2010年05月17日

Kanon問題で決定論(過去確定的共有説)を主張する

ポータル記事として(後日設置)。

Kanon問題の追記:訂正と反論

Kanon問題追記の追記:というか締め
Kanon問題を締めた後に続いたもの。

以下が最初に行った問題提起の文章である。だが,その後の議論の展開から言って,それほど重要ではない。


ようやく自分の中で覚えていた違和感が何かはっきりしたのが一筆だけ書いておく。めんどくさいので、以下は読者がKanon問題が何かを知っているという前提で書く。


この問題の根本的な原因は、Kanonの本文があいまいにぼかしているために、過去遡及的生成でも、決定論でもどちらでも読めてしまうという点にある。それゆえに、2003〜05年に流行した時点でさえ「どちらとも解釈できるから後は好みの問題」という結論が出てしまっており、当時を知らない連中によって、ここ最近ぶり返してきている。私も、「当時を知らない連中の一人である。当時はそこまでエロゲ論壇は読んでいなかった。

さて、にもかかわらず私は決定論的解釈(確定的過去共有説)しかとらない。すなわち、「月宮あゆが犠牲になることによってしか奇跡が起きない場合が多い」という立場である。もちろん、この解釈を他人に強要するつもりはない。しかし、最近生ぬるい過去遡及的生成の立場をとる方々が多く、「どちらの解釈でも可」のはずが、次第に「こっちのほうが解釈の幅が広い」などと決定論的解釈の存在意義が認められない同調圧力も見られるので、ここに論拠を示さざるをえなくなってしまった。

本文に入る前に一応書いておくことが二つある。一つ目、現代お文芸のような話になってしまうが、いずれの立場にせよこれらというのは作者(公式)の解釈とは異なる可能性がある。しかし、「読み取れたものが正しい解釈である」とするならば、作者の解釈と正しい解釈が異なってもよいはずである、という立場をとるのが、現代のテキスト論では一般的な態度の一つとして認められうるだろう。それでも、公式の解釈と言っていいようなものが提示されれば、それは大変心強いのであるが。

もう一つは、Kanon問題は『Kanon』だから問題になるのであって、それ以外のエロゲではどうでもよい。というよりもKanon問題は作品論の一環なので、個別の作品にしか解釈されえないし、作品間の影響関係を考えるならそれは作品史の範疇になり、「○○というライターはKanon問題について××と解釈し、それを打ち破るために△△を作った」という話になるから、やはり解釈論争としてのKanon問題とは離れる。特に『CrossChannel』との絡みで語ったものは、いつの間にか作品史にシフトしてしまっているものが多い。

この傾向を勝手に拡大させ、決定論をとる立場の人間に対して「悲劇に酔ってるだけ」だのなんだの罵詈雑言・人格攻撃に走るのはよしていただきたい。『痕』がどうの『Toheart』がどうのといったものや、ヲタとしての態度についての言及を交えた言説は『Kanon』の作品論の一部に過ぎないKanon問題とはなんら無関係である。過去の議論において不満なのはまさにこの点で、作品論として語っているもののほうが少ない。別の議論をしたいが故にKanon問題をひきずっているようにさえ見える。あくまで、『Kanon』のみ語るべきであろう。


以下、本文。

私が提示する決定論の根拠は大きく三つである。一点目は読解の問題である。「におわせる程度に描写がある」「キャラに仮託して語っている」ということは、そちらの解釈が正しい。この立場をとった場合、やはりあゆは犠牲にならざるをえない。直接的に言及したものはないが、示唆するような台詞、場面は圧倒的に多い。特にあゆ以外のルートに入ってしばらく経つと、夕暮の商店街で「あゆのみが祐一にわざわざ別れを告げに来る」描写。そして、栞と名雪のルートにおいて挿入される、「夢(僕)」からの語りかけの描写。過去遡及的生成で説明する場合、これをどうやって解釈するのか、大概の議論は読んだが、いまだもってこれに対する有効な説明を読んだことがない(過去確定的共有側の説明として用いられている例は見たことがある)。

逆に、過去遡及的生成を支持するような描写は作品中にほとんどない。そもそも過去遡及的生成側の積極的な論拠は、前述の「明言"は"されていない」ことと(『Kanon』における過去描写は全て思い出であるという説はここに含む)、1ルートに入ってしまうと他のルートはなかったも同然になるというエロゲ特有のゲーム形式の2つくらいしか無い。ゆえに「匂わせている」=それがその作品内でとられるべき解釈であるという立場をとる人間からしてみれば、過去遡及的生成の論拠は薄弱である。というか、過去遡及的生成側の話はどれを読んでも「明確には示唆されていない」「ルートに入ると、他ルートについてはほとんど描写されない」という点の説明に終始しているのみである場合が多く、他の補強材料は無いのかと思わざるをえない。それらはわかったから、作中で明示的に過去が遡及されて生成されるという論拠を示して欲しい。何か勘違いして気付いた自分が賢いような振る舞いが多いが、遡及的生成も解釈の一つに過ぎず、決して完全に自由な解釈というわけではないのだから。


