2009年01月10日

エロゲとフェミニズムと批評のスタンスと。

ここのコメント欄より。『300』に対して、歴史の歪曲、アジアへの偏見をもって批判するのなら、ではエロゲは女性を不当に扱っていないのか、という反問は予期しておくべきではないか、という意見。


言うまでもないことだが、別に私はさらしあげているつもりは全然なくて、こういうコメントは本当にありがたい(というよりもこういう注記が必要かもしれないということ自体が、今のインターネット社会がコミュニケーションに関して過敏すぎるんだろうなと思う)。重いと思われたなら、singingrootさんごめんなさいです。ですが、これは自分の作品批評の態度を明示するうえでも、一度書いておかねばならないことが含まれているなと思ったのも、また個別の記事にした理由ですので、あまり気にしないでいただけるとありがたいです。




まず、「あらゆる点において政治的に無色な作品」というものは、エロゲーによらずあらゆるジャンルにおいて不可能だと思う。これは私の一つの信念でもあるし、ミシェル・フーコーに影響を受けた点でもある。次に、倫理的にはずれている作品は規制するべきで、そもそも存在してはいけない、というのは極論であって私は、できれば相手にしたくない。政府の検閲があったヴィクトリアンな時代でもあるまいし。私は元記事にあるように、『300』が嫌いだが、他人が作ったり鑑賞したりするのは自由である。私にそこまで侵害する権利はない。ついでに言えば、私は似たような理由で『恋姫無双』が嫌いだが(あれは設定変えすぎて三国志でやる必要がないので)、それを嬉々としてプレイする友人を蔑視したりはしない。プレイしろ、と言われれば全力で断るが。

そういう前提において、とりわけ「エロゲー」で「女性」となると、凌辱や調教物は最初から除くとしても、何かしらの象徴性を持ってしまい、どう扱ったって不当にはなる。これを回避するのは不可能である。何もエロゲーに限った話ではない。そもそも、歴史上美術にしろ文学にしろ男性の視点が強かったからこそ、近現代になってフェミニズムだのジェンダーだのというものが勃興してきたわけで、「日本神話」だって『カラマーゾフの兄弟』だって『レ・ミゼラブル』だって、フェミニズムの広大な射程にかかればなんだって批判の対象になりうる。『カラマーゾフ』なんて自分自身、「私女だけど、足の弱い女しか愛せない男の人って」という定型句が思わず頭をよぎった。(余談。後でブックレビューで書くつもりだが、アリョーシャの特異性には早々に気づいてしまって、終盤は彼の一挙手一投足に背筋が凍る思いだった。)

しかし、だからといって古典文学の芸術的価値が下がったわけではない。このことは万人に対して了解していただけると思う。これが了解していただけないなら、もう何とも言えない。好きなだけ男性視点で描かれた作品を批判してくれればよろしい。物語を持った作品である以上、その点はエロゲーでも同じであるはずである。エロゲが芸術と言ってしまうのはいろいろ語弊があるかもしれないが、これにおける私のスタンスはこのブログのCriticismのカテゴリを斜め読みしてもらうしかない。特に6/27の付近で、まあ言いたいことはなんとなく理解していただけると思う。

だが、これを古典文学からエロゲーに変えた瞬間なぜだか特別視する人がいる。18禁だからよくないのか?それは単なる倫理的な分類であって本質的な問題ではない。男性の性的欲求を満たすためのものだからよくないのか?それを否定されると人類は絶滅してしまう、というのは大げさにしても、singingrootさんが提示してくれた高橋直樹さんの日記での議論が役立つと思う。悪を悪として描きそれを楽しんではいけないのなら、そんなつまらない世の中はない。倫理的によくないものはゾーニングする必要があるとは思うが、それによってゾーニングされた作品群の社会的地位を貶めることがあってはならない。


これで一応「エロゲは女性を不当に扱っていないのか」という反問に対する応答にはなっていると思うが、ついでに。実はエロゲとフェミニズムの話題はうちでもずいぶん昔にやっている。あれは『Fate/stay night』をフェミニズム的に分析した場合のことだったが、そこでは

・セイバーは「中性的」な女性像
・凛は典型的なツンデレ、ひいては一般的な女性像
・桜はあからさまな「母性」と「ファム=ファタル」の象徴であり、だからこそ残り二人とは差別的に、ふくよかな体型という設定をされている。アンリ=マユの受胎。

という、がちがちの象徴性縛りなヒロイン配置である、といった論旨のことを書いた。特に外したことは言ってないと思うが、これで(特に桜周りにおいて)批判されないほうがおかしいくらいだ。別のエロゲでも似たような分析結果が出ることだろう。しかし、『Fate』は伝統的な女性の象徴性を援用したに過ぎず、女性蔑視の観念が隠れていたとしても、それを目的にした作品というわけではない。ゆえに、このような批判は無意味である。



