2009年12月01日
データで見る大関互助会
タイトルであおっておいてなんだが、私は比較的八百長容認派である。実際問題大相撲の番付というのは優勝争いが2敗圏内なのに番付を維持するには勝ち越さなければならない、しかし全体の星数は固定である、という大いなる矛盾を払っているものであり、前頭の中盤辺りのエスカレーターっぷりを見ていると、安易な手段に頼ろうとしてしまう彼らの気持ちもわからなくはないのである。ましてや大関は二場所に一場所勝ち越せばいいという他よりも緩い条件の地位とはいえ、横綱及び他の大関陣全員とあたるという条件がある以上、それも公傷制度が無い現状、ある程度譲り合いの精神が発生しないほうが不自然というものであろう。互助会も大相撲の見所の一つと言えるかもしれない。
しかし、それにも当然限度はある。果たして、魁皇の幕内戦績806勝にどれほどの価値があるだろうか。いまや魁皇でぐぐると「八百長」「8勝7敗」という検索フレーズが沸いて出てくるほどである。魁皇は確かに昔は強かったし、横綱に昇進する機会も何度かあった。特に平成16年の秋か九州で昇進させてしまって、翌年には引退しておけば、晩節を汚すことはなかっただろう。しかし、横綱に昇進していればこの幕内通算勝利の記録は達成されえなかった。常に優勝を狙う立場であり、その力を失えば世間から引退の声が飛ぶ。何より、陥落の無く休み放題の横綱に互助会は存在しないからだ。
と前書きはしておいて、とりあえず、現状がどうなっているのか、データで追っていて見ることにしたのが本エントリの主旨である。まず、出張所のほうにも貼ったが、以下は見事8−7グランドスラムを達成した、今年の魁皇の一年間の取り組み結果である。
初 ☆ 8− 7 ○○○●○●○●○○●○●●●
春 ☆ 8− 7 ●○○○○○○●○●○●●●●
夏 ☆ 8− 7 ○○●○○○○○●○●●●●●
名 ☆ 8− 7 ●○○●●○○○●●○●○○●
秋 ☆ 8− 7 ○●○●○●○○○○●●●●○
九 ☆ 8− 7 ○●○●●○○○○○●●●●○
実に恐ろしいまでの帳尻あわせ能力であり、秋場所と九州場所、また比較的序盤調子が良かったと思われる春場所夏場所の星の取り方が極めて酷似しているという点はなかなか興味深い。終盤5戦のみの勝敗は7−23で大きく負け越しているが、裏を返せば前半は41−19で大きく勝ち越している。ゆえに魁皇の場合「貸す機会」が多く、だからこそ体調が悪く名古屋場所のような状態になってもなんとか勝ち越しに持っていくことができるし、秋場所や九州場所のように千秋楽まで勝ち越しを引き伸ばしても相手が空気を読んでくれるのである。千代大海は「返す機会」がなくなるほど弱ったので見捨てられた、もしくはこの1年で貸した星を全部回収しきってしまった、という解釈も可能である。
資料1:勝ち越しのかかった大関の、千秋楽における取組結果
某スレに貼られていたものを借用。これは宝暦7年以来全取組が検索できるサイトで、「7−7の」「大関の」「千秋楽における」取り組み結果を全検索したもの。そうすると、全部で80しか取組がなかったというのは意外と少ないかもしれない。年六場所制が定着したのは昭和33年のことであるので、それから外れる5番を除くと51年間で75番あったことになる(年に約1.5番)。そしてその勝率は77%。
しかし驚くべきことに、全体の半分にあたる40番は昭和62年5月場所以降の22年8ヶ月の間であり、年に1.76番ペースに増えている。その勝率は32−8で80%。さらに、全体の4分の1にあたる20番は平成15年7月場所以降、つまりここ6年と半年に集中しており、なんと年に3.1番は千秋楽に7−7の大関がいたことにある。言い換えれば、二場所に1番はがけっぷち大関がいたことになる。最近、やけにやたらめったら多いなと思うのは気のせいではなかったのだ。その勝率は17−3で85%に達する。
さらに数字で現れないところを考慮すると、さらに見えてくるものがある。明らかに白星がずらっと並ぶ期間とそうでない期間に綺麗に分かれる。もうぶっちゃけて言ってしまえば、昭和61年9月から平成元年11月場所までの3年2ヶ月間と(期間Aとする)、平成16年から現在に至る6年間(期間B)が異常すぎるのだ。期間Bの唯一の黒星は、相手が朝青龍であることを考えれば例外として除外可能である。よって、期間AもBも、7−7大関の実質的な勝率は100%である。
