2005年07月11日

別に暑さで脳がやられたわけじゃない

少し前の講義で写真史を取り扱った。写真を芸術として取り扱うとき、常に立ちはだかる壁は「写真は芸術かどうか」ということである。複製可能だから、物への畏敬が薄れる、よって芸術作品とは言えないというベンヤミン路線が主だった意見である。

近年では、写真は芸術の一ジャンルとして確立されたように思う。東京写真美術館なんてのもあるくらいだし。(なお、ここは自分たちが芸術ではないという批判を受けてきた経験からか、新芸術に対して懐が広い。ヴェネツィアビエンナーレに出展した「日本オタク展」の国内公開を行ったのはここだけである。)しかし、写真が芸術かどうか考えること、そして写真がなぜ芸術と認められたのか考えること自体は、芸術の本質を捉えるために有効な議論であると思う。

一つの主張は、「写真は技術を要するものだから、絵画と同じ」というもの。これはもっともだろう。構図やフォーカスなど、熟練した腕が無いと綺麗な写真は撮れるものではない。複製芸術だという批判も、昔からある版画だって複製芸術だという反論で逃れられる。しかし何よりも大きいのは、「写真史」というものが作られ、写真家たちが(便宜的とはいえ)系列別に整理されるようになり、学問として研究されるようになったことも大きいのではないだろうか。そもそもの実力に加え、権威付けられてしまえば反論は出ない。権威ある批評をくぐった作品は、権威ある作品となりうる。

写真がすごくないと言っているわけではない。学問に研究を「させた」のは写真の実力であり、そこに疑う余地は無い。しかし的確な批評を受けたかどうかというのは、芸術作品として必須の条件だと思う。学問が無かった時代には、貴族層や君主がそういったことをしていたということを考えると、今も昔も変わらない。だとするならば、「芸術はお堅い」という批判はもっともである。

やや横道にそれたが、ここで考えたいのは「ではCGは芸術か?」ということである。アニメ(特に映画)や漫画(特に古いもの)は、何だか認められてきた感があり、ゲームも取り上げられ始めたが、一枚絵としてのCGはいまいち話題に上がってこない。むしろ絵画の一ジャンル的雰囲気が強い。分離するのは時間の問題だと思いたい。


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