二点目は、KEY作品における共通的なルールの問題である。私のKEY作品の解釈はずっと昔にリトバスのレビューで書いているが、基本的に現在でもここから変わっていない。Kanonにおける不条理は各ヒロインによって大きく異なる上に、確かに救済のルールも不明瞭であった。しかし、ここに決定論とあゆの犠牲を持ち込めば比較的すんなりとルールの説明がつく。実際のところ最も重要なのはこの救済のルールの確定なのであって、Kanon問題などというものは副次的な産物でしかない。なぜなら、救済のルールが崩壊した鍵作品など、「鍵作品は悲劇と奇跡の安売り」という鍵作品をよく知らない人やアンチからの非難がそのまま当てはまる存在となってしまい、「起きるから陳腐って言うんですよ」の世界でしかない。

さて、ここで問題なのは、過去遡及的生成の立場を取る人間から、この点に関しても有効な説明を見たことがないということである。『AIR』の翼人伝説(方術)でも『CLANNAD』の光の玉でも、『リトバス』のループ世界でも、なんでもいい。これらに並ぶような、作品内からはっきりと読解できて、かつ月宮あゆの三度目の願い以上に整合性のとれた説明を、誰か提示してくれないだろうか。それ次第によっては、私も過去遡及的生成を支持してもよいと、割と本気で思っている。他の人はどうだか知らないが、私が鍵作品を好きなのは、圧倒的な不条理が描かれ、それに対するキャラたちの強い心と成長が描かれ、最後にそれらが一定のルールの下で「奇跡」として昇華されるからだ。「不条理だけで泣けるのだからいいじゃないか」という意見は一切耳に入れる気がない。私がKanon問題にやたらとこだわるのもまさにこの点が原因であって、「あなた方は陳腐な奇跡でもいいのですか」という疑念がぬぐえない。


三点目は、京アニ版アニメと関連する話である。(別に東映版でもいいのだが、あちらは作品の出来が微妙なのでやはり京アニ版のほうが良いであろう。)京アニ作品の中ではあまり評価が高いほうではないが、以前感想に書いたとおり、私は『Kanon』が最高傑作だと思っている。「パッヘルベルのKanon」に関する佐祐理さんの台詞が誰によって書かれたものかは知りえないし、まず間違いなく京アニオリジナルの台詞だろう。しかし、『Kanon』というタイトルを最もよく説明した台詞ではないかと思う。そもそもなぜこのタイトルがついたのかを考えたとき、キャラ同士の(横の)強いかかわりを考えたほうが自然である。この横のつながりは、祐一は知りえないが、プレイヤーだけが感づくことになる。この台詞が、アニメという一本道の中で言わされたという意義は考えられるべきであろう。

『Kanon』という作品は、「一定のルールによって起きる奇跡という旋律を繰り返しながら美しく響きあっていく」からこそすばらしい。それを実現したのは京アニ版Kanonであり、一本道であるがゆえに一回しか使えない「三度目の願い」を使わないように相当の熟慮と無理を重ねているのも、京アニ版Kanonであると言える。原作に戻って考えても、『Kanon』は攻略順自由のマルチシナリオであり、複数人クリアしていくと真相が判明していく。原作も直線5本ではなく、並列された5本なのだ。

具体名は挙げないが、昔の論壇で「祐一があれだけ多くの出来事を幼少期に一人で抱えているのは不自然、だから過去はルートに入ってから生成される」という主張をしていた人もいたようだ。しかし、今回のアニメで不自然なく一本道になったわけだが、彼らは、京アニ版Kanonを見て何を思っただろうか。「これも解釈の一つだ」と納得したか、それとも「こんなものは公式じゃない」と打ち捨ててしまっただろうか。

無論、これだって京アニの解釈であって公式の解釈ではないのではないか、という批判は正当だろう。しかし、それについては冒頭に書いた通り、公式の解釈が絶対ではなく、解釈は多数並びうる。しかし、準公式といえる作品で、過去は遡及的に生成されないということを示したという点でこのアニメの示した態度は意義深く、私にとっては心強い存在となった。これに関しても有効な反論は見たことがなく、そもそもKanon問題において取り上げられているところをほとんど見たことがない。古い議論は仕方が無いとしても、最近の議論で出てこないのはちょっと……と思う次第である。もっと言えば、三点目の重視度合によっては、京アニ版Kanon放映以前の議論は、かなり価値が下がってしまったのではないかとさえ、私は思っている。


最後に、なぜか取り上げられることの少ない、9791氏による決定論的Kanon解釈&レビューを掲載しておく。非常に説得力のある文章と言えるだろう。名雪に関する解釈は興味深い。「むしろ、「家族愛と、恋愛の帰結としての“愛”の相違」を描くことが、以降のKey作品には出来ずに、“家族愛”の部分だけが、一人歩きしだした印象すらある。」という言葉は重い。そういえばこれで思い出したのだが、名雪を特別なポジションに配置し、あゆの明確なライバルとして描いたという点においてのみ、東映版Kanonは評価できる(作中で祐一とキスしたのはあゆと名雪だけ)。

また、一部に見られる確定的過去共有説をとるにもかかわらず「あゆが犠牲になったわけではない」という主張についても、ここに挙げた三つの論拠から反論しうるであろう。

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