2008年01月26日
院試当日
五発目。というわけで今までのは大学院の院試の過去問をひたすら解いて(それをブログの記事になるべく近くなるよう調整して投稿して)いたわけだが、今日のは予想問題である。院試中に更新されるよう予約しておくので、どんぴしゃで当たってしまったらぜひ問題の流出でも疑って欲しいところだ。まあ当然どう洗ってもらっても白なのではあるが。しかし、ちょっと考えてみてもらえば出題傾向はわかるので(というか学内院試組では全員予想が一致したくらい)、まあ7割くらいの可能性であたるんじゃないかと。万が一(学外の)敵に塩を送ることがないように、こんな更新時間にしたが。
ちなみに今更遅いながら、ネタ元を晒すと、『西洋美術研究』のテーマがそのまま院試の問題になっていることが非常に多いため、今年もそう来るのではないかと。重ねて読んでくれればわかるが、以下の答案は『西洋美術研究』の秋山先生の項目と、小佐野先生の『知性の眼』の話の内容をそのまま引用したのみである。当日、もし本当にこの問題が出たならば、ほぼこのまま書いてきているはずである。
さて、当たるか外れるか。帰ってきたら更新してみたい。
ちなみに今更遅いながら、ネタ元を晒すと、『西洋美術研究』のテーマがそのまま院試の問題になっていることが非常に多いため、今年もそう来るのではないかと。重ねて読んでくれればわかるが、以下の答案は『西洋美術研究』の秋山先生の項目と、小佐野先生の『知性の眼』の話の内容をそのまま引用したのみである。当日、もし本当にこの問題が出たならば、ほぼこのまま書いてきているはずである。
さて、当たるか外れるか。帰ってきたら更新してみたい。
ルネサンスがルネサンスたりうるのは、当時の画家たち自身が自分たちを伝説化しようという意識があったからだ。少なくともヴァザーリは間違いなくそう意識して『芸術家列伝』を書いた。彼は現在では「ヴァザーリの画廊」と呼ばれるウフィッツィの、ルネサンスの芸術家たちの自画像の画廊を見て、『芸術家列伝』の執筆を意識したのだという。このような画廊の形成そのものが既に、同時代の画家たちの伝説化への意識が表出したものと言える。
チマブーエとジョットの出会いのシーン、すなわち子供時代のジョットが道端で自然を素描していたら、近くを通りがかったチマブーエの目に留まりそのまま弟子にした、という逸話は、その後のジョットの活躍を考えれば出来すぎている。ペトラルカ、チェンニーノ・チェンニーニ、ギベルティといった層々たるメンバーがこれを引き合いにだし、ルネサンスの始まりとしてジョットを称揚した。
メディチ家最盛期の当主、ロレンツォ・イル・マニーフィコとミケランジェロの出会いもなかなかに伝説的で、完全な創作と断定することはできないが、かなりジョット伝説に引きずられているところはあるだろう。ヴァザーリはこれらの伝説をまとめ、後世に残した。ルネサンスは生きた伝説として、西洋美術の基礎となった。後世の画家たちはこれらの伝説を題材に使って絵画を描き、自らの芸術家意識を確認したのである。
しかしこれらのルネサンスの伝説も必ずしもオリジナルではなく、往々にして古典古代の伝説から引用していることが多い。特にプリニウスの『博物誌』は良いネタ本だったに違いない。当時の人文主義者たちは誰もがプリニウスを読んでいたし、画家たちも古典古代の画家伝説になぞらえれば、自らも伝説化されるということを意識していただろう。ボッティチェリの《アペレスの「誹謗(中傷)」》はその最も有名な例である。
中でもデューラーは自身の名声に関してかなりのこだわりを持っていた。《28歳の自画像》に関しては様々な議論があるが、「神としての画家」を意識して描かれた自画像であることは広く知られている。古典古代の画家伝説をうまく引用したという点においても、デューラーは非常にうまい。《28歳の自画像》に彫られた銘文のラテン語effingebamという単語からは、未完了過去形を多用した古代の画家アペレスを模倣したということを読み取ることも可能だ。そしてドイツの人文主義者たち、特にデューラー周辺のピルクハイマーやツェルティスはデューラーを「ドイツのアペレス」と称揚している。これも一つの、ルネサンスの自己伝説化の一端である。
