2006年02月16日

第47回「月と六ペンス」モーム著 行方昭夫訳 岩波文庫

(旧題 月と六ペンス)

時間かかったけど読み終えた。時間がかかってしまったのは、テスト期間に重なっていたからなんだけど。400ページではあるけれども、そんなに厚いと感じることはなかった。軽妙な文体だったから、気合いを入れずに読めたのだろう。

モームは「通俗作家」であると非難され、自分でもそううそぶいていたと巻末の訳者後書きに書いてあったが、読んでみて確かにそう言われても仕方ないかと思った。一概には言えないが、文学作品と呼ばれるようなものは、行間を作るのがうまく、自分の文字で全てを説明してしまわないようにしている。ところがこの本は、人間観察が鋭いのはいいことだが、そのせいで描写がくどいのだ。余計なおせっかいだと思われる領域まで説明してしまう。少しは想像する楽しみを残しておいてほしい。

だからこそ、心情が不可解な画家ストリックランドでも、この小説の主人公となりえた、と言えないこともないのも確かだろう。しかし、モームがこの小説を書いてから100年近くたっていて、我々が岡本太郎やポロックのような破天荒な芸術家を知っているからだろうか。はっきり言って、自分にはストリックランドがそんなに奇抜な行動をとっているようには思えなかった。

ストリックランドのモデルはポール・ゴーギャンと本人自身前書きで書いているが、実際のこの二人はかなり違うところが多い。調べれば調べるほど本当にモデルなのかと疑いたくなるほどだが、ゴーギャンとストリックランドの芸術に対する姿勢は確かに同じだ。人として見習いたくはないが、芸術家としては偉大だと思う。

最後に表題について。月も六ペンスも丸いことには変わらないけど、どっちのほうが偉大だろうか、という意味が込められているらしい。さしずめ月が芸術で、六ペンスが現世利益。つまりストリックランドやゴーギャンが月で、自分のような「通俗作家」は六ペンス、自虐ネタなんだろうが、自分は六ペンスの芸術も悪くないと思う。もちろん月も悪くないのだが、常に首をあげているのは辛いし、何より月は欠けて見えなくなるときがある。それよりは六ペンスが常に手元にあるほうがいい。

とは書いてみたけれど、モームのくどすぎる描写はどうも自分には合わなかった。というわけであまり好きではないけれど、もし自分が小説を書いたらこのくらいきつきつの説明をしてしまいそうで嫌だ。じゃあこれは同族嫌悪ということか。


月と六ペンス


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この記事へのコメント
自分の場合は、時代性の違いだなぁと納得していた。
専門分野で無いけど、その当時は40過ぎたら人生は一本道でなくてはならない、とかあったのかな?

我々の住む今の日本では、脱サラとか割と普通になりつつあるけど。
Posted by ta-ki at 2006年02月17日 20:33
現代でも会社辞めていきなり「画家になる」とか言い出したら、きっと止められるw

単なる脱サラなら、おそらく現代日本とあまり変わらないと思う。まあストリックランドが問題なのは、家族に相談なくいきなりやってしまったことだ。そういうわけで、自分はあまり時代性と違いとは思わなかった。
Posted by DG-Law at 2006年02月18日 18:06