2010年01月28日

千代大海引退に寄せて

自分の場合、なんとなく相撲を見ていたのが若貴時代、趣味と言えるかなという程度に見てたのが武蔵丸時代、腰を据えて見出したり両国に行ったりしだしたのが朝青龍時代なので、ほとんど千代大海の相撲人生と重なる。とは言っても、語れるほど知っているのはほとんど大関時代、ということになる。おそらく千代大海の相撲人生全体を見渡した文はこれからもっと詳しい方が雑誌なりこの間紹介したサイトなりで書いてくれると思うので,私は大関時代に絞って書いておきたい。

言うまでもないことだが,千代大海最大の武器といえば非常に回転の早いつっぱりであり,また,ともすれば朝青龍に匹敵するような鋭敏な感覚から生まれる引き技である。通常引き技を多用すれば大けがを誘発し,結果的に住もう人生を著しく縮めることになるが,そうはならなかったところに彼のうまさがあると言えるだろう。土俵際の魔術師と言われたこともあれば,2ch等では半ば揶揄的にCSP(千代大海スペシャル)等と呼ばれたこともある。しばしばこの引き技もつっぱりが有効だったからこそ威力があった,と言われるが,それは半分の正解でしかない。実のところ,回転速度は末期までほとんど衰えを見せなかったが,著しく衰えたのは一発あたりの威力であった。末期のCSPはほとんど立ち止まった状態で威力のないつっぱりだけが回転し,そこから引いてもちゃんと決まっていた。だからこそあれは神がかり的なうまさであり,まさに魔術師と形容するにふさわしい技巧であったのだ。

千代大海の大関時代は大きく分けて4つの時期がある。まず,初優勝をあげて一気に大関まで上がってきたとき。一見するとこの頃が全盛期のように思えるが,実は上がった直後というのは角番が多く,当時は存在した公傷制度に三度も助けられている。当時から現行の制度であったなら,とっくの昔に陥落していたのは疑いのないことである。

この相撲が大きく変わったのは適度に引くことを覚えたからで,CSPという略語とともにネット界隈で人気になっていったのもこの時期である。平成14〜16年頃が彼の全盛期であり,あたれば相手が吹っ飛び,電車道で決めることもしばしばで,かと思えば華麗に引いて見せ時に大番狂わせを呼ぶ相撲。この時期,朝青龍がいまだ完成しておらず,栃東や武双山といった適度なライバルも存在し,実に充実した相撲を見ることができた。平成14年3月から平成16年3月までの12場所のうち,皆勤した10場所はすべて二桁勝利であり,うち二場所が優勝という抜群の安定感であった。また,休場した二場所については,平成14年の九州場所で大けがをし,翌場所の平成15年の初場所は,最後の公傷制度による休場である。ただ,組むことだけは最後まで覚えなかった。それがもう一つのネットスラング,「組んだら序二段」につながっていくのだが。彼がとうとう横綱になれなかったのも,全く組むことを覚えなかったからである。

さて,平成16年の九州でまともに負け越すと千代大海も黄金期が終わり,あとは角番と互助会を繰り返すのみとなる。これが第三期である。それでもまだまだ下位には強く,特に稀勢の里や安美錦に対しては圧倒的な戦績を残っていた。調子が良ければたまに二桁勝ち,互助会だの老害だの言われつつも,引退勧告されないだけの強さはほこっていたし,突き押しの第一人者としての存在感もあった。つっぱりながら足は後退し,最後には引き落として勝つなど「迷技」で我々をわかせてくれた。

しかし,これにとどめを指したのが平成19年の九州場所,下手に優勝争いに残ってしまったもので,彼も相撲人生最後の優勝を地元であげたいと思っていたのだろう,本気で横綱白鵬に挑みかかったところ,綺麗なとったりを放たれて重傷。以後はほとんど完全に互助会におんぶでだっことなった。これが第四期にして末期である。毎場所のようにブログで「さっさと引退しろ」と書いていたのは,未だ自分でも記憶に新しいところだ。そこからよく丸2年ももったものだと思う。


いろいろな難点はあるものの,まあ名大関だったと言っても何ら問題はないであろう。というよりも,中学では北九州最強の暴走族だった,というところから始まり,「関取は肌をさらす職業だから」と言ってエステに通うなど,これほどキャラの濃い関取も珍しい。相撲はスポーツであると同時に興業でもあるのだから,これはこれで正しい姿勢だと思う。今後,彼のような力士を,彼が育てることに期待して,筆をおさめたい。