2007年11月14日
「多様性」は簡単に使えない言葉だと思う
ちょっとまじめに反応してみようと思う。この記事だけならよくある話だからスルーするつもりだったんだけど、このブログの他の記事がおもしろかったから、トラバ飛ばしてみようと思う。
前もうちのブログでは書いているが、一つの文化というのは一定の機軸を持ちつつその中で微妙な変化を見せていくのであって、その変化が「微妙」だからこそおもしろい。機軸を破壊するような変化もたまに出現するが、要はそれが受容層に受け入れられればそれは後世「革新」と評価され、受け入れられなければ単なる挑戦に終わる。受容層が飽きるまでずっと革新が起きなければ、これもまた単にその業界が滅びるだけだ(まあ、まずそんなことはありえないのだが。必ずその前に革新は起きる。だって商売だもの)。
その革新にしたって、西洋絵画史上の印象派の登場のように一気に何かが変わることなんてめったになくて(その印象派も受容されるまでにずいぶんと時間がかかっているわけだし下地はあったわけだけど)、普通はだんだんと受容する側の嗜好が変化していくもんだ。それに印象派の登場後だって前近代の絵画は人気を失ったわけではなく、現代においてもマーケット上の人気はそれなりに高い。一定様式の美しいものはいつだって美しいのだ。
「雫」を元年とするならまだ誕生して15年かそこいらのエロゲ業界だが、その頃の絵と比べれば(技術的な問題を加味するにしても)ずいぶん様式が変わっているのは疑いえない。むしろその頃から比べればエロ漫画/アニメっぽい絵からエロゲ独自の絵、文化が根付いていて、その意味での「ジャンルとしての」独自性ならば現れてきている。最近やたらとシナリオライターの世代分けが話題になっているが、原画家も十分そういう俎上に上げられるはずだ。その上で「古典」に当たるのはやはり323等の葉の原画陣じゃないかと思う。
要は、ありふれた絵が氾濫することに対して憂う必要は全く無いし、常に変化は起きているということ。受容する側が飽きれば自然に絵の趣味は移り変わっていくし、逆にクリエイターの側がそういう需要を創始することもあると思う。だから、私は原画家が既存のエロゲ絵に似せない絵をエロゲに載せることには全く反対はしないし、そういう「革新的」な挑戦は非常に評価したい。その意味でならば、トラバ先の人の「もっと個性のある絵を評価する努力もした方がいい気がする.」という意見には賛同できる。もちろん、それでも「古典」たる323絵は生き残っていくだろうしね。とかそんなことを、鈴平絵やみやま絵、カーネリ絵が好きな自分が言ったら多少説得力あるかね。三人とも、少なくともリーフ原画陣とは大きく違うと思うんだけれど。(言うまでも無く323絵も好きだけど)
しかし、トラバ先の記事にどうしても反論しておかなければならないのは「似たような顔をした似たような魅力をもった,均一化されて,記号化されたラムちゃんが勢ぞろいすることだろう」とか、「エロゲンガーに同じ構図で髪型・髪色,目の色,肌の色一緒で,目の形(タレ目・ツリ目)も一緒のキャラを描かせたら,たぶん違いが解らないだろう…」といった文言。衆目を集めるための釣り文章にしか思えないくらいだ。
これらはいくらなんでも言いすぎだろう。そりゃ、323と池上茜と甘露樹絵を並べられれば相当判断には困るだろうけど、挙がっているようなべっかんこうと西又だったら十分違う。他の主要な原画家を見ていっても「一つの業界内としては」十分に多様性が認められうるだろう。革新の目は十分にありうるし、これからも徐々に変わっていくことだろう。もしどうにも個性が見出せないというのなら、それは数を見ていないかそういう感性を持っていないかどちらかだ。エロゲ業界は十分「ちょっとズレている作家も養」っている。
それと、エロゲンガーの例に西又とべっかんこうを出して、「作家個人が同じ絵しか描けないかどうかは問題にしてない」と言い張るのは若干人が悪い。言外のものだったとしても、そういう主張をしているようにしか思えない。業界内の絵が均一になりすぎている例を出すなら、さっきも挙げたが323と池上茜の比較画像でも載せてほしかった。そうすればまだ皆納得したのにね。
前もうちのブログでは書いているが、一つの文化というのは一定の機軸を持ちつつその中で微妙な変化を見せていくのであって、その変化が「微妙」だからこそおもしろい。機軸を破壊するような変化もたまに出現するが、要はそれが受容層に受け入れられればそれは後世「革新」と評価され、受け入れられなければ単なる挑戦に終わる。受容層が飽きるまでずっと革新が起きなければ、これもまた単にその業界が滅びるだけだ(まあ、まずそんなことはありえないのだが。必ずその前に革新は起きる。だって商売だもの)。
その革新にしたって、西洋絵画史上の印象派の登場のように一気に何かが変わることなんてめったになくて(その印象派も受容されるまでにずいぶんと時間がかかっているわけだし下地はあったわけだけど)、普通はだんだんと受容する側の嗜好が変化していくもんだ。それに印象派の登場後だって前近代の絵画は人気を失ったわけではなく、現代においてもマーケット上の人気はそれなりに高い。一定様式の美しいものはいつだって美しいのだ。
「雫」を元年とするならまだ誕生して15年かそこいらのエロゲ業界だが、その頃の絵と比べれば(技術的な問題を加味するにしても)ずいぶん様式が変わっているのは疑いえない。むしろその頃から比べればエロ漫画/アニメっぽい絵からエロゲ独自の絵、文化が根付いていて、その意味での「ジャンルとしての」独自性ならば現れてきている。最近やたらとシナリオライターの世代分けが話題になっているが、原画家も十分そういう俎上に上げられるはずだ。その上で「古典」に当たるのはやはり323等の葉の原画陣じゃないかと思う。
