2008年08月23日
ベルギーの至宝?
Victoriaにおける初心者御用達の国といえばベルギーであるが、ベルギーでプレイしていると1880年代突然Vic中においても屈指の名将が登場して驚くことがしばしばある。その名をブリアルモントという。彼のステータスに勝てる将軍は大モルトケかCSAのリー将軍くらいしかいない。しかし、そんな名将であるにもかかわらず、全く知名度はない。実際、日本語でぐぐってもVic関連のページにしか引っかからない。

気になったのでつづりを想像し英語でぐぐってみたら、それなりに情報が得られた。以下、主にWikipediaからわかったこと。
1821年オランダ生まれ。1830年のベルギー独立でベルギー人に。ブリュッセルの陸軍学校で学んだ後、43年工兵の将校として任官。47年、26歳の若さで中尉に昇進。47年から50年の間陸軍省の秘書として転向。政治の道に入る。55年参謀本部入り。59年の塹壕演習で、すでに要塞に対する構想を築いていたようだ。61年(40歳)で少佐、64年に中佐、68年に大佐、74年(53歳)で少将となり、この年よりアントワープ区域の要塞監督に就任、翌年要塞及び工兵参謀の総監に就任、と出世はかなり早い。
77年中将に昇進するも、彼のベルギー本国要塞化計画は突っぱねられ、ベルギー軍部に不満を抱くようになる。1878年、ルーマニアが誕生すると83年、創設されたばかりのルーマニア陸軍に出向。ルーマニアの国防に関して指導的立場となる。ここに来て初めて本国に功績が認められ、翌年の84年には呼び戻され再びアントワープに行き、駐留軍の司令官となる。短期間ではあったもののルーマニア工兵に対する貢献から東欧諸国の将校に彼の名は知れ渡り、ギリシア政府の国防計画にも大きく携わる。86年にベルギー陸軍を退官したが、東欧各国の軍事顧問ではあり続けた。ベルギー国内においても、ブリアルモント式の要塞が採用されていった。退官後は精力的な著作家となり、多くの軍事学書を残した。在任中においても、1850年には『ベルギー陸軍』という雑誌を創刊している。
彼の防衛計画は基本的にヴォーバン式の、すなわち稜堡を多角形に設置する古典的な要塞(要するに五稜郭)の復権であるが、そこには科学技術の進歩をふんだんに使用した改良が加えられている。特に普仏戦争の経験と銃火器の射程の長距離化を意識したものであった。(しかし、火力の急激な上昇までは考えていなかったらしく、それが第一次世界大戦におけるリエージュ要塞の崩壊を招いた一つの原因かもしれない。)
彼の代表作は1880年代に設計されたリエージュ要塞であるが、第一次世界大戦時のドイツ軍進行により破壊された。そもそも30年経過したものを使いまわして守れるはずがないのだが、それだけこの要塞に対する信頼度が高かったともいえる。それでも10万人の攻撃を3万人で防ぎ、シュリーフェンプランを二日遅延させたのはすごいことである。この二日の遅れが、マルヌの戦いにおけるフランス軍の勝利を呼び込んだ理由の一つである。(なお日本語版Wikipediaでは「リエージュ要塞はフランス人将校ブリアルモンによって設計された」とあるが、これは大きな間違いである。ブリアルモントは確かにフランス系ではあったし、著作もフランス語か英語であるから、そこから生まれた勘違いであろう。)

実際にはこんな人。
確かにむちゃくちゃすごい人ではあるが、有名になるには地味すぎる功績かもしれない。しかも、第一次世界大戦以後結果的に時代は硬性防御から軟性防御へ向かっていっているから、要塞学という学問自体が廃れてしまった(マジノ線の失敗がトドメを差した形)。
しかし、おもしろい人を発掘できたと思う。ただ、「奇矯なる天才」「反抗的」というパラドの設定には疑問を持たざるを得ない結果にはなったが。(「工兵出身」「有能」辺りに変えてしまおうか)。また、調べがついたらマイナーな19世紀の名将を探してみたいと思う。
気になったのでつづりを想像し英語でぐぐってみたら、それなりに情報が得られた。以下、主にWikipediaからわかったこと。
1821年オランダ生まれ。1830年のベルギー独立でベルギー人に。ブリュッセルの陸軍学校で学んだ後、43年工兵の将校として任官。47年、26歳の若さで中尉に昇進。47年から50年の間陸軍省の秘書として転向。政治の道に入る。55年参謀本部入り。59年の塹壕演習で、すでに要塞に対する構想を築いていたようだ。61年(40歳)で少佐、64年に中佐、68年に大佐、74年(53歳)で少将となり、この年よりアントワープ区域の要塞監督に就任、翌年要塞及び工兵参謀の総監に就任、と出世はかなり早い。
77年中将に昇進するも、彼のベルギー本国要塞化計画は突っぱねられ、ベルギー軍部に不満を抱くようになる。1878年、ルーマニアが誕生すると83年、創設されたばかりのルーマニア陸軍に出向。ルーマニアの国防に関して指導的立場となる。ここに来て初めて本国に功績が認められ、翌年の84年には呼び戻され再びアントワープに行き、駐留軍の司令官となる。短期間ではあったもののルーマニア工兵に対する貢献から東欧諸国の将校に彼の名は知れ渡り、ギリシア政府の国防計画にも大きく携わる。86年にベルギー陸軍を退官したが、東欧各国の軍事顧問ではあり続けた。ベルギー国内においても、ブリアルモント式の要塞が採用されていった。退官後は精力的な著作家となり、多くの軍事学書を残した。在任中においても、1850年には『ベルギー陸軍』という雑誌を創刊している。
彼の防衛計画は基本的にヴォーバン式の、すなわち稜堡を多角形に設置する古典的な要塞(要するに五稜郭)の復権であるが、そこには科学技術の進歩をふんだんに使用した改良が加えられている。特に普仏戦争の経験と銃火器の射程の長距離化を意識したものであった。(しかし、火力の急激な上昇までは考えていなかったらしく、それが第一次世界大戦におけるリエージュ要塞の崩壊を招いた一つの原因かもしれない。)
彼の代表作は1880年代に設計されたリエージュ要塞であるが、第一次世界大戦時のドイツ軍進行により破壊された。そもそも30年経過したものを使いまわして守れるはずがないのだが、それだけこの要塞に対する信頼度が高かったともいえる。それでも10万人の攻撃を3万人で防ぎ、シュリーフェンプランを二日遅延させたのはすごいことである。この二日の遅れが、マルヌの戦いにおけるフランス軍の勝利を呼び込んだ理由の一つである。(なお日本語版Wikipediaでは「リエージュ要塞はフランス人将校ブリアルモンによって設計された」とあるが、これは大きな間違いである。ブリアルモントは確かにフランス系ではあったし、著作もフランス語か英語であるから、そこから生まれた勘違いであろう。)

実際にはこんな人。
確かにむちゃくちゃすごい人ではあるが、有名になるには地味すぎる功績かもしれない。しかも、第一次世界大戦以後結果的に時代は硬性防御から軟性防御へ向かっていっているから、要塞学という学問自体が廃れてしまった(マジノ線の失敗がトドメを差した形)。
しかし、おもしろい人を発掘できたと思う。ただ、「奇矯なる天才」「反抗的」というパラドの設定には疑問を持たざるを得ない結果にはなったが。(「工兵出身」「有能」辺りに変えてしまおうか)。また、調べがついたらマイナーな19世紀の名将を探してみたいと思う。
Posted by dg_law at 12:00│Comments(0)│