2007年10月13日
絵画という勝負
水面の絵は大きく分ければ、きっちり描いてある(自然主義的な)絵とゆらめきを重視して描いてある(印象主義的な)絵の二通りあると思うが、どっちが好きだろうか。全然違う二つではあるが、私は両方好きだ。しかし、どっちのほうがリアルと感じるか、と言われればかなり難しい。確かに一見、自然主義的な描き方のほうがリアルなのだが、水面らしいと感じるのは印象主義的な描き方だと思う。別に水面に限らず、岩の絵でも木の絵でもそうなのだが。
同じような葛藤を生むのが裸婦の皮膚に関する描き方。これもアカデミックな病的なまでの質感も、(前期)ルノワールのふわふわした質感もどっちも真だと思うし、どっちもある種の偽者くささはぬぐえない。これにも優劣をつけるのは非常に難しい。このまったく正反対の表象に対して、ほとんど同じ尺度で、しかも優劣つけがたい評価が下せてしまうというのは、人間の感性を考える上で単純におもしろいことだと思う。
絵画というのは所詮二次元であって、人間の五感(もしくは六感)のうちで一つの感覚しか選挙することはできない。しかし我々は普段感覚器官をフルに使って生きているのだから、絵画のリアリティには限界がある。しかし、その限界を乗り越えようとするからこそ、表象の方向性も一方向ではなくなったのではないだろうか。我らが秋山氏は「視覚的な意味で現実に似ているということを言いたいなら『迫真的』という言葉を使ってみるべし」とおっしゃっていたが、その含意はなかなかに深い。
それにもう一つ、絵画には二次元の「静止画」であるという欠点もある。こっちの限界を乗り越える方法も画家たちは多様に生み出してきた。我々はしばしば静的な絵画、動的な絵画という評価の下し方をするが、こういった評価の言葉があること自体がすでに、絵画というもののおもしろさを示しているように思う。
こう考えていくと、やっぱリアリティを放棄した時点で絵画は負けだと思うんですよね、といつもの現代芸術批判でお茶を濁して閉めてみる。
同じような葛藤を生むのが裸婦の皮膚に関する描き方。これもアカデミックな病的なまでの質感も、(前期)ルノワールのふわふわした質感もどっちも真だと思うし、どっちもある種の偽者くささはぬぐえない。これにも優劣をつけるのは非常に難しい。このまったく正反対の表象に対して、ほとんど同じ尺度で、しかも優劣つけがたい評価が下せてしまうというのは、人間の感性を考える上で単純におもしろいことだと思う。
絵画というのは所詮二次元であって、人間の五感(もしくは六感)のうちで一つの感覚しか選挙することはできない。しかし我々は普段感覚器官をフルに使って生きているのだから、絵画のリアリティには限界がある。しかし、その限界を乗り越えようとするからこそ、表象の方向性も一方向ではなくなったのではないだろうか。我らが秋山氏は「視覚的な意味で現実に似ているということを言いたいなら『迫真的』という言葉を使ってみるべし」とおっしゃっていたが、その含意はなかなかに深い。
それにもう一つ、絵画には二次元の「静止画」であるという欠点もある。こっちの限界を乗り越える方法も画家たちは多様に生み出してきた。我々はしばしば静的な絵画、動的な絵画という評価の下し方をするが、こういった評価の言葉があること自体がすでに、絵画というもののおもしろさを示しているように思う。
こう考えていくと、やっぱリアリティを放棄した時点で絵画は負けだと思うんですよね、といつもの現代芸術批判でお茶を濁して閉めてみる。
Posted by dg_law at 12:00│Comments(0)│