2008年01月25日
このネタはおもしろい
四発目。いよいよ前日。さすがに緊張してくる。いい加減美術史以外のことは考えられない。
今日のネタを書くためにぐぐったら出てきたんだが、これうちの学生だろ……去年のレポートのテーマそのままやん。教えてgoo!で聞いちゃダメだろ。ちなみに、「12歳のキリスト」でぐぐるとうちが3つ目くらいに引っかかって吹いた。意味ねぇ。
今日のネタを書くためにぐぐったら出てきたんだが、これうちの学生だろ……去年のレポートのテーマそのままやん。教えてgoo!で聞いちゃダメだろ。ちなみに、「12歳のキリスト」でぐぐるとうちが3つ目くらいに引っかかって吹いた。意味ねぇ。
芸術家と彼の旅について、その影響関係を考えるのは非常に有意義なことだ。文学者の場合、旅というと流浪の旅だったり亡命だったりという発想に先に行き着くが、画家の場合はインスピレーションを求めて、もしくは仕事を求めて自発的に旅をすることのほうが多い。ここではドイツから二つ、その例を挙げて検討してみる。
まず、どうしても挙げざるを得ないのはアルブレヒト・デューラーの二回のイタリア旅行である。一度目の旅行はかなり純粋に修行だと言えるが、二回目に関してはデューラーのイタリアに対する挑戦であった。すなわち、美術における後進地域とみなされていたドイツ人の自分が、イタリアでどれだけの画業をなすことができるのか、認められることができるのか、という挑戦状を叩きつけたのが第二回のイタリア旅行である。
そのデューラーの試みは《ローゼンクランツフェスト(薔薇冠の祝祭)》、《12歳のキリスト》において結実する。《ローゼンクランツフェスト》は自らが完璧な絵画を描くことができることを証明しつつ、中央のキリストの幼児服に蝿を描き加えた。これは、鑑賞者の注目を集めること、古代の伝記に則った遊びで知識人を喜ばせること、細密なものも描けることの証明、メタピクチャー的なお遊びなどの目的があり、それは見事に達成されたといえるだろう。絵の中にデューラー本人がまぎれていることにも注目したい。
逆に《12歳のキリスト》は一見して粗雑な仕上がりであるが、これは5日で描かれた、と銘文が刻まれており、デューラーにとっては速筆の腕を持つことの証明であった。その対抗意識には遅筆で知られたレオナルド・ダ・ヴィンチの存在があったのかもしれない。以上のように、デューラーにとっての第二回イタリア旅行は実りの多いものであったといえるだろう。
もう一つの例として、自分の専門分野からカスパー・ダーフィト・フリードリヒを挙げる。彼にとっての旅行は、素材集めの旅であった。非常に緻密な自然描写を行う彼であったが、自然の形態はなるべく変形させたくはない、しかし自らの想にぴたりと適合するモティーフは素描の形で手元にほしいという考えを持っていた。そのため非常に膨大な素描を必要としたことは想像に難くない。ゆえに彼は頻繁に旅を繰り返し、旅先でスケッチを繰り返し、中世のパターンブック並とまで称されるような素描帳を作り上げていったのである。
しかし、フリードリヒはそれでも彼の愛した北ドイツの地からは離れようとしなかった。これはフリードリヒの持つイタリア観に大きく関連する。この問題はいまだ議論は絶えないが、少なくとも周囲の知識人たちがドイツの地を省みず、イタリアの風景ばかりを賞賛することに対して、かなりの嫌悪感を抱いていたようである。フリードリヒからしてみれば、イタリア旅行に1年も2年も費やす余裕があるなら、もっと近辺の風景を写生したいと思っていたのだろう。近代の画家における旅とは、己のアイデンティティさえ表してしまうものだったのかもしれない。
しかしながら、フリードリヒにせよデューラーにせよ、ドイツ人画家たちのイタリア人に対するコンプレックスが垣間見えるのは、おもしろい現象である。旅というテーマから外れるならば、ベックリーンでさえも、対イタリア感情をむき出しにせざるをえなかった。もっともベックリーンの場合は南欧への憧憬であって、フリードリヒとは逆に、ドイツにはあまり良い感情を抱いていなかったようではあるが。それでも共通していえることは、全員フランスは嫌いだったということだ。
まず、どうしても挙げざるを得ないのはアルブレヒト・デューラーの二回のイタリア旅行である。一度目の旅行はかなり純粋に修行だと言えるが、二回目に関してはデューラーのイタリアに対する挑戦であった。すなわち、美術における後進地域とみなされていたドイツ人の自分が、イタリアでどれだけの画業をなすことができるのか、認められることができるのか、という挑戦状を叩きつけたのが第二回のイタリア旅行である。
そのデューラーの試みは《ローゼンクランツフェスト(薔薇冠の祝祭)》、《12歳のキリスト》において結実する。《ローゼンクランツフェスト》は自らが完璧な絵画を描くことができることを証明しつつ、中央のキリストの幼児服に蝿を描き加えた。これは、鑑賞者の注目を集めること、古代の伝記に則った遊びで知識人を喜ばせること、細密なものも描けることの証明、メタピクチャー的なお遊びなどの目的があり、それは見事に達成されたといえるだろう。絵の中にデューラー本人がまぎれていることにも注目したい。
逆に《12歳のキリスト》は一見して粗雑な仕上がりであるが、これは5日で描かれた、と銘文が刻まれており、デューラーにとっては速筆の腕を持つことの証明であった。その対抗意識には遅筆で知られたレオナルド・ダ・ヴィンチの存在があったのかもしれない。以上のように、デューラーにとっての第二回イタリア旅行は実りの多いものであったといえるだろう。
もう一つの例として、自分の専門分野からカスパー・ダーフィト・フリードリヒを挙げる。彼にとっての旅行は、素材集めの旅であった。非常に緻密な自然描写を行う彼であったが、自然の形態はなるべく変形させたくはない、しかし自らの想にぴたりと適合するモティーフは素描の形で手元にほしいという考えを持っていた。そのため非常に膨大な素描を必要としたことは想像に難くない。ゆえに彼は頻繁に旅を繰り返し、旅先でスケッチを繰り返し、中世のパターンブック並とまで称されるような素描帳を作り上げていったのである。
しかし、フリードリヒはそれでも彼の愛した北ドイツの地からは離れようとしなかった。これはフリードリヒの持つイタリア観に大きく関連する。この問題はいまだ議論は絶えないが、少なくとも周囲の知識人たちがドイツの地を省みず、イタリアの風景ばかりを賞賛することに対して、かなりの嫌悪感を抱いていたようである。フリードリヒからしてみれば、イタリア旅行に1年も2年も費やす余裕があるなら、もっと近辺の風景を写生したいと思っていたのだろう。近代の画家における旅とは、己のアイデンティティさえ表してしまうものだったのかもしれない。
しかしながら、フリードリヒにせよデューラーにせよ、ドイツ人画家たちのイタリア人に対するコンプレックスが垣間見えるのは、おもしろい現象である。旅というテーマから外れるならば、ベックリーンでさえも、対イタリア感情をむき出しにせざるをえなかった。もっともベックリーンの場合は南欧への憧憬であって、フリードリヒとは逆に、ドイツにはあまり良い感情を抱いていなかったようではあるが。それでも共通していえることは、全員フランスは嫌いだったということだ。
Posted by dg_law at 12:00│Comments(0)