2010年05月19日
Kanon問題の追記:訂正と反論
先に、反論を受けて自説に訂正を加えたい。
まず、何か誤解されているようで、これは一重に私が回りくどく書きすぎたせいだと思うのだが、別に私は遡及説を否定しているわけではない。「「みんな助かる」のはもちろんKanonとは別の物語ですが、「誰かが犠牲になる」のもまたKanonとは異なる別の物語です。」というのならば、それは合意できる。そもそも私は前回「2003〜05年に流行した時点でさえ「どちらとも解釈できるから後は好みの問題」という結論が出てしまっており」と冒頭の段落で書いているのだが……
微妙にツイッターでつぶやいてしまったが、今回の私の動機は、最初に八柾さんのブログでKanon問題なるものを知ったのが発端であった。それまではさっぱり知らなかったし、興味も無かったのである。しかし、八柾さんと短い討論をしているうちに興味がわいた。折りしも世間で微妙に話題になったのは、タイミングが偶然重なっただけである。いや、八柾さんがその話題に加わっていた以上、完全に無関係というわけではないのだけれど。
それで、じゃあなぜこのような自説を述べるに至ったかと言えば、上記のような状況であると掲げられているにもかかわらず、過去ログをさかのぼっていくと出てくるのは遡及説側の意見ばかりであり、それだけなら別にまだ問題とするところではないのだが、なぜか決定論をなきものにしようと持っていくような態度が見受けられたからである。議論の歴史上、なぜこれだけ決定論が弱い立場であったのかは、いまだに理解できないところである。いや、立場が弱いというと語弊があるかもしれないが。
そしてこの構図は、現在においても変わっていない。そりゃ、論争の片方がもう片方について「歴史修正主義者同様」「「直感的な正しさ」を保有した「偽の命題」」「潰し続ける」等と言ってしまっているのは、態度としてあんまりなのではないか。立場の弱い側としては、裏切られたも同然だ。「遡及説論者が内心では自説以外あり得ないと考えていて、結論ありきで議論に参加しているのではないか」、という疑念が私にわくのは当然であろう。そして過去ログの遡及説側の論拠を読んでも納得しなかった。ならば、「どちらも別のKanon」という風潮に是正するには、決定論側として論拠と議論のたたき台となるものを書かざるをえなかったのである。
なので、実のところ、そちらが「どちらも別のKanon」であることを確認し、「対歴史修正主義者」的態度について再考してくださるのであれば、私の提議の8割はそこで終了する。残りは細々とした議論でしかない。これを最初に書いておくべきだったので、訂正しておく。私が変にぼかしたせいで、無用な労力を使わせてしまったのならば申し訳ない。しかし、この要求は決して撤回するつもりはない。
次にこれとこれを受けての訂正である。「多い」と濁したのは舞・真琴ルートを踏まえたものである。内実に差があるが、同じスーパーナチュラルとして括っても特に言及の必要は無いと考えていた。私にも過度に言いすぎたところがあった。若干熱くなっていたところは認めざるをえない。
その上で、以下のように私の立場を加筆しておく。スーパーナチュラルの種類が複数であることと、「あゆの奇跡」のルールが名雪・栞に適用されるということは、相互に矛盾するわけではない。そして、あゆの物のみ特定のルールを守ることで特別な、より高次の奇跡となったと言っていい。複数ライター制の弊害というのなら、それでもかまわない。しかし、スーパーナチュラルが複数存在するから奇跡にルールは必要ないと言われても、私はなんら納得できない。思えない理由については前回の第1・第3の論拠による。また、下のほうで若干の関連したことを書いておく。
以上のように2点訂正したところで、以下はここから気になったものだけピックアップして応答・反論したい。
まず、何か誤解されているようで、これは一重に私が回りくどく書きすぎたせいだと思うのだが、別に私は遡及説を否定しているわけではない。「「みんな助かる」のはもちろんKanonとは別の物語ですが、「誰かが犠牲になる」のもまたKanonとは異なる別の物語です。」というのならば、それは合意できる。そもそも私は前回「2003〜05年に流行した時点でさえ「どちらとも解釈できるから後は好みの問題」という結論が出てしまっており」と冒頭の段落で書いているのだが……
