2010年04月09日

どちらを代表作とすべきだろうか?

長谷川等伯《瀟湘八景図》右隻長谷川等伯大回顧展に行ってきた。行ったのは東京展のほとんど会期末で、実はもっと早く行きたかったのだが、友人たちにあわせていたらこのタイミングになった。というのも、美の巨人と日曜美術館が重なった上に最終週となれば、混むに決まっているからだ。案の定、入場は90分待ちであった。そして、こんなに感想を書くのが遅れたのは、ちょっと仕事が忙しく、図録を読んでいる余裕がなく、だったら京都展開始の直前にしようと思い切って延期したためである。


展覧会は長谷川等伯の画業を彼の人生に沿って展示する形。とは言いつつも、長谷川等伯の場合は描いたもののジャンルがかなり年代ごとによって違い、様式もまたかなり綺麗に推移するのでこの方式が最もわかりやすい。大回顧展ということで、国内の国宝・重要文化財が勢ぞろいしているが、よって前半の大部分は石川県能登から出品された仏画ということになる。長谷川等伯は元の名を信春といい、上京する前はほとんど仏画を専門にしていた一介の地方絵師であった。正直に言って、この時代の等伯(信春)の絵はうまいのだがすごみはない。どこにでもいそうな絵師という感じである。けっこうスルー気味に見物して、次に行った。

等伯は推定32〜34歳の頃に京都へ赴き、画家として活動を始めた。時代は、信長が包囲網に苦しみ、延暦寺を焼いて足利幕府を滅ぼした頃である。しかし、その後10年間ほど等伯には空白の期間があり、次に画壇に登場するのは1580年代後半、すでに豊臣秀吉が天下統一に手をかけていた頃であった。しかもこの間に「信春」から等伯に名前を変えているため、美術史学としては等伯は長らく出自の謎の人物であり、特定は昭和13年と、これだけの大画家としては比較的近年である。なお、実はまだ完全に同一という確実な証拠は発見されておらず、状況証拠のみである。しかも、使用された名前が重なっていた時期が若干あり、かつ画風が完全に一致しているわけではないなど、疑問点もあることが本展覧会の図録で指摘されている。(ただし、同一人物であることを否定しているのではなく、信春時代は父親の影響が強く、「等伯」と号してから意識的に画風を変えたのではないか、という主張)。

今回の展示でも、信春と等伯をつなぐ状況証拠となった作品がいくつか出品されている。なかでも《日堯上人像》は、昭和13年の論文の根拠となった作品であり、回顧展には欠かせない記念碑的な作品と言えるだろう。この《日堯上人像》が描かれた「空白」直前の時期というのは等伯の画業が最も多岐に渡っていた時期であり、相変わらずの仏画の他、武田信玄や名和永年といった武将の肖像画に、微妙な山水画や花鳥画もある。道に迷っていたように見えるという点では、いかにも空白期間の直前というように見えなくもない。

空白期間の明けた等伯の名を世に知らしめたのは、大徳寺山門の天井画(1589)である。等伯は大徳寺とつながりが深いが、これは仏画絵師であり熱心な仏教徒であった(日蓮宗)等伯には、仏教界との伝手が深かったためと言われている。後に等伯が秀吉に気に入られるようになると,長谷川派と狩野派は激しい権力闘争に陥るが、その際長谷川派の後ろ盾になったのはやはり仏教界であった。さて、さすがに実物は持って来れなかったが、この大徳寺の山門の天井画や山門内部の装飾は、かなり上手に再現されていた。ところで、この大徳寺の山門に飾られた千利休の木像が、利休切腹の直接的な原因となったのは比較的有名な話である。『へうげもの』でも描かれている。

『へうげもの』といえばもう一つ、等伯の伝説的な逸話といえば、大徳寺の襖絵を住職のいない間に勝手に上がりこんで即興で山水画を描いてしまった、というものがあるが、その襖絵も来ていた。これも大徳寺の山門天井画と同様に空白明け直後の作品と目されているが、なるほど確かに、この山水画はいかにも長谷川等伯である。なお、この逸話の真偽であるが、襖の素材が描画に向かないものであることから、かなり信憑性が高い、と図録に書いてあった。『へうげもの』中では、襖絵を描いている途中の等伯に古田織部が訪ねてくる場面がある。


さて、こうして等伯の有名な山水画の時代がやってくるわけだが、等伯の代表作といえばけっこう人によって意見が分かれるところである。《松林図屏風》が最も挙げられるところだが、実のところあの作品は等伯にとって晩年の、それも突然変異的な作品であり、本道ではない。しかし、確かに最も人の心を打ち、とてつもないインパクトと美しさを持つ作品としては、間違いなく《松林図屏風》が至高であろう。今回の展覧会では、その突然変異がいかにして誕生したか、という系譜を探る展示順となっていて、これがとてもおもしろかった。なるほど、こうして見ると順調に枯れていっているのであって、あながち突然変異とは言い切れないかもしれない。

もう一つしばしば挙げられるのが、《松林図》と並んで等伯の国宝となっている、智積院の《楓図》。これはかなり巨大な作品で、しかも部屋の四面が全て等伯の作品で埋められている状態であったため、非常に大掛かりな工事をして取り外したらしいことが以前ニュースで流れていた(Yahooのヘッドラインで見た)。まずはその大胆な手法と、許可した智積院の度量に拍手を送りたい。《楓図》は非常に典型的な金碧障壁画であり、濃絵である。しかし、確かに完璧な金碧障壁画であり、そうであるがゆえに、これは等伯の代表作というよりも、桃山美術の代表作と言ったほうが適切ではないか、と私は思う。そもそも本作品は狩野派が金碧障壁画を得意としたので、長谷川派にだってその技量はあることを誇示するべく描いた作品と言っても過言ではなく、その目論見は見事に達成された。


これらに異論を唱えるわけではないが、長谷川等伯という画家はその《松林図屏風》から与えられる印象とは違い、実際には非常に器用な画家で、何でも描くことができた。仏画や人物画にも長けていたし、山水画としても、「枯山水」の道を切り開いた一方で、その正反対になる金碧障壁画も描けた。しかし、長谷川等伯の山水画の本質といえば、それは妙に古臭い南宋か明期の中国画のようなものであって、断じて《松林図》や《楓図》が本質というわけではない。他の画家でいえば、雪舟か狩野元信あたりが最も近い画風ということになると思う。「彼は生まれる時代を100年ほど間違えた」とは、我が友人の言葉である。

以上のような観点から評価するならば、妙心寺隣華院の《山水図襖》か、東博所蔵の《瀟湘八景図屏風》(今回の画像、右隻)は非常に長谷川等伯らしい作品として外すことは許されまい。ちなみに、誰だったか忘れたが、私と同じようなこと言って《松林図》を排撃し「《柳橋水車図屏風》こそ代表作」と言っていた(『芸術新潮』で読んだ)。この作品は厳密な山水画ではないもものの、賛同はそれなりにできる。ただし、彼が(そしてゲーシン編集部が)知っていたのかどうかは知らないが、《柳橋水車図屏風》は量産品でけっこう数がある。等伯の真筆かどうかは別にすれば、長谷川派で20作以上作られた題材なので、代表作というにはやや貴重さに欠ける。


ともかく、昨今の等伯といえば《松林図》か《楓図》という風潮は、やや首をかしげざるをえない。とかなんとか言いながら、《松林図》のTシャツを買った私は紛れもないミーハー……ダメだこいつry

その他、どの作品も長谷川等伯を語る上ではぜひ見ておきたい作品だらけであった。京都展も非常に混むと思うが、次はまた50年くらいやらない(というかできない)展覧会だと思うので、ぜひ見に行ってください。


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