山に代わる権威は出現しなかった。深田自身は神聖視を拒否し,困惑していたのだから皮肉なものだ。これらの批判はあっても,結局のところ選定が多くの登山好きにとって妥当性の高いものであったのだろう。

 私自身は元々散歩・散策は好きで,また寺社仏閣巡りも好きであったから,その延長線上で登山を始めた。なにせ登山の最初の大きな目標は投入堂であったし,二番目の目標は富士山の浅間大社奥宮であった。これらを達成してもなお登山を続けているのは,結局のところ登山自体の魅力に惚れ込んだからである。どこに登るかを決める上で日本百名山は指標として大きな役割を果たしていて,私と深田の好みは少しずれているが,それでも結果的に大当たりの山であることが多い。選定されるような山は多様な魅力を持っているということだろう。また,因果が逆転しているが,自治体や観光業者が日本百名山の選定に沿って整備を進めたため,選ばれた山の魅力が増したことも理由として挙げられよう。これもまた喧騒を嫌った深田には申し訳ない事態であるが。
 これらを踏まえて『日本百名山』を読んでみると,確かに本人はこれを神聖視されても困るだろうなと思う。元が雑誌での連載であったため,ほとんどの山は1座に4ページ(一部は6ページ)という紙幅であり,非常に短い。さらに山の名前の由来や信仰の歴史,麓までの紀行文がほとんどを占め,自らの山行記録は4ページのうちの最後の1ページまたは半ページに過ぎない。山の名前の由来や信仰の歴史はよく調べてあって勉強になるが,自らの山行記録は短すぎて物足りない。また,難易度への言及はほぼ全く無く,登山ガイドとしては片手落ちである。深田としては難易度を気にするような層が読むことを想定していなかったのであろう。代わって意外と紙幅を費やしているのがアクセス性や世俗さで,これは喧騒を嫌った深田の好みをよく示している。

 刊行から60年経った今,あえて原著を読む意味はどこにあるか。原著から離れて日本百名山の選定だけが独り歩きしがちな現状,その選定基準に疑問を持たれることも増えているのだから,疑問を解消するなら原著を読むのが最も適している。特に登ったことのある山について読むと,確かに深田の基準ならこれを百名山に入れるのだろうと納得することがほとんどである。深田は読者に自身の百名山を選んでみることを勧めているから,原著の記述はその参考にもなるだろう。また,刊行が60年も前であり,前述の通り百名山に選定されたことで開発が進んだ山も多いため,それぞれの山の状況は大きく変わっている。その差分を探しながら読むのも面白い。現代でも読まれるべき古典的名著である。
 なお,本書で一番面白いのは後書きである。まず,幕末の画家の谷文晁が日本の名山を選抜して『日本名山図会』を描いているが低山が多く,しかも日本アルプスから選ばれているのは立山・御嶽・木曽駒ヶ岳の三座だけであるが,これは時代の制約から言って無理もないと指摘している。その上で,昭和の自分にはその制約が無いというのを百名山執筆の最初の動機として挙げており,これは割りと意外であった。選定の基準として山の品格・山の歴史性・山の個性の3つを重視したことや,七十座くらいまではすぱっと決まったが残りは断腸の思いで選別したことが語られ,そのぎりぎり落選にした山々も挙げられている。どれが当落線上の三十座に当たるのか,考えながら読むのも面白いだろう。そしてこれだけ悩んで選定したにもかかわらず,あとがきの最後に「一番好きな山は最近に行ってきた山」とか書いてしまうあたりに,深田の本書に対する良い意味での適当さが読み取れよう。

日本百名山(新潮文庫)
深田 久弥
新潮社
2016-07-29

  
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2023年12月03日

ニコ動・YouTubeの動画紹介 2023.10月下旬〜2023.11月中旬




コースが無茶苦茶で生命が安い自転車ゲーム。操作に慣れれば普通に面白そうではある。



shelfall氏がやればそりゃまあこうなる,という。すでに最適化されきっている感。



散々体を酷使する縛りプレーをやってきて,次の作品もまた……という予告編。



この人たちまた変な将棋やってる……w



千秋がYoutubeをやっているのは知らなかった。歌声が変わってないのはすごい。


ZAQ本人が歌うバージョンもまた良い感じ。  
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2023年12月02日

2023年大相撲九州場所の感想

先場所のような展開になるかと思われたが,星のつぶしあいとはならず,霧島が実力を発揮して頭一つ分抜け出し,2敗を維持して優勝した。横綱照ノ富士の優勝を除くと,つまり大関以下での2敗での優勝は7場所ぶり,去年の九月の玉鷲以来である。というよりも直近3年で照ノ富士を除いて2敗以内で優勝したのはその玉鷲と御嶽海と大栄翔が1回ずつという状況である(いずれも関脇以下)。照ノ富士にしても3敗での優勝が少なくなく,優勝ラインが3敗・4敗まで下がらなかったのは,令和の時代としては珍しい現象と言えよう。