微妙にツイッターでつぶやいてしまったが、今回の私の動機は、最初に八柾さんのブログでKanon問題なるものを知ったのが発端であった。それまではさっぱり知らなかったし、興味も無かったのである。しかし、八柾さんと短い討論をしているうちに興味がわいた。折りしも世間で微妙に話題になったのは、タイミングが偶然重なっただけである。いや、八柾さんがその話題に加わっていた以上、完全に無関係というわけではないのだけれど。
それで、じゃあなぜこのような自説を述べるに至ったかと言えば、上記のような状況であると掲げられているにもかかわらず、過去ログをさかのぼっていくと出てくるのは遡及説側の意見ばかりであり、それだけなら別にまだ問題とするところではないのだが、なぜか決定論をなきものにしようと持っていくような態度が見受けられたからである。議論の歴史上、なぜこれだけ決定論が弱い立場であったのかは、いまだに理解できないところである。いや、立場が弱いというと語弊があるかもしれないが。
そしてこの構図は、現在においても変わっていない。そりゃ、論争の片方がもう片方について「歴史修正主義者同様」「「直感的な正しさ」を保有した「偽の命題」」「潰し続ける」等と言ってしまっているのは、態度としてあんまりなのではないか。立場の弱い側としては、裏切られたも同然だ。「遡及説論者が内心では自説以外あり得ないと考えていて、結論ありきで議論に参加しているのではないか」、という疑念が私にわくのは当然であろう。そして過去ログの遡及説側の論拠を読んでも納得しなかった。ならば、「どちらも別のKanon」という風潮に是正するには、決定論側として論拠と議論のたたき台となるものを書かざるをえなかったのである。
なので、実のところ、そちらが「どちらも別のKanon」であることを確認し、「対歴史修正主義者」的態度について再考してくださるのであれば、私の提議の8割はそこで終了する。残りは細々とした議論でしかない。これを最初に書いておくべきだったので、訂正しておく。私が変にぼかしたせいで、無用な労力を使わせてしまったのならば申し訳ない。しかし、この要求は決して撤回するつもりはない。
次にこれとこれを受けての訂正である。「多い」と濁したのは舞・真琴ルートを踏まえたものである。内実に差があるが、同じスーパーナチュラルとして括っても特に言及の必要は無いと考えていた。私にも過度に言いすぎたところがあった。若干熱くなっていたところは認めざるをえない。
その上で、以下のように私の立場を加筆しておく。スーパーナチュラルの種類が複数であることと、「あゆの奇跡」のルールが名雪・栞に適用されるということは、相互に矛盾するわけではない。そして、あゆの物のみ特定のルールを守ることで特別な、より高次の奇跡となったと言っていい。複数ライター制の弊害というのなら、それでもかまわない。しかし、スーパーナチュラルが複数存在するから奇跡にルールは必要ないと言われても、私はなんら納得できない。思えない理由については前回の第1・第3の論拠による。また、下のほうで若干の関連したことを書いておく。
以上のように2点訂正したところで、以下はここから気になったものだけピックアップして応答・反論したい。
上から順番に。
>ならばあなたは、Kanonは「ルールのある奇跡」を表現すべきであるにもかかわらず、実際のテクストがそれを裏切っているのが残念だ、といっているわけだ。あゆの願いは決して奇跡とは呼ばれず、かわりにあれもこれもに奇跡と称しているあの本文を。
後半に関しては、「奇跡」と直言されていないのが月宮あゆのみであるのならば、彼女の奇跡が他人をも救えるという高次のルールを持っているために、特別に扱われている、とは考えられませんか?もちろん別に、遡及説の論拠に使っていただいてもいいんですが。前半に関しては、「若干残念」といわざるをえません。あのゲームは決してすっきりしてないでしょう。まあ一番ひどいのは舞ルートですから、Kanon問題とは直接関係しませんが。
>京アニの祐一はどんな孔明だ、と放映中にしばしば揶揄されていた点、スーパーナチュラルな力の源泉がひとつに絞れるのはAIR以降である点で第三と第二の論点には反駁できる。
京アニの祐一については、それはその通りであって、反論できません。しかし、京アニKanonの作品としての評価の問題としては大きくても、この問題においては些細な材料ではないかと思われます。「スーパーナチュラルの源泉が一つに絞れるのはAIR以降」という点については、AIR以降ならば、Kanonが発祥であってもいいのでは?と思いますし、私はそう思っています。
