2005年07月15日

今日の話題も駒場教養教育の成果……ではない

必要は発明の母というが、実際は発明と必要は両輪のようなものらしい。ちょうど実験と理論が両輪であると、よく言われているように。

奇妙な事実がある。活版印刷は中国(と朝鮮)の発明と言われているが、実はミケーネ文明には既にあった。これは約2000年ほど早い。もっとも、紙にインクや墨で書くのではなく、粘土に金属片で溝を掘って、それを焼くというものであったが、古代文明としては非常に画期的だったといえると思う。

ではなぜ、そのことが歴史的事実として認定されていないのか?それは周囲の国家に広まらず、活版技術が何の役にも立たなかったからである。ミケーネ文明の消滅と同時に滅んでしまった。次にヨーロッパに活版印刷が登場するには、それから1500年ほどあとの、グーテンベルクを待たねばならない。

ではなぜ消滅したのか?この問いは凄く簡単だ。必要が無かったからである。まだ複雑な文字体系も無く(線文字)、複雑な官僚機構も無い。経済らしい経済といえば、オリエント世界との交易だけで、貨幣さえ流通してない。
同じ記号を何度も複製するような、煩雑なものが何も無かったために使用されず、文明の崩壊とともに滅んでしまったのだ。

なんか今更英1の話をしたくないのだが、生命の進化でも同様である。当然、より現在の環境に適用するように進化していったケースも多いのだが、同様に進化した結果新たな環境を手に入れたということも多い。見方によっては、これも「必要は発明の母」といえる。


なんてこと無いことだが、自分としてはけっこうコペルニクス的転回といった感じで、まだまだ自分も視野が狭いと痛感した。余談になるが、これは知識と興味の関係にも適用できると思う。興味を持つことで知識を得たくなる場合が多いと思うが、知識を得てから興味を持つ事だってあるはず。まずは食わず嫌いせずに、何かにつっこんでみるのも面白いかもしれない。案外、駒場の教養教育が目指しているところも、こんなところだと思う。


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