こう書くと、じゃあ『300』も歪曲や偏見まみれでも問題ないのではないか、という人は出てくるだろう。それは一種その通りなわけで、私は別に事実誤認だとか、偏見そのものに怒っているわけではない。ペルシア軍団がモンスター集団だったのも、スパルタ人が超人的だったのも、映画的演出と考えれば怒るべきものでもなんでもない。当該記事に書いたように、殺陣としては優秀な映画だったと思う。スプラッターなのも好き嫌いが分かれると思うが、良い演出だった(そういえば『300』も血飛沫表現によってR-15だったはず)。

『300』で問題だったのは、テルモピュレーでやる必要がないのに、わざわざこれ(原作のアメコミ)を題材に選んだこと。もしくはテルモピュレーでやるとして、かつ監督のやりたいことを盛り込んだだけでも十分魅力的な作品に仕上がりうるのに、さらに余分な味付けがついていること。これらから、ある種の政治性や西洋の傲慢さが透けて見える、いや明示されていると言ってもいい。事実誤認の仕方があまりにもわざとらしいというか、誤用ではない確信犯的である。極端な話をすれば、WW2中に各国が制作したプロパガンダ映画と差がない。

本当の真意を別にしたとしても、これで数年のうちにアメリカがイランに侵攻したら、この監督は笑いが止まらないんでしょうね、というようなことを少なくない人に思わせてしまった時点で、この映画は不用意だったと言わざるをえない。私が本当に批判しているのは、この点である。

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この記事へのコメント
日本人がサムライにロマンを感じるように、ギリシャ文化の末裔を自認する人達にとっては、レオニダスはヒーローなわけです。

テルモピューレの戦いで、身を呈して、ギリシャ文明が築き上げた叡智と秩序が混沌に沈むのを防いだ英霊なわけで。

※もちろん、この見方自体一面的なものですが、とはいえ欧州の人が欧州の伝統が守られたことを喜ぶのは、まぁ文句言うほどのことじゃないでしょう。

要するに、レオニダス王の物語は、「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」な時代劇なわけですね。

※もちろん悪代官が、よその国、よその文化なので、単純に同列にはできませんが……。

なので、娯楽という観点からすれば、テルモピューレでやる必要がないのに、というのは間違いだと思います。それは「水戸黄門のストーリーだったら日本の江戸時代である必要はない」というのと同じように的外れです。

※この場合、娯楽性=愛国心=差別性なんで、娯楽性の面から必然性がある=何でも正当化される、ではないのは、もちろんです。

で、「レオニダスが頑張って、ギリシャ文明を守るよ!」というテーマをやるのであれば、どうあってもペルシャ=悪なので、中途半端にリアリティ出して誤解されやすくするよりは、これくらい割り切って、豪快に頭悪くしたほうがいい気はします。

現在の中東とのつながりを描くよりは、いっそトンデモペルシャにしたほうが影響が無いんじゃないかと。
Posted by toward_end at 2009年01月10日 13:25
おお、お久しぶりです。

おっしゃることは理解できます。水戸黄門はいい例だと思います。
ですが、テルモピュレーでやる必要がないのに、というのはちょっと意味合いが違うんですよ。
だったらせめてマラトンの戦いにしておけよ、と思うのです。どっちにしても私は批判はしたでしょうが、まだそのほうが娯楽性に説得力があります。
水戸黄門の番組内で、光圀公が印籠出さずにいきなり切りかかったり、あまつさえ逆に乱暴狼藉を働いたり強盗を働いたりしたら、大なり小なり視聴者は確実に反発します。
そういうのには、それこそ「暴れん坊将軍」なり「三匹が斬る」なり「清水の次郎長」なり、他の題材がいくらでもあります。(まあどれも基本的には勧善懲悪ですけどね、時代劇である以上。)


加えて、悪意が透けて見えるから良くないのです。
なぜ、今のこの政治状況・国際情勢でやってしまったのか。
本文のほうにも書きましたが、現代においてナチス・ドイツのプロパガンダ映画を見てまともに受け取る人はいないでしょう。
内容の嘘や馬鹿馬鹿しさが知れ渡っているからです。
ひるがえって、今のアメリカと中東の関係を踏まえれば、『300』はどう映るか。
あまり単純に「アホでマヌケなアメリカ白人」なんて言うつもりはありませんし、実際そうであって欲しくない。
Posted by DG-Law at 2009年01月11日 00:06
元記事の、最初の注意書きに(わざわざ最初に)

