2007年04月13日

京アニ版Kanon

「この曲は、Kanon。パッヘルベルのKanon。同じ旋律を何度も繰り返しながら、少しずつ豊かに、美しく和音が響きあうようにになっていくんです。」

14話の佐祐理さんのこの言葉が全てを表している気がする、と某アニメ評論サイトで読んだがまったくその通りだと思った。一ついえることは、ゲーム版(及び前回のアニメ版)のKanonにトラウマがある人ほどそれを払拭するためにこの作品を見てほしい、ということだ。ゲーム版はやる気にならないけど古典として触れる必要がある、という割と新しいヲタにもいい機会となるだろう。

以下、原作の超ネタばれ(アニメのネタばれは無し)。



ゲーム版のKanonは、正しい意味でKanon=追複曲、ではなかった。確かに横のつながりはあったけど、それを推察するのは割と難しい。難しい上にそもそも薄い。それに舞編や真琴編のラスト付近はAIRを彷彿とさせるほどわかりにくく、つながりを推察してる場合じゃないということもある。そして横のつながりが感じられなければ「ただの奇跡の安売りストーリー」に成り下がってしまうという構造的欠陥を抱えていたのも、原作の特徴であった(逆に言えば、そういう批判をしている人は全くKanonの全貌をつかめていない読解力不足さんです)。

この辺りの難点を克服する必要が、京アニには必然的にあった。なぜなら、そもそも5本道に分かれているストーリーを1本道にまとめなければならず、そのつなぎを不自然にしないためには横のつながりを明示する必要がでてくるからだ。そして彼らは見事にそれを果たした。特に最初のルートである真琴編から舞編へのスイッチは見事だった。舞が超能力者であるという設定がここで生かされてくるとは、原作者もびっくりだっただろう。京アニはその作画の安定性ばかりに目が行くが、AIRにしろハルヒにしろ、この原作を再構成する能力こそ、真に賞賛されるべき能力である。

わかりにくいラストも、簡潔にまとめた。けして省いたわけではなくて(むしろ24話で締めたように時間は余っていたのだろう)、あくまでストレートな表現にしただけだ。「原作の頃はまだ麻枝さん、文章を書きなれてなかったのね」ということを再認識させてくれる。

しかし本当に圧巻なのは、22話以降の展開だ。18話で栞編が終わってから19話以降、原作でいうところの名雪編とあゆ編が並行して進み、ここからどうやってまとめていくんだろうと思っていたら、なんと原作には無い新展開だった。またこれが不自然ではなく、良い意味で予想の斜め上を行く。もう賞賛の言葉しかない。

Kanonはこのアニメを以って、奇跡という旋律を繰り返しながら美しく響きあっていく、本当の意味で「Kanon」になったといえるだろう。まあしいて言うなら「わかりにくいほうが鍵っぽいじゃん」という原理主義者には、お気に召さないかもしれない。

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