2007年11月12日
細部とか全体とかポストモダンっぽいな
「神は細部に宿る」と、偉大なる美術史家ヴァールブルクは言った(もっとも彼が最初に言ったのかどうかは確認されていないようだが、広めたのは間違いなく彼であろう)。いかにもイコノロジーを創始した人間の言いそうな言葉だ。この格言は「神」という言葉の解釈によってどんな意味にも取れるが、イコノロジー的にはそういうところにこそ、絵の真意が隠されているとでも言いたげなことが読み取れる。これも一種のイコノロジー的作業か、絵じゃないけど。
今尚、そしてほぼ未来永劫イコノロジーという分野は美術史の中で生き続けていくだろうし、実際おもしろいと思う。格言自体がもっともらしいこともあって、何の疑いも無くいい言葉だと思ってたのだが、最近某論文で某ドイツ人の学者が、直接ヴァールブルク(やイコノロジー系の学者)を指していたわけではないけども、思いっきり反発していた、こんな風に。
「大衆にしろ知識人にしろ、初見で見るのは絵全体のはずだ。細部を見るのはそれからの作業のはずだ。だったら、画家がひねくれていないか、隠すことが目的じゃない限り、初見でわかるところに一番主張すべきものを持ってくるのが当然ではないのか。もちろん、裏の意味などを細部から読み取ることも重要だが、今の美術史はあまりにも『図像解釈』にこだわりすぎていて、絵全体が与える『直感的な感想』というものをなおざりにしている。」
見ようによっては当然のことしか言っていないのだが、短い期間ながら美術史という学問にどっぷり漬かってきた自分としては割と目から鱗が落ちた。ファーストインパクトで強い感情を与えられなければ、解釈しようという気は起きない。にもかかわらず第一印象の話は「当然」として議論から省略してしまうのは、学問としての「細部」にまで目が行き届いていないのかもしれない。
ましてやフリードリヒというのはロマン主義の極北に存在する画家なわけで、どの作品を見てもファーストインパクトが強い。にもかかわらず、象徴的解釈ばかりが先行して美学的な議論がたいして進んでいないのは、(一つには研究史上の事情もあるのだが)逆にインパクトが強すぎて当然の見られる動きが強いせいか。
つまりは「神は○○にいる」のではなくて、神は名作と呼ばれる絵画全体に遍在しているんじゃないかと。むしろ全体か細部か、どちらかにしか神が存在しないような作品は名作とは呼びがたいのではないかと、そう認識してみることにしたい。
今尚、そしてほぼ未来永劫イコノロジーという分野は美術史の中で生き続けていくだろうし、実際おもしろいと思う。格言自体がもっともらしいこともあって、何の疑いも無くいい言葉だと思ってたのだが、最近某論文で某ドイツ人の学者が、直接ヴァールブルク(やイコノロジー系の学者)を指していたわけではないけども、思いっきり反発していた、こんな風に。
「大衆にしろ知識人にしろ、初見で見るのは絵全体のはずだ。細部を見るのはそれからの作業のはずだ。だったら、画家がひねくれていないか、隠すことが目的じゃない限り、初見でわかるところに一番主張すべきものを持ってくるのが当然ではないのか。もちろん、裏の意味などを細部から読み取ることも重要だが、今の美術史はあまりにも『図像解釈』にこだわりすぎていて、絵全体が与える『直感的な感想』というものをなおざりにしている。」
見ようによっては当然のことしか言っていないのだが、短い期間ながら美術史という学問にどっぷり漬かってきた自分としては割と目から鱗が落ちた。ファーストインパクトで強い感情を与えられなければ、解釈しようという気は起きない。にもかかわらず第一印象の話は「当然」として議論から省略してしまうのは、学問としての「細部」にまで目が行き届いていないのかもしれない。
ましてやフリードリヒというのはロマン主義の極北に存在する画家なわけで、どの作品を見てもファーストインパクトが強い。にもかかわらず、象徴的解釈ばかりが先行して美学的な議論がたいして進んでいないのは、(一つには研究史上の事情もあるのだが)逆にインパクトが強すぎて当然の見られる動きが強いせいか。
つまりは「神は○○にいる」のではなくて、神は名作と呼ばれる絵画全体に遍在しているんじゃないかと。むしろ全体か細部か、どちらかにしか神が存在しないような作品は名作とは呼びがたいのではないかと、そう認識してみることにしたい。
Posted by dg_law at 15:56│Comments(0)│