2009年04月16日

Heiliges Roemisches Reich(2)

・ザクセン公 → 「侍従武官」。ザクセンとはゲルマン人の一部族ではあったがその範囲は広く、ドイツ中央部ほぼ全域を指してザクセンと呼ぶこともある。イギリス人を示す「アングロ・サクソン」のサクソンも元々はザクセン人のことである。ザクセン公国の所領に関しても歴史上変遷が激しく、特にザクセン人は慣習により分割相続であったがためにドイツ領邦の小国化に拍車をかけた。本家本元のザクセン公国はドレスデンやライプツィヒといった都市を持つ、ボヘミア(チェコ)との国境沿いの領土である。

神聖ローマ帝国建国直後はフランク人の家系が断絶すると皇帝位を引き継ぎ世襲したが(ザクセン朝)ぐだぐだになり、選挙制になる要因を作ったとも言える。その割に金印勅書が発行されるとちゃっかり選帝侯に居座っている。ルターが宗教改革を起こすとザクセン公はこれを強く支援し、オーストリア継承戦争や七年戦争にも参戦するなど中堅国家としての存在感を示してはいた。神聖ローマ帝国消滅後、王国に昇格。


・ブランデンブルク辺境伯 → 「財務侍従官」。辺境伯というと格が低そうなイメージがあるが、実際の地位としては「侯爵」と同義である。ブランデンブルク辺境伯国は現在のベルリン周辺の一帯を支配し、後にプロイセン公国と合併。さらに後プロイセンは王国に昇格し、最後にはドイツ帝国統一の旗手となる。その意味では選帝侯最大の出世頭と言えるだろう。とは言っても宗教改革で新教側についた以外は最もおとなしい選帝侯であり、彼らが存在感を示すようになるのは王国昇格後のことである。

なお、ハプスブルク家オーストリアも元々は辺境伯国であり、中世後期に大公国に昇格した。帝国となったのは神聖ローマ帝国解体後のことである。これはハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を失うと、保持する最高の称号がボヘミア王国もしくはハンガリー王国に下がってしまう上にどちらもドイツではないということを嫌ったため、自らの原初の領土であったオーストリア大公国を、帝国に格上げさせた。



原初の七選帝侯は以上の通りだが、これ以外の選帝侯については以下の通りである。

・バイエルン大公 → 前述の通り。三十年戦争により「家令」の地位をファルツ伯から引き継ぐ。バイエルン自体はご存知の通りミュンヘンを中心とした南ドイツ最大の国家であり、神聖ローマ帝国のほぼ最初期からずっと大公国である。途中からヴィッテルスバッハ家が世襲し、WW1敗戦まで続く。それだけの地位にありながら内紛が激しく三十年戦争はほぼ初めての歴史の表舞台といえる。帝国解体後、王国に昇格。

・ハノーファー公 → 後からの追加であるため、ふざけたような設定は残念ながらない。元々は分割相続の風習によりバラバラな状態であったが1714年、偶然にもイギリス王家を輩出し、以後イギリスと同君連合となると今度は逆に周辺諸侯を吸収し北ドイツではプロイセンに次ぐ一大勢力となる。1692年選帝侯となっていることは諸々の資料から確認できたが、理由は調べが付かなかった。

すなわち選帝侯の一人はイギリス王を兼任していたわけだが、すでに神聖ローマ皇帝位にそこまでの価値がなかったため別段書くところはない。神聖ローマ帝国解体後、王国に昇格。ハノーファーは女性君主を認めていなかったため、ヴィクトリア女王即位時(1837)にイギリス領から分離。ドイツ統一過程で普墺戦争でオーストリア側についたため敗北しプロイセンに吸収された。もしハノーファーが女性君主を認めていたら、歴史が大幅に変わっていたことだろう。なお、1836年がスタートのVictoriaではこの点が再現されており、ハノーファーはイギリスの衛星国である。


・ヴュルテンベルク公、バーデン辺境伯、ヘッセン=カッセル伯(公)、ザルツブルク公

これらの四つはナポレオンによる大司教領廃止で選帝侯が三つ減ったため、代わりに追加されたもの。なのでこちらも妙な称号は無い。しかし、結局直後に神聖ローマ帝国自体がなくなってしまったため、選帝侯となったのは一瞬であった。ヴュルテンベルクもバーデンも南ドイツの有力な諸侯で、帝国解体後ヴュルテンベルクは王国に、バーデンは大公国に昇格。

ヘッセン=カッセルはドイツ中部、フランクフルト近辺の領主で、帝国解体後も選帝侯の称号を使い続けた頑固者でもある。一瞬しかその座についていないのに、面子にこだわったためである。単なる伯よりは選帝侯国のほうが確かに箔はつく。なお、今更ではあるが選帝侯の侯は諸侯の意味であるので、侯爵の意味ではない。そのため、これをもってヘッセン=カッセルの爵位が伯爵から侯爵に昇格したとは言えず、あくまで箔がついただけである。

ザルツブルクはモーツァルトで有名なようにオーストリアの都市であり、ここまででボヘミアを除けば唯一の非ドイツ都市であり、選帝侯最南端でもある。元々は大司教領であり、ザツルブルク大司教は多くの特権を保持し他の大司教よりもさらに格上で、その地位は辺境伯(侯爵)と同格であった。近世以後もオーストリア公国保護の下意外と長く存続するが、ナポレオン戦争中にハプスブルク家のトスカーナ大公が相続、ザルツブルク公国に名前を変えると同時に選帝侯となる。ナポレオン戦争が終結するとオーストリアが併合。


選帝侯の所領はけっこう偏っていて、ケルン、トリアー、マインツ、ファルツの四カ国はドイツの西側、ライン川の付近に存在している。なお、さらに厳密に言えばザルツブルク公は神聖ローマ帝国解体のほんとに直前にヴュルツブルク公に選帝侯を譲っているのだが、さすがに面倒なので割愛。


この記事へのトラックバックURL