2008年10月26日

国民も政府も王家も変

その昔、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国という国が存在した。名前から察することができるように、古くは神聖ローマ帝国諸侯であり、近代にはドイツ諸侯でありドイツ帝国一員でもあった。一見何の変哲も無い、歴史の表舞台には全く出てこないような小国であり、私自身Victoriaをプレイするまで存在自体知らなかった。

しかし、この国はなかなかユニークである。そもそもはゴータ公国とコーブルク公国に分かれていたのだが、1826年同君連合として事実上合併。文化的には南ドイツ寄りだったが、ドイツ帝国成立前段階では南ではなく北ドイツ連邦に参加し、その後ドイツ帝国に参加した。WW1戦後帝国が崩壊すると、コーブルクはバイエルン州に、ゴータはテューリンゲン州に編入されたため再び分割された。これはコーブルクの住民投票の結果であり、88%以上の住民がテューリンゲン参加に反対したらしい。コーブルクはルターも住んでいたプロテスタント縁の土地であるにもかかわらず。よくわからない人たちである。

1830年、ベルギー王国がオランダより独立した際、比較的人畜無害な家系としてザクセン=コーブルク=ゴータ王室から初代ベルギー国王が擁立された。一方でベルギー独立を支援した英仏の王室とはかかわりが深く、ヴィクトリア女王の夫はベルギー王室出身で、初代ベルギー王レオポルドの妻は七月王政のルイ・フィリップの娘である。なお、その後ヴィクトリア女王の次男がドイツ帝国成立後のコーブルク=ゴータ公国を引き継いでおり、やはりイギリス王室とのつながりは深い。最後の公爵の娘は現スウェーデン国王の母親であり、その血筋は現代にまで残っている。ちなみに初代国王レオポルドは、前年にギリシア国王就任依頼を断っており、その後のギリシアとベルギーの歩んだ歴史を鑑みるに、良い選択だったと言わざるを得ない。

その他、本家からポルトガル王家とブルガリア王家も輩出しており、血筋的なつながりは相当広かったようだ。もっとも、本家を含めてベルギーとイギリス以外はつぶれてしまったが。ただし、最後のブルガリア王であったシメオン二世は2001-05年のブルガリア首相であり、現在でも連立政権に参加する与党党首である。ポルトガル王家は何度もポルトガル国庫を破産させた挙句内政を乱し、暗殺によって国家元首最短在位期間20分という不朽で不名誉なギネス記録を打ち立てた。


ザクセン=コーブルク=ゴータの歴史のハイライトはやはりアメリカ南北戦争であろう。南部連合は圧倒的に優勢な北部に勝つ方策として経済的つながりが強いイギリスとの同盟を画策していたが、いかんせん当時すでにイギリスは奴隷解放を認めており、奴隷制を認めさせるための反抗である南部連合に手を貸すわけにはいかなかった。そのため、南部連合はその成立の当初から国際的に孤立することが目に見えていた。

ところが、ザクセン=コーブルク=ゴータは世界で唯一、アメリカ南部連合と国交を樹立した。どうやら公国政府は、イギリスは南部連合に手を貸すものだ、と早とちりをしていたらしい。そして、イギリス王室との血のつながりを考えれば、南部連合を支援するのは当然のこと、という意味での国交樹立であったようだ。しかし、当のイギリスは(かなり傾いていたものの)南部連合をスルーし、どころか他の全ての英王室関係者は本国に同調した(当時英連邦のシステムは無かった)。コーブルク=ゴータは妙なところで歴史に名を残すこととなった。さぞかし、世の南北戦争研究者に失笑を与えているに違いない。

そして、最後の本家血筋・公爵カール・エドゥアルトはイギリス王室の血を引いてはいたもののWW1ではドイツ(プロイセン)軍として戦い、戦後は左翼嫌いからなぜかナチスに入党した。いくら左翼嫌いとはいえ、元王族がナチスはなかろうに。しかも突撃隊だったらしい。イギリス王室の葬儀にも参列するときには突撃隊制服だったらしい。その空気の読まなさっぷりはまさにザクセン・コーブルク・ゴータ家の末裔としてふさわしいかもしれない。…………分家筋はイギリス、ブルガリア、スウェーデンと各国の中枢でがんばっているのに、本家はそんな終わり方だったとは、歴史も残酷なものである。



この記事へのトラックバックURL