2007年12月07日

シラー他についての雑感

ゲーテを出したのは一つには哲学者(純粋な思想家)と小説家兼の思想家という違いを出したかっただけであって、その意味では別にティークでもクライストでもブレンターノでもシュレーゲル兄弟でも良かった。逆にカント側はフィヒテやシェリングか。要は哲学者か、小説家が哲学者っぽい思想を持つに至ったかの違い。個人的にはこの違いというのは大きいと思う、文章の論理性が読み比べてみると全然違う。サルトルとカミュもきっとこんな関係なんじゃないかな、両方読んだこと無いからうかつなことはいえないが。

その中でゲーテを選んだのは知名度の問題もあるが、二人ともこと「美学」に関しては『判断力批判』を基盤にしているという共通点がある。もっとも、ゲーテのほうはシラーほど強烈には受容していないし、自分もそんなに調べてない。henriの言うとおり、思想化することに大した興味も抱かなかったのだろう。それに対してシラーは創作スピードを落としてまでカント美学を批判する論文を書いていたのだから(事実90年代前半は発表が無い)、確かにシラーのほうかゲーテよりも、カントに近いところにいる人間かもしれない。

なんにせよシラーの美学というのは小説家よりの思想家らしい。バタイユ(あいつの文章は小説家寄り)にしてもギルピンにしてもシラーにしても、言葉の定義がいい加減すぎて、後世の人を混乱させるのが得意技すぎる。その分、思想自体は哲学者よりもストレートでわかりやすいから、どっちがいいかと言われると何ともいえない。結論としてはどっちも難しいんだが。

シラーの最大の欠点は、前に自分が書いた「美」の上位概念と下位概念をごっちゃに使っていることだと思う。一々文脈上で「これどっちよ?」と悩まなくてはならないし、箇所によっては昨日取り上げた本にも書かれていたように、どっちの美か、ということでいまだに議論の種になる。曰く「そもそもシラーはあまり区別する気も無かった」と。カントは絶対にこんなことを許さない。しかし、カントにはパッチワークという別の罠があるが。

ただ、自分としては小説家よりの思想家くらいのいい加減さが好きだ。いかに哲学と言ってもこの間少々おおげさに書いたようにどっかでデッドエンドはあるものだし、人間精神なんて矛盾した存在だから、語義自体が重複するくらいの懐があったほうが逆に真実味がある。カントは「美と崇高は並立しない」と言った。シラーは「美と崇高は混在しうる」と言った。ならば私はシラーを推そう。


またシラー美学の卑怯なところは、この間述べたカント哲学の超越論を完全にスルーして、一方でカントの美学が実践理性と結びついていることを批判したところだ。その根幹を無視して好きかって言う辺りがまた思想家っぽいんだが(誤解無いように繰り返して言うが私はそういう思想家のほうが好きだ)、つまりはシラーが求めたのはよりソフトな美学だった。

シラーの美学の肝はカントが理性を持ち出したのに対し、自由意志を持ち出したことではないかと思う。いかにもシュトゥルム=ウント=ドランクな小説家の言いそうなことかもしれない。だからこそ崇高論もすっきりしている。カントがそこから理性を媒介にして道徳を引っ張り出そうとこそこそしていたのに対して、シラーは崇高の道徳的基礎は神性にあると、はっきりと言及した。そして、神と道徳は結びついていない。

理論的な部分をすっ飛ばして、彼らの導き出したかった結論だけを見ると、逆になぜ過程の理論や持ち出してくるものに違いが出てきたのかが見えてくる。カントの理想は理性的な人間であり、シラーの理想は美的、芸術的な人間であった。カントの理想的な人間は厳格的過ぎる、と言ったのは有名な話で、シラーから見ればそれは禁欲的でつまらない人間のように見えたのだろう。キルケゴールで言うならばカントは倫理的段階(第二段階)を志向したのに対し、シラーは第一段階と第二段階の中間くらいが一番良いと主張していることになるだろう。

ところで、道徳と神を切り離し、神的な威力に対し自らの自由意志で対する、その決断する意志こそが崇高性の起源であるとシラーは言った(意志の部分を全部理性で置換するとカントの主張になる辺り、やはり根底にはカント美学がある)。この部分だけ見ると、ショーペンハウアーやニーチェ、ヤスパースの萌芽が見えるのは私だけであろうか。