2008年09月10日

ダンスは言葉であると考えたときのニコマスPV

2、3日に一回、必死にニコマス保管庫を更新しているが、ニコマスを見ていて、PVにおいて最も重要なのはダンスシンクロでも演出でもなく、ダンスのチョイスなんじゃないかと思った。ニコマスがどれほど発展しようとも、まだ部分的にしか自由にダンスを作り出せない現状(えこP等はフリーダムだが)、既存のダンスの切り貼りであるという一点においてはどんな頂点Pでも底辺Pでも変わることの無い事実である。だからこそ長回しは一種の高等技術として尊重される。

ダンスというのは一種の「意味」であり、シニフィエだの何だのという言語哲学か構造主義辺りの言葉を引っ張ってこなくても、振り付けとは意味の表出である。腕の振り指の動き、細部に至るまで何らかの意味を帯びている。ただし、ダンスとはあくまでの「意味の表出」であり、意味そのものではない。すなわち、意味は必ずしも固定していない。確かに元の曲の当てはまる部分の歌詞にあったダンスではあるが、切り取って別の曲の別の歌詞の部分にはっつけても、ちゃんと意味が通りその歌詞通りに踊っているように見えることがある。これを利用したのがニコマスのPVMADである。

おそらくオンナスキーPはそんな難しいことを考えずに「もじぴったん」を作ったんだと思うが、あの「もじぴったん」のすごかったところは「ほんとにあの曲で踊っているように見えた」というところであり、まさにダンスチョイスが神がかっていたといえる。しーなPの大ヒット作「Princess Bride」があれだけ評価されたのも、シンクロだけじゃなくてチョイスも完璧だったからである(無論、伸びすぎたのは工作のせいだが……)

多くの場合、なんかぎこちないなと思うのはシンクロがあってないからではなくて、シニフィエ(内容)とシニフィアン(表現)が全く適合していないからである。言語が齟齬を起こしていて、小説で考えるなら支離滅裂の内容になっているのと同じである。もっと言えば、「海」と書いて「そら」と読むことを強要させているようなものだ。逆にわかむらPなんかはシンクロがずれずれなときもあるわけだが、それでも見づらくないのはチョイスだけは無難にこなしているからだ。まああれだけ演出センスのずば抜けた人が、ダンスの切り貼りで意味を読み違えるはずもないのだが。

また、元々の持ってる意味が強すぎて使いづらいダンスを使っちゃってること場合も、やはり意味の齟齬が生じる。『The iDOL M@STER』や『おはよう!朝ごはん』、『太陽のジェラシー』は一つ一つの振り付けがかなり強い(特にそれぞれのサビ)。特徴的でもあるので、使いすぎや長回しは飽きられることが多い。ピタリとはまればかっこいいし、演出映えするからけっこう見かける失敗である。

何か伸びないなと感じるニコマスPが仮にこのブログをのぞいてくれていたならば、アイマス曲のダンスの読み込みと、次に使う曲の歌詞の読み込みをしっかりやってみてはどうか。あとはシンクロか演出か、または選曲のどれかがうまく働けば、少なくとも「隠れた名作」にはなるはずである。



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