期間Aの大関陣を見てみると、この期間というのはその少し前の61年1月から北尾(笑)が横綱に昇進してメンバーが入れ替わっているものの、おおよそずっと4〜5大関が維持されていた。なお、この双羽黒と、横綱勝率.662にしてガチに負け越しを経験している大乃国の二人を、横綱ではなく大関としてカウントするなら、この期間はずっと5〜6大関として見ることができる。たとえばこの期間の5大関の勝ち星はひどいもので(資料2:五大関時代の各力士の勝ち星)、なんとか二桁が一人もいない状況だけは避けているに過ぎない。若島津、北天佑、朝潮の三人は当時から言われていたらしいが、残念ながら私は生まれてまもないくらいのタイミングであるため直接見てはいない。
期間Bは記憶にも新しいように、ずっと4〜5大関である。関脇琴光喜をカウントするなら、これも常に5大関だったとして見ることが可能である。その勝ち星については資料2の最下段に示した通りである。言うまでもないが、こちらはよりひどい。4大関時のデータがこのサイトになく、さすがに一から作る気力はわかなかったが、もはや作るまでも無いだろう。ここで、さらに限定されたデータを提示してみたい。
資料3:勝ち越しのかかった大関の、千秋楽における大関戦の結果
こちらは資料1の条件からさらに「相手力士も大関」で絞り込んだものである。全部で37番存在し、そのうち年六場所制のものは34番である。その場合、年に2/3番存在したということになる。この全期間における勝率は27−7で79%。
そして、こちらはよりくっきり結果が出ている。言うまでも無いことだが、期間A、期間Bともに勝率100%である。期間Aにおいては3年で6番なので年に2番。期間Bにいたっては額面通りに計算すれば6年で10回なので年に5/3番だが、その10回は全て平成18年5月場所以降であり、これは白鵬が大関に昇進した場所である。要するに、ここで最後の余裕がなくなったのだ。平成18年5月場所以降では3年半に10回なので、おおよそ年に3番となる。そして、平成19年初場所の栃東を例外として、残りの負けたほうの力士は全員綺麗に勝ち越し済である。さらに言えば、期間Aと期間Bの間の約14年間ではたった4番しかなく、その勝率は1−3でたったの25%である。あまり関係無いが、この4番も相手力士は全員勝ち越している。
実は、これらのデータだけではまだ検証は厳密ではない。なぜなら、11日目以降の大関同士の対戦もあぶりださなければ結果は見えてこないからである。たとえば、14日目の取組前の時点で7−6の大関Aがいたとして、この日の対戦相手の大関Bが6−7、千秋楽の対戦相手である大関Cは8−5という成績だったとすると、この三人では14日目にAがBに負け、千秋楽にCがAに負けるという話さえついていれば全員簡単に勝ち越すことが出来る。このようなパターンは非常に多いはずである。
しかし、この作業は大変に骨が折れる。4〜5人の大関の戦績を常に頭に入れておかなければ例外は排除できなくなるし、そもそも全員が全員毎場所互助会に頼っている/貸しているわけではなくて、今年の5月の日馬富士や昨年5月の琴欧洲、一昨年九州の千代大海のように、優勝争いがかかわった大関はその場所のみ必ずガチでやっているため、これらもノイズのごとく例外として浮上してくる。ゆえに、厳密な検証は相当の相撲識者で時間に余裕のある方でなければ不可能である。
だが、この千秋楽に絞ったデータだけでも、私は十分有意なデータが取れたのではないかと思っている。これらはどう見たって誤差範囲と言えるものではないし、また、「勝ち越しのかかった大関の意地」で弁明が効く範囲のものとも思えない。
しかし、それにも当然限度はある。果たして、魁皇の幕内戦績806勝にどれほどの価値があるだろうか。いまや魁皇でぐぐると「八百長」「8勝7敗」という検索フレーズが沸いて出てくるほどである。魁皇は確かに昔は強かったし、横綱に昇進する機会も何度かあった。特に平成16年の秋か九州で昇進させてしまって、翌年には引退しておけば、晩節を汚すことはなかっただろう。しかし、横綱に昇進していればこの幕内通算勝利の記録は達成されえなかった。常に優勝を狙う立場であり、その力を失えば世間から引退の声が飛ぶ。何より、陥落の無く休み放題の横綱に互助会は存在しないからだ。