・私はこの映画の持つ古臭い意識を一般の欧米人はともかく、知識人が持っているとは思いたくない。

こう書いているのは、そういう理由によります。
改めて主張しますが、「あらゆる点において政治的に無色な作品」というものは不可能だと思っています。
だからこそ、気をつけるべきコードというものはあると思います。
おっしゃる通り、アメリカ人がそういった娯楽性=愛国心=差別性を楽しむのは、まだ問題性が薄い。(自覚してか無自覚でかは問わず。無自覚のほうが業は深いけど)
アジア人として、それでいいの?というのは、ぜひ問いたいことであります。
(一応これも改めて書きますが、だからといって作品そのものが存在してはいけないとか、検閲すべきだとかは全く言うつもりはありません。それはまた別の問題というか、表現の自由は最大限保証されるべきというか。)


それはそれとして、最後の一行は同感です。
いっそ、あのくらいトンデモのほうが正史と勘違いする人は減るかも。
Posted by DG-Law at 2009年01月11日 00:07
こんにちは。

マラトンの戦いと、テルモピューレの戦いで、娯楽の説得性にどう違いが出るのかが、ちょっとわかりませんでした。歴史にあまり詳しくないので、教えていただけると嬉しいです。

他はその通りで、このご時世&日本人としてはどう思うか、というのは全くおっしゃる通りだと思います。

以下、個人的な感想になりますが、「300」は、フランク・ミラーの原作、かなり、そのままなのですが、フランク・ミラーは、結局、「人間の魂を腐らせる体制と戦う、孤高なアナーキスト」しか描かない人なんですね。

「ダークナイト・リターンズ」では、ニクソン体制側スーパーマンと殴り合うバットマンというのが見られます。「300」でも、裏切り兵が求めたのは「制服」でした。

結局、「300」のテーマは、ぬるい民主主義のアテナイどもを無視して、敢然と立ち上がる孤立無援のスパルタ、レオニダスであって、ペルシャは、トンデモニンジャ部隊ではありましたが(笑)、ダレイオス含め、好敵手として描かれていた面もあると思います。

※いや、それはそれで政治的にまずいんですが。

個人的にザック・スナイダーを憎めないのは、この人は、アメコミとかが好きで好きでしょうがないオタクであって、多分、単純な政治とは縁が遠いと思われるからです。

なぜテルモピューレで、マラトンでないか、といえば、フランク・ミラーがかっこいいから以上の理由はないでしょう。

だって、次の監督作は「ウォッチメン」ですからね。原作通りなら、これは、アメリカの傲慢さを批判しまくる鬱ストーリーです。そっちに期待しております。

※いや、政治的に無関心/無神経なら許されるってものじゃないですが。
Posted by toward_end at 2009年01月11日 13:24
>マラトンの戦い
実はそれほど深い意味があるわけではないですw

単純にギリシア側がスパルタではなくアテナイ主体の軍隊であったこと、
そして議会制民主制という意味でなら、スパルタよりもよほどアテナイのほうが直系の祖先と考えるにふさわしい都市国家であったこと、
というだけです。

ギリシア側の比較的完勝に近かったことや、
この後アテナイが全ギリシアの覇権を握っていくこと、
マラソンの語源である、ギリシア勝利を伝える伝令兵の英雄的な死。
辺りからやりたいように改変はできただろうと思います。
それでもペルシアは同じような悪役として描かれるんでしょうが、少なくともギリシア側への改変に含まれる悪意(もしくは悪意と取られかねない無意識の所作)は幾分か減る。

もっともマラトンの戦いは大規模なぶつかり合いですので、『300』で最もやりたかったことの一つであろう「戦争を個対個として描く」ができなくなっちゃいますけどね。
私が残念に思っているのは、戦争映画に対するアクション映画的な改革、この一点だけでも十分おもしろい映画になりえたのに、という点です。

Posted by DG-Law at 2009年01月11日 19:58
>アメコミ原作
この問題をややこしくしているのはそこですね。
原作がテルモピュレーなんだから変えようがないわけですし、
原作からしてそういう演出だったのならそれも変えようがない。
「映画『300』は歴史を描いたのではなくてアメコミを映画化したに過ぎない」なんて言われれば、
原作を読んでいない以上、映画化によってどう変わったかもわかりませんし、こちらはなんとも言えなくなります。

私はアメコミを詳しくないものですが、そういった思想を持つ作家さんでさえこういうものを描いちゃうんだと思うと、若干やるせないです。
同様に、ザック・スナイダー監督に関しても。じゃあ『300』の制作で、アメリカの傲慢さは感じなかったのか、感じたけど問題ない範囲だと判断したのか。
本人たちや熱心なファンたちに「そんなのは濡れ衣だ」と否定されればそれまでで、
その場合もやはり私からは、「少なくない人にそう思わせてしまった時点で不用意だった」としか言うことができません。
Posted by DG-Law at 2009年01月11日 20:01