>まぁ別に都合よく奇跡が起きたってのも間違いじゃないとは思うけどね。読み取り方の違いだしさ、実際どういうことなのか公式の見解があるわけじゃないし
それはもちろんその通りです。繰り返しますが、私は両論並立しか望んでいません。しかし、『Kanon』においてその解釈しか許されないのであれば、私は『Kanon』をそれほど評価しなかったでしょう。第二の論点で書いている通りです。
>Kanonのスーパーナチュラルの複数性とか正面から「そう意図してデザインされたもの」として取り上げるのは生産的だし無論アリなんだけど、俺には単に我の強い複数ライターが好き勝手に書いた結果そうなってるだけのものにも見えて、そしてどっちが正しいかを論じるのにはたぶんあまり意味がない。
私には「我の強い複数ライター」が合議の末設定すり合わせて作ったものだと思えました。まあこの点は論じても無意味でしょう。
>んーKanon問題をちょっと読んできたけど、より整合性があるとかじゃなくてさ、決定論支持ってのは言い方かえると「みんなできる限り不幸であれ」っていう主張だと思うんだよね(以下のつぶやき)
これに関しては(少なくとも私は)明確に否定します。本文に書いてある通りで、整合性の問題のみであります。倫理観などまったく興味はありません。スルーしてましたが、前半部分の高橋直樹さんの一連のつぶやきに関しても、同様の応答をせざるをえません。加えて、おそらくほとんどの遡及説の方との議論のズレはこの点にあるのではないか、とtogetterを読み終えて思いました。別に他ヒロインがのたれ死んでいても「かわいそうだな」とは思いますが、かといってそれを是正することに、奇跡を陳腐にするだけの価値があるとは思えません。そんな奇跡、私が泣けませんので。
Kanon問題は『Kanon』に限定されるべき、と初めに書いたのはまさにこの点でありまして、ヒロイン同士に横のつながりがないエロゲだったら、遡及説でも何らかまわないんですよ。さらに言えば、別に選択されなかったヒロインが必ず不幸になるエロゲばかりではないわけで。
>>作中で明示的に過去が遡及されて生成されるという論拠を示して欲しい知らんがな。言ってないなら存在しないとか言うなよ?
言いませんよ。ただ、示せないのならばやはり決定論の立場も回復されるべき、というだけです。
>>「あなた方は陳腐な奇跡でもいいのですか」という疑念がぬぐえない。なんで陳腐な奇跡じゃいけないのか。自身の感動のために他人に不幸を望んだりはしないと思うけどな。安くていいじゃないか、奇跡。
上記に書いた通りです。私は安っぽい悲劇でしか解釈されえないのならば『Kanon』という作品の評価を落とします。キャラの幸不幸よりは作品の完成度のほうが重要と考えます。無論、何が何でも不幸であってほしいわけではなく、幸せになってくれたほうが作品の完成度が高くなる場合は、それで良いのです。かと言って、自分の解釈を他人に強要するほどの傲慢さも持ちません。訂正第一点目の通りです。
>決定論なら「祐一が誰かを救うためのほかの人を見捨てる苦悩」を描くべきだと思う。安っぽくない奇跡が必要なら絶対描写するべきだと思うけどな。
入れることはできるかもしれませんが、蛇足ではないかと思います。決定論的解釈に至れるのはプレイヤーのみであって、祐一には不可能ですから。彼は知らず知らずのうちに選択してる(させられている)わけです。この点は遡及説をとっていても、ある意味同様なはず。祐一本人には過去が遡及的に生成されていることを自覚できるはずがないですので。ゆえに「選択に苦悩する祐一」を描写するには、祐一に『Kanon』における奇跡のルールを理解させなくてはいけません。そこまでいくと、それは『Kanon』ではない別のゲームになっちゃいますね。『マブラヴ(オルタ)』かなんかか。あれはあれで好きなゲームです。
>ならばあなたは、Kanonは「ルールのある奇跡」を表現すべきであるにもかかわらず、実際のテクストがそれを裏切っているのが残念だ、といっているわけだ。あゆの願いは決して奇跡とは呼ばれず、かわりにあれもこれもに奇跡と称しているあの本文を。
後半に関しては、「奇跡」と直言されていないのが月宮あゆのみであるのならば、彼女の奇跡が他人をも救えるという高次のルールを持っているために、特別に扱われている、とは考えられませんか?もちろん別に、遡及説の論拠に使っていただいてもいいんですが。前半に関しては、「若干残念」といわざるをえません。あのゲームは決してすっきりしてないでしょう。まあ一番ひどいのは舞ルートですから、Kanon問題とは直接関係しませんが。
