2007年05月27日
人と神との境界

予想しえたことでありまた仕方の無いことではあるが、今回の展示は本当に《受胎告知》しか来ていなかった。天文学的な保険料がかかっているのだろう。展示は思った以上に至近距離で見れるようになっていて嬉しかったし、行った時間帯が良かったのか(休日だが閉館1時間前)混雑も思っていたよりは酷くなかった。
ただ、解説はもう少しなんとかなったのではないかと思う。レオナルドの天才さ、特に科学者としての彼にばかりスポットが当たっていて、《受胎告知》自体を読み解くための説明はほとんど無かったように思われる。語るべきことは腐るほどあるというのに。実際行ったら、こめからは質問攻めだった。
それでもここで見なければ人生二度と見ることができない品であることは間違いないので、1枚に1200円の価値があると思えればどうぞ。以下、全然専門でもないし単なるしがない美術史学の学生の、会場でこめに聞かれたことを中心にした《受胎告知》の解説と見所。
そもそも受胎告知とは、天使ガブリエルが聖母マリアに神の子を受胎したことを告げるシーンである。このシーンは様々な画家によって繰り返し描かれている重要な場面であるが、それはなぜだろうか。その理由はキリスト教が一神教であるにもかかわらず聖像を用いるということに、一神教上の特例に説得力を持たせるためである。(無論のことながらキリスト教では,聖像は偶像ではなく,さらに聖像は「崇敬」するものと区別しているため,厳密には崇拝ではないが,この解説においては本題ではないので省略)
イエス・キリストとは神が地上に遣わした神の子である。が、地上に存在する以上は実体となる人間の体を持つことになる。これを「受肉」(=リインカネーション)という。そしてキリストは地上において様々な奇跡をなし教えを残し原罪を贖い、再び昇天した。これはキリスト教徒にとって、神の人間に許した恩寵であると考えられた。(極少数の人にしかわからないと思うが、「六道リインカーネション」の元ネタ。)
つまり、神がキリストとして我々の前に人間としての姿で現れたのは神の恩寵であるから、「これは我々が偶像化してもよい、むしろ推奨されるべきである」という許可であるとして受け取られるようになった。そして受胎告知は、この論理を最も象徴する場面であり、この場面を描くことそのものがキリスト教が一神教では例外的に偶像崇拝をしている論理そのものを示しているのであった。
具体的な絵の説明としてまず、これは展示でも詳しく説明されているが、遠近法や人物の視線などの工夫により、画面中央の書架あたりに鑑賞者の視線が行くようになっている。
次に右側の人物、聖母マリアの手振りは諸説あるものの、おそらく左側の天使ガブリエルの伝えた神の子の懐胎を受けていている手振りだというのが有力。マリアの衣が青いのは「貞節」の象徴である。また当時青色はラピスラズリの宝石を削らなければ作れない、金と同額の高価なものであったため、それを使うことでマリアの高貴さを示している、とも言える。
ではなぜ金をあまり使っていないのかというと、金色は遠近法をつぶすため、リアリティを重要視するレオナルドのような画家には嫌われたからであった。天使の光輪もそのせいで随分目立たないことなっている。なお、天使の輪は昔は単なる円盤(光輪)であったのだが、次第に金色が嫌われ縁しか画家が描かなくなったのを、勘違いされて「天使の輪」と呼ばれるようになったのがその理由である。
上半身の衣が赤いのも、高貴さを示すため。将来磔刑となるキリストの血を示すとも言われる。天使の下半身の衣も、そういうことだろう。小さな画像では見にくいかもしれないが、天使がその手に持っているのは白百合であり、これも「マリアの純潔」を示している。この絵だけではなく、マリアの衣はこの赤・青・白の三色のどれかを使って描かれることが多い。それぞれが深い象徴を持っている。
マリアが読んでいるのは旧約聖書「イザヤ伝」であるとされる。なぜならキリスト教では旧約聖書で起きたことは必ず新約聖書でも起きるとされており(これを「予兆説」という)、イザヤ伝はイザヤが「将来救世主(=後のキリスト)が誕生する」ことを預言する、まさにその場面であった。
最後に背景について。本当のこの場面は本来ならパレスチナの植物が生えているはずなのだが、背景の木は15世紀フィレンツェのものであることが研究でわかっている。加えてこういったリアルな風景を描く習慣はイタリア・ルネサンスにはなく、北方ルネサンスの習慣であった。レオナルドも北方ルネサンスの絵を見て、自身の絵の参考にしていたという主張も可能だろう。
まあ、こんなに予備知識を詰め込むのは大変かもしれないが、これだけわかってて見るとかなりおもしろいはずだ。
Posted by dg_law at 00:30│Comments(0)│