優勝した霧島は,序盤はそこまで調子が良いようには見えず,実際に6日目までに2敗している。しかし,周囲もぽろぽろと取りこぼしていき,結果,優勝争いで優位な位置を占めると尻上がりに調子を上げていった。苦手な型がこれといってなく,どういう相撲になっても取れるが,立ち合いに当たり負けることが意外と多いのと,押し相撲になると本職に対しては流石に劣勢で危ない場面が増えるという弱点はある。今場所の2敗はいずれもまさにこれらのパターンで,綱取りに向けて成績を安定させるならこの課題と向き合わなければならない。逆に言ってその霧島を一歩も押せなかった貴景勝は,やはり状態がかなり悪かったのであろう。来場所こそ熱戦を期待したい。

優勝争いを千秋楽まで引っ張った功労者,熱海富士は二場所連続の活躍で,先場所の成績がフロックではないことを証明してみせた。単純に巨漢でパワーがあるが,それを無駄なく存分に生かした相撲ぶりである。巨漢力士にありがちな中に入られると脆い弱点はあるが,抱えて極める対抗策があり,照ノ富士に比べると不格好であるが,平幕力士にには十分な脅威であろう。上位戦にも少し慣れ,高安と豊昇龍を撃破したのは見事であったが,優勝争いのプレッシャーの前では流石に固くなった。次はとうとう上位挑戦であるが,流石に対策されそうである。

他のトピックでは琴ノ若が11ー9ー11の直近3場所が計31勝で,今場所の昇進には2勝足りない。年間全て三役で勝ち越している安定感,横綱・大関の数も考えると初場所はかなり下駄を履かされそうであるが,それでも12勝で計32勝はないと話題にならないだろう。仮に初場所12勝以上するようなことになれば優勝争いをしており,霧島の綱取り最大の障害になっている可能性が高い。これも期待して待ちたい。


個別評。大関はすでに二人語ってしまったのであとは豊昇龍だけだが,こちらは10勝しつつも貴景勝に負けているのが一つ象徴的で,そこでむきになって貴景勝の押し合いに応じてしまうところが霧島に差をつけられた原因である。熱海富士に対しても,決してなめてかかったわけではないのだろうが,重さを見誤っての拙攻で負けている。勝った相撲も技巧に頼りすぎて自滅寸前だった相撲があり,そろそろ負けん気の強さだけで相撲を取るのをやめてほしい。

三役。大栄翔は中終盤に失速して9勝で終戦した。11勝していれば霧島と並んで年間最多勝となったが,その2勝が遠かった。押し相撲力士の性質とはいえ,あまりに一度の連敗が長い。大栄翔の場合,不思議なのは不調に陥っても同じ押し相撲の力士には相撲になることで,終盤に一山本と貴景勝には勝っている。他の押し相撲力士よりも立ち合いの当たり偏重であるのが良いのだろうか。若元春は大関取りに向けての緊張感が一度切れたか,動きが鈍重で以前に戻ってしまった様子であった。平幕から出直しもやむなし。琴ノ若はすでに書いた通り。阿炎と北勝富士はある種順当な負け越しで特にコメントはない。

前頭上位。朝乃山は途中からの出場で不安視されたが,蓋を開けてみると普通にとっていた。その結果が4−4−7というのはコメントに窮する。最初から普通に出ていても8−7くらいで終わっていそう。やはり右四つになるまでが課題で,浅いまま寄っていこうとして振りほどかれる負けパターンはちょっと見飽きたかなと。宇良はらしい相撲が多く,見ていて面白かった。7−7からの千秋楽,動き回って北青鵬を良いように崩し,勝ち越しを決めた取組が白眉である。高安は立ち合いのかち上げの威力が戻ってきて10勝。問題は来場所も続くかどうか。翠富士は技能賞受賞ならなかったのが不思議な出来で,9勝ではあるが,立ち合いの変化を含めて上手い相撲が多かった。特筆すべきは七日目の北青鵬戦,水入りを挟んで計6分40秒超の大熱戦が繰り広げられた。それには報いなければなるまい。先場所ももらえなかったし,三賞選考委員会の目はどうなっているのか。

前頭中盤。北青鵬は大型力士の倒し方実践の場になってしまっていて,もう少し対抗策を練ってほしい。このままではどんどん対策が進んでいくだけである。先場所の評に「肩越しの上手をとってからの動きがスムーズになって負けにくくなった」と書いたが,全く続かずに今場所は元に戻ってしまった。熱海富士はすでに語った通り。

前頭下位。剣翔は後半に突如として調子が上向き,右四つかもろ差しに組んで腹に乗せて寄り切ってしまう取組が多かった。特につって崩した相撲が2番あり,好調ならそれもできるということなのだろう。友風は4年ぶりの幕内となった。大ケガの原因ともなった引く癖はまだ残っていて,その意味でこわごわと取っている感じもしたが,まずは戻ってきたことを祝いたい。復帰の場所で7−8であるから,下位では十分にとれるのだろう。一山本は相撲ぶりは変わっていないが,当たったら早々に頭をつける形の押し相撲は特徴的で,対策が立てづらい。今場所は当たりが強く,頭をつけてからの攻めも早かった。以前は序盤が好調だとスタミナが切れて息切れする傾向があったが,今場所はそれもなく完走した。しゃべりが面白いのだが,最近はあまり話す場面を見ないので寂しい。

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Posted by dg_law at 02:05Comments(3)