要は、ありふれた絵が氾濫することに対して憂う必要は全く無いし、常に変化は起きているということ。受容する側が飽きれば自然に絵の趣味は移り変わっていくし、逆にクリエイターの側がそういう需要を創始することもあると思う。だから、私は原画家が既存のエロゲ絵に似せない絵をエロゲに載せることには全く反対はしないし、そういう「革新的」な挑戦は非常に評価したい。その意味でならば、トラバ先の人の「もっと個性のある絵を評価する努力もした方がいい気がする.」という意見には賛同できる。もちろん、それでも「古典」たる323絵は生き残っていくだろうしね。とかそんなことを、鈴平絵やみやま絵、カーネリ絵が好きな自分が言ったら多少説得力あるかね。三人とも、少なくともリーフ原画陣とは大きく違うと思うんだけれど。(言うまでも無く323絵も好きだけど)
しかし、トラバ先の記事にどうしても反論しておかなければならないのは「似たような顔をした似たような魅力をもった,均一化されて,記号化されたラムちゃんが勢ぞろいすることだろう」とか、「エロゲンガーに同じ構図で髪型・髪色,目の色,肌の色一緒で,目の形(タレ目・ツリ目)も一緒のキャラを描かせたら,たぶん違いが解らないだろう…」といった文言。衆目を集めるための釣り文章にしか思えないくらいだ。
これらはいくらなんでも言いすぎだろう。そりゃ、323と池上茜と甘露樹絵を並べられれば相当判断には困るだろうけど、挙がっているようなべっかんこうと西又だったら十分違う。他の主要な原画家を見ていっても「一つの業界内としては」十分に多様性が認められうるだろう。革新の目は十分にありうるし、これからも徐々に変わっていくことだろう。もしどうにも個性が見出せないというのなら、それは数を見ていないかそういう感性を持っていないかどちらかだ。エロゲ業界は十分「ちょっとズレている作家も養」っている。
それと、エロゲンガーの例に西又とべっかんこうを出して、「作家個人が同じ絵しか描けないかどうかは問題にしてない」と言い張るのは若干人が悪い。言外のものだったとしても、そういう主張をしているようにしか思えない。業界内の絵が均一になりすぎている例を出すなら、さっきも挙げたが323と池上茜の比較画像でも載せてほしかった。そうすればまだ皆納得したのにね。
本題ではないが、西洋美術を専門にやっている自分も追認しておこう、この記事で言われていることは全く正しい。ルネサンスとか古典主義とか、マジ判子絵以外何者でもないのだから。(ただ、自分の場合そういう判子絵自体が好きだが)それで、ありふれた絵から反逆したのが印象派から抽象芸術に至る過程なわけで、失ったものは「絵画」という枠。そんなのが革新の未来だというのなら、抽象芸術の嫌いな自分としては革新なんて必要ない。
言ってることがこの方とかなりかぶっている気もする上に向こうのほうがわかりやすい気もするが、書き上げちゃったから気にしない。あと、みやま御大が産業としてのエロゲという切り口で反論してるんでそっちも読んでみるといいと思う。
言ってることがこの方とかなりかぶっている気もする上に向こうのほうがわかりやすい気もするが、書き上げちゃったから気にしない。あと、みやま御大が産業としてのエロゲという切り口で反論してるんでそっちも読んでみるといいと思う。
Posted by dg_law at 19:46│Comments(2)│
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nix in desertisさんからいただいたトラバが面白くて読みふける。 「多様性」は簡単に使えない言葉だと思う 「エロゲ業界は十分「ちょっとズレている作家も養」っている。」というのは、大変に同意。 こうして歴史の事例を見ていると面白い。 新しい現象を理解する時に、過
今、そこにある多様性【終わりの近い日記】at 2007年11月15日 00:30
この記事へのコメント
「興味のない才能に、意味はない。」
とは某キャラクタの台詞なのですが、その通りかと。
冷めた(マイナスな)視線で見た物の評価は視線と等しく冷めたものです。
反感を買うことは多いけれど、共感してくれる人は少ないんじゃないでしょうか。
個人的な見解ですけど、みやま御大のイラストは、
人のイメージに直接訴えかける「祖」なるイメージを感じさせるものだと思っています。単に自分の美観と相性が良いだけなんでしょうけど。
とは某キャラクタの台詞なのですが、その通りかと。
冷めた(マイナスな)視線で見た物の評価は視線と等しく冷めたものです。
反感を買うことは多いけれど、共感してくれる人は少ないんじゃないでしょうか。
個人的な見解ですけど、みやま御大のイラストは、
人のイメージに直接訴えかける「祖」なるイメージを感じさせるものだと思っています。単に自分の美観と相性が良いだけなんでしょうけど。
Posted by 倉印 at 2007年11月15日 06:22
とりあえず肯定から始めてみることが大事だと思うんですよね。
一端考察してみて、それからダメだと思えば否定すればいい。そうすれば否定にも明確な理由ができるし、反発されることも少ない。
私もみやま先生の絵はこの業界ではかなり独特だと思います。
確かに、感性に強いインパクトを与えますよね。
ところで、その通称「酔っ払いゾーン」は消しておいたほうがいいんでしょうか?w
一端考察してみて、それからダメだと思えば否定すればいい。そうすれば否定にも明確な理由ができるし、反発されることも少ない。
私もみやま先生の絵はこの業界ではかなり独特だと思います。
確かに、感性に強いインパクトを与えますよね。
ところで、その通称「酔っ払いゾーン」は消しておいたほうがいいんでしょうか?w
Posted by DG-Law at 2007年11月15日 18:25