2008年08月15日

バルトの楽園

戦争について具体的にとやかく言う気は無いが、ある種のメッセージを込めてこのレビューを終戦記念日に書いておく。


第一次大戦中のドイツ軍捕虜と、収容先である徳島県鳴門市板東の地元民との交流を描いた作品。てっきり粗雑な扱いを受けるものだと思っていたら所長(演:松平健)が捕虜の扱いに関するハーグ条約をよく理解した人格者で、温かみのある扱いを受けたドイツ捕虜たちは、謝意を示すものとして最後に『第九』を演奏して町を去る。これが日本で最初に演奏された『第九』であった。

フィクションを交えつつもほぼ史実に基づいて作られた。「こんな善人ばっかりありえない」と思ったらそれは心が汚れている証拠、らしい。まあ確かに実際にはもっと脱走兵もいただろうし、懲罰を受けたドイツ兵もいたのだろうが、『第九』にまつわるエピソードに関しては脚色が無いだろうことを考えると、やはり善人だらけの奇跡が実在したのではないかと考えるほうが自然である。この奇跡的事実を映画の題材にしただけでもうこの映画は勝ったようなものだ。

意外かもしれないが、私的泣きポイントはドイツ兵の音楽講師が、板東で教えた日本人の生徒たちと別れるときに、日本人たちが『仰げば尊し』を歌ったシーン。ああ、確かにあれは日本人の心を打つ歌だ。全体から見ると非常に地味なシーンながら、ドイツ兵たちによる『第九』演奏の直前であることもあって非常に来るシーンだった。

単純に「音楽が世界共通語」と言うわけでもないし、それをもって反戦を謳う映画でもない。むしろ、日本兵もドイツ兵も国を信じて戦い、亡くなったり捕虜になったりした人たちであるから、彼らの心情は反戦とは正反対のところにいるかもしれない。だが、人と人との信頼が何か貴き物を生むこともある、ということは間違いなく主張している映画であろう。それこそが『第九』の歌詞でもある。

演出的なことを言えば、日本映画の悪習である個々のエピソードを詰めすぎてまとまりがなくなるという現象が起きていたが、逆に良かったかもしれない。最終的に『第九』を演奏するというところに収束していくからか、不思議なまとまりがあった。あと、最後のスタッフロールでカラヤン指揮の『第九』が流れるが、誰もが指摘しているようにあれは必要の無いものだった。ドイツ兵楽団の演奏だけで占めておくべきだった。

なお、この映画の資本が創価学会から出ていることをもって悪となす人々がいるが、何かの本質を見失っているような気がしてならない。そういう方々は韓国製というだけで青磁の良さを理解できない、もしくは日本原産と偽れば賞賛する、ということと同じ思考回路である。これこそ『第九』の歌詞とは相容れないものであるから、そういう人たちにこそ、余計に見て欲しいのだが。


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