《ローゼンクランツフェスト》においても、古代の画家伝説に対する意識が読み取れる。それは画面のど真ん中、キリストの幼児服に描かれた蝿の存在である。昨日の「芸術家と旅」においてもこの話題は取り扱ったが、見間違いの伝説は世界中に存在し、割とどうでもいいが、三国志の呉の孫権に仕えた画家に曹不興という人物がいるが、この画家はまさに蝿の絵で孫権をだましたことがある。こうした伝説は当然古典古代にもある。「ゼウクシスとパラシオスの技比べ(競べ)」という逸話は、ルネサンス期の人文主義者たちならば誰でも知っていたに違いない。しかもデューラーがあざといのは、「ジョットの描いた蝿をチマブーエが間違えた」という、既にあるルネサンスの芸術家伝説さえも踏まえて、蝿をモティーフに選択しているということだ。この弟子が師を超えるという構図に、「ドイツ人がイタリアを超える」という意識がデューラーの名声欲から込められていたのかもしれない。
チマブーエとジョットの出会いのシーン、すなわち子供時代のジョットが道端で自然を素描していたら、近くを通りがかったチマブーエの目に留まりそのまま弟子にした、という逸話は、その後のジョットの活躍を考えれば出来すぎている。ペトラルカ、チェンニーノ・チェンニーニ、ギベルティといった層々たるメンバーがこれを引き合いにだし、ルネサンスの始まりとしてジョットを称揚した。
メディチ家最盛期の当主、ロレンツォ・イル・マニーフィコとミケランジェロの出会いもなかなかに伝説的で、完全な創作と断定することはできないが、かなりジョット伝説に引きずられているところはあるだろう。ヴァザーリはこれらの伝説をまとめ、後世に残した。ルネサンスは生きた伝説として、西洋美術の基礎となった。後世の画家たちはこれらの伝説を題材に使って絵画を描き、自らの芸術家意識を確認したのである。
しかしこれらのルネサンスの伝説も必ずしもオリジナルではなく、往々にして古典古代の伝説から引用していることが多い。特にプリニウスの『博物誌』は良いネタ本だったに違いない。当時の人文主義者たちは誰もがプリニウスを読んでいたし、画家たちも古典古代の画家伝説になぞらえれば、自らも伝説化されるということを意識していただろう。ボッティチェリの《アペレスの「誹謗(中傷)」》はその最も有名な例である。
中でもデューラーは自身の名声に関してかなりのこだわりを持っていた。《28歳の自画像》に関しては様々な議論があるが、「神としての画家」を意識して描かれた自画像であることは広く知られている。古典古代の画家伝説をうまく引用したという点においても、デューラーは非常にうまい。《28歳の自画像》に彫られた銘文のラテン語effingebamという単語からは、未完了過去形を多用した古代の画家アペレスを模倣したということを読み取ることも可能だ。そしてドイツの人文主義者たち、特にデューラー周辺のピルクハイマーやツェルティスはデューラーを「ドイツのアペレス」と称揚している。これも一つの、ルネサンスの自己伝説化の一端である。
《ローゼンクランツフェスト》においても、古代の画家伝説に対する意識が読み取れる。それは画面のど真ん中、キリストの幼児服に描かれた蝿の存在である。昨日の「芸術家と旅」においてもこの話題は取り扱ったが、見間違いの伝説は世界中に存在し、割とどうでもいいが、三国志の呉の孫権に仕えた画家に曹不興という人物がいるが、この画家はまさに蝿の絵で孫権をだましたことがある。こうした伝説は当然古典古代にもある。「ゼウクシスとパラシオスの技比べ(競べ)」という逸話は、ルネサンス期の人文主義者たちならば誰でも知っていたに違いない。しかもデューラーがあざといのは、「ジョットの描いた蝿をチマブーエが間違えた」という、既にあるルネサンスの芸術家伝説さえも踏まえて、蝿をモティーフに選択しているということだ。この弟子が師を超えるという構図に、「ドイツ人がイタリアを超える」という意識がデューラーの名声欲から込められていたのかもしれない。
Posted by dg_law at 13:30│Comments(0)│