2007年07月04日

数そのものは崇高たりうるか

最近はカントの『判断力批判』ばかりを読んで随分美学のことばかり考えていたような気がするが、授業で出た質問で結局イマイチ解決しなかった質問があった。以降、やや専門的な話っぽく見えるが実は全然そうでもないので気軽に読んで欲しい。

崇高という概念には、カントによれば二つの種類がある。一つが数学的崇高でもう一つが力学的崇高だ。数学的崇高とはつまり一言で言えば「でかぁぁぁぁぁぁいいいいい!!!!!説明不要!」(from刃牙)ということであり、比較を絶してでかいということだ。でかいということは偉大なことだ。山脈や城塞、宮殿、寺院などはこの部類に入る。力学的崇高とは簡単に言えば「強靭、無敵、最強」(by海馬社長)ということ。比較を絶して強いということだ。カントは大洋の大嵐を例に挙げていた。

ただしここで「富士山だってエベレストに比べたら小さいじゃん。でも崇高だと思う」というツッコミはしごくまともに入ってしかるべきである。だがカントはそれに対して「その人の心の内にとって絶対的に大きいと感じられればそれは崇高」と言ってたので、まあそういうことなんだろう。それにカントは崇高を感じるかどうかは主観的なものと言っていたから、個人によっても違ってくるのだろう(一方で普遍妥当性を持つとも言っているが。)加えてカントは「自然の中にしか崇高は認められない」と言っているがこれに関してはカントが議論を単純にするために制限したと解釈する立場をとっておく。実際その後には、でかかったり強かったりしたら崇高と表現されていくわけだし、カントが本当はどう考えていたかは別にして。


ここで本題に戻るに、授業で出た質問は「数学的崇高とは言うが、数そのものは、カントの定義で言うところの崇高たりえるのか」ということである。この場合の数というのは、「富士山が3776m」とか「太陽までの距離が約1億5000万km」だとか、そんな数ではない。ほんとに単純に、何の単位もつかない数……たとえば145216542541254712551255531458268658187812645987429825684453214853125632482325247547821とかいった意味の無い数字の羅列だったり、10の15乗とかいった表現は簡素だけど事実上大きい数字だったり、円周率のような小さい数字だけれども桁は無限に続くとか、そんな数に対して、である。

もちろん崇高が主観的なものであるならば、数そのものに対して崇高さを感じる人もいるのかもしれない。だが、個人的な感想を言わせてもらえば、やはり漠然と、何の単位も無い数だけを見て崇高を感じろというのは難しい話だと思う。しいて言えば一番カント的な数学的崇高に近いのは円周率や2の平乗根のような無理数の羅列だとは思うが、それは「紙面を占める数字の大きさ」に圧倒されているのであって、数そのものに圧倒されているわけではないように思う。


ここまで考えてカントゼミ内議論も私の脳内議論も煮詰まったわけだが、読者諸氏はいかが考えるだろうか。あえてカントを全く知らないほうが回答が出やすいのではないだろうか。暇な人や、禅問答の公案を求めている人は、ぜひ考えてみて欲しい。定義は上記のもので十分だと思うが、何か足りなければまた。

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この記事へのコメント
連続コメントかっこわらい

自分も純粋な数字は崇高さを感じる対象にならないかと思われ。

数字は、それに単位がついて初めて主観的に捉えうる
ものなんじゃないだろうか。(数字そのものは実在しないから)
“崇高を感じるかどうかは主観的なもの”なのなら
実在しない数字は主観的に捉えようがない。
したがって崇高に感じられることはない。

これでどーだかっこわらい
Posted by 紅ちゃ at 2007年07月04日 20:35
あれ?俺がイル…さておき、我々はつまるところ属性に萌えるのであって女性であるというだけで萌えはしないということでおk?(違
Posted by 紅茶 at 2007年07月05日 10:30
>紅ちゃもといあっつぃー
確かに概念というものは悟性が対象を認識するものであって、実在するものじゃないね。人間は現象じゃないと認識できないってカントが言ってた、気がする。

昨晩こめとメッセで語り合った結果、いろいろわかった気がするのでついでに追記。まず、単なる数字の羅列に関しては、人間はそれを数そのものではなく絵柄として認識してしまうため、これは純粋な数ではない。よって省かれる。そして人類が十進法を採用している限り、無制限の数を表示することはできない。じゃあこれが「認識を超えた」「圧倒的な何か」かというと、今度は無理数というのは基本的に幾何学的な表現が可能であり、図にした瞬間陳腐になるから、これは崇高足りえない。

よって、数そのものは崇高にはならない、という結論が。そうか。数が単なる概念という立場を取るなら、こんな分析せずとも崇高ではないという結論に至るね。
Posted by DG-Law at 2007年07月05日 20:39
>紅茶さん
それはこの話題と全然関係無い気もしますがw
でも世の中にはショタ萌えも801もある以上、女性というのは重要なファクターだと思います。というよりも、「女性」ということ自体が属性であって、当然すぎて普段失念しているのではないでしょうか。

ところで紅茶さん現実の知り合いですかね?いや、全然見知らぬ人でも大歓迎ですし明かしてくれなくても全然構わないんですが。逆にもし知り合いだったら丁寧口調が変だなと思ったので。
Posted by DG-Law at 2007年07月05日 20:39
いえいえ、私は辺境の住民なのでリアルでの面識はないかと。西洋史や美術史は好きなのでいつも楽しまさせて頂いております。またよろしゅうに。ブログもよろしく^^;
Posted by 紅茶(奴隷) at 2007年07月06日 11:32
レポートを書くために情報を探していたところ、こちらにたどり着きました。
エベレストは力学的崇高に分類されるのではないのでしょうか?
昔の投稿にコメントしてしまい、申し訳ありません。
Posted by Fラン大学生 at 2017年06月29日 18:33
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11161131696
この知恵袋を引いて言っているのであれば,誤りです。数学的崇高が「自然が数学のように合目的性を持っていることへの賛嘆」とか完全にデタラメです。そもそもカントの思想から言えば合目的性などの概念では捉えられないようなものが崇高にあたるはずなので。

記事中に砕けた言葉で書いてあるところ,お堅い言葉で言うべくコトバンクから引用しますが,
https://kotobank.jp/word/%E5%B4%87%E9%AB%98-83268
「彼は崇高の対象をまず自然としたが,これを2つに分類し,比較を絶して大なる対象によるものを数学的崇高とし,自然が恐るべき威力的対象として現れるとき,これを力学的崇高と呼んだ。」
ですので,山々は「比較を絶して大なる対象」に入ると思います。これが火山の噴火や大規模ながけ崩れとなると力学的崇高になりますが。カントは,自らの身に危険を感じるような環境では力学的崇高を感じることができないと言っていますから,逆説的に言って,本来であれば危険性のあるようなものが力学的崇高といえるでしょう。

崇高論については,こちらの書籍がすばらしくまとまっています。
https://www.amazon.co.jp/%E5%B4%87%E9%AB%98%E3%81%AE%E7%BE%8E%E5%AD%A6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E6%A1%91%E5%B3%B6-%E7%A7%80%E6%A8%B9/dp/4062584131
Posted by DG-Law at 2017年06月30日 02:59
返信ありがとうございます。
丁寧に教えていただいて感謝しかないです、、

数学的崇高と力学的崇高、少し理解できました。
しっかり勉強しなおします。ありがとうございました!

Posted by Fラン大学生 at 2017年06月30日 04:25