2008年08月14日

『火垂るの墓』の解釈について

『火垂るの墓』に対する最も参考になる米Amazonレビュー
『火垂るの墓』に対する米Amazonレビュー 低評価版
「火垂るの墓」に関する低い評価(米Amazon)
映画『火垂るの墓』で高畑勲監督が伝えたかったこと(アニメージュ1988年5月号から)


私が『火垂るの墓』を見たのはもう随分昔の話で、しかも周囲の泣けるだの反戦映画だのという意見にあまり共感できなかったので、それ以来見ていない。確かにあの二人がかわいそうだとは思うが、共感できなかった理由としては米アマゾンの低評価レビューの方と全く同じで、自業自得にしか見えなかったからだ。追い出されたんじゃなくて、自分たちから出てったんじゃないか、しかもお前仕事してなかったじゃないか、と。戦争中にそれはねえだろと子供心に思ってしまうことばかりやっていたような記憶がある。

ゆえに、三番目のリンク先を読んで、十数年来の疑問が氷解した。野坂昭如の自伝的な小説が原作だという話は知っていたが、なるほど、そういう事情ならば、確かにあの兄妹が自業自得で死ぬのは当然のことだろう。そこに我が身を重ねて自戒とするという見方ならば、感動するのもおかしくはない話だ。四つ目のリンク先を読んでいただければ、高畑勲監督もそういうテーマでこの映画を作ったということが証言されている。しかも高畑監督はさらに、「あの二人は死の淵まで幸せな「家庭」を築いていたんじゃないか」とも言っている。個人的には彼の言っていることは納得できる。別に生き延びることだけが幸せじゃない。もっとも高畑監督は「死によって達成されることは何も無い」とも言っていて、だからこそ『火垂るの墓』のラストはあれだけ悲劇的なものにしたのだろう。

だが、だとしたらもう一つ疑問が浮かび上がってくる。すなわち、『火垂るの墓』を反戦映画として評価したり、あの兄妹を悲劇として哀れむことに、違和感を覚えるべきではないだろうか。清太の身勝手な行動とその結果は現代でも起こりうることであり、むしろ起こりうるからこそ野坂氏は映画のパンフレットにその意を込めたのだろう。ならば、その不幸の原因を戦争に押し付けてしまうのはおかしい。清太の父が海軍士官で、それが清太の自尊心と日本軍の勝利に対する盲信を増大させていた、ということぐらいである。

さらに奇妙な点は、米アマゾン高評価レビューを含めて、高評価を下している人の多くが、以前の自分と同様にこの映画を反戦映画としてしか見ていないということだ。要するに、一部の熱心なジブリファン以外には真の主題は伝わってはいない。その意味でならば、『火垂るの墓』は失敗作だったとさえ言うことができるんじゃないかと、さっき一瞬考えてしまった。加えて、その評価の理由が「感動=悲劇的=原因は戦争=反戦」という極めて短絡的な思考によって、感動と反戦がつなげられているのだとしたら、こんなにくだらないことはない。

まあ高畑監督自身が「『火垂るの墓』は神話なので好きに解釈してください」と言っているわけで、他人の評価にとやかく言う資格は無いのかもしれないけども、もし仮に自分と同じ勘違いをしていて、『火垂るの墓』を単純な反戦映画だと思っているのなら、再考の余地は十分にある。


この記事へのトラックバックURL

この記事へのコメント
僕はあの映画を見るといつもやりきれなさで腹が立つのですが、僕と同じような怒りを感じた人がいたとして、その怒りを転嫁する対象としてわかりやすいものが「戦争」である、という部分はあるのかもしれませんね。それは戦争に対する怒りというよりはむしろ兄妹を、ひるがえっては自らを取り巻く環境に対する無力、無策に対する怒りであるのかもしれません。
Posted by 紅茶の人 at 2008年08月14日 12:45
環境に対するやりきれない怒り、というのならわかりますね。

それを戦争に一般化するのはどうかと思いますが。
Posted by DG-Law at 2008年08月15日 10:26
お涙ちょうだいの映画は誰にでもつくれる、くだらない。
Posted by 通行人 at 2015年08月14日 23:27