2008年09月12日
第128回 『コンスタンティノープルの陥落』塩野七生著、新潮文庫
複数の主人公を用いてコンスタンティノープル陥落の様子を克明に描いた小説。複数の主人公でしつこく視点が切り替わるが群像劇というわけではなく、あくまで多くの立場・視点から描くことで情景を豊かに、立体的に切り出すことを追求している。ゆえに、主人公たちはほとんど全ての場面で交流することは無い。
実のところ、私がこの本で一番おもしろいと思ったのはこの部分である。主人公が複数ならそれは群像劇だろう、というある種の固定観念があったことは否めない。だが、二、三人主人公ならばまだしも六、七人も出しておいてほとんど全く交わらないというのは逆にすごい。まあ余計なお世話をすると、序章でしっかり登場人物の名前とその立場を覚えておかないと、視点の切り替わりの激しさのせいでしょっちゅうこいつ誰だっけになるので、注意されたし。なお、トルコ皇帝マホメッド二世以外の主人公たちには一見して無作為に選ばれたように見えるが、実はある共通点があり、そのことはエピローグで明かされる。これもまたおもしろい仕掛けであった。
『ロードス島攻防記』と『レパントの海戦』と本書は戦記物三部作と言われているが、『ロードス島攻防記』は宗教戦争からバランスオブパワーへの転換と、それによる各国家の巨大化及びそのための中央集権化、それにヨハネ騎士団が全く対抗できず時代の流れに取り残されていたこと、に焦点が置かれて描かれていた。『レパントの海戦』はまだ読んでいないが、文明の交代に焦点が置かれているだろうことは容易に想像が付く。それに対し本書『コンスタンティノープルの陥落』は、主人公が多数であることに重ねて掲げられたテーマも実に多く、単に一つの文明の終焉として片付けられないものがこの戦争にはあった。特にヴェネツィアとジェノヴァの立場はかなり興味深いものであった。
しかし、作中の通りコンスタンティノープル包囲のためにトルコが本当に15万人も動員したとするなら、それはかなり根こそぎ動員したことになるんじゃないだろうか。当時のトルコはまだ小アジアの西半分とバルカン半島の南半分しか領有しておらず、土地面積はほぼ同等でもそれよりは豊かな土地であったであろう当時のフランス王国とて10万人を動員することは到底不可能であった(本作から50年ほど経ったイタリア戦争時のフランスや神聖ローマで10万に達するかどうかであり、そのことは各戦争史の書物や、同じ著者の『チェーザレ・ボルジア』でも確認できる)。コンスタンティノープル攻め時のオスマン軍総勢は諸説あるようだが、50日かかっているということから考えても(それはヨーロッパ諸国にとっては驚きの短さであったようだが、仮に十万人以上動員しているならもっと早くてもおかしくはないだろう)、想定される最低人数の8万人程度が正解ではないだろうか、と思う。
コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)
実のところ、私がこの本で一番おもしろいと思ったのはこの部分である。主人公が複数ならそれは群像劇だろう、というある種の固定観念があったことは否めない。だが、二、三人主人公ならばまだしも六、七人も出しておいてほとんど全く交わらないというのは逆にすごい。まあ余計なお世話をすると、序章でしっかり登場人物の名前とその立場を覚えておかないと、視点の切り替わりの激しさのせいでしょっちゅうこいつ誰だっけになるので、注意されたし。なお、トルコ皇帝マホメッド二世以外の主人公たちには一見して無作為に選ばれたように見えるが、実はある共通点があり、そのことはエピローグで明かされる。これもまたおもしろい仕掛けであった。
『ロードス島攻防記』と『レパントの海戦』と本書は戦記物三部作と言われているが、『ロードス島攻防記』は宗教戦争からバランスオブパワーへの転換と、それによる各国家の巨大化及びそのための中央集権化、それにヨハネ騎士団が全く対抗できず時代の流れに取り残されていたこと、に焦点が置かれて描かれていた。『レパントの海戦』はまだ読んでいないが、文明の交代に焦点が置かれているだろうことは容易に想像が付く。それに対し本書『コンスタンティノープルの陥落』は、主人公が多数であることに重ねて掲げられたテーマも実に多く、単に一つの文明の終焉として片付けられないものがこの戦争にはあった。特にヴェネツィアとジェノヴァの立場はかなり興味深いものであった。
しかし、作中の通りコンスタンティノープル包囲のためにトルコが本当に15万人も動員したとするなら、それはかなり根こそぎ動員したことになるんじゃないだろうか。当時のトルコはまだ小アジアの西半分とバルカン半島の南半分しか領有しておらず、土地面積はほぼ同等でもそれよりは豊かな土地であったであろう当時のフランス王国とて10万人を動員することは到底不可能であった(本作から50年ほど経ったイタリア戦争時のフランスや神聖ローマで10万に達するかどうかであり、そのことは各戦争史の書物や、同じ著者の『チェーザレ・ボルジア』でも確認できる)。コンスタンティノープル攻め時のオスマン軍総勢は諸説あるようだが、50日かかっているということから考えても(それはヨーロッパ諸国にとっては驚きの短さであったようだが、仮に十万人以上動員しているならもっと早くてもおかしくはないだろう)、想定される最低人数の8万人程度が正解ではないだろうか、と思う。

Posted by dg_law at 12:00│Comments(0)│