2007年12月04日

短編集に近いと思う、あれは

今日くらいブログ休もうかと思ったけど、前述の本を読み返していてふと思ったので一筆。『判断力批判』は比較的わかりやすい一方で話が細切れで論立てについての説明も無いから、段落ごとの話の違いが大変脈絡が無い。その脈絡をつけようと後世の学者勢ががんばってみたわけだが、つければつけるほど矛盾が生じる。では、なぜカントは『判断力批判』を、こんな面倒な構成にしたのか?

それは、ブックレビューでは「カントに隠した意図は無かっただろうが」と書いてしまったものの、実はカント自身無謀なものに挑もうとしていたということを自覚していたからではないかと思う。それで、真の意図である「美は理性の象徴であることの証明」をうまくごまかしつつ、それでいてその意図を達成しようとする要素を文章中に潜ませるには、あえてすごくわかりづらい構成にするしかなかったのではないか、と。

心身二元論を破綻させないまま、感性的なものと超感性的なものを橋渡しさせることで心身二元論を否定できるのではないかという提言をすること、一行に要約してみるとなおその無謀さが理解できる。彼がそうまでしてこの提言をしようとした理由は以前述べたとおり、カント哲学の究極的な目標が「近代哲学の完成者カントは同時に理性崇拝者であり、その理性とは彼にとって神から授かった、人間が最も神の恩寵を受けた生物である」ことの証明であったからだ。理性理念が感性界に降りてこないのは、我慢ならなかったのであろう。カントにとってはその橋渡しが偶然「美」であっただけだ。

逆説的には、カントにはもう既に現代哲学の萌芽が見えるのかもしれない。結局、心を感性界に持ってくるには、実存主義にしろ構造主義にしろ、神なるものを否定するしかなく、「美」という一概念程度では不可能であったというわけだ。

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