2007年09月11日

そのほうが「ロマンチック」じゃないか

窓辺の女今日も今日とて論文を読んでいて、一つ気になる話があった。その論文のテーマになっていた絵がこの《窓辺の女》(C.D.フリードリヒ、ベルリン国立博物館、1822)である。

この絵に関して有名なフリードリヒ研究家は皆、キリスト教的な象徴性や窓の生み出す彼岸的世界への憧憬などを指摘しており、当時この絵に写る後ろ姿の女性に対する恋慕の情を歌った詩人に対し「本質を捉えていない」とケチをつけている。ちなみに、ところが、今日読んだ論文の著者は、もっと別の論拠からこの詩人を擁護している。

意外に思われるかもしれないが、私の意見は後者である。つまり、フリードリヒの真意はこの写っている女性、ぶっちゃけて言えば彼の妻に対する親愛の情を描いたものだと思う。もちろん、キリスト教的な象徴性や彼岸世界への憧憬のような思想を、フリードリヒが込めていないと主張しているわけではない。彼のことだから多義的な解釈が可能なように絵を描いていることだろうし、実際そういう見方もできるのだと思う。

しかしだからといって、そのような小難しい解釈が、よりわかりやすい解釈を退ける理由になってはいけないと思うのだ。”両方の理由”で描いた、というのがより正解に近いところであるように思う。もちろん、論拠無しに主張をしてはいけないのではあるが。

私は浅学だから、この論文以上の明確な論拠を提出することはできない。しかしそれでも(研究者としてはあるまじき主張ながら)、フリードリヒが1818年の結婚以後は若干画風が明るくなったこと、妻を溺愛していたこと、そして何よりもフリードリヒの絵画にしてはありえないほどの温かみがこの絵からは感じられること、これだけでも十分な論拠になりうると、私は思うのだ。

(その論文:木村和実「C・D・フリードリヒ《窓辺の女》」、『河南論集』、1999)


余談。結婚当時、フリードリヒ43歳、妻カロリーネ・ボマー25歳という事実。そりゃ溺愛するのもわかるが…………

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