2008年09月21日

非常に"らしい"遺作

悲母観音芸大美術館の狩野芳崖展を見に行ってきた。こういった個展は大体生年何周年とか没年何周年といったタイミングで行われるものだが、狩野芳崖は六十歳でなくなったため(1828-1888)記念の年が生年と没年で重なり、企画組むほうも口実が減って困っただろうなと思うと少しだけ苦笑した。そういうわけで、今年は芳崖生年180年であり、没年120年でもある。

狩野芳崖は橋本雅邦などと並ぶ最後の狩野派であり、また近代日本画創成期の立役者でもあった。特に名字が狩野で美術の教科書に出てくる人間としてはほぼ間違いなく最後の人間である。しかし、直系の狩野派というわけではなく、出身地は長州藩でそこから才能を買われて江戸へ出て、修行をしなおしたようだ。長州藩に帰ってからは馬関海峡(関門海峡)の砲台建設などに携わっており、意外と画業に専念というわけではなかったようだ。

今回の展示では狩野芳崖の幼年期の作品も展示されており、中でもやはり度肝を抜かれたのは11歳の時の作品である。これがとんでもなくうまい。15歳には《馬関真景絵巻》という実写風景を山水画風に描いた長大な絵巻物を仕上げており、かなりの早熟であったことが伺えた。これは江戸からお声がかかるのもうなづけるというものだ。江戸期にも様々なものを修行で描いているが、何を描かせてもうまい。全くジャンルを問わないというのも、芳崖のすごみである。

明治維新が終わると長州藩を解雇され苦しい生活が続くが、そこを日本画革新運動を起こそうとしていたフェノロサに拾われ、それに携わることになった。その一級の成果こそが《仁王捉鬼図》であり、やけに色が鮮やかなわけであるがこれは西洋の絵の具を用いているからである。記念碑的作品であるが、今回展示されていることを知らなかったので思わぬ収穫となった(実は近美の企画展で一回見ているはずなのだが、脳内の画像フォルダには存在しなかった)。この他にも一見日本画風ながらすごくきちんと陰影がついている虎の絵などがあり、老いて尚西洋画から様々なものを吸収していた姿勢がうかがえる。

そうして見ると、芳崖の遺作である《悲母観音》は独特の位置を占めている。この時期にしては全く、完全な日本画なのである。遺作と言っても構想自体はその五年ほど前から行っていたようで、日本画のこれだけの大作で大量の下絵が残っているのは珍しいそうだ。今回の展示ではその大量の下絵も展示されており、かなり楽しんで試行錯誤していた様子も伺える。

ありきたりではあるが、《悲母観音》が遺作というのは運命的である。それも、ほぼ純粋な日本画というのもおもしろい。人間、死期を悟ると母性に帰っていくのだろうか。


ついでに、その後行った今日の東博平常展。国宝室は『群書治要』。内容は何が書いてあるのかさっぱり読めなかったが、珍しい物を見れた気はする。今回の水墨画は別に大して。その代わり障壁画は豪華で、久隅守景の有名な《納涼図屏風》が展示されていた。個人的にはあまりすごいとは思わないが、日本史の教科書に確実に載っている作品ではあるし国宝でもある。狩野探幽の《周茂叔林和靖図屏風》がその隣。こちらは完全に金地障壁画。あまり探幽らしいとは思わなかったが、狩野派的な良作である。

江戸時代の書画では、狩野探幽の《果実図》という大変珍しいものが見れた。苺と桃と枇杷であろうか。床の間に飾ってあれば大変気分よくお茶が飲めそうだ。青木木米の作品もあり、他の南画家に比べてあまり表に出てこない人であるだけにこれも見れて良かった。珍しいと言えば今回は住吉派の作品が二点も展示してあった。今の一押しなんだろうか。



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