2010年04月28日

浮き上がりに対処せよ

なぜ高校生は、理系に行かないか(公立学校の真実)

数学の授業時間が足りず,それゆえに原理の理解をすっ飛ばして数学という学問の本質的なおもしろさに触れられないまま,問題演習をさせられる。ゆえに数学には気味の悪さがつきまとい,理系離れが深刻化している,というのがこのブログの主張になるだろう。しかし,ここに書かれていることは、実際にはどの教科にも起きている。本質的な理解や学問的なおもしろさというところまで行くとやはり膨大な時間をかけるか,本人の意欲や能力によるところがどうしても出てくる。主張は的外れとまでは言えないものの,直接的に理系離れの要因を突いているとも言い難いように思う。

自分のブコメを転載すると,「どの教科もそうだが,中学の内容が削られてるのに大学入試の難易度は変わらない=結果として高校での授業内容が濃くなりすぎる,ということが現実に起きている。中学の教科書を厚くしないと解決しない。」これは本当にその通りで、試しに東大や京大、早慶あたりの30年前くらいの入試問題を解いてみると良い。私は東大に関しては,現役時代にほぼすべての科目を過去25年分解いたことがある(これも段々と遠い過去になりつつあるが)。どの科目でもそうだが,難易度はまったく変わっていないか,むしろ年々難化している。ゆとり教育の産物とは,ある一定以下の偏差地帯において激しい。少子化もあいまって,日東駒専あたりはとみに入りやすくなった。

さて,ゆとり化が叫ばれておりしかもそれが表面化しているにもかかわらず,上位層の受験様相が全く変わっていないという現象。これには理由が二つある。一つは、いわゆる「受験テクニック」が流通してしまい差がつくなくなっているということ。数学にしろ国語にしろ英語にしろそうだが,今の受験生が一通り教えられるようなテクニックが形成されたのは比較的近年であり,いわゆるゴールデンセブン(1986年から1992年の7年間,予備校・塾産業の成熟期)においてさえ,現在のようなレベルまで,つまり偏執的とも言えるような受験研究はなされていなかった。実際には,しばしば小手先と表現されるような,これらのテクニックというのも鶏と卵の関係であって,大学側が出題するから教えざるをえなくなったという事情が,予備校の側にもある。では,なぜ大学側がそのような奇問を出すのかというと,一定以上のレベルの受験生は本質的な領域にまで理解が及んでいるため,基本に則った出題では,いかに応用されていようが解けてしまい,差がつかない。差がつかなければ当然入試問題としては失格であるから,どうしても悪問が続出し,また予備校側も悪問対策を練り,ということ。どちらが悪いとは一概には言い難い。

もう一つの理由は、大学側が求める人材の質を落としたくないと思っていることだ。ゆえに、相当平均点が落ち込み,低得点で固まりすぎて”差がつかない”という状況に追い込まれるまで,その大学の入試の難易度は下がらない。そして実際,どれだけ公教育のレベルが低下しても日本人の(というか人間の)知性や知的欲求というものは抑制されるものではなく,一定以上の人数の若者は,必ずこの水準に追いついてくる。そして公教育による高等教育の補助には,中高一貫の私立高校や予備校が大きく手を貸してきた。大学側も,これらの学校には(現在でも尚)情報を公開し,人材的な交流を図っている。これも大学側が「受験生には高得点をとって入学してほしい」と思っていることの一つの証拠となるだろう。

大学入試の情勢がこのようであるにもかかわらず,公立中学ではゆとり教育化が進んだため、高校生の学力レベルそのものが大きく乖離してしまった。結果として、中卒時点から見るとひどく学習内容の多い高校での授業についていくことができず,大量のおちこぼれが生まれた。しかもその一方で,進学校の生徒は過当競争にさらされ、短い3年間に過剰な勉強を押しつけられた。誰も幸福になった人がいない。これがゆとり教育最大の成果である。解決には,義務教育の拡充と,高校教育からの内容移譲しかないだろう。


さて,元の本題にも触れておく。現実の社会において理系が虐げられているからではないか,というブコメが多くついていた。これに関しては真実かもしれないし全く影響がないわけでもないだろうが、そんな社会の事情を高校生は知らないので,文理選択の主要要因にはなっていない。理系選択が減少する理由はもっと単純なところで,とりあえず勉強したくない人にとっては国語や英語よりも数学のほうが”ままならなく見える”からだ。数学が勉強の象徴というのもある。が、そういう人にいざ実際に模試なんかを受けてもらうと、国語や英語の偏差値も数学と大差なかったりするのが世の常である。勉強しないと点がとれないのはどの科目も一緒である。


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