>京アニの祐一はどんな孔明だ、と放映中にしばしば揶揄されていた点、スーパーナチュラルな力の源泉がひとつに絞れるのはAIR以降である点で第三と第二の論点には反駁できる。
京アニの祐一については、それはその通りであって、反論できません。しかし、京アニKanonの作品としての評価の問題としては大きくても、この問題においては些細な材料ではないかと思われます。「スーパーナチュラルの源泉が一つに絞れるのはAIR以降」という点については、AIR以降ならば、Kanonが発祥であってもいいのでは?と思いますし、私はそう思っています。
>まぁ別に都合よく奇跡が起きたってのも間違いじゃないとは思うけどね。読み取り方の違いだしさ、実際どういうことなのか公式の見解があるわけじゃないし
それはもちろんその通りです。繰り返しますが、私は両論並立しか望んでいません。しかし、『Kanon』においてその解釈しか許されないのであれば、私は『Kanon』をそれほど評価しなかったでしょう。第二の論点で書いている通りです。
>Kanonのスーパーナチュラルの複数性とか正面から「そう意図してデザインされたもの」として取り上げるのは生産的だし無論アリなんだけど、俺には単に我の強い複数ライターが好き勝手に書いた結果そうなってるだけのものにも見えて、そしてどっちが正しいかを論じるのにはたぶんあまり意味がない。
私には「我の強い複数ライター」が合議の末設定すり合わせて作ったものだと思えました。まあこの点は論じても無意味でしょう。
>んーKanon問題をちょっと読んできたけど、より整合性があるとかじゃなくてさ、決定論支持ってのは言い方かえると「みんなできる限り不幸であれ」っていう主張だと思うんだよね(以下のつぶやき)
これに関しては(少なくとも私は)明確に否定します。本文に書いてある通りで、整合性の問題のみであります。倫理観などまったく興味はありません。スルーしてましたが、前半部分の高橋直樹さんの一連のつぶやきに関しても、同様の応答をせざるをえません。加えて、おそらくほとんどの遡及説の方との議論のズレはこの点にあるのではないか、とtogetterを読み終えて思いました。別に他ヒロインがのたれ死んでいても「かわいそうだな」とは思いますが、かといってそれを是正することに、奇跡を陳腐にするだけの価値があるとは思えません。そんな奇跡、私が泣けませんので。
Kanon問題は『Kanon』に限定されるべき、と初めに書いたのはまさにこの点でありまして、ヒロイン同士に横のつながりがないエロゲだったら、遡及説でも何らかまわないんですよ。さらに言えば、別に選択されなかったヒロインが必ず不幸になるエロゲばかりではないわけで。
>>作中で明示的に過去が遡及されて生成されるという論拠を示して欲しい知らんがな。言ってないなら存在しないとか言うなよ?
言いませんよ。ただ、示せないのならばやはり決定論の立場も回復されるべき、というだけです。
>>「あなた方は陳腐な奇跡でもいいのですか」という疑念がぬぐえない。なんで陳腐な奇跡じゃいけないのか。自身の感動のために他人に不幸を望んだりはしないと思うけどな。安くていいじゃないか、奇跡。
上記に書いた通りです。私は安っぽい悲劇でしか解釈されえないのならば『Kanon』という作品の評価を落とします。キャラの幸不幸よりは作品の完成度のほうが重要と考えます。無論、何が何でも不幸であってほしいわけではなく、幸せになってくれたほうが作品の完成度が高くなる場合は、それで良いのです。かと言って、自分の解釈を他人に強要するほどの傲慢さも持ちません。訂正第一点目の通りです。
>決定論なら「祐一が誰かを救うためのほかの人を見捨てる苦悩」を描くべきだと思う。安っぽくない奇跡が必要なら絶対描写するべきだと思うけどな。
入れることはできるかもしれませんが、蛇足ではないかと思います。決定論的解釈に至れるのはプレイヤーのみであって、祐一には不可能ですから。彼は知らず知らずのうちに選択してる(させられている)わけです。この点は遡及説をとっていても、ある意味同様なはず。祐一本人には過去が遡及的に生成されていることを自覚できるはずがないですので。ゆえに「選択に苦悩する祐一」を描写するには、祐一に『Kanon』における奇跡のルールを理解させなくてはいけません。そこまでいくと、それは『Kanon』ではない別のゲームになっちゃいますね。『マブラヴ(オルタ)』かなんかか。あれはあれで好きなゲームです。
Posted by dg_law at 21:45│Comments(0)