と前書きはしておいて、とりあえず、現状がどうなっているのか、データで追っていて見ることにしたのが本エントリの主旨である。まず、出張所のほうにも貼ったが、以下は見事8−7グランドスラムを達成した、今年の魁皇の一年間の取り組み結果である。
初 ☆ 8− 7 ○○○●○●○●○○●○●●●
春 ☆ 8− 7 ●○○○○○○●○●○●●●●
夏 ☆ 8− 7 ○○●○○○○○●○●●●●●
名 ☆ 8− 7 ●○○●●○○○●●○●○○●
秋 ☆ 8− 7 ○●○●○●○○○○●●●●○
九 ☆ 8− 7 ○●○●●○○○○○●●●●○
実に恐ろしいまでの帳尻あわせ能力であり、秋場所と九州場所、また比較的序盤調子が良かったと思われる春場所夏場所の星の取り方が極めて酷似しているという点はなかなか興味深い。終盤5戦のみの勝敗は7−23で大きく負け越しているが、裏を返せば前半は41−19で大きく勝ち越している。ゆえに魁皇の場合「貸す機会」が多く、だからこそ体調が悪く名古屋場所のような状態になってもなんとか勝ち越しに持っていくことができるし、秋場所や九州場所のように千秋楽まで勝ち越しを引き伸ばしても相手が空気を読んでくれるのである。千代大海は「返す機会」がなくなるほど弱ったので見捨てられた、もしくはこの1年で貸した星を全部回収しきってしまった、という解釈も可能である。
資料1:勝ち越しのかかった大関の、千秋楽における取組結果
某スレに貼られていたものを借用。これは宝暦7年以来全取組が検索できるサイトで、「7−7の」「大関の」「千秋楽における」取り組み結果を全検索したもの。そうすると、全部で80しか取組がなかったというのは意外と少ないかもしれない。年六場所制が定着したのは昭和33年のことであるので、それから外れる5番を除くと51年間で75番あったことになる(年に約1.5番)。そしてその勝率は77%。
しかし驚くべきことに、全体の半分にあたる40番は昭和62年5月場所以降の22年8ヶ月の間であり、年に1.76番ペースに増えている。その勝率は32−8で80%。さらに、全体の4分の1にあたる20番は平成15年7月場所以降、つまりここ6年と半年に集中しており、なんと年に3.1番は千秋楽に7−7の大関がいたことにある。言い換えれば、二場所に1番はがけっぷち大関がいたことになる。最近、やけにやたらめったら多いなと思うのは気のせいではなかったのだ。その勝率は17−3で85%に達する。
さらに数字で現れないところを考慮すると、さらに見えてくるものがある。明らかに白星がずらっと並ぶ期間とそうでない期間に綺麗に分かれる。もうぶっちゃけて言ってしまえば、昭和61年9月から平成元年11月場所までの3年2ヶ月間と(期間Aとする)、平成16年から現在に至る6年間(期間B)が異常すぎるのだ。期間Bの唯一の黒星は、相手が朝青龍であることを考えれば例外として除外可能である。よって、期間AもBも、7−7大関の実質的な勝率は100%である。
期間Aの大関陣を見てみると、この期間というのはその少し前の61年1月から北尾(笑)が横綱に昇進してメンバーが入れ替わっているものの、おおよそずっと4〜5大関が維持されていた。なお、この双羽黒と、横綱勝率.662にしてガチに負け越しを経験している大乃国の二人を、横綱ではなく大関としてカウントするなら、この期間はずっと5〜6大関として見ることができる。たとえばこの期間の5大関の勝ち星はひどいもので(資料2:五大関時代の各力士の勝ち星)、なんとか二桁が一人もいない状況だけは避けているに過ぎない。若島津、北天佑、朝潮の三人は当時から言われていたらしいが、残念ながら私は生まれてまもないくらいのタイミングであるため直接見てはいない。
期間Bは記憶にも新しいように、ずっと4〜5大関である。関脇琴光喜をカウントするなら、これも常に5大関だったとして見ることが可能である。その勝ち星については資料2の最下段に示した通りである。言うまでもないが、こちらはよりひどい。4大関時のデータがこのサイトになく、さすがに一から作る気力はわかなかったが、もはや作るまでも無いだろう。ここで、さらに限定されたデータを提示してみたい。
資料3:勝ち越しのかかった大関の、千秋楽における大関戦の結果
こちらは資料1の条件からさらに「相手力士も大関」で絞り込んだものである。全部で37番存在し、そのうち年六場所制のものは34番である。その場合、年に2/3番存在したということになる。この全期間における勝率は27−7で79%。
そして、こちらはよりくっきり結果が出ている。言うまでも無いことだが、期間A、期間Bともに勝率100%である。期間Aにおいては3年で6番なので年に2番。期間Bにいたっては額面通りに計算すれば6年で10回なので年に5/3番だが、その10回は全て平成18年5月場所以降であり、これは白鵬が大関に昇進した場所である。要するに、ここで最後の余裕がなくなったのだ。平成18年5月場所以降では3年半に10回なので、おおよそ年に3番となる。そして、平成19年初場所の栃東を例外として、残りの負けたほうの力士は全員綺麗に勝ち越し済である。さらに言えば、期間Aと期間Bの間の約14年間ではたった4番しかなく、その勝率は1−3でたったの25%である。あまり関係無いが、この4番も相手力士は全員勝ち越している。
実は、これらのデータだけではまだ検証は厳密ではない。なぜなら、11日目以降の大関同士の対戦もあぶりださなければ結果は見えてこないからである。たとえば、14日目の取組前の時点で7−6の大関Aがいたとして、この日の対戦相手の大関Bが6−7、千秋楽の対戦相手である大関Cは8−5という成績だったとすると、この三人では14日目にAがBに負け、千秋楽にCがAに負けるという話さえついていれば全員簡単に勝ち越すことが出来る。このようなパターンは非常に多いはずである。
しかし、この作業は大変に骨が折れる。4〜5人の大関の戦績を常に頭に入れておかなければ例外は排除できなくなるし、そもそも全員が全員毎場所互助会に頼っている/貸しているわけではなくて、今年の5月の日馬富士や昨年5月の琴欧洲、一昨年九州の千代大海のように、優勝争いがかかわった大関はその場所のみ必ずガチでやっているため、これらもノイズのごとく例外として浮上してくる。ゆえに、厳密な検証は相当の相撲識者で時間に余裕のある方でなければ不可能である。
だが、この千秋楽に絞ったデータだけでも、私は十分有意なデータが取れたのではないかと思っている。これらはどう見たって誤差範囲と言えるものではないし、また、「勝ち越しのかかった大関の意地」で弁明が効く範囲のものとも思えない。
Posted by dg_law at 12:00│Comments(2)│
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この記事へのコメント
前にどこかで、「7勝7敗なら勝ちにいって勝つのもおかしくないけど、その時の対戦相手との次の場所の星勘定はどうなってるのか」みたいな着眼点を見かけました。
まあ疑ってかかると何でも疑わしく映ってしまいますけど。
まあ疑ってかかると何でも疑わしく映ってしまいますけど。
Posted by EN at 2009年12月02日 10:45
ぐぐってみたらけっこういろんな検証がありますね。
アンサイクロペディアの冗談記事では、1981年の若島津大関昇進をもって互助会の結成としています。
一方で、もっと古くから相撲見てる人には「昭和45年頃の琴桜が発祥ではないか」と書いている人もいますね。
どこまで懐疑的になっていいかというのは難しいところで、究極的には某板井が書いていたような「朝青龍も7割は八百長」というところになるのでしょうか。まあ、あんな与太話信じている人は相当少ないと思いますが。
なるべく、力士たちを信じてあげたいものです。
アンサイクロペディアの冗談記事では、1981年の若島津大関昇進をもって互助会の結成としています。
一方で、もっと古くから相撲見てる人には「昭和45年頃の琴桜が発祥ではないか」と書いている人もいますね。
どこまで懐疑的になっていいかというのは難しいところで、究極的には某板井が書いていたような「朝青龍も7割は八百長」というところになるのでしょうか。まあ、あんな与太話信じている人は相当少ないと思いますが。
なるべく、力士たちを信じてあげたいものです。
Posted by DG-Law at 2009年12月03日 01:27