2010年06月03日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(1):思想形成

これについても書いておかなければ、卒業したことにはなるまい。そう思いつつ書こうと思い立ってはや二ヶ月が経過していた。でもやはりやっておこう。

これから書くことは卒業論文で提出したものの前半部分を基調とはしているが、全くの別物である。あくまで彼の紹介という点に重点がおかれている上に、論文ではとても書けないような無根拠な私見も混じっている。執筆の目的は、フリードリヒの紹介半分、フリードリヒで卒論なりレポートなり書こうとする大学生がぐぐってたどり着いたときに参考してもらうのが半分、といったところである。そんなレポート出す先生は極めて限られており、大学名がわかれば特定できるレベルだが、まあ、コピペだけは勘弁して欲しい。私も特定される可能性がある。まあ、大学の先生はけっこう調べてますよ、自分の名前でぐぐったり。

4部作で、(1)思想形成、(2)崇高議論について、(3)人生と画業の遍歴、(4)研究史・作品紹介、となる予定。というわけで、当分美術の話題が続きます。すいません。



(1)については以下で述べているわけだが、非常に長くなったので、先にこれを掲載しておく。フリードリヒ理解の一助となれば幸いである。

まとめという名の箇条書き:フリードリヒの思想形成について

・スウェーデン領ドイツの地方生まれ(=自由主義万歳+北方万歳)

・厳格なルター派の父

・人物画が苦手ということが発覚

・シュライアーマッハーの汎神論

・ロイスダールの風景画

・フランス革命に対するドイツ人の反応(=反理性主義+民族主義)
→ フリードリヒもかぶれる

・イギリス源流の崇高美学?

=汎神論的プロテスタンティズム、宗教画としての人工的な風景画、熱い民族主義



フリードリヒの思想的根幹は、大きく分ければドイツ民族主義と汎神論的自然崇拝、特に北方志向の2つである。しかも、これらは混ざり合って生まれたものであり、不可分であると言ってもよい。そこでまず、彼の生い立ちを追いつつ、彼の思想形成の過程を見ていく。


画家カスパー・ダーフィト・フリードリヒは1774年にポンメルン地方のグライフスヴァルトで生まれた。ポンメルンはドイツ北部、バルト海沿岸の地域である。当時、グライフスヴァルトはまだスウェーデン領であった。西ポンメルンがスウェーデン領となったのは1648年にさかのぼる。当時はまだスウェーデンが欧州列強の一角であり、バルト海制海権を握っていたというよりも、バルト海沿岸地域のほとんどを領有していた。それは北ドイツのバルト海沿岸地方にあたるこのポンメルンを領有したことで完成していた。しかし、その後のスウェーデンはずるずると領土を減らしていき、バルト海の制海権もロシアに取られてしまった。西ポンメルンは、スウェーデンがスカンディナヴィア半島外に持っていた最後の領土であった。しかし、ここも1815年のウィーン会議で最終的にプロイセンにとられてしまう。

この、フリードリヒがプロイセン領ではなく、スウェーデン領で誕生したという点は極めて意義深い。当時のスウェーデンはイギリス同様、早々に農奴解放がなされ、貴族主義ではあるものの議会制立憲政治が進み、啓蒙主義的、自由主義的な改革でも世界の先進地域であった。一方、プロイセンはフリードリヒ2世大王治下での啓蒙専制的改革は進んでいたものの、それは大地主ユンカーの利益が優先され、農奴も解放されないものであり、軍国主義的な改革でもあった。こうしてフリードリヒは、幼少の時から、早々に自由主義にかぶれることになる。結果として、彼はその出生ゆえに自由なスウェーデンへの畏敬と、それでも自分はドイツ人であり、遅れたドイツへのなんとも言いがたい感情の、相容れがたい2つを終生抱えて生きていくことになる。この出生の事情が、北方志向と民族主義双方の出発点となったのは疑いえない。

幼少期の出来事として、もう2つ書いておかねばならないことがある。1つ目は、彼の父親が厳格なプロテスタント・ルター派であったということである。父親に影響され、カスパー・ダーフィト少年も厳格なルター派となっていくが、後にむしろルター派が基盤となって汎神論に目覚めていく。もう一つは、兄弟でスケートに出かけていたとき、氷が割れて池に落ちたフリードリヒを弟が助けようとして、結局弟のほうだけが溺死してしまったという陰惨な事件である。この事件はフリードリヒをより敬虔な宗教者とし、自虐的なロマン主義者とならしめたのであった。


フリードリヒは蝋燭業を営んでいた父に手先の器用さを見出され、地元グライフスヴァルト・アカデミーに16歳(1790年)で入学。この頃は基礎的な絵画技法を学んでいたが、すでに人物画は苦手であったようである。そう、忘れてはいけないのだが、フリードリヒが風景画家になったのは思想的意味合いが重要ではあるのだが、人物画が苦手であったがゆえの消極的選択という点も、意外と見落とされがちな一面であろう。また、グライフスヴァルト時代にはシラーやシェリングの著作を読んでいた。『群盗』を題材とした小品を何点か描いているが、まだあまりうまくはない。神童の類ではなかったようだ。

また、この時期に熱心に読んでいたのが宗教学者として名高いシュライアーマッハーの著作であり、これがフリードリヒにとってはある種の光明であった。シュライアーマッハーはルター派の神学者からスタートしたが、「宗教の本質とは何か」を考察した結果、本人自身が汎神論者に行き着いた変り種である。そのため後世では神学者ではなく、宗教学者として扱われることのほうが多い。ただし、彼の思想に対して「その汎神論は本当に汎神論か、プロテスタンティズムを引きずったものではないか?」という指摘をすることは可能で、この批判はそのままフリードリヒにも当てはまる。彼ら(とあえて括ることにするが)の宗教観は、自らがプロテスタンティズムから抜け出せていないということを自覚しないまま、汎神論に片足を突っ込んだものとなった。フリードリヒの自然への畏敬の精神は、この中途半端な汎神論からにじみ出たものであり、「崇高」概念の受容もこの精神を契機とする。しかし、話があまりにも脇道に逸れる上に長くなるので、この話は番外編として書きたい。


さて、マイスターになるには遍歴をしなければならないドイツ人らしく、フリードリヒも1794年(20歳)にグライフスヴァルトを離れ、コペンハーゲン・アカデミーに転校する。コペンハーゲンにはオランダの風景画家、ロイスダールの絵が大量にあったため、フリードリヒはこの研究に没頭していたらしい。ロイスダールの持つ憂鬱な雰囲気がフリードリヒとよく似ているという指摘はすでに多数なされている。と同時に、彼は若気の至りでありがちな「俺やっぱ専門変えるわ」を発揮したようで、途中建築学に浮気している。しかし、結果的にこれも後に廃墟趣味に目覚めたフリードリヒに、建築学的に正しい廃墟を描くだけの知識を与えることになったので、無駄にはならなかった。

同時にこの時期といえば、隣国フランスは革命真っ最中であり、ナポレオンがイタリア戦役を経て台頭し始めた時期であった。やがてフランスは反革命勢力に対する闘争を名目として、ドイツ諸侯への侵略戦争を開始する。これに対して、フランス革命が標榜したものと言えば理性尊重(偏重)であったため、ドイツでは反フランス・反革命が反理性主義と重なって民族主義が高揚した。これに見事にかぶれたのが、若き日のフリードリヒである。ここに生まれながら持っていた中途半端なドイツ人であるという劣等感の裏返しと、ロマン主義的な感覚主義(=反理性主義)がフリードリヒの中で結びつき、幼き日のスウェーデン畏敬も加わって、フリードリヒに特有の民族主義が完成した。ドイツ・スウェーデンを括るなら、フリードリヒの中にあったものは「汎ゲルマン民族主義」と言っても過言ではない。

さらに、イギリス美学に触れ、「崇高」概念について学んだのもこの時期ではないかと言われているが、確証がない。この穴を埋めたなら、フリードリヒ研究としては大きな成果となるだろう。しかし、いずれかのタイミングで本格的な美学を学んでいるのは確かではないかと思う。そうでなければ、汎神論から直接は「崇高」へ結びつかないのではないか?という疑念は提示されてしかるべきであろう。(一応スウェーデン出身のイギリス美学者トーマス・トリルドという人物が疑われているが、彼はフリードリヒの入れ違いでグライフスヴァルト・アカデミーに赴任しており、本当に接触があったかは疑わしいとされる)。


こうして、自然風景を宗教画として描く、ヨーロッパでは極めて珍妙な画家フリードリヒが誕生したのであった。彼にとっては、自然そのものが宗教的表現の担い手であり、あらゆるものの象徴であった。ゆえにキリスト教的モチーフは必要とせず、むしろ風景画にとって不純物であった。天使を描いた作品も極めて少なく、それらも弟子の作品と疑われている。十字架以外のキリスト教由来のモチーフを徹底として排除した点では、なるほど、まさに聖書主義的でありながらも汎神論的であったと認めてもよいだろう。

また、自然崇拝でありながらありのままの自然風景を描くことを避け、作品を出来る限り人工的な風景に仕上げたのも彼の特徴の一つである。調べてみると、後世の研究者に対する挑戦状なんじゃないかと思えるほどパズル的に模写を分解、再構成し、自らの思想表現に都合の良い風景を作り上げている。この点からも、自然はあくまでも宗教的象徴の担い手・道具であり、真の意味での汎神論ではなかったということの証左になりうるだろう。後世の人間からはどうあっても風景画家に分類されてしまうフリードリヒだが、彼本人はあくまで宗教画家だと自認していた。だが、実はこの人工的である点が、ロマン主義の後にヨーロッパを覆った自然主義と反し、彼が画壇の本流から外れていく